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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 新海誠の新境地というか、これまでとは違う、という反応を目にするたびにどれくらい違っているのかということはこれまでの作品をほぼすべて(NHKでかつて放映されていた短編作品にも目を通している)見てきた者からすると大いに気になった。ただ、その前に、本編に入る前に客層の若さというかきらめきみたいなものにちょっと目をやられてしまったところが一番の新鮮なインパクトだった。

 たとえば『秒速5センチメートル』が公開されたのは2007年のことだが、新海誠の映画がこれほどまでに若い女の子たち(家族連れで幼いと言ってもさしつかえない女の子もいた)が見に来る映画になりうるのだろうかとは思わない。もちろん作風というのは変わっていくし、映画という多くの人や組織が関わるメディアは監督個人の意向よりもそれ以外のファクターのほうが大きいとしても珍しくはない。『シン・ゴジラ』に次いでこの夏の東宝作品として公開されるまでの詳しい経緯はよく知らないが、少なくともいままでとはスケールの異なる環境で『君の名は。』という映画は作られた。だからこそ公開館は数多く、俺が見たイオンシネマ高松東という地方都市のイオンシネマでも普通に見ることができた。そしてパンフレットは売り切れている。これだけで十分、自分にとっての新海誠経験としてはことごとく新しい。

 その上で、というかそれ自体が過度な先入観になったわけではないのだけれど、むしろこれは新海誠の集大成と言ったほうがいいんじゃないか、という思いのほうが強かった。それはモノローグで始まるプロローグから再びモノローグで始まるエピローグに至るまでのほとんどすべてで、環境が大きく変わっても新海がやろうとしていること自体はそれほど大きくは変わっていないんじゃないか、という思いだ。これまでの新海作品を簡単に振り返ってみると分かりやすい。

 前作『言の葉の庭』で27歳の雪野先生という新しいヒロインを用意しつつも、10代の男の子を主人公に据えるという流れは『言の葉の庭』や『秒速』や『雲の向こう、約束の場所』でも珍しくはない。瀧と三葉という同世代のダブル主人公という形も、『ほしのこえ』や『雲の向こう』を経験してきた新海ファンにはおなじみのことだ。そしてその二作同様、二人の距離は離れたものとして描かれる。『ほしのこえ』ではただただ遠ざかっていく距離に抗うことはできず、それでも思いを乗せたメッセージは届かせようとする切ない気持ちを表現していて、対して『雲の向こう』ではいったん距離に対してあきらめを示しながらも再び接近していく少年の感情をビビッドに表現していた。

 『君の名は。』の二人にもはっきりとした距離がある。三葉は飛騨地方の糸守という小さな小さな町に住む高校生で、瀧は東京の四谷のマンションに住んでいる高校生だ。三葉の描写が具体的で分かりやすいが、まだ10代で一人暮らしをしていないともなると、必然と行動範囲は狭くなる。家か学校かその周辺か、そしてさらに小さな町ゆえにどこに行っても知っている人がいる、という環境。「東京のイケメンに生まれ変わりたい」と叫ぶ三葉の言葉は、閉塞感という言葉を当てはめてもいいかもしれない。その閉塞感に目を向けているかどうかは分からないが、現町長でもある三葉の父親とは対象に映る。テッシーと呼ばれている勅使河原という男子も同様で、土建屋の父親という、地元にしっかりとした足場があるからこそ地元からは逃れられない。あとはその環境に、一定の満足をするか(勅使河原)やはり不満をぶちまけるか(三葉)、といったアプローチの違いがあるくらいだろう。

 もっとも、現実には行動範囲の狭い三葉にできることはそれほど多くない。「夢の中」での瀧くんとの入れ替わりで東京生活を体験することはできるが、夢は現実ではないから永続しない。果てしない遠くからこちらにやってくる新しい彗星の比喩は、まあそれは単なる比喩ではないのだけれど、たどりついたら何かが変わってしまうという現実へのインパクトを内包している。急接近する彗星の美麗さに人は見とれるが、それがあまりにも大きすぎる凶器にもなってしまうことまでの目配せは容易に持ち得ない。

 この映画では距離だけではなく時間のトリックを使うことで彗星に立ち向かおうとする。二人の力で彗星を阻止しようとかいうセカイ系的な発想ではなくて、もっと現実的に彗星に立ち向かおうとするのが面白い。もちろん、そこには超現実的な、神話的な力なくしては成り立たないので、その意味ではこの映画の、特に後半部分はSFでありファンタジーだ。こんなことなどありえない、というべきだろう。それでも、たとえば三葉が古典の授業で学ぶ万葉の和歌がヒントになったり、三葉自身が宮水という神職の血を受け継いでいることなどの設定があるからこそ、神話的な力に現実的な可能性が宿る。もちろん繰り返すように現実ではありえないけれども、『君の名は。』の世界では起こりえてもいい。そうした小さなリアリティが、三葉と瀧、そしてテッシーやサヤちん、あるいは奥寺先輩や司たちを巻き込んだ作戦の成功を予感させると言ってもいい。

 この三葉たち糸守サイドの行動力も面白くて、三葉、テッシー、サヤちんがそれぞれの得意分野を生かしてこそ小さな町で(そして小さな町だからこそ)威力を発揮していく様は痛快だろう。「おれたち犯罪者だな」とつぶやくテッシーの不思議な高揚感は、三葉やサヤちんにも共有されているだろう。そして瀧たち東京サイドのキャラクターは電車という普段乗り慣れた移動手段で飛騨地方を訪れ、ラーメン屋の店主と偶然出会うことで糸守へのアクセスを獲得する。

 このように、歩くか自転車か原付かといった自力の手段で行動する糸守サイドと、電車と車を乗り継いで現地に近いところまでアクセスできる東京サイドでは後者の金銭的な優位さ(バイトをしているとはいえ学生がふらっと新幹線に乗れるだけの資金を持っているのは素朴にすごい)といった対照性も観察できたりするけれど、東京サイドの、とりわけ瀧の行きたい、近づきたいという感情が原動力になっていることは新海誠らしい主人公像だと改めて思う。『秒速』第一章で明里と岩舟で再会した貴樹は彼女を守る力が欲しいとつぶやくが、瀧の場合にも同じ感情が宿っていたことだろう。そして当時の貴樹と違い、瀧には守ることができる力を持ち得ているのだ。もちろん、これは同様に三葉にも、だ。

 力があったところでそれをうまく使えなければ目的は達成されない。OPで走るアニメはいいアニメ、なんていう文句があったりするが、この映画では後半になるほどよく走る。三葉も瀧も、ほんとうにこの二人はよく走る。走っている間に壮大にこけてしまう三葉を見ると痛々しいが、こけたからこそ掌に目を向けることもようやくできるのだ。彗星が落っこちてしまうその前に、瀧だけが知っている悲しい結末が訪れる前になんとかしたい。誰かを守りたいという力は、まずその思いの強さがあってこそなのではなかったか。あの日の遠野貴樹に問うてみるのはやや酷かもしれないが。

 ねりまさんは「フィクションが距離を突破する」というブログ記事の中で時間の流れだとか運命だとかそんなものを軽々と超え、私たちがこれまでに歩んできた道のりのなかに埋もれていた大切な何かが輝きだす。そのような瞬間の可能性が含みこまれるこの世界だから、僕らはたぶん、生きてゆけると触れているが、今回新海が試みたことは非常に多彩になってはいるけれども根本的な部分ではかなりシンプルに寄っているんだな、という感覚は確かにある。そしてそれはいままで新海が試みてきたことの延長にあって、「埋もれていた大切な何か」を探し求めるのはおなじみだろうし、「瞬間の可能性」に賭けたくなる気持ちは『秒速』や『言の葉の庭』を見てきた視聴者にとってはやはりおなじみだろう。新海作品が見せてくれる希望や期待は、ビビッドな感情をいかに魅力的に、かつリアルに切り取るかによって達成しうる。三葉も瀧も、重要なところではもうこれ以上ないくらにまっすぐに無邪気に走る。そんなやりとりしている場合かーというようなシーンも、二人にとっては必死にもがいてきたからこそなのだ。それが悪いだなんて、誰も言わない。

 まとめると、確かに新しい新海誠はいっぱいあっておなじみのファンには驚くところも多いだろうが、本編における重要なポイントはいままでの新海ファンにもなじみのある要素が多々ある、というところだ。東京サイドの瀧くんの行動範囲が三葉に比べると広いようでなんだかんだ新宿区内(代々木、新宿、四谷周辺)におさまっているところも、にやにやしてたまらないところだろう。そしてそこには「バスタ新宿」の存在する2016年の新宿の風景がきっちり収まっている。アニメーションでありながら現実の風景を記録することができるのも、新海誠のこれまで試みてきた方法の成せる業だろう。それも含め、2007年でも2013年でもなく、2016年の新宿をとらえた『君の名は。』を見てほしい。2016年の千駄ヶ谷にもはや雪野先生はいない。それでも瀧くんがいて、奥寺先輩がいて、司がいる、2016年にしかない、きらめいた街の姿を。それは「いまはもうない」(by 瀧)風景が積み上がってできた、いまにしかない風景であるはずだ。

 それにしても、エピローグにおける『秒速』と『言の葉の庭』を合体させたようなシークエンスは古参ファンを泣かせすぎでしょ! そして『Angel Beats!』最終回のラストシーンを思い出しました。
 

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 「大きなものにどう立ち向かうか」ということや、今回はあまり触れなかったが分かりやすく3.11後の世界観を書いたなあという思いがあった。もう一つ、モチーフになっている(これもあまり触れていないが)忘れてしまうこと、ということに対しての向き合い方をとらえるならばやはり『その街の子ども』がいい。まあ、向き合うのは全てが終わったあとなので『君の名は。』とはアプローチが全然違うんだけど、故郷を失って東京に出てきた彼女がいつか元いた場所を振り返らないとも限らないよな、とは思う。

その街のこども 劇場版 [DVD]
森山未來
トランスフォーマー
2011-06-03


関連記事:その街のこども ―実感としての1995年 【2010/2011年,日本】

 あと、以前tumblrで「新海誠と新宿」という短いエッセイ的なものを書いているのでこちらも。『言の葉の庭』公開前夜に予告編を見ながら軽く新宿という舞台をとらえてみた的な感じです。
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