先週は久々に就活っぽいことをした一週間だったような。まあ外に出向くことだけが就活ではないですが、最近は体調を崩したりゼミ発表の準備などでそっちの作業をすることが多かったので就活は完全にスルーしてたなあ、と。ただまあ、やるべきことをやるということが後々就活に生きてくればいいなーとは思います。そんな感じ。
金曜日のセミナーというか講演が思ったよりは面白かった。有名就活ライターの木暮太一と石渡嶺治のお話。石渡さんとは直接お話もしたらオフ会に誘われた。うーん、考える。日程が微妙ではある、あと知り合いがいるかもしれないのだがw世間狭い。
なんていうか、目の前の問題や課題を一つ一つこなしていくことが就活らしいことかもしれない。かつ、自分が何をやりたいかは洗練させなあかんだろうと思う。細かく言えば勤務地とか。
話をしたと言えば面白いこともあって、毎週木曜に佐々木敦の講義をとっているのだが(主にマイナー音楽を垂れ流す)音楽の話はもちろん質問するだけの素養がないのでパス。佐々木さんが解説を書いている伊藤計劃『ハーモニー』を読み終えました、ということで1分半ほどお話をした。佐々木さん曰く、SF読みじゃなくても読めるということ、けっこう売れてるらしいということ、続きが読みたかった、とのこと。
このへんはうん、いわゆるハードSFとも趣が違っていて、それこそ『マルドゥック・スクランブル』のような遠いようで近い未来を舞台にして書いているので、その分SFとは違うリアリティがある。それこそ、ゾクゾクするものが。グロじゃないのに読んでいて気分が悪くなる(いい意味で)小説とか初めてであるよ、とも話したような気がするな。
月曜日にはゼミでプレゼンをしたあと(今期ラスト!)やれやれという感じで新宿に向かい飲み会。俺は1次会欠席のメールを諸々の理由で送っていたのでその間はユニクロで軽く冬物を買ったあと、いつもの場所でしのぐ。
女の人が1人いたんだけど話を聞くと生主をやっているとか。なんで飲んでて隣に座ってる人が生主なのかと問いたかったけどまあそれはおいておいて、アニメの話やマンガの話もしつつ、本読みでもあるということで1時間ちょい喋ったあと、お互いのニコ生のコミュを教え合いをするなど。その後彼女はホテルに行ったようです、めでたしめでたし。
まあそんな謎な出会いを通過しつつ、二次会へ。Y談→ラーメンの話(東京のラーメンは苦手なのでついていけない)→就活の話→勉強の話という流れだったかな。飲み会の面白いところである、少しずついつもと違う話をするという風に流れていったのは面白かったかなあ、という感じでした。
俺の場合は酒が入ってもあまりトークテンションが変わるわけではないのだけれど(頭はいたくなるが)明確に変化する人はやはりいるわけで、そういう人と話をするために酒を飲んでいるのかもしれないな、と思った。いやまあ酒を嗜むのも好きだけどね、下戸だとしても。
一次会と二次会、それぞれ別な場所で別の人と話をして思ったこと。
自分の興味の射程の限界はどこにあるんだろうか。アニメや漫画やニコニコの話もするし、真面目な話も当たり前のようにするし、かといって自分について語ることは少なかったりする。一般論を語るわけではないのだが、話を聞いている人の立場からすれば俺らしさって何なんだろうね、と思っているのかもしれない。俺にしか話せないこと、俺しか、持ってないもの。
それってよほどの人間でない限りは、経験から得られるものでしかないだろうと思う。その人自身を構成する経験、つまりは自分のことについて語ることが何よりオリジナリティで、唯一性のあるものなのだろうな、と。
若いひとは空気を読む傾向にあるとか、一見唯一性やオリジナリティといった共感を呼ばないものを好む傾向がある気がしている。ある程度のノリやテンションが大事にされ、空気を乱すことは全体の効用が著しく下がるので好まれない(なんかこう書くと功利主義的だなあ
と、ある種通説的に感じていた部分というのは何らかの組織体に属すとわりと当たり前のように感じるところである。だからめんどくせーとなると1年のときのサークルのようになるのでそういうことはしない。組織に属している以上はすんなりと思っているようにいかないのは当たり前であると受け入れるほうがよほど楽である。就活を無事終えても仕事をすぐ辞める人は、あまりにも自分の思いに固執しすぎるんだろうなあ、とか思ったりもする。
要は、誰かと関わって生きていくためには自分の思いから飛び出すことも大事なのですよ。いやまあ当たり前なんだけど、自分の殻の中にこもっているほうが楽だったりするし落ち着きもするし、変な気を遣う必要もない。ある種の中二病とはこういうことだろな。
なのでというわけではないが、ここ最近はわりと肩の力を抜いて人間関係を楽しんでいる。続けば面白いし、続かないものはしょうがないくらいの。本当に大事なものはほんの一部だし、そうでなくても一人の人間が抱えられるものには限界がある。可能な限り変にすり減らすことをせず、やんわりと目の前のことに向き合うのが殻にこもるよりも楽かもしれないし、得るものは大きい。
「人生におけるぜいたくとは、人間関係におけるぜいたくである」という言葉もたぶん間違っていなくて、サークルを全部辞めた後に世間に復帰できたのは人と出会えたからだろうし、もっと人に会いたかったから、だろう。逆に言えば、その気持ちをなくしてしまうとこわいなあ、と言えなくもないな。また引きこもってしまうんだろうか、とか。
まあ、俺の大学生活とはざっくりと言えばこんな感じである。人と会う以外には、色んな物に触れるということかな。本であったり映画であったり音楽であったり絵画であったり。クリエイターにはどうあがいてもなれっこないと思っているので、自分が生み出せないものに触れるというのは感動そのものであると思ってる。
こんな感じ。飄々としているように見えるのはたぶん気のせいだし、真面目そうに見えるのもあくまで「〜そう」なだけで中身は全然不真面目なことを考えてたりします。
まあ、でも概して人ってそういうものだろう。簡単に他人のことが分かるはずがない。だから面白いのかもね。勉強もそういうものだし。
読了
93:司馬遼太郎『司馬遼太郎 歴史との邂逅2』
*今日の一曲
Stephan Mathieu + Taylor Deupree「Largo」
Largo=ラルゴとはイタリア語の音楽の用語。「やや遅く」「ゆったりと」といった感じの意味らしい。ゆったりと日常を過ごしたいものである(他方で、げんじつはたいへん
丁度昨日この曲が入ったアルバムが届いた。最近はアングラというかノイズというか、エクスペリメンタルな音楽をもっと聴きたい知りたいなあという気持ちがあっての購入。
趣味趣向なんてものは非常に移ろいやすい、のかもね。その中からずっと好きなものを見つけ出すことが、すごく楽しかったりする。だから繰り返すことを辞められない。
金曜日のセミナーというか講演が思ったよりは面白かった。有名就活ライターの木暮太一と石渡嶺治のお話。石渡さんとは直接お話もしたらオフ会に誘われた。うーん、考える。日程が微妙ではある、あと知り合いがいるかもしれないのだがw世間狭い。
なんていうか、目の前の問題や課題を一つ一つこなしていくことが就活らしいことかもしれない。かつ、自分が何をやりたいかは洗練させなあかんだろうと思う。細かく言えば勤務地とか。
話をしたと言えば面白いこともあって、毎週木曜に佐々木敦の講義をとっているのだが(主にマイナー音楽を垂れ流す)音楽の話はもちろん質問するだけの素養がないのでパス。佐々木さんが解説を書いている伊藤計劃『ハーモニー』を読み終えました、ということで1分半ほどお話をした。佐々木さん曰く、SF読みじゃなくても読めるということ、けっこう売れてるらしいということ、続きが読みたかった、とのこと。
このへんはうん、いわゆるハードSFとも趣が違っていて、それこそ『マルドゥック・スクランブル』のような遠いようで近い未来を舞台にして書いているので、その分SFとは違うリアリティがある。それこそ、ゾクゾクするものが。グロじゃないのに読んでいて気分が悪くなる(いい意味で)小説とか初めてであるよ、とも話したような気がするな。
月曜日にはゼミでプレゼンをしたあと(今期ラスト!)やれやれという感じで新宿に向かい飲み会。俺は1次会欠席のメールを諸々の理由で送っていたのでその間はユニクロで軽く冬物を買ったあと、いつもの場所でしのぐ。
女の人が1人いたんだけど話を聞くと生主をやっているとか。なんで飲んでて隣に座ってる人が生主なのかと問いたかったけどまあそれはおいておいて、アニメの話やマンガの話もしつつ、本読みでもあるということで1時間ちょい喋ったあと、お互いのニコ生のコミュを教え合いをするなど。その後彼女はホテルに行ったようです、めでたしめでたし。
まあそんな謎な出会いを通過しつつ、二次会へ。Y談→ラーメンの話(東京のラーメンは苦手なのでついていけない)→就活の話→勉強の話という流れだったかな。飲み会の面白いところである、少しずついつもと違う話をするという風に流れていったのは面白かったかなあ、という感じでした。
俺の場合は酒が入ってもあまりトークテンションが変わるわけではないのだけれど(頭はいたくなるが)明確に変化する人はやはりいるわけで、そういう人と話をするために酒を飲んでいるのかもしれないな、と思った。いやまあ酒を嗜むのも好きだけどね、下戸だとしても。
一次会と二次会、それぞれ別な場所で別の人と話をして思ったこと。
自分の興味の射程の限界はどこにあるんだろうか。アニメや漫画やニコニコの話もするし、真面目な話も当たり前のようにするし、かといって自分について語ることは少なかったりする。一般論を語るわけではないのだが、話を聞いている人の立場からすれば俺らしさって何なんだろうね、と思っているのかもしれない。俺にしか話せないこと、俺しか、持ってないもの。
それってよほどの人間でない限りは、経験から得られるものでしかないだろうと思う。その人自身を構成する経験、つまりは自分のことについて語ることが何よりオリジナリティで、唯一性のあるものなのだろうな、と。
若いひとは空気を読む傾向にあるとか、一見唯一性やオリジナリティといった共感を呼ばないものを好む傾向がある気がしている。ある程度のノリやテンションが大事にされ、空気を乱すことは全体の効用が著しく下がるので好まれない(なんかこう書くと功利主義的だなあ
と、ある種通説的に感じていた部分というのは何らかの組織体に属すとわりと当たり前のように感じるところである。だからめんどくせーとなると1年のときのサークルのようになるのでそういうことはしない。組織に属している以上はすんなりと思っているようにいかないのは当たり前であると受け入れるほうがよほど楽である。就活を無事終えても仕事をすぐ辞める人は、あまりにも自分の思いに固執しすぎるんだろうなあ、とか思ったりもする。
要は、誰かと関わって生きていくためには自分の思いから飛び出すことも大事なのですよ。いやまあ当たり前なんだけど、自分の殻の中にこもっているほうが楽だったりするし落ち着きもするし、変な気を遣う必要もない。ある種の中二病とはこういうことだろな。
なのでというわけではないが、ここ最近はわりと肩の力を抜いて人間関係を楽しんでいる。続けば面白いし、続かないものはしょうがないくらいの。本当に大事なものはほんの一部だし、そうでなくても一人の人間が抱えられるものには限界がある。可能な限り変にすり減らすことをせず、やんわりと目の前のことに向き合うのが殻にこもるよりも楽かもしれないし、得るものは大きい。
「人生におけるぜいたくとは、人間関係におけるぜいたくである」という言葉もたぶん間違っていなくて、サークルを全部辞めた後に世間に復帰できたのは人と出会えたからだろうし、もっと人に会いたかったから、だろう。逆に言えば、その気持ちをなくしてしまうとこわいなあ、と言えなくもないな。また引きこもってしまうんだろうか、とか。
まあ、俺の大学生活とはざっくりと言えばこんな感じである。人と会う以外には、色んな物に触れるということかな。本であったり映画であったり音楽であったり絵画であったり。クリエイターにはどうあがいてもなれっこないと思っているので、自分が生み出せないものに触れるというのは感動そのものであると思ってる。
こんな感じ。飄々としているように見えるのはたぶん気のせいだし、真面目そうに見えるのもあくまで「〜そう」なだけで中身は全然不真面目なことを考えてたりします。
まあ、でも概して人ってそういうものだろう。簡単に他人のことが分かるはずがない。だから面白いのかもね。勉強もそういうものだし。
読了
93:司馬遼太郎『司馬遼太郎 歴史との邂逅2』
*今日の一曲
Stephan Mathieu + Taylor Deupree「Largo」
Largo=ラルゴとはイタリア語の音楽の用語。「やや遅く」「ゆったりと」といった感じの意味らしい。ゆったりと日常を過ごしたいものである(他方で、げんじつはたいへん
丁度昨日この曲が入ったアルバムが届いた。最近はアングラというかノイズというか、エクスペリメンタルな音楽をもっと聴きたい知りたいなあという気持ちがあっての購入。
趣味趣向なんてものは非常に移ろいやすい、のかもね。その中からずっと好きなものを見つけ出すことが、すごく楽しかったりする。だから繰り返すことを辞められない。
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