Seraphic Blue(以下、基本的にセラブル)というゲームの特徴的なのは、途中で明確に主人公が交代することでもある。だから、最終的に主役の座を射止める(というか、その場に置かれてしまう)ヴェーネについて論じることがセラブルというゲームの核心部分にも繋がるはずであると考える。そしてそのためには、ヴェーネがどのようにして主役の場に置かれるようになったのかについての記述が必要だろう。
また、それ以前の彼女はどのような経験をした存在で、それ以後の彼女はどのような宿命を背負って戦いに向かったのか。俗な言い方をすれば、世界を救うために彼女は戦ったわけだが、その理由は運命という言葉で片付けてしまっていいものなのだろうか。
などなど、ヴェーネという複雑な経験を経た人物について描くのはなかなかに難しいし、絡んだ人物の多さや濃さを考えると非常にやっかいだ。
ヴェーネの宿命の帰結について先に触れておくが、その前に次の文を引用してみる。
ヴェーネの運命の帰結をプレイヤーがエンディングとして見つめるときに、いくつかの驚きがある。そのひとつが上に引用したように、超越的な世界の救済者であった彼女(文字通り天使と言ってもいいかもしれない)が、ごくごく一般的な人間の幸せに落ち着いてしまっている点はまず指摘されるべきだろう。
次に、運命という枷を外してしまったときに、彼女が実際に見せる言動は尋常ではない。度重なるリストカットや逃亡、薬物濫用というふうにしか描写はされないが、いわゆる人間らしさというものを完全に失ってしまっている。メンヘラ女というカテゴライズは適切かも知れないが、個人的な印象としては落伍者という感じがした。文字通りの廃人と言ってもいい。もはや生活の体をなしていないのだから。
そして最後に指摘したいのは、世界を救うことで彼女自身も世界も生き延びたというのに、これだけの堕落した結末を見せつけられると果たしてこれはハッピーエンドなのかなんなのかがよく分からないということになる。最後のシーンを描く必要がなかったのではないか、という感想を持ったプレイヤーもいるだろう。
と、これだけ書くのにここまで文章を使ったのでこの先について書くともっと長くなるだろう、という意味で予告編にした。なんか半年前にも予告編っぽいのを書いた気がするけどこっちがほんとうの予告編です。
単純と言えば単純な発想だが、世界の存続に向けて戦うことを運命づけられたヒロイン、という意味でぱっと思いついたのは魔法少女まどか☆マギカである。ここで出てくる魔法少女たちもそれぞれに運命を背負っていて戦いに身を投じていくが、ヴェーネとの比較でどのようなことが言えるのかを試してみたい。
その上で、ヴェーネを拘束するものは何かを探る。彼女が名実共に命運をかけたヒロインになる以前の彼女だったころの経験に鍵があるというのはジークベルトとの関係などからも明らかではあるが、ヴェーネとジークベルトの関係性だけでも丁寧に記述しようとすれば膨大になってしまうので(日記書きすぎだし)いくつか要素を抽出してみたい。
これも改めて書くまでもないかもしれないが、彼女は生まれながらにして運命を背負っていた。宿命と言ってもいい。もっとも、彼女のみが背負っていたのではなく、物語の過程で彼女が唯一にして最大の存在になってしまうのはジークベルトにしては想定外だったかもしれないし、傍観者的に見ればまたもない物語の筋書きかも知れない。
ただ、そうやって負担感は変化したかも知れないが、前述のように彼女が世界の命運を握るのはあらかじめ予定されていた未来である。そしてこれがヴェーネにとってさらに残酷なのは、戻ることができないという事実だろう。
ジークベルトの言う「ハッピーエンドは失われた」とは、ヴェーネの実存をシンプルに説明すると。これより他にふさわしい(そして文学的な)言葉はないかもしれない。
そうやってヴェーネの人格を構造的に、また経験的にあぶりだしていきたいと思っているのだが、その上で提示したいものは何か。つまり、ヴェーネという表象はセラフィックブルーというゲームの枠内においてどのような意味を持ち、ゲームの外で一般化するとどのような意味を持ちうるのかという点である。
セラブルの世界はファンタジーでもなんでもなく、私たちがどこかで見てきたような世界(というか社会)がまざまざと描かれている。アメリカやロシアを思わせなくもない国家も出てくるし、それらと時には手を組みつつ最終的に自分の目標を遂行しようとするエンデは今の時代で言えば歪んだイスラム原理主義を基盤とする中東のテロ集団と言ってもいいかもしれない。
このような世界、あるいは社会で描かれたヴェーネの像について考えたときに何が言えるのかはまだ自分の中でも定まりきっていない。手がかりとしてあるのは運命についての記述を中心にしようと思っているので、宿命を進路変更不可能性と言い換えればわたしたちの社会にも適用できるのではないか。システム的な進路変更不可能性ならありふれているし、その中でどう振る舞うかを考えるのは重要なことだ。下手しなくても生存に関わるだろう。
もちろんセーフティネットがないわけではないという意味では進路変更不可能性は大げさとも言える。とはいえ、システム的に、または社会通念的にも、人生という長いレールを考えたときにある種の硬直性は散見される。受験をして大学に入ったら企業に就職するくらいしか基本的なモデルが与えられていないというのは、なにも日本にかぎったことではない。資本主義は自由主義と結びつくことで多様性を擁護しているようで、実はモデル化された人間を延々と生産しているだけかもしれない。
いくら投げ出したいとのぞんでも、あきらめたいとのぞんでも社会の中で生きるためには容易にできない。不可能ではないかもしれないが、かなりの困難を伴う。硬直したクソみたいなシステムからとっとと離脱するために、困難を克服してレールを外れろというのはあまりにマッチョな主張だろう。自分のことは自分で決めて、結果責任も自分で負うべしという新自由主義は、原理的に結局一部の人間の利得を向上させるにすぎない。
一見するとヴェーネは困難な壁を乗り越えていく、つまり新自由主義の中で生き残っていく強者にも思える。とはいえ、それが肉体的に、精神的にあまりにもギリギリだったことは彼女の帰結にもつながっているだろう。
書いてきて思ったが、こういうところが論点だと思っていてああしてこうして展開しますよ〜というのは論文か何かのはしがきのように思えてきた。いやもっとちゃんと書かないと「論文」には仕上がらんだろうけどねもちろん。
あと、ついつい長くなってしまうのが悪い癖なのである程度コンパクトな論になるように頑張ってみようかな、と思っている。うまくいけば年内にはケリをつけたいが、諸々の事情との兼ね合いがどうなるかは俺にもよく分からん。
まあそんな感じで、一人の大学生の戯れ言というか趣味以外のなにものでもない文章に今後も付き合ってもらえるのならこれほど幸いなことはない。職業ライターでもない個人の物書きにとっては読んでもらえることがまず何よりの喜びだ。そこから何らかのコミュニケーションに繋がれば楽しいのは言うまでもない。
また、それ以前の彼女はどのような経験をした存在で、それ以後の彼女はどのような宿命を背負って戦いに向かったのか。俗な言い方をすれば、世界を救うために彼女は戦ったわけだが、その理由は運命という言葉で片付けてしまっていいものなのだろうか。
などなど、ヴェーネという複雑な経験を経た人物について描くのはなかなかに難しいし、絡んだ人物の多さや濃さを考えると非常にやっかいだ。
ヴェーネの宿命の帰結について先に触れておくが、その前に次の文を引用してみる。
さて、戦いを終えて、結局、ヴェーネは洗練されたシステマチックな功利主義者(=新自由主義下における『新しき哲人』)になるわけでもなく、戦いの後にレイクやユアンと抱擁を交わし、彼らに命を繋ぎとめられながら、ドラッグに溺れつつも、フリッツと共に生きることを選択し「家族幻想」に半ば回帰してしまう。プレイヤーは存じているだろうが、60時間以上かけてたどり着いたこのゲームのエンディングは、実際かなりグダグダである。乱暴にまとめるなら、メンヘラ女が死にたがったり生きたがったりする様を蛇行的に描写するだけだ。
出典:http://d.hatena.ne.jp/tapimocchi/20110823
ヴェーネの運命の帰結をプレイヤーがエンディングとして見つめるときに、いくつかの驚きがある。そのひとつが上に引用したように、超越的な世界の救済者であった彼女(文字通り天使と言ってもいいかもしれない)が、ごくごく一般的な人間の幸せに落ち着いてしまっている点はまず指摘されるべきだろう。
次に、運命という枷を外してしまったときに、彼女が実際に見せる言動は尋常ではない。度重なるリストカットや逃亡、薬物濫用というふうにしか描写はされないが、いわゆる人間らしさというものを完全に失ってしまっている。メンヘラ女というカテゴライズは適切かも知れないが、個人的な印象としては落伍者という感じがした。文字通りの廃人と言ってもいい。もはや生活の体をなしていないのだから。
そして最後に指摘したいのは、世界を救うことで彼女自身も世界も生き延びたというのに、これだけの堕落した結末を見せつけられると果たしてこれはハッピーエンドなのかなんなのかがよく分からないということになる。最後のシーンを描く必要がなかったのではないか、という感想を持ったプレイヤーもいるだろう。
と、これだけ書くのにここまで文章を使ったのでこの先について書くともっと長くなるだろう、という意味で予告編にした。なんか半年前にも予告編っぽいのを書いた気がするけどこっちがほんとうの予告編です。
単純と言えば単純な発想だが、世界の存続に向けて戦うことを運命づけられたヒロイン、という意味でぱっと思いついたのは魔法少女まどか☆マギカである。ここで出てくる魔法少女たちもそれぞれに運命を背負っていて戦いに身を投じていくが、ヴェーネとの比較でどのようなことが言えるのかを試してみたい。
その上で、ヴェーネを拘束するものは何かを探る。彼女が名実共に命運をかけたヒロインになる以前の彼女だったころの経験に鍵があるというのはジークベルトとの関係などからも明らかではあるが、ヴェーネとジークベルトの関係性だけでも丁寧に記述しようとすれば膨大になってしまうので(日記書きすぎだし)いくつか要素を抽出してみたい。
これも改めて書くまでもないかもしれないが、彼女は生まれながらにして運命を背負っていた。宿命と言ってもいい。もっとも、彼女のみが背負っていたのではなく、物語の過程で彼女が唯一にして最大の存在になってしまうのはジークベルトにしては想定外だったかもしれないし、傍観者的に見ればまたもない物語の筋書きかも知れない。
ただ、そうやって負担感は変化したかも知れないが、前述のように彼女が世界の命運を握るのはあらかじめ予定されていた未来である。そしてこれがヴェーネにとってさらに残酷なのは、戻ることができないという事実だろう。
ジークベルトの言う「ハッピーエンドは失われた」とは、ヴェーネの実存をシンプルに説明すると。これより他にふさわしい(そして文学的な)言葉はないかもしれない。
そうやってヴェーネの人格を構造的に、また経験的にあぶりだしていきたいと思っているのだが、その上で提示したいものは何か。つまり、ヴェーネという表象はセラフィックブルーというゲームの枠内においてどのような意味を持ち、ゲームの外で一般化するとどのような意味を持ちうるのかという点である。
セラブルの世界はファンタジーでもなんでもなく、私たちがどこかで見てきたような世界(というか社会)がまざまざと描かれている。アメリカやロシアを思わせなくもない国家も出てくるし、それらと時には手を組みつつ最終的に自分の目標を遂行しようとするエンデは今の時代で言えば歪んだイスラム原理主義を基盤とする中東のテロ集団と言ってもいいかもしれない。
このような世界、あるいは社会で描かれたヴェーネの像について考えたときに何が言えるのかはまだ自分の中でも定まりきっていない。手がかりとしてあるのは運命についての記述を中心にしようと思っているので、宿命を進路変更不可能性と言い換えればわたしたちの社会にも適用できるのではないか。システム的な進路変更不可能性ならありふれているし、その中でどう振る舞うかを考えるのは重要なことだ。下手しなくても生存に関わるだろう。
もちろんセーフティネットがないわけではないという意味では進路変更不可能性は大げさとも言える。とはいえ、システム的に、または社会通念的にも、人生という長いレールを考えたときにある種の硬直性は散見される。受験をして大学に入ったら企業に就職するくらいしか基本的なモデルが与えられていないというのは、なにも日本にかぎったことではない。資本主義は自由主義と結びつくことで多様性を擁護しているようで、実はモデル化された人間を延々と生産しているだけかもしれない。
いくら投げ出したいとのぞんでも、あきらめたいとのぞんでも社会の中で生きるためには容易にできない。不可能ではないかもしれないが、かなりの困難を伴う。硬直したクソみたいなシステムからとっとと離脱するために、困難を克服してレールを外れろというのはあまりにマッチョな主張だろう。自分のことは自分で決めて、結果責任も自分で負うべしという新自由主義は、原理的に結局一部の人間の利得を向上させるにすぎない。
一見するとヴェーネは困難な壁を乗り越えていく、つまり新自由主義の中で生き残っていく強者にも思える。とはいえ、それが肉体的に、精神的にあまりにもギリギリだったことは彼女の帰結にもつながっているだろう。
書いてきて思ったが、こういうところが論点だと思っていてああしてこうして展開しますよ〜というのは論文か何かのはしがきのように思えてきた。いやもっとちゃんと書かないと「論文」には仕上がらんだろうけどねもちろん。
あと、ついつい長くなってしまうのが悪い癖なのである程度コンパクトな論になるように頑張ってみようかな、と思っている。うまくいけば年内にはケリをつけたいが、諸々の事情との兼ね合いがどうなるかは俺にもよく分からん。
まあそんな感じで、一人の大学生の戯れ言というか趣味以外のなにものでもない文章に今後も付き合ってもらえるのならこれほど幸いなことはない。職業ライターでもない個人の物書きにとっては読んでもらえることがまず何よりの喜びだ。そこから何らかのコミュニケーションに繋がれば楽しいのは言うまでもない。