見:イオンシネマ高松東

 スピルバーグの自伝的映画と聞いたため、私小説なものなのだろうかと予想しながら見ていた。まず面白いのはタイトルがフェイブルマン”ズ”である、つまり複数形になっていることだ。主人公であるサミー・フェイブルマンの若き日々を描くのがこの映画の筋だが、彼がまだ子どもであるがゆえに(最後の場面ですら、大学生年代に相当する若者だ)完全な自由と自律を持たない。単純に言えば、親の管理の下で、コントロール可能な範囲で生きていくことしかできない少年だ。

 コントロール可能な範囲というのは、例えば手持ちの撮影機材や友人たちと協力して自主映画を撮影すること。コントロールできないことは、両親それぞれの選択であったり、移住したカリフォルニアでの高校生活などだ。元々住んでいたアリゾナからカリフォルニアは遠すぎる距離ではないため、一家は車に家財道具を積んで引っ越しを行う。しかし逆にサミーにとっては、かつて過ごした広大な土地(自主映画撮影にも荒野!)を後ろにしていく寂しさが募る演出になっているように見えた。

 新たに住んだ土地での高校生活も、期待していたものとは違っていた。名前をいじられるところから始まり、ユダヤ人であるというだけでいじめの対象になる。実際に経験したいじめよりは表現が和らいでいるという説もあるが(確かにいじめだけで映画を割くわけにもいかない)、いずれにしても引っ越しが彼にもたらしたものは孤立だったと言ってよい。少し、いやだいぶ変わった女の子とは親密になり、撮影を一緒に手伝ってくれるようにはなるものの。

 話を戻すと、この映画はフェイブルマン”ズ”なのである。妹たちの存在はフェイブルマンが成長するに従って後景に退くものの、親二人に振り回されるサミーは、そうであるがゆえに自分で自分の世界を作れる映画の撮影に没頭してゆくのだが、大人たちの生きざまは結果的にエゴイズムを植え付けているのでは? と感じながら見ていた。お前らが好きに生きるなら俺も好きに生きるぞ、的なマインドを。

 もう一つナラティブというワードをタイトルに並べたが、これは両親の振る舞いを見ていた感じたことだ。父も母も、自分の人生を生きることに忙しい。子どもの人生がどうでもいいというわけではないが、父と母の語るナラティブはしばしば重ならず、対立もする。自分で自分の人生を設計し、貫くというエゴイズムがベースにあるナラティブは、フィクションの映画として見る分には楽しいけれど、いい歳した大人二人が自由に生きるのは・・・という子ども目線の複雑な感情を丁寧に掬い上げていたなとは感じた。

 つまるところ、子どもは親を選べないし、住む場所も選べない。多くの場合がそうである。それでも、所与の環境でもがきながらやりたいことを貫くことはできるし、あきらめないほうが良い。あきらめの悪さが実を結ぶかどうかはわからないが、それができることは10代や20代の特権かもしれないな、と思いながら見ていた2時間半だった。青春は苦いが、青春期だからこその魅力もあるということがよく分かる2時間半でもあった。