Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

著者:朝吹真理子
出版:新潮社
備考;第20回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞、2011年2月6日読了


 今年芥川賞作家となった朝吹真理子の文芸デビュー作。「流跡」とはこういうことなのか、と気づいたときにこの小説(のような文章)の面白さが増すと思う。気づけなかったら・・・残念ながらということになるかもしれない。本作を読んで多くの人が様々な感想を持つだろうが、まず端的に本作は小説なのか?という点から始まるだろう。個人的にはこの点は確かに気になるが、さほど重要でもないと感じる。なんらかの物語が紡がれている以上、そしてそれが読むに値してかつ面白いならば、ジャンルによる区分など大して意味をなさないだろうから。そして、まったく先入観なしに本作を読みたい人はこの文章も読語に読むことをおすすめする。ネタバレはしないつもりだが、そうはいっても少し珍しい形態をとっている以上、その点については触れるからだ。

 とは言っても、こうして説明するためにはいちおう小説という区分を用いたい。現代詩でこういうのもあるという書き込みをネット上で見かけたが、現代詩の事情にさほど詳しくないのでノーコメントである。本作は少しでも立ち読みなどで読んでいただけると感触がつかめると思うが、いったいどこに向かうのかがサッパリ分からないのである。ふと思いついたのは、ゆく川の流れは絶えずして〜という鴨長明の文章だ。作家自身が大学院で日本の伝統文化の研究をしていることと、無関係ではないかもしれない。26歳という若さを感じさせない文章は、彼女自身の育ちの良さからも由来しているかもしれない。そして黒髪美人であるという、彼女自身が内面外面両方から日本的な様を体現している。

 少し脇道にそれた。流跡というタイトル、そして鴨長明を彷彿とさせるような感覚(単に流れのある文章を書くだけではなく、書き込まれている対象や心情は長明が主題としたことと重なるようにも思える)を醸し出す。つまるところ、浮遊感なのだろう。文章がつづられていくことによって本に引き込まれるのではなく、逆に突き放すような、それもたおやかに優しく。そうした浮遊感が漂っているのは、特定の個人が主体ではないというせいもあるのだろう。一文字一文字が愛おしく感じられるというか、日本語の持つあたたかさを感じさせてくれる文章であることは確かだ。

 浮遊感が漂っているからといって夢を見ているような感覚、とは少し違う。夢を見ているようにシーンがゆっくりと流れ移り変わっていくという感じもあるが、描かれているのは現実に、地に足をつけた人たちの思いである。時代や場所は定かではないし、明確にされていないが、町並みを眺める人、過去を思い起こす人、など様々な人物(らしきもの)が登場する。名前が与えられているわけではないし、描写の具体性や抽象性もばらばらだ。主観的であるとも、客観的であるとも言える。

 1つ解釈を加えるならば、全てが作家の妄想だったか作家の脳内の映像だった、というところだろうか。唯一はっきり(比較的はっきりと、と言ったほうがいいかもしれない、名前が書かれているわけではないし)と特定されている主体として、作家(朝吹真理子のことではなく、作中で作家のような人が登場する)があげられるのだが、その彼ないし彼女の夢想が文章としてつづられているのではないか、と。作家の脳内は現実を映し出す鏡であり、現実とは様々な営みが年月を重ねて繰り返されていて、かつとどまることをしらない―――。

 1月30日の朝日新聞書評で本作と芥川賞受賞作『きことわ』がとりあげられているのだが、「クラシックな物語性を排し、ポストモダン以降の自己言及的な結構をもつ現代的なスタイルと、実に古代的な語りが共存している」と鴻巣友季子は述べている。古代的な語りというのは読んでいた俺自身が鴨長明を想起したように、また和歌や古語が意図的に挿入されている点があるため否定する気はない。ただ、ポストモダン以降の現代的なスタイルが本作か、というとそれは少し違うのではないかと思う。ポストモダン、つまり大きな物語がなくなってしまったために自己言及的に(社会学的には再帰的に)というようなことを鴻巣氏は言いたいのだろうが、本作を読んでいてそもそも自己言及的であるとか再帰的であるとか、そうしたパーソナルな目的すら実感しなかった。ただ、書かれている。本作にあるのは、特に人の描写に関してはそれだけである。特段ポストモダンに特有のこととは言えないだろう。ただ、誰でもない個人が書かれているあたりは現代に特有のことと言うことはできる。

 個人的な感触としては、本作を綺麗にまとめて評することができない。他の人が、特に批評家などではない一般の人がどう読むのか、そのほうが気になる。つまり、等身大な、現代の人びとはこの物語をどう受け取るのであろうか?そこにこそ何らかの答えがあるような気がしている。ある意味本作は、何かが書かれているようで何も書かれていないに等しいのだから。そうしたところに価値があるとするならば、ポストモダン的、と言ってもいいのかもしれないけどね。少し尺度を変えれば、「けいおん!」に特有な非物語性、つまり日常のダダ漏れと何も変わらないのかもしれない。ダダ漏れする手段として朝吹真理子は、文章を用いたにすぎない。夢を見ているようだがきわめて現実的、という感触が、そういったところに由来しているような気もする。

 まあ、あとはあなたが手にとって、少しでも朝吹女史の文章を堪能することができたなら、それはそれで良き体験だろう。もし良き体験でなかったとしても別段驚きはしないし、それもある意味価値のあることだ。 

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