著者:米澤穂信
出版:新潮文庫
読み始めて1時間半くらいで一気読みした。米澤穂信はそこまで一気読みさせるような作家だとは思わなかったが、本の中で流れる時間がそれほど長くなく、結果が分かってしまえばシンプルな故に一気読みできたのかな、と思う。まあけど、いかにも米澤穂信らしいというか、人間のこわさ、不可解さを淡々と書き連ねることで妙なリアリティを醸し出す。パラレルワールドというのは基本的にありえない設定だし無茶苦茶だ、とも言えるんだけど、安易にハッピーエンドを要求しないで現実をつきつめていくスタイルは『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のあたりから見受けられる。
主人公の嵯峨野リョウは東尋坊で転落死した中学時代の恋人を弔うために事故現場を訪れていた。花を携え、立ち去ろうとしたリョウは意識が混濁し、崖から落下する。だが目覚めると金沢の川沿いのベンチの上にいた。どうやって移動したのかは不可解なまま自宅に帰ると、見知らぬ女性がいた。嵯峨野サキと名乗る彼女は家の住人だと言うが、リョウには覚えがない。しかもサキもリョウのことを知らない。話をしていくとお互いの家に共通点があることも相違点があることも分かるが、そもそもなぜこういう状況に陥ったのかは謎のままだった。ふたりは謎を解くために一緒に行動するようになるが・・・。
リョウのキャラがかなり地味というか、どちらかというと自己完結的なタイプに対して、サキはかなりノリがよく(キャピキャピとまではいかないが)見知らぬ訪問者であるリョウを積極的に受け入れ、謎に対して興味を示す。サキの貢献による分が大きいのかふたりの会話はかなりユーモラスでもある。リョウの重たい語りに対してサキの軽妙なしゃべりはアンバランスではあるが、言い換えれば均衡がとれているとも言え、本作を一気読みさせた原因にもなっていると思われる。これ自体も大きな伏線であるとは最初は全く気づかないわけだけれど。
本作が上手いと思うのは小さな伏線をちりばめて物語を構成しながら、パラレルワールドという大きな物語を並行して描くこと。元のプロットは10代の米澤穂信が書いたというだけあって、主人公であるリョウの抱える悩み、拠り所、漠然とした不安は10代にしか出せない未熟さを内包する。タイトルである「ボトルネック」は何を意味するのか、ということに関して読み進めると面白いのだが、『犬はどこだ』がそうであったように楽な展開は用意されない。10代の主人公をここまで追い詰めるとかという展開もいとわない、その真意はどこにあるのだろう。など、いろいろな角度から読み進めることができるが、実際はそれほど長くないので一気読みだったりもする。
10代のときにプロットを書いたせいか、ストーリーの尺自体は短くて、個人的には実験作なのかなと思う。古典部シリーズのようなキャラクター性も、『さよなら妖精』のようなとてつもない余韻も、『犬はどこだ』のような完成度の高いミステリー構造も本作にはない。あるのは10代の憂鬱と、金沢の風の冷たさ、かな。主な舞台が金沢なのはおそらく米澤穂信が金沢大学に通っていたからであろう、大学も近く兼六園や市庁舎などのある金沢の中心街を舞台としている。この春に旅行したときは香林坊まで行けばにぎやかになるが、兼六園方面はわりと静かだったのを覚えている。静けさと賑やかさが隣り合わせの街で、リョウがどのような心境で歩いたのか、彼の目には何が映ったのか。それらを追体験するのは彼の空虚さを追体験することにならない。その空虚さがどこから由来し、どこへ向かうのか。見届けるのは楽じゃない。
比べてみれば『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のほうがよほどカタルシスがあった。小説としての完成度が高く、それ故にラストシーンが衝撃的だったからである。本作はそういう意味では特別優れた小説だとは思わない。ただ、圧倒的な共感力はあると思う。何度も書いたが10代の憂鬱というものは10代を経験した人なら誰しもが経験することであり、今この瞬間にも様々な憂鬱に直面している10代はありふれているだろう。青春と称されるほど輝かしい時期でもあり、同時にどうしようもないほどの憂鬱を抱える時期でもある。本作はそれらをパラレルワールド構成という一つのアイデアで構成しようとした、それだけと言えばそれだけの小説である。米澤穂信という名前がなかったら見向きもされないかもしれないが、読後に思うことは間違いなく本作は米澤穂信の小説だということだ。何か日本語がおかしい気もするが、米澤穂信の小説をずっと読み続けている身からすれば、終盤の展開はさすがと言いたくなる。
気楽に読める文章量であり、しかもサキのキャラクターが相まって一気読みさせられるけれど、安易に読むことはオススメしない。この本を読み終えたときが夜でなくて良かったと切実に思った。
出版:新潮文庫
読み始めて1時間半くらいで一気読みした。米澤穂信はそこまで一気読みさせるような作家だとは思わなかったが、本の中で流れる時間がそれほど長くなく、結果が分かってしまえばシンプルな故に一気読みできたのかな、と思う。まあけど、いかにも米澤穂信らしいというか、人間のこわさ、不可解さを淡々と書き連ねることで妙なリアリティを醸し出す。パラレルワールドというのは基本的にありえない設定だし無茶苦茶だ、とも言えるんだけど、安易にハッピーエンドを要求しないで現実をつきつめていくスタイルは『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のあたりから見受けられる。
主人公の嵯峨野リョウは東尋坊で転落死した中学時代の恋人を弔うために事故現場を訪れていた。花を携え、立ち去ろうとしたリョウは意識が混濁し、崖から落下する。だが目覚めると金沢の川沿いのベンチの上にいた。どうやって移動したのかは不可解なまま自宅に帰ると、見知らぬ女性がいた。嵯峨野サキと名乗る彼女は家の住人だと言うが、リョウには覚えがない。しかもサキもリョウのことを知らない。話をしていくとお互いの家に共通点があることも相違点があることも分かるが、そもそもなぜこういう状況に陥ったのかは謎のままだった。ふたりは謎を解くために一緒に行動するようになるが・・・。
リョウのキャラがかなり地味というか、どちらかというと自己完結的なタイプに対して、サキはかなりノリがよく(キャピキャピとまではいかないが)見知らぬ訪問者であるリョウを積極的に受け入れ、謎に対して興味を示す。サキの貢献による分が大きいのかふたりの会話はかなりユーモラスでもある。リョウの重たい語りに対してサキの軽妙なしゃべりはアンバランスではあるが、言い換えれば均衡がとれているとも言え、本作を一気読みさせた原因にもなっていると思われる。これ自体も大きな伏線であるとは最初は全く気づかないわけだけれど。
本作が上手いと思うのは小さな伏線をちりばめて物語を構成しながら、パラレルワールドという大きな物語を並行して描くこと。元のプロットは10代の米澤穂信が書いたというだけあって、主人公であるリョウの抱える悩み、拠り所、漠然とした不安は10代にしか出せない未熟さを内包する。タイトルである「ボトルネック」は何を意味するのか、ということに関して読み進めると面白いのだが、『犬はどこだ』がそうであったように楽な展開は用意されない。10代の主人公をここまで追い詰めるとかという展開もいとわない、その真意はどこにあるのだろう。など、いろいろな角度から読み進めることができるが、実際はそれほど長くないので一気読みだったりもする。
10代のときにプロットを書いたせいか、ストーリーの尺自体は短くて、個人的には実験作なのかなと思う。古典部シリーズのようなキャラクター性も、『さよなら妖精』のようなとてつもない余韻も、『犬はどこだ』のような完成度の高いミステリー構造も本作にはない。あるのは10代の憂鬱と、金沢の風の冷たさ、かな。主な舞台が金沢なのはおそらく米澤穂信が金沢大学に通っていたからであろう、大学も近く兼六園や市庁舎などのある金沢の中心街を舞台としている。この春に旅行したときは香林坊まで行けばにぎやかになるが、兼六園方面はわりと静かだったのを覚えている。静けさと賑やかさが隣り合わせの街で、リョウがどのような心境で歩いたのか、彼の目には何が映ったのか。それらを追体験するのは彼の空虚さを追体験することにならない。その空虚さがどこから由来し、どこへ向かうのか。見届けるのは楽じゃない。
比べてみれば『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のほうがよほどカタルシスがあった。小説としての完成度が高く、それ故にラストシーンが衝撃的だったからである。本作はそういう意味では特別優れた小説だとは思わない。ただ、圧倒的な共感力はあると思う。何度も書いたが10代の憂鬱というものは10代を経験した人なら誰しもが経験することであり、今この瞬間にも様々な憂鬱に直面している10代はありふれているだろう。青春と称されるほど輝かしい時期でもあり、同時にどうしようもないほどの憂鬱を抱える時期でもある。本作はそれらをパラレルワールド構成という一つのアイデアで構成しようとした、それだけと言えばそれだけの小説である。米澤穂信という名前がなかったら見向きもされないかもしれないが、読後に思うことは間違いなく本作は米澤穂信の小説だということだ。何か日本語がおかしい気もするが、米澤穂信の小説をずっと読み続けている身からすれば、終盤の展開はさすがと言いたくなる。
気楽に読める文章量であり、しかもサキのキャラクターが相まって一気読みさせられるけれど、安易に読むことはオススメしない。この本を読み終えたときが夜でなくて良かったと切実に思った。
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