面白いネタがあったので、主にテレビと報道に関して小文を書いてみたい。
今回使うネタは朝日新聞GLOBEという日曜版の冊子があるのだが(前年度までは隔週の月曜だったが)4月17日付けのGLOBEで朝日新聞論説委員であり、かつ報道ステーションの元解説者である一色清(@isshikikiyoshi)が自己回顧のような形でちょっとした文章を載せている。
■記事の内容
記事のタイトルはテレビが伝えた震災。現実と影響力の狭間で
2年以上コメントをテレビで発信し続けた中で、最後の3週間が「本当の意味でテレビの役割や特性について考えさせられた」というリードにある一文が印象的である。
記事の真ん中には一日の過ごし方として、朝日新聞社とテレビ朝日の両方で仕事をする中でどのような生活リズムで、何をし、何を考えてきたかが垣間見えて、テレビで目の当たりにする以外の膨大な時間の過ごし方が覗くこともできる。
とまあ記事の全体はそんなところ。ネットで読めるかと思ったがさすがにまだ読めないようなので、内容も簡単に要約してみたい。
まず一色が強調しているのはテレビが「情」のメディアであるということだ。一瞬で全てを覆い尽くす津波の映像のインパクトの大きさにしろ、解説者として発する言葉や衣装の選択まで、思考に至る前に視覚に訴える情報がかなり大きい。
だからいくら「理」をつめて落ち着いた解説をしようと思っても視聴者は必ずしもそう受け取るとは限らない。彼らは文章を読むのではなく、あくまで言葉を聞く存在であるので、「活字と違い瞬間で消えてしまうテレビの言葉は、発する側の意図が正確に伝わるとは限らない」のである。
もうひとつ、「空気を意識しないといけないメディアである」とも強調する。震災翌日のある女性キャスターの衣装が批判されたことを例にとりつつ、「たかが服装されど服装」であることが分かったと述べる。
さらに、情を大事にし、空気を大事にするテレビの「瞬発力」が災害時のような特別番組編成のときはキャスターの能力が番組の力を決定すると述べる。映像や一次情報がない中で伝えるということの難しさを、3.11の4日後に静岡で起きた震度6の余震の際(番組放送中のできごとだった)に改めて感じたという。
こうした特性を持ったテレビにしかできない力は何か。映像の圧倒的強さはインターネットにとって変わるかもしれないと述べた上で、「映像と組み合わさった解説力」が今後将来も変わらないテレビの強みであると主張する。
例として東京電力の震災後の会見を持ち出した上で、「わかりやすい言葉で語るのは東京電力の仕事だろうか、それはテレビを含むメディアの仕事なのではないか」と結論づける。
こうした物言いは天に唾する、と述べた上で「テレビ報道はそこに挑戦し続けるしかない」と述べて、全体を締めくくっている。
■記事の意図
物を書くことを生業としてきた人間がテレビに出続ける上で感じた苦悩と、特性について述べる。
静かな筆致であるが、いくつもの苦悩が垣間見えるし、テレビ報道への疑問を述べているという印象も少なくない。たとえばテレビ特有の決まり事の多さが、必ずしも正確な情報発信に結びついているのかどうか、という疑問が。
この記事を書いた意図については、17日当日の一色清のツイートに短くまとまっている。
引用すると
記事を書く「難しさ」と離れた目線でテレビを考察する。
最近はあまり報道ステーションを以前ほど定期的に見ておらず、番組改編で一色清が外れたこともツイッターで知ったくらいなのだが、記事を読んでいて非常に興味深かった。
■記事を読んでの考察
関連企業でもあるテレビ朝日での経験について朝日新聞で文章を書くということ自体は立場上容易ではあろうが、本心を書きこむことは逆に困難であっただろう。
だからこそ現場にいた人間の、しかも元いた組織に対する文章は貴重であると思う。そこがまず一点。
さらに個人的に興味深いと思うのは、本来書き仕事が主だった一色清がテレビという言葉で直接語る、という別な環境に入り込んだということである。
この記事を読んでいて思ったのは、2年以上解説者としてスポーツ解説の時代からテレビで言葉を操ることが生業になっている古舘伊知郎の横に座り続けながら、言葉を扱うことに対して一色が非常に慎重になっていたことが伺える。
前任の解説者である加藤千洋との違いを指摘するなら(あくまで自分の印象であるが)、加藤が時折自分の言葉で喋ろうとするのに対し、一色はあくまで言葉を選びながら発していた、というところが特徴として挙げられる。
言葉を慎重に選ぶということはどちらかと言えば物書きの仕事であり、多少感情的になっても許されるのがテレビの仕事だろうと思う。
ただ、最近ではむしろ自分の言葉で喋りすぎるがゆえに価値を落としている(*1)なかで、一色清が前のめりになって言葉を発する瞬間というのは見たことがない。隣にいるのがあの古舘伊知郎であるがゆえに、対照的であると言っていい。
独特の空気感の中で「情」を大事にするテレビでありながら、最後まで冷静に立ち位置を崩さずに言葉を発し続ける解説者(もしくはコメンテーター)・・・それはすなわちテレビ的ではないとも言えるが、情の男古舘伊知郎と対比させる上でも絶妙な配置だったのではないかと思えてならない。
記事の終わりのほうで「起こったことを映像付きで的確に解説することこそテレビにしかできなくて、テレビの力が最も発揮される瞬間場面ではないか」と述べているが、いったいどれだけの解説者なりコメンテーターが的確に解説することができているだろうか、と思う。
例外は日経新聞系列でもあるテレビ東京でゲストとして登場する人たちだ。彼らはいずれも経済のプロであり(資質はともかく)プロとしての冷静さと熱さを兼ね備えていることが多い。批判的に言葉を聞く態度は重要だが、民放他局に比べると信頼に足る人選であろう。
ただ、それ以外の民放はそもそも期待してない、というのが現状というかもう何年も思っていたことである。テレ東系列を受信できる環境にある人は全国的にはマイノリティなので、信頼に足る情報を得ようとすればNHKを選択するほかない。
実際に震災が起きああとNHKが最も信頼された、というのもそりゃそうだろうと思う。いくら本気の番組作りをしようとしたところで、平時の放送でできてないことや信頼されてないことができるはずがない。
それでもテレビは存在し続けるだろうし、マスにとっては存在し続けなくてはならないだろう。
これからもおそらく朝昼はワイドショーという形で報道をカジュアルにエンタメ化することを続けるだろうが、せめて夜だけは、と思う。時事や政治経済に関心の高い視聴者層が集まる夜間帯の番組は、もっと真摯に編成されるべきだろう。
そうでなければ、本当にNHK以外の選択肢を失ってしまう。事実上の独占は選択肢の限定という意味でも不健康だ。特にテレ東を見られない地方は深刻だろう。
一色が書いているように多くのことはインターネットにとって変わる。誰もが自由に多様な発言をするようになった昨今、テレビでも同じように物を言いたい人に言わせておけばいい、というのではいずれ本当に誰も見なくなる。(*2)
つまり、テレビ報道の有りようは私たちだけではなくあなたたち自身の問題でもある。
一色の言うように、文字通り挑戦し続けるしかないだろう。それを私たちは望んでいる。少なくとも、俺自身は望んでいる。
:
*1 テリー伊藤とかテリー伊藤とかテリー・・・は元が芸能人だからまだしも勝谷誠彦とかミヤネ屋の解説陣とか。挙げればキリがない。最近は見てないから分からないが、日テレのニュースZEROで嵐や星野仙一を並べるあたりは、報道のエンタメ化を促進しているように思えてならない。
*2 マスにとっては大事な情報源だし、本当に見なくなるということはありえないのだろうが、昨今のTBSの劇的な不振に見られるように、確実に打撃は食らっているはずだ。広告も減っているし。肝を据えるべき。
今回使うネタは朝日新聞GLOBEという日曜版の冊子があるのだが(前年度までは隔週の月曜だったが)4月17日付けのGLOBEで朝日新聞論説委員であり、かつ報道ステーションの元解説者である一色清(@isshikikiyoshi)が自己回顧のような形でちょっとした文章を載せている。
■記事の内容
記事のタイトルはテレビが伝えた震災。現実と影響力の狭間で
2年以上コメントをテレビで発信し続けた中で、最後の3週間が「本当の意味でテレビの役割や特性について考えさせられた」というリードにある一文が印象的である。
記事の真ん中には一日の過ごし方として、朝日新聞社とテレビ朝日の両方で仕事をする中でどのような生活リズムで、何をし、何を考えてきたかが垣間見えて、テレビで目の当たりにする以外の膨大な時間の過ごし方が覗くこともできる。
とまあ記事の全体はそんなところ。ネットで読めるかと思ったがさすがにまだ読めないようなので、内容も簡単に要約してみたい。
まず一色が強調しているのはテレビが「情」のメディアであるということだ。一瞬で全てを覆い尽くす津波の映像のインパクトの大きさにしろ、解説者として発する言葉や衣装の選択まで、思考に至る前に視覚に訴える情報がかなり大きい。
だからいくら「理」をつめて落ち着いた解説をしようと思っても視聴者は必ずしもそう受け取るとは限らない。彼らは文章を読むのではなく、あくまで言葉を聞く存在であるので、「活字と違い瞬間で消えてしまうテレビの言葉は、発する側の意図が正確に伝わるとは限らない」のである。
もうひとつ、「空気を意識しないといけないメディアである」とも強調する。震災翌日のある女性キャスターの衣装が批判されたことを例にとりつつ、「たかが服装されど服装」であることが分かったと述べる。
さらに、情を大事にし、空気を大事にするテレビの「瞬発力」が災害時のような特別番組編成のときはキャスターの能力が番組の力を決定すると述べる。映像や一次情報がない中で伝えるということの難しさを、3.11の4日後に静岡で起きた震度6の余震の際(番組放送中のできごとだった)に改めて感じたという。
こうした特性を持ったテレビにしかできない力は何か。映像の圧倒的強さはインターネットにとって変わるかもしれないと述べた上で、「映像と組み合わさった解説力」が今後将来も変わらないテレビの強みであると主張する。
例として東京電力の震災後の会見を持ち出した上で、「わかりやすい言葉で語るのは東京電力の仕事だろうか、それはテレビを含むメディアの仕事なのではないか」と結論づける。
こうした物言いは天に唾する、と述べた上で「テレビ報道はそこに挑戦し続けるしかない」と述べて、全体を締めくくっている。
■記事の意図
物を書くことを生業としてきた人間がテレビに出続ける上で感じた苦悩と、特性について述べる。
静かな筆致であるが、いくつもの苦悩が垣間見えるし、テレビ報道への疑問を述べているという印象も少なくない。たとえばテレビ特有の決まり事の多さが、必ずしも正確な情報発信に結びついているのかどうか、という疑問が。
この記事を書いた意図については、17日当日の一色清のツイートに短くまとまっている。
引用すると
自分や自分が属していた組織のことを書くのは難しいのですが、テレビの力と悩みを紹介する意味はなくもないと思い、書きました。
記事を書く「難しさ」と離れた目線でテレビを考察する。
最近はあまり報道ステーションを以前ほど定期的に見ておらず、番組改編で一色清が外れたこともツイッターで知ったくらいなのだが、記事を読んでいて非常に興味深かった。
■記事を読んでの考察
関連企業でもあるテレビ朝日での経験について朝日新聞で文章を書くということ自体は立場上容易ではあろうが、本心を書きこむことは逆に困難であっただろう。
だからこそ現場にいた人間の、しかも元いた組織に対する文章は貴重であると思う。そこがまず一点。
さらに個人的に興味深いと思うのは、本来書き仕事が主だった一色清がテレビという言葉で直接語る、という別な環境に入り込んだということである。
この記事を読んでいて思ったのは、2年以上解説者としてスポーツ解説の時代からテレビで言葉を操ることが生業になっている古舘伊知郎の横に座り続けながら、言葉を扱うことに対して一色が非常に慎重になっていたことが伺える。
前任の解説者である加藤千洋との違いを指摘するなら(あくまで自分の印象であるが)、加藤が時折自分の言葉で喋ろうとするのに対し、一色はあくまで言葉を選びながら発していた、というところが特徴として挙げられる。
言葉を慎重に選ぶということはどちらかと言えば物書きの仕事であり、多少感情的になっても許されるのがテレビの仕事だろうと思う。
ただ、最近ではむしろ自分の言葉で喋りすぎるがゆえに価値を落としている(*1)なかで、一色清が前のめりになって言葉を発する瞬間というのは見たことがない。隣にいるのがあの古舘伊知郎であるがゆえに、対照的であると言っていい。
独特の空気感の中で「情」を大事にするテレビでありながら、最後まで冷静に立ち位置を崩さずに言葉を発し続ける解説者(もしくはコメンテーター)・・・それはすなわちテレビ的ではないとも言えるが、情の男古舘伊知郎と対比させる上でも絶妙な配置だったのではないかと思えてならない。
記事の終わりのほうで「起こったことを映像付きで的確に解説することこそテレビにしかできなくて、テレビの力が最も発揮される瞬間場面ではないか」と述べているが、いったいどれだけの解説者なりコメンテーターが的確に解説することができているだろうか、と思う。
例外は日経新聞系列でもあるテレビ東京でゲストとして登場する人たちだ。彼らはいずれも経済のプロであり(資質はともかく)プロとしての冷静さと熱さを兼ね備えていることが多い。批判的に言葉を聞く態度は重要だが、民放他局に比べると信頼に足る人選であろう。
ただ、それ以外の民放はそもそも期待してない、というのが現状というかもう何年も思っていたことである。テレ東系列を受信できる環境にある人は全国的にはマイノリティなので、信頼に足る情報を得ようとすればNHKを選択するほかない。
実際に震災が起きああとNHKが最も信頼された、というのもそりゃそうだろうと思う。いくら本気の番組作りをしようとしたところで、平時の放送でできてないことや信頼されてないことができるはずがない。
それでもテレビは存在し続けるだろうし、マスにとっては存在し続けなくてはならないだろう。
これからもおそらく朝昼はワイドショーという形で報道をカジュアルにエンタメ化することを続けるだろうが、せめて夜だけは、と思う。時事や政治経済に関心の高い視聴者層が集まる夜間帯の番組は、もっと真摯に編成されるべきだろう。
そうでなければ、本当にNHK以外の選択肢を失ってしまう。事実上の独占は選択肢の限定という意味でも不健康だ。特にテレ東を見られない地方は深刻だろう。
一色が書いているように多くのことはインターネットにとって変わる。誰もが自由に多様な発言をするようになった昨今、テレビでも同じように物を言いたい人に言わせておけばいい、というのではいずれ本当に誰も見なくなる。(*2)
つまり、テレビ報道の有りようは私たちだけではなくあなたたち自身の問題でもある。
一色の言うように、文字通り挑戦し続けるしかないだろう。それを私たちは望んでいる。少なくとも、俺自身は望んでいる。
:
*1 テリー伊藤とかテリー伊藤とかテリー・・・は元が芸能人だからまだしも勝谷誠彦とかミヤネ屋の解説陣とか。挙げればキリがない。最近は見てないから分からないが、日テレのニュースZEROで嵐や星野仙一を並べるあたりは、報道のエンタメ化を促進しているように思えてならない。
*2 マスにとっては大事な情報源だし、本当に見なくなるということはありえないのだろうが、昨今のTBSの劇的な不振に見られるように、確実に打撃は食らっているはずだ。広告も減っているし。肝を据えるべき。
コメント
コメント一覧 (1)
街頭インタビューも関西弁で過激な発言するかおバカかやし.
おもろい>博識のが優先されてるような…(主観)
地域性があるのかなあ;