たとえば。
たとえば、俺は昔から自己紹介がニガテなのであるが(面接なんかでも最初の会話は非常に緊張する。流れに乗ればいくらでも話してしまうんだが)理由としてはふたつくらいあるだろう。まず、自分はどういう自分を見せればいいのかがよく分からない。それと、相手は自分をどういうふうに見ているのかが分からない。
自己紹介でも面接でも、特に前者なんか決まった答えなどあるはずもないのだが、どうにかうまく見せたい欲求というものはあるらしい。めんどうくさいね、まったく。まずはそういったものを排除するのが大事なんだろうな、とは色んな場面で思っている。プレゼンとかもか。
翻って、俺はコミュニケーションがなんだかんだ好きなんだなあ、と改めて思う。後期が9月の最終週から始まって、あれよあれよでもう3週が終わってしまったんだが(まだ3週かという気もするが)意外と知り合いや友人に会ったりする。まあ俺が4年後期にもかかわらず週4/9コマ(もしくは10コマ)も受講しているせいなのだろう(ちなみに前期は週3だった)と思っていたが、それでもこんなにも人と会うのか、と思うほど人と会う。
まあ中には別に会いたくない人もいたりはするわけだが、大学の講義は基本週1なので、講義の中で誰かと出会った場合、次に会うのはおそらく1週間後だろう。講義の中、といっても会話をするのはあくまで前後であるから時間はそれほどたいした長さではない。まあ、その刹那性なんかも俺は好きなのかもしれないね。
話を戻すと、今なんでわざわざコミュニケーションが楽しいのか、と考えたときに、単純に週1程度しか会えない希少性というのももちろんあるが、つぎのふたつは当てはまるだろう。ひとつは卒業までの残り時間。
これは前期から多くの人から聞くことだが、人生の夏休みと呼ばれるほど自由な時間を謳歌できる時間が終わってしまうのは淋しいものである。場合によっては来年から社畜三昧の日々である、嗚呼南無三。まあ仮にそうでなくても、中学や高校がそうだったように、ひとつの区切りが終わり、それぞれの進路に向かっていく様はたとえ「卒業おめでとう」と形容されようが、単純に喜べるものではない。
もうひとつは、今年はひとりで過ごす時間が格段に長かったからだろう。今年まともに大学に行ったのは1,5,6,7月と今月くらいしかない。その上就活やらいんしやらで大学に寄る機会自体が少ない。いんしのときは行ったら行ったで夜遅くまで図書館にこもったりはしたが、基本的には受験勉強という名の孤独な闘いである。これは奈良の集中講義の記事で書いたような気もするが、いっさいのことから離れて誰かと一定期間過ごす、ということが最大の精神的なゆとりになる、というのを強く実感した。
まあなんというか、人と会う、って大事なんですね。うさぎは孤独だと死んじゃう、ってのもうなずける(都市伝説ぽいが
俗な話は置いておいて。最近そうやって大学で色んな人と会うということと、高校時代の友達や恩師と話す機会もあった。これはこれでなかなか楽しい。今と昔は遠いようで近く、近いようで遠い。その狭間を縫うように、でも確実に歳をとっていく自分(と、対話するあなた)を冷静に見つめながらコミュニケーションするという機会は日常ではなかなかないから面白い。
前に進むということは失っていくことが、と前から思っているし今もある程度はそう思っているが、コミュニケーションを介在することができれば失ったものの上にアップデーティングすることもできるのかもしれないなあ、とぼんやり考えた。いつ誰が見ても同じ光景というものは意外とありえないのかもしれない。その時々で誰かの視点やコミュニケーションが介在すれば、見ている景色は変わっていくんだなあということに気づき始めた。
たぶん、そういうことを楽しめるうちは歳をとることはまんざらじゃないのだろうと思う。介在する主観は限られているが、各年代ごとの俺とか、あなたがそこにいてくれたら過去と対比することができる。無数ではないが大量の過去の上に現在をかぶせる様は、ただ固定された事実や観念をただ共有していくんじゃなくて、共有していくものは更新されうるんだな、と。
いまさらに、かもしれないがやっとこさ前に進むということをどうやったらおそれずに済むだろうか、という命題への一つの回答が容易できそうな気がした。
何が言いたいかというと、人間は本質的に複雑な生き物なんだろうな、ということを最近ぼんやりと考えている。コミュニケーションだってそう。偶然性と主観に支配されている。あと空気か。
複雑な自分を分かりやすく他者に自己紹介するのはだから難しい。もちろん場面によって空気は異なるので数をこなせばいい、ってものでもないかもしれない。ある程度は慣れるかもしれないが。
どれだけ俺自身が複雑性を愛していようが、誰かに理解されなければならない場面では通用しない。当たり前だが、自分がどう思っているかと同じかそれ以上に、相手が自分のことをどう見ているか、を考えるほうが重要だ。面接なんて典型的だろう、たぶん。就活はほとんどうまくいかなかったけどさ。
始めに戻ると、複雑なものは分かりにくい。でも、そういう分かりづらさを俺はたぶん愛していて、楽しむことができる性格だろうと思っている。
どこまでいっても分かりにくいコミュニケーションの様式の最たるものといえば・・・そう、恋愛だよね、と幕を下ろすことにしよう。
まあ、もちろん他にも例えようはあるだろうけれどね。まあ俺の場合、うまくいくかどうかの結果よりも、恋愛というよく分からないコミュニケーションの行く末を楽しんでいる感がある。
恋に恋する場合はすごく盲目的な気がするけど、俺の場合逆にあえてそうやって傾倒しないことで自分の立ち位置を守っている、という感じなんだろうか。それって恋してるといっていいのかどうかもあやしいんだが。
これはもう昔からではあるんだが、あえて押さないことを正当化してきた節もあるので、「押すときは押す!」と周りの人たちに助言されるのももっともだなあ、と思っている。
本人はすごくのらりくらりとしているので、これからの色恋がどうなるかは分からないけれど、まあ次のコミュニケーションの段階にそろそろ進んでも(もちろんそれが可能なら、だが)面白いだろうな、と思っている。
で、その相手って誰なのでしょうね。俺もよく分かりません。
でもいつか出会えたらいいな、って思うし、そのときには真摯に、かつ面白いコミュニケーションがとれるといいな、って思います。おしまい。
今日の一曲
school food punishment "slide show"
たとえば、俺は昔から自己紹介がニガテなのであるが(面接なんかでも最初の会話は非常に緊張する。流れに乗ればいくらでも話してしまうんだが)理由としてはふたつくらいあるだろう。まず、自分はどういう自分を見せればいいのかがよく分からない。それと、相手は自分をどういうふうに見ているのかが分からない。
自己紹介でも面接でも、特に前者なんか決まった答えなどあるはずもないのだが、どうにかうまく見せたい欲求というものはあるらしい。めんどうくさいね、まったく。まずはそういったものを排除するのが大事なんだろうな、とは色んな場面で思っている。プレゼンとかもか。
翻って、俺はコミュニケーションがなんだかんだ好きなんだなあ、と改めて思う。後期が9月の最終週から始まって、あれよあれよでもう3週が終わってしまったんだが(まだ3週かという気もするが)意外と知り合いや友人に会ったりする。まあ俺が4年後期にもかかわらず週4/9コマ(もしくは10コマ)も受講しているせいなのだろう(ちなみに前期は週3だった)と思っていたが、それでもこんなにも人と会うのか、と思うほど人と会う。
まあ中には別に会いたくない人もいたりはするわけだが、大学の講義は基本週1なので、講義の中で誰かと出会った場合、次に会うのはおそらく1週間後だろう。講義の中、といっても会話をするのはあくまで前後であるから時間はそれほどたいした長さではない。まあ、その刹那性なんかも俺は好きなのかもしれないね。
話を戻すと、今なんでわざわざコミュニケーションが楽しいのか、と考えたときに、単純に週1程度しか会えない希少性というのももちろんあるが、つぎのふたつは当てはまるだろう。ひとつは卒業までの残り時間。
これは前期から多くの人から聞くことだが、人生の夏休みと呼ばれるほど自由な時間を謳歌できる時間が終わってしまうのは淋しいものである。場合によっては来年から社畜三昧の日々である、嗚呼南無三。まあ仮にそうでなくても、中学や高校がそうだったように、ひとつの区切りが終わり、それぞれの進路に向かっていく様はたとえ「卒業おめでとう」と形容されようが、単純に喜べるものではない。
もうひとつは、今年はひとりで過ごす時間が格段に長かったからだろう。今年まともに大学に行ったのは1,5,6,7月と今月くらいしかない。その上就活やらいんしやらで大学に寄る機会自体が少ない。いんしのときは行ったら行ったで夜遅くまで図書館にこもったりはしたが、基本的には受験勉強という名の孤独な闘いである。これは奈良の集中講義の記事で書いたような気もするが、いっさいのことから離れて誰かと一定期間過ごす、ということが最大の精神的なゆとりになる、というのを強く実感した。
まあなんというか、人と会う、って大事なんですね。うさぎは孤独だと死んじゃう、ってのもうなずける(都市伝説ぽいが
俗な話は置いておいて。最近そうやって大学で色んな人と会うということと、高校時代の友達や恩師と話す機会もあった。これはこれでなかなか楽しい。今と昔は遠いようで近く、近いようで遠い。その狭間を縫うように、でも確実に歳をとっていく自分(と、対話するあなた)を冷静に見つめながらコミュニケーションするという機会は日常ではなかなかないから面白い。
前に進むということは失っていくことが、と前から思っているし今もある程度はそう思っているが、コミュニケーションを介在することができれば失ったものの上にアップデーティングすることもできるのかもしれないなあ、とぼんやり考えた。いつ誰が見ても同じ光景というものは意外とありえないのかもしれない。その時々で誰かの視点やコミュニケーションが介在すれば、見ている景色は変わっていくんだなあということに気づき始めた。
たぶん、そういうことを楽しめるうちは歳をとることはまんざらじゃないのだろうと思う。介在する主観は限られているが、各年代ごとの俺とか、あなたがそこにいてくれたら過去と対比することができる。無数ではないが大量の過去の上に現在をかぶせる様は、ただ固定された事実や観念をただ共有していくんじゃなくて、共有していくものは更新されうるんだな、と。
いまさらに、かもしれないがやっとこさ前に進むということをどうやったらおそれずに済むだろうか、という命題への一つの回答が容易できそうな気がした。
何が言いたいかというと、人間は本質的に複雑な生き物なんだろうな、ということを最近ぼんやりと考えている。コミュニケーションだってそう。偶然性と主観に支配されている。あと空気か。
複雑な自分を分かりやすく他者に自己紹介するのはだから難しい。もちろん場面によって空気は異なるので数をこなせばいい、ってものでもないかもしれない。ある程度は慣れるかもしれないが。
どれだけ俺自身が複雑性を愛していようが、誰かに理解されなければならない場面では通用しない。当たり前だが、自分がどう思っているかと同じかそれ以上に、相手が自分のことをどう見ているか、を考えるほうが重要だ。面接なんて典型的だろう、たぶん。就活はほとんどうまくいかなかったけどさ。
始めに戻ると、複雑なものは分かりにくい。でも、そういう分かりづらさを俺はたぶん愛していて、楽しむことができる性格だろうと思っている。
どこまでいっても分かりにくいコミュニケーションの様式の最たるものといえば・・・そう、恋愛だよね、と幕を下ろすことにしよう。
まあ、もちろん他にも例えようはあるだろうけれどね。まあ俺の場合、うまくいくかどうかの結果よりも、恋愛というよく分からないコミュニケーションの行く末を楽しんでいる感がある。
恋に恋する場合はすごく盲目的な気がするけど、俺の場合逆にあえてそうやって傾倒しないことで自分の立ち位置を守っている、という感じなんだろうか。それって恋してるといっていいのかどうかもあやしいんだが。
これはもう昔からではあるんだが、あえて押さないことを正当化してきた節もあるので、「押すときは押す!」と周りの人たちに助言されるのももっともだなあ、と思っている。
本人はすごくのらりくらりとしているので、これからの色恋がどうなるかは分からないけれど、まあ次のコミュニケーションの段階にそろそろ進んでも(もちろんそれが可能なら、だが)面白いだろうな、と思っている。
で、その相手って誰なのでしょうね。俺もよく分かりません。
でもいつか出会えたらいいな、って思うし、そのときには真摯に、かつ面白いコミュニケーションがとれるといいな、って思います。おしまい。
今日の一曲
school food punishment "slide show"
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