見:ホール・ソレイユ

 まずこの映画が実話に基づいているのも驚きだし、古い話ではなくて2000年代後半に実際に起きた話に基づく、というのが驚きだった。街からは隔絶された村に自動車はほとんど見られず、人々は馬車で移動している。生活も質素で、大卒の教師はいるが教育を受けるのは主に少年たちであり、文字を読めない成人女性も多い。100年、いや第二次大戦後の間もないころもあれば経済成長はまだ経験してないだろうから、と思って見ていたのでこの20年以内の出来事がベースになっているのはやはり驚きである。もちろんこの驚きは自分自身が先進国に住む人間であり、この映画の登場人物たちの持っている生活のリアリティに対する想像力を欠いていたからに他ならない。

 映画自体は本当にシンプルであり、タイトル通り村の女性たちが喋り続ける映画である。性暴力を受けた女性たちが村の男性が不在の間に投票をし、議論を行うというのが物語の筋なのだが、女性たち全員を議論の場に招待することは現実的ではない。そのため、いくつかの家族をピックアップして、議論が展開されていく。選挙で選ばれたわけではないが、言わば急ごしらえの議会ができるような形だ。そのため、この映画で行われるのは小さいけれども徹底された(代議制の)熟議民主主義の形と言えるかもしれない。

 代議制民主主義において重要なのは、まず人々に委任された意思を代表(representetion)することであり、そして少数の意見を無視しないことだと言えるだろう。議論はまず自分たちの被害を語るところから始まり、その途中で涙を流す女性もいる。同時に、その女性を抱き締める女性がいる。急がなければならないが、安易に結論を出すのではなくて一体感を確認するその作業は一人一人の傷を癒すセラピーの効果も持っているなと感じた。

 もっとも、みんなの前で被害を語るというデブリーフィング的な作業にはトラウマを呼び起こし、さらに傷を深くするリスクもある。けれども、一人一人が密室の中で何を経験したかを語ることなしで、女性たちが「わたしたちの意思」を決定することはできなかったのだろうと思いながら映画を見ていた。

 「わたしたち」に含まれない2人の男性の存在もこの映画に違った価値を与えている。書記を務める大卒教師のオーガストと、言葉を失ったトランスジェンダー男性として登場するメルヴィンの存在だ。オーガストは映画の中で唯一名前を与えられた成人のシスジェンダー男性として登場しており、彼の役割は特徴的でもあり異質である。女性の集団の中で唯一存在することを許された男性でもある、という立場を越えることはしない。それでも、教師という自分自身の役割を信じている。

 他方でメルヴィンは語るべき言葉を失った状態で、子どもたちと戯れる。それは必要な自己防衛であり、回復の過程にいることを示している。時には激しく感情を暴露しながら語る女たちが画面に映される中で、必ずしも語ることだけが回復の過程ではない、語れない被害者だって確かに存在するんだとその目で訴えるメルヴィンの存在は、語らない(語れない)がゆえに際立っている。

 代議制民主主義の一つの問題は明確に意思表示しない人の存在(投票に行かない、世論調査やデモに参加しない、など)を見落としがちなところだが、意思表示しない(できない)人の存在も含めてすべての人にとって何が良い選択なのかを構想することが果たして可能か。可能ではないなら、次善の策は何なのか。この映画は、「みんな」にとって何が良いのかを目指す熟議民主主義の一つの理想形に応えようとした映画とも言えるかもしれない。

 ルーニー・マーラ演じる理知的なオーラが議論をリードする場面が目立つ中、終始感情的な役割を与えられたサロメが最後に出した選択も同時に尊重されていてほしい。「みんな」が同時に納得することはない。それでも、「みんな」で決めた方向へ向かう。「みんなで決めること」の力強さを感じさせながら、映画は夜明けに向かっていく。






熟議民主主義の困難
田村哲樹
ナカニシヤ出版
2017-05-15


熟議の理由―民主主義の政治理論
田村 哲樹
勁草書房
2008-03-25