Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 首都圏の電車は猛烈な勢いで復旧しつつあるが、今日からの計画停電で再び
 今日から1ヶ月半近く最寄り駅から電車が出ない可能性が出てきました。リアルに自転車通学を考え中。10キロ行けばあとは電車の定期範囲で通えるので。

 ここからは簡潔に。

・ツイッターの伝播力の功罪
 今回の震災で驚きだったのはツイッターがタフだったことであることを中心に、ネットインフラがほとんど断絶されなかったことである。
 所有しているドコモの携帯電話は帯域制限が今もかかっているようで繋がりにくいときはあるものも、大きな不自由を感じない(さすがに停電が続くようになると不自由にはなるのだろうが)
 ラジオの投稿やネットの投稿を見ていると被災した人がツイッターで情報を得る、ということが豊富にあったようである。一方で即時性は仇にもなりデマの流布(*1)も今までもそうであったように発生した。ただ逆にツイッターだからこそデマが打ち消されるスピードも従来よりは圧倒的に速かったとも思われる。
 
 一方自分がタイムラインを見ていて気になったのは「個々人の発言をどこまで意識すべきか」ということである。
 いわゆるネタツイートというおちゃらけたユーモアねらいのツイートであったり、楽しい日常をつぶやくことに関して敵意を向けることは適切か、ということである。
 俺の意見ははっきりしていて、基本的に自分の発言に責任を持つ限りは自由であると思う。責任、というのはデマを不用意に流さないことであるとか、自分が誤情報を発信しないことである。
 ツイッターは参入退出が自由なメディアである。見たくないのなら見なければいいし、最悪ブロックやアンフォローといった明確な「退出」(ハーシュマンのいうところのexit)を選択できる。
 ただ現実はある人の規範が別のある人に押しつけられるという現象が散見されるのである。これを今後どうやって克服していけばいいのかについて、明確なアイデアを持っていない。 

・「災害ユートピア」の現実性と言説への不安
 少し前からレベッカ・ソルニエットの著作『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』を読み始めた。朝日新聞で柄谷行人が書評を寄せていたことをきっかけに知った著作である。
 まだ全てを読めていないのだが100年以上前に起きたサンフランシスコの大地震における「災害ユートピア」とは何かという記述から始まり、最近では911やハイチ大地震への言及や、社会学や災害学がどのように災害後の人間の行動についてアカデミックな領域で分析してきたか、がつづられている。また、ハリウッド映画が煽る災害の恐怖やヒロイズム(あくまでヒーローは映画では必要だから配置されるにすぎないと指摘する)について批判的に考察している。
 
 「災害ユートピア」についての定義は難しいが、政府機能や日常生活が麻痺したときに生まれる、身近な人間同士の利他的な行為や交流のことである。
 災害や革命はカーニバルにもなる、という記述や最近でエジプトで起きたデモに顕著かもしれない。タハリール広場にいた人々の大半はなんとなくデモに来て、なんとなくみんなでわいわいと楽しんでいた人たちであろう。
 災害と革命が同じではないと思うのだが、災害によって人間関係や身分がいったんフラットになること、まだ資本主義経済が麻痺することでギフト経済のようなものが生まれる。また、数少ない食糧を持ち寄ったり、一緒にごはんを食べたり、見知らぬ人との交流が始まる。

 遺体の収容が津波によって大幅に遅れていたり原発リスクが日に日に高まる中、まだ被災地ではこうした現象は稀であろう。
 ただ、ネット上でのあたたかいムーブメント(*2)やGoogleなどのインターネット企業を中心にした素早い対応は全て利益や自分の時間といったことを無視した利他的な行為だ。
 情報の伝達スピードが速まったことで、空間としてのユートピアの形成はまだ観測できないとしても、ユートピアに近い心象は膨大な量を観測することができる。荻上チキが『ウェブ炎上』で指摘した「つながり」「可視化」がポジティブに働いていると言っていいだろう。

 1つ気になるのはナショナリズムとの関わりである。治安が悪化せず、利他的な行動をとれる日本はすごい、日本人はすごい、という言説(*3)が海外の新聞でも散見されるが、確かに日本人はよくやっていると思うが「日本人」というカテゴライズを意図的に適用しないほうが適切ではなかろうか、と考える。
 これは『災害ユートピア』を実際に読んでいるから、という意味合いが強いのだが、ハイチの人もサンフランシスコの人もみんな利他的に頑張っている。911のテロのときも同様の例があったというし、阪神大震災のときの山口組の復興支援は彼らの存在意義を超えて称賛に値する。
 M9.0でも持ちこたえた建設技術や、これほどの災害でも耐えた原発が存在すること(福島も、過去の原発事故と比較すればまだマシなほうではないかと思う。何より今回は天災が原因なのだから)は称賛に値するとして、日本人の利他的な行為が必ずしも日本に固有のものではない。
 こうしたことを意識、指摘せずに日本人すげえじゃん、という言葉だけが広まるのは誤ったヒロイズムにも繋がりかねないし、適切な判断を下すためにはいったんクールになったほうがいいのではないかな、と思う。あくまで言説レベルで、だけれど。
 一方で日本人らしい行動様式、たとえば帰宅困難者になった人たちが黙々と歩いて帰る姿は「しょうがない」と言えるだろうし、駅構内に泊まり込むのも「ガマン」と表記することはできるだろう。こうした様式や言葉は他国の言葉を多く知っているわけではないが、日本人に染みついた固有なものだと思う。
 
 総じて言えることとしては、日本人だけが立派なわけではないし、必ずしもヒーローが必要なわけではない。
 あくまで淡々と、過去の事例などを参照にしつつ私たちができることを取り組むべきであるし、何より被災者のことを思って行動することが肝要だろう。


*1 数時間後に大きな地震が来る、関西も揺れる、外国人集団が犯罪を犯している、レイプが多発しているなどなど。デマとして定番ではあるのだが拡散スピードが速くてびっくりした。全てが悪意ではない以上、情報リテラシーという問題は深刻である。
*2 たとえばハッシュタグ#prayforjapanにおける海外からのツイートや、それをまとめたhttp://prayforjapan.jpというサイトなど。Google以外ではGREEやmixi、ニコニコ動画といった大手コミュニケーションサイトがポイントなどによる募金を始めたこともまさにインターネット時代における画期的なできごとである。
*3 たとえば、NYTの"Sympathy for Japan, and Admiration" http://nyti.ms/fQEuRh
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