定期的に続くかどうかは分からないが、これからふだんから頭の片隅にあることであるとか、日常を過ごしている中で考えたことをフローしていこうと思う。
ツイッターでもちろん似たようなことはやっているのだが、まとまって書くのが個人的にはしっくり来る。字数制限もないし、時間もかけられるしね。まあツイッターほど人の目には触れないかも知れないが自分がそのとき何を考えていたかを残せるということはそうそう悪いコトじゃない。ライフログってそういう要素もあるでしょう?と
これを機会に長めの文章を書くと言うことを再び生活のリズムに取り組んでもいいんじゃないか、と最近のブログ投稿数の少なさから考えてもみる。どうなるかは分からないけど。
前置きはそんな感じで、今回は旧約聖書とワイルドアームズ2と数人の政治家を取り上げて英雄と安心について文章を書いてみたい。論文のようにがっちりしたものではなく、あくまで頭の中をフローするように、ざっくりとした感じで。
旧約聖書。
これもまあざっくりとしたとらえ方にはなるが基本的にはユダの人々と唯一神ヤハウェをめぐる物語と言っていいだろう。ちなみに世界史は世界史Aというこれもまたざっくりとしたものを高校時代に履修しただけで、旧約聖書に触れたのは大学一年のころに何気なくとった「宗教概論」という講義の変な先生のお話と、山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』に由来する。
先生のお話は高尚すぎて(?)よく分からなかったのだが大学の先生は変人なんだなあ、というのが一年の前期にして刷り込まれたのを覚えている。山我さんの本はそれこそ歴史の講義を受けるように人間関係や戦争やらがすんなり頭に入ってきて、所々旧約の記述に対して持論が展開されていてそれ自体で読み応えのある一冊だった。
いきなり脱線した。まあ簡単に言えば旧約とはユダとヤハウェの歩んだ歴史と奇跡の数々である。それ自体は歴史的にも様々な考察がされており、著者は不明だが全くの創作ではないという方向をこの文章では支持したいと思う。
その上で、ユダがヤハウェを生み出した背景に注目したい。ヤハウェを英雄にたとえるのは少し違うかも知れないが、出エジプトを果たしてカナンの地に導いたヤハウェは英雄としてあがめられたに違いない。少なくとも熱烈な信仰が唯一神としてのヤハウェを構成し、偶像崇拝の禁止から始まる多くの戒律を信徒に課すことになる。これってある種の自由の強制であり、不自由じゃんと思えて仕方ないのだけれど、事はそう単純じゃないというのはユダの人々がイスラエルで歩んだ歴史を見ていると感じる。
不自由さ以外にも強烈な信仰というものが生み出す排他的なもの、その反動としてキリストが登場したというのも考えすぎとは言えないんじゃないかな、とも思う。一方、ヤハウェがいるということが救いになることもあっただろうし、ユダ民族とヤハウェの繋がりは第二次大戦後に長くディアスポラだったユダヤ人が自分たちの国としてイスラエルを再建したことにも深く表れている。ユダあってのヤハウェ、ヤハウェあってのユダであり、宗教の持つ包括性がよく表れているように思う。ユダヤ人であること、そしてヤハウェを信仰すること、そしてイスラエルという国が今もまた存在することは現代的には承認の共同体と言っても不可分じゃないと思う。自分たちの国があるということは国際政治的な意味での承認もあるのだから。
周りがイスラム教徒だらけのあの地にイスラエルを再建するなんていうのは尋常なことじゃない。だから現代でも他国との衝突は避けられないんだけどね。
もう一つ英雄譚を。ワイルドアームズ2nd Ignitionというゲーム(以下WA2)におけるアシュレーとアナスタシアの抱えた葛藤について。
ふたりは違う時代でともに英雄と呼ばれるほど、世界の危機を救うために奮闘した。アナスタシアはその結果命を落としてしまい、アシュレーもギリギリの状況に追い込まれる。肉体的にも、そして精神的にも。
当初アシュレーは英雄になりたいと思うどこにでもいる青年だった。その彼が現実の敵(なるもの)と戦っていく過程で英雄の存在を疑問視していくようになる。普通のRPGなら主人公がラスボスを倒すまでのストーリー、つまりは世界にとっての英雄になっていく物語であることが大半で、WA2も途中まではその王道をなぞりながら、Disc2から葛藤という言葉が大きなキーワードになってくる。
おそらくは当事者であること、当事者意識が物語を経ていく上で芽生えたということが大きい。それを経ないまでは英雄になりたがっていたが、現実とその狭間を経ていくことでアシュレーは英雄であることから逃げようとする。期待、使命、さらに複雑化する現実。ネタバレになってしまうが、アシュレーが「英雄なんていらない」と思い至るのがこのゲームのクライマックスである。ある意味RPGや英雄譚の否定であり、でもそれは英雄信仰があってこその否定だったということはアシュレー自身が体現した。当時14歳か15歳であった自分にはなかなか衝撃的で、現実の一端を垣間見た気がした。少なくとも学校では英雄なんていちゃだめなんだよ、とは教えない。
少なくとも、歴史的な英雄の価値は認めた上で、現実の問題として英雄が存在すること、また存在しなければならない状況とはなんぞや、ということは今大学生になって政治学や行政学を扱っていることと無関係とは言えないような気もする。
振り返って英雄を求めるのはなぜだろう。そこに問題や危機があるからか、あるいは退屈な日常におけるカリスマの非日常感を求めるからか。小泉純一郎は後者かなと思うが、今彼が登場したとしたらおそらく前者だろう。鳩山由紀夫は英雄になり損ねた、良くも悪くも。オバマも、あれから2年経った今では真の英雄になれるかどうかは厳しい状況である。
いずれにせよ、英雄とは手段なのである。自民党をぶっ壊したいだとか、いのちを守りたいだとか、口蹄疫から宮崎を守りたいとか、なんらかのメッセージが多くの場合に存在し、共感を呼び、信仰とまでは行かなくてもある種の熱狂を巻き起こす。
その熱狂自体は旧約聖書のころからあるごくごく自然な人間の感情の積み重なったものなのだと思う。一人一人の力は社会を変えるには乏しいが、政治家や神なら変えられるかも知れない、そういった変革への期待を多かれ少なかれ指導者は背負うことになる。
でも、やっぱり個人の力は個人の力である。誰か一人だけでできる仕事なぞたかが知れていて、誰かにしかできないことはあるとしても、仕事とは多くの人間が絡むことだろう。少なくとも国家の系というのはそれだけの規模を持つ。
英雄を希求し、そこに何らかの期待をこめることは悪いことじゃない。ただそれで安心してしまうと、失うものが大きいんじゃないか。真ん中だけを見て、その周りを見てないんじゃないか、と。木を見て森を見ず、それが罪となって麻生政権のころから小泉政権への批判が公然と出始めた。何を況や、である。もちろん小泉政権の全てが悪かったとは言わないが、ドラスティックすぎる改革の副産物に関する展望がなさすぎた。巻き添えを食うのは普通の市民である。
英雄とは手段だ。安心したいから、とこの文章では書いたが、実際はなんのための手段なのかははっきりと言えることじゃないかもしれない。ただ短期的には英雄にすがることは安心に繋がる、と考えるのは不自然だとは思わない。
でももう少し、思いをめぐらせてみよう。本当の安心は、英雄信仰を離れた先にしかないということを、アシュレーが悟ったように。
たぶんそれが、英雄視される人間にとっても幸福なことだろう、長期的な意味ではね。
*****
何がさっくりだか、1時間以上かかって3000字を費やしたのがこの結果だよ。それなりのレポートの分量があるじゃまいか。
という感じで、これからもこんなに長くなるかどうかは分からないし、時間的にはおそらくならない気がするけど、のんびりと文章を書いていけたらいいなあと思います。コンパクトに書くのも大事だよね!(いまさら
山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』

聖書時代史―旧約篇 (岩波現代文庫)
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WILD ARMS 2nd Ignition

ワイルド アームズ2ndイグニッション
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おまけ
ツイッターでもちろん似たようなことはやっているのだが、まとまって書くのが個人的にはしっくり来る。字数制限もないし、時間もかけられるしね。まあツイッターほど人の目には触れないかも知れないが自分がそのとき何を考えていたかを残せるということはそうそう悪いコトじゃない。ライフログってそういう要素もあるでしょう?と
これを機会に長めの文章を書くと言うことを再び生活のリズムに取り組んでもいいんじゃないか、と最近のブログ投稿数の少なさから考えてもみる。どうなるかは分からないけど。
前置きはそんな感じで、今回は旧約聖書とワイルドアームズ2と数人の政治家を取り上げて英雄と安心について文章を書いてみたい。論文のようにがっちりしたものではなく、あくまで頭の中をフローするように、ざっくりとした感じで。
旧約聖書。
これもまあざっくりとしたとらえ方にはなるが基本的にはユダの人々と唯一神ヤハウェをめぐる物語と言っていいだろう。ちなみに世界史は世界史Aというこれもまたざっくりとしたものを高校時代に履修しただけで、旧約聖書に触れたのは大学一年のころに何気なくとった「宗教概論」という講義の変な先生のお話と、山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』に由来する。
先生のお話は高尚すぎて(?)よく分からなかったのだが大学の先生は変人なんだなあ、というのが一年の前期にして刷り込まれたのを覚えている。山我さんの本はそれこそ歴史の講義を受けるように人間関係や戦争やらがすんなり頭に入ってきて、所々旧約の記述に対して持論が展開されていてそれ自体で読み応えのある一冊だった。
いきなり脱線した。まあ簡単に言えば旧約とはユダとヤハウェの歩んだ歴史と奇跡の数々である。それ自体は歴史的にも様々な考察がされており、著者は不明だが全くの創作ではないという方向をこの文章では支持したいと思う。
その上で、ユダがヤハウェを生み出した背景に注目したい。ヤハウェを英雄にたとえるのは少し違うかも知れないが、出エジプトを果たしてカナンの地に導いたヤハウェは英雄としてあがめられたに違いない。少なくとも熱烈な信仰が唯一神としてのヤハウェを構成し、偶像崇拝の禁止から始まる多くの戒律を信徒に課すことになる。これってある種の自由の強制であり、不自由じゃんと思えて仕方ないのだけれど、事はそう単純じゃないというのはユダの人々がイスラエルで歩んだ歴史を見ていると感じる。
不自由さ以外にも強烈な信仰というものが生み出す排他的なもの、その反動としてキリストが登場したというのも考えすぎとは言えないんじゃないかな、とも思う。一方、ヤハウェがいるということが救いになることもあっただろうし、ユダ民族とヤハウェの繋がりは第二次大戦後に長くディアスポラだったユダヤ人が自分たちの国としてイスラエルを再建したことにも深く表れている。ユダあってのヤハウェ、ヤハウェあってのユダであり、宗教の持つ包括性がよく表れているように思う。ユダヤ人であること、そしてヤハウェを信仰すること、そしてイスラエルという国が今もまた存在することは現代的には承認の共同体と言っても不可分じゃないと思う。自分たちの国があるということは国際政治的な意味での承認もあるのだから。
周りがイスラム教徒だらけのあの地にイスラエルを再建するなんていうのは尋常なことじゃない。だから現代でも他国との衝突は避けられないんだけどね。
もう一つ英雄譚を。ワイルドアームズ2nd Ignitionというゲーム(以下WA2)におけるアシュレーとアナスタシアの抱えた葛藤について。
ふたりは違う時代でともに英雄と呼ばれるほど、世界の危機を救うために奮闘した。アナスタシアはその結果命を落としてしまい、アシュレーもギリギリの状況に追い込まれる。肉体的にも、そして精神的にも。
当初アシュレーは英雄になりたいと思うどこにでもいる青年だった。その彼が現実の敵(なるもの)と戦っていく過程で英雄の存在を疑問視していくようになる。普通のRPGなら主人公がラスボスを倒すまでのストーリー、つまりは世界にとっての英雄になっていく物語であることが大半で、WA2も途中まではその王道をなぞりながら、Disc2から葛藤という言葉が大きなキーワードになってくる。
おそらくは当事者であること、当事者意識が物語を経ていく上で芽生えたということが大きい。それを経ないまでは英雄になりたがっていたが、現実とその狭間を経ていくことでアシュレーは英雄であることから逃げようとする。期待、使命、さらに複雑化する現実。ネタバレになってしまうが、アシュレーが「英雄なんていらない」と思い至るのがこのゲームのクライマックスである。ある意味RPGや英雄譚の否定であり、でもそれは英雄信仰があってこその否定だったということはアシュレー自身が体現した。当時14歳か15歳であった自分にはなかなか衝撃的で、現実の一端を垣間見た気がした。少なくとも学校では英雄なんていちゃだめなんだよ、とは教えない。
少なくとも、歴史的な英雄の価値は認めた上で、現実の問題として英雄が存在すること、また存在しなければならない状況とはなんぞや、ということは今大学生になって政治学や行政学を扱っていることと無関係とは言えないような気もする。
振り返って英雄を求めるのはなぜだろう。そこに問題や危機があるからか、あるいは退屈な日常におけるカリスマの非日常感を求めるからか。小泉純一郎は後者かなと思うが、今彼が登場したとしたらおそらく前者だろう。鳩山由紀夫は英雄になり損ねた、良くも悪くも。オバマも、あれから2年経った今では真の英雄になれるかどうかは厳しい状況である。
いずれにせよ、英雄とは手段なのである。自民党をぶっ壊したいだとか、いのちを守りたいだとか、口蹄疫から宮崎を守りたいとか、なんらかのメッセージが多くの場合に存在し、共感を呼び、信仰とまでは行かなくてもある種の熱狂を巻き起こす。
その熱狂自体は旧約聖書のころからあるごくごく自然な人間の感情の積み重なったものなのだと思う。一人一人の力は社会を変えるには乏しいが、政治家や神なら変えられるかも知れない、そういった変革への期待を多かれ少なかれ指導者は背負うことになる。
でも、やっぱり個人の力は個人の力である。誰か一人だけでできる仕事なぞたかが知れていて、誰かにしかできないことはあるとしても、仕事とは多くの人間が絡むことだろう。少なくとも国家の系というのはそれだけの規模を持つ。
英雄を希求し、そこに何らかの期待をこめることは悪いことじゃない。ただそれで安心してしまうと、失うものが大きいんじゃないか。真ん中だけを見て、その周りを見てないんじゃないか、と。木を見て森を見ず、それが罪となって麻生政権のころから小泉政権への批判が公然と出始めた。何を況や、である。もちろん小泉政権の全てが悪かったとは言わないが、ドラスティックすぎる改革の副産物に関する展望がなさすぎた。巻き添えを食うのは普通の市民である。
英雄とは手段だ。安心したいから、とこの文章では書いたが、実際はなんのための手段なのかははっきりと言えることじゃないかもしれない。ただ短期的には英雄にすがることは安心に繋がる、と考えるのは不自然だとは思わない。
でももう少し、思いをめぐらせてみよう。本当の安心は、英雄信仰を離れた先にしかないということを、アシュレーが悟ったように。
たぶんそれが、英雄視される人間にとっても幸福なことだろう、長期的な意味ではね。
*****
何がさっくりだか、1時間以上かかって3000字を費やしたのがこの結果だよ。それなりのレポートの分量があるじゃまいか。
という感じで、これからもこんなに長くなるかどうかは分からないし、時間的にはおそらくならない気がするけど、のんびりと文章を書いていけたらいいなあと思います。コンパクトに書くのも大事だよね!(いまさら
山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』

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