音楽やってて後悔なんてしたことない ――『さよならくちびる』(2019年)ケアの社会化の困難さと可能性について、一人の支援者目線から考えたこと

2019年07月20日

雲のむこうへ捧げる祈りと願い、あるいはジュブナイル映画としての新海誠 ――『天気の子』(2019年)



見:イオンシネマ高松東

 東京は長い間雨が降り続いていて、気温も例年にないほど低いらしい。こちらでも梅雨がそろそろ明けてしまうその直前に、公開初日を迎えた。雨の中映画館へ足を運び、再び雨の中映画館を後にする。確かに『言の葉の庭』も梅雨時に見る映画として非常に魅力的だった。ただ、その時とはまた異なるインパクトを、それもまあなんとも馬鹿でかいインパクトを今回与えてくれる。これが2019年に出した新海誠の答えであり、舞台が2021年(令和3年という表記が度々現れたため)ということはアフター2020を見据えた、次の10年間のためのアニメーション映画だということがよく分かる。

 さて、予告編や『君の名は。』の地上波放映時にも何度か印象的な光景を残していたが、この映画はまず少女の祈りから始まっていく。陽菜の祈り、彼女の願い。「世界の形を変える」のは、彼女の心の動きに対して「天気が連動してしまった」というのが、本作のヒロイン陽菜と主人公帆高の仮説である。この構造を見て思い出したのは、2004年に発表した2作目『雲むこう、約束の場所』だった。雲のむこうにヒロインが眠りながら待っていることを信じ、主人公(浩樹)は彼女を探し出しにいく。『天気の子』の終盤の展開は、この時の『雲のむこう』のまごうことなき変奏である。

 もう一つの側面としては、根本的に陽菜が祈りを捧げた理由だ。冒頭、彼女の母親は病状に伏している。その母親に晴れ間を見せたいと思い、代々木の廃ビル屋上の鳥居をくぐった後、彼女は祈る。これが「100%の晴れ女」の誕生の瞬間であり、結果的に彼女は母親を亡くしたことを後に帆高に打ち明ける。死者への祈りが晴れを誘う祈りへと変容し、数々の奇跡を引き起こす一方で陽菜は代償にも気づいていた。だが彼女は自分を犠牲にし続ける。

 自分自身を犠牲にして誰かの願いを叶えたり、誰かを救ったりすることは一面的には美しい。ただ、その美しさは周りが生み出したエゴでもある。誰かを助けるという正しさは、自分を犠牲にしてまで行うことなのだろうか? 必然、陽菜が巫女的な存在に見えてしまうのは『君の名は。』のあとに作られた映画だからだろう。

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 視点を帆高に変えてみよう。『雲のむこう』然り、『君の名は。』然り、ヒロインと彼女の生きる世界を救うのは、いつだって少年の勇気と無謀さだった。今回はその勇気と無謀さが大人たちの現実と対峙する。ここまで派手な形で展開するとは思わなかったが、これも『君の名は。』の終盤で突き抜けたように、派手なエンタメになったとしても新海らしさが失われないのなら突き進んでもいいと思えたのだろう。

 何より、非常にオーソドックスなジュブナイルである。どこかの小さな島で生きることに希望を見いだせなかった少年が、サリンジャーを片手にひとり東京へ飛び出す。『雲のむこう』がそうであったように、これは上京の物語なのである。そこで突き当たる現実や、逆に都会でしか触れられない優しさを知り、少年が成長していく。大人ともぶつかる。恋をする。自分がなすべきことは何か、必死で考える。紛れもない、ビルドゥングスロマンである。

 こうした展開を完全なファンタジーではなくて、現代の一都市を舞台として展開しているところに、個人的には新城カズマの『サマー/タイム/トラベラー』を思い出した。SF的な能力を使えるヒロインや魅力的な妖しさを持つ年上の女性と過ごす夏のひとときが少年を成長させるということ。そして、「未来で待っているヒロイン」に手を伸ばそうとすること。ここにもまた、帆高側から見た祈りと願いがある。

 祈りが届くならば、確かに世界は変わる。変わってしまう。『雲のむこう』と『君の名は。』はそういうカタルシスを感動的に受け止める映画だったと解釈している。でも今回は少し異なる。戸惑いがあるからだ。


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 この戸惑いに、『君の名は。』とは異なる形でこれまでの新海誠のフィルモグラフィの集大成が表れているように思えた。NHKのインタビューで前作が多くの目にさらされたことによって批判も多く受けたことへの戸惑いを新海は語っていたが、それを超えてあえて批判を巻き込むような作品を作ると公言していた。

 つまり新海は、前作がヒットしたからといって日和ることはしなかった。かといって東宝の夏休み映画にふさわしい大作を再び届けたい。ある意味、帆高や陽菜が終盤に抱えていた戸惑い(世界の形を変えてしまった自責と、再び世界を変えていいのかという自問)は、作品の中にどのように思いや考えを自己表現すればいいのか?という新海自身の戸惑いとダブる。そして三者三様、それぞれの形で答えを出すのだ。「すべてを肯定する」という答えを。

 具体的に言うならば、「ありのままの現実を受け入れる」ということだ。それはある面では喜劇かもしれないが、別の面では悲劇かもしれない。万人の望んだ結果ではないだろう。それでも、現実を受け止めるところからしか何も出発できないのでは?という問いへの答えである。ここに新海は神秘性と歴史性を導入する。神話、伝説、物語、あるいは老人だからこそ知っているかつての東京や江戸の形。

 もちろんこれはフィクションの世界の物語だ。そういう留保は必要だ。けれど新海は、一貫して現実とダブらせるかのようなフィクションを背景と物語の両面で表現してきた。これまでいないくらい、現実とフィクションのダブりに、自覚的だ。だからこそ、梅雨が終わってしまう直前のこの瞬間に、立ち会って欲しい。

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 余談として。

 そして京都で起きた悲劇的な惨事を「受け止める」ためにも、この映画は見られてよいのではないだろうか。少なくとも私は、あの惨劇による悲しみから、この映画によって少しだけ和らげられた一人だ。(※そうする「べきだ」とは主張しない。そうしてしまうと、現実とフィクションを絶対的に結びつけることになるからだ。あくまで限りなくダブらせるとしても、映画はフィクションの範疇を超えない)

 「愛にできること」は現実世界にもたくさんある。私たちは悼み、祈り、願うことができる。いまはそれくらいしかできないかもしれない。でもやがてできることは他にある。いまはただただ多くの失われた命のためにい、祈りを捧げたい。Pray For.

 もう少し余談をすると、本作は『雲のむこう』+『言の葉の庭』に『秒速』と『星を追うこども』と『君の名は。』をトッピングしたようなもので、同じ今年の夏映画である『海の幽霊』をも(ジュブナイルと水が印象なSFとして)彷彿とさせた。ネットを見ているとそれぞれの人の中によぎる作品があるらしい。新海誠の集大成は、日本のオタクコンテンツの集大成でもあるのかもしれない。刮目してほしい。





サマー/タイム/トラベラー1
新城カズマ
早川書房
2013-11-15



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