Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

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見:イオンシネマ綾川

 前にテレビシリーズを見たのがちょうど社会人1年目の時で、社会人5年目の視点から改めて振り返る的なエントリーを書いた。



 2クール目もやる予定だったがとん挫しているのは怠惰ということにしてほしい。今回劇場版を見て、「4年後の自信と覚悟、そして悪あがき」というタイトルをこのエントリーには打ってあるが、裏テーマとしては「社会人6年目になったと思われる宮森あおいたちの奮闘を社会人6年目になったバーニングさんの視点で振り返る」というものだ。あおいは短大卒業後にストレートでムサニに就職して(1クール目)おり、季節が一巡して社会人2年目の冬になったころに物語は終わる。なので劇場版でたびたび口に出される4年後、つまり社会人6年目だとしてもおそらく26歳くらいだろう。最近30歳になった自分とは年齢的に距離があるものの、1年目の時の6年目の時との違いを多々表現しているなと思われた。

 上記のエントリーでは「キャリアの浅さから生まれる悩みや挫折」とタイトルに振ってあるが、これを踏まえると今回は「キャリアを積んだ先にあるつらさと責任感」とでも言い換えられるかもしれない。逆に、これがあるからこそ「自信と覚悟、そして悪あがき」につながっていく。なぜかというと、人は悩みや挫折がなければ、それを乗り越えた経験がなければ簡単にはステップアップしていかないからだ。

 たとえば役割、あるいはポジション。テレビシリーズ終了後の世界線で起きた「タイマス事変」を経て、丸川社長が引責辞任するなどムサニのメンバーは散り散りになる。宮森とともに働いていた制作メンバーも何人かは会社を去り、ナベPは丸川の後を継いで社長(ナベ長)になり、宮森はそのナベPが担っていたラインプロデューサーの役割を、元請けの新作劇場版で担うこととなる、のが今回のあらすじだ。つまり、キャリアと責任が増えた宮森が、「劇場アニメを制作する」劇場版が本作である。
 
 特にアニメ制作の現場は限られた期間、予算、人員という、状況をハードにする要素があちこにち満ちている。これを「回す」ことが制作に求められるわけだけど、なかなか絵コンテを描かない監督に代表されるように、アニメ制作そのものは容易には進んでいかない。テレビシリーズ11話で矢野パイセンが言う「トライ&エラーって言うけど日々トライ&トラブル」が改めて思い起こされる。これを、1年目や2年目の制作の立場で迎えるのと、一種のマネジメント職であるラインPの立場で迎えるのとはまた異なる。仕事への向き合い方も、外部や内部のメンバーとの向き合い方も。そして、自分が何をしたいのかという、根本的な問いへの向き合い方も。

 一番面白いなと思ったのは、あの5人もそれぞれ4年の時間を経過しているから、彼女たちは同じ制服を着て、東北の某高校で過ごした時代からはかなり遠く離れてきていることだ。遠く離れるということは、次第に変わっていく自分たちの関係性であったり、あるいは自分のポジションにも向き合わなければならない。

 宮森がPになったのはもちろん、りーちゃんは脚本家(?)としてなぜか田中真紀子のフォームをマネながら脚本家(?)として重要なアシストを果たすし、絵麻は作監として作品や宮森と向き合う。もう「同級生」でもないし「部員」でもないし「先輩後輩」でもない。過去には戻れない。けれども彼女たちはそれをそのままに受け止めていて、いまをいまとして生きようとしている。これって結構、簡単じゃないよね?って思うのだ。特に、いまだに過去にとらわれている木下誠一が対照的であるがゆえに。

 翻って自分を見つめると、自分も社会人6年目になって、同じく6年目の宮森たちをすごくまぶしく思いながら見ていた。けれども5年前とは違って、自分の立場をそれはそれとして受け止められるようになったかなと思う。何もなかったころから、一応何かはあるいまへ至るまでの期間は楽ではなかったけれど、たどりついたいまをまんざらではないなと思っているから。

 きっとこれからも繰り返し見返していくのだろう。社会人10年目、15年目、20年目の自分にはどう映るのだろうか。あるいは、宮森あおいの10年目や20年目が描かれたりするのだろうか。物語はきっとまだまだ続くと、思ってもよいよね、って変わらずに期待させてくれるのは楽しい。宮森あおいはきっとこれからも悪あがきをあきらめないはずだから。
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見:ソレイユ・2
 一昨年に見た『四月の永い夢』もそうだった。現代の東京と、東京から少し離れたところにある(でも、遠すぎはしない)地方の町を往復しながら描き出す群像のリアリティには秀逸なものがある。若い世代を描きながら、東京でも地元(地方)でもその周囲を描くことで古いタイプの日本映画的魅力も同時に持たせているなと感じられるのだ。



 前回が朝倉あき、今回が松本穂香という、地味すぎず派手すぎない、やわらかさと強さを持った女優を据えてくるあたりの面白さがあると思ったけれど、今回はさらに光石研を筆頭に周囲を固めるプレイヤーが冴えている。特に光石研がいい。飲んだくれ、嗚咽したり急に小便をしたりとどうしようもない
姿を見せながらも、葛飾区の下町にある古い銭湯を一人で守り続ける。かたくなに。

 松本穂香演じる澪は、彼女の東京での受け入れ人兼下宿先になった光石研演じる三沢を理解し、銭湯の仕事を覚えるところから始まっていく。その前に少し小さなつまづきや出会いもあったが、多くの人間がそうであるように、上京物語はそう単純には進んでいかない。けれども、小さな出会いは少しずつ力をくれる。

 他方で地元の仲間や支えてくれた人たちの存在。祖母の残してくれた「わたしは光をにぎっている」というフレーズと詩集。澪は少しずつゆるやかに、あてどないかもしれないけれど、自分の日常を立ち上げていく。その先に東京での生活が続いていくことを信じて、彼女は生きていこうとする。

 『四月の永い夢』のように、過去の恋愛が絡んでくることもなければ、それに向かって物語がまっすぐ進んでいくわけではない。むしろ物語の筋が見え始めるのは、もう残り30分か40分かしたころになってからだ。どうやって進めていってどうやって終わらせるんだろうと思っていたけれど、『四月の永い夢』とも重なるのは、誰かの死と何かの終わりであって、では澪の場合はそれらに対してどのように向き合っていくのか、といったことだと感じた。

 澪の向き合い方も気になるが、それ以上にやはり一人ずっと銭湯を守ってきた三沢の心情も気になる。これが前作にはなかった魅力だろうと思った。光石研が役にあまりにもなじみすぎていて、こういうおっちゃんいるよな、というくらいの役になっているのがすごくいい。そしてそれに呼応するようにして、澪が自分の気持ちを表に出し始めるところもやはりいいなと思った。彼女はひとりで生きない方がいい。周囲に誰かがいて、ようやく澪は澪らしく生きていけるのだろう。そしてこう気づかされる。三沢の場合も、もしかしたらそうだったのかもしれないと。
 
 展開がゆるやかで澪のキャラクターもふわふわしているので、正直つかみどころが微妙な映画ではあった。だが『四月の永い夢』から『わたしは光をにぎっている』はまっすぐ一本につながっている。どちらもまっすぐ地に足をつけて、現実をちゃんと見て、そしてちゃんと前を向いて生きていく、そういう物語だ。
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見:ホール・ソレイユ

 ソレイユにしては珍しく4週目になっても上映が続いており(パンフレットが完売するほどには人が入っているのだろう)タイミングがとれたので見に行ってきた。音楽をモチーフにした映画は劇場で見るに限ると思っているが、実際に見に行ったのは単純に正解だと思う。

 映画の中ではビートルズの楽曲が膨大に使われているので(同時にビートルズ以外のUKの音楽が使われているのもよい)それだけでライブ感があって楽しい。さらに展開が進むごとにビジュアルを全面に押し出してくるのも面白かった。ソーシャルメディアを利用したマーケティング、ファンとのコミュニケーションなど、ビートルズというある種オールドなアイコンに対して現代的な立場から見つめ直すのは新鮮な試みだったように思う。

 12秒間の前世界的な停電と自転車事故を経て、アマチュアミュージシャンのジャックは自分以外の誰もがビートルズを知らない世界にやってきてしまう。一種の平行世界ものであり、ビートルズもいなければコカ・コーラ社もない(なのでひたすらペプシコーラを飲んでいる)し、シガレットという概念もない、不思議な世界。だがこれまでの友人や、幼馴染でジャックのマネージャー兼運転手で、本作のヒロイン役でもあるエル(エリー)との関係は続いている。そんな中でジャックが思いつくのは、彼の歌と演奏でビートルズを「全世界的に布教」することだった。

 ビーチで友人たちに披露した「イエスタデイ」や、両親に自宅で披露した「レット・イット・ビー」など、多種多様なビートルズソングが使われている。それを最初は弾き語りとして演奏していたジャックも、彼の作った自主制作CDが話題になるにつれ、少しずつミュージシャンっぽくなっていく。身なりをそれらしくしたり、パフォーマンスを磨いたり。そして、エルとは距離を置いたりして。

 そういうわけで後半はジャックがスターダムにいかにのし上がっていくかより、いったいエルとの関係はどのような形で着陸するかばかりを気にしていた。分岐点はいくつかあったが、そのどの分岐点においてもジャックはあいまいな態度というか、なよっとした態度でしかエルに気持ちを示せない。これはおそらく、夢を追いたいという自分の欲求と、エルへの愛情との間でうまくバランスがとれなかったからだろうなと感じたが、いずれにしてもなよなよしてるジャックと、気持ちをはっきり言ってくれずにイライラしているエルが非常に対照的に映る。だからこそエルはジャックを一度大きく突き放す。「あなたは私とは違う」と。

 夢を追うか、愛する人を選択するか。あるいはいずれもか。こういうことを考えていると、これは一種の『ラ・ラ・ランド』の変奏だなと思った。もちろん『ラ・ラ・ランド』と同じような結末には向かっていかない。『イエスタデイ』はどちらかというと、視聴者が知っているもの(ビートルズがかつて存在したこと)と、映画の中の多くの人たちが知らないこと(ビートルズの存在)とのズレを楽しむものであり、ジャックだけが知っている真実はいつ、どのような形で映画の中の観客に告げられるのかを楽しむ映画だった。つまり、ある程度結末は見越した上で楽しむものだと言ってよい。

 でも、ジャックとエルとの関係は違う。これは結末ありきの形ではなく、いくらでも結末を分岐させることが可能だったはずだ。それでもこの結末に至ったのは、脚本が『ラブ・アクチュアリー』のリチャード・カーティスだったかもしれないし、愛情は簡単には失われないという表明だったのかもしれない。

 いずれにせよ、エル役のリリー・ジェームズは最後まで可憐で美しく、魅力的な存在だった。そういう存在を演じ続けた。それがこの映画にとって、素晴らしい音楽の要素とは別の、幸福な形だったと思う。

イエスタデイ(オリジナル・サウンドトラック)
ヒメーシュ・パテル
ユニバーサル ミュージック
2019-10-02




ラ・ラ・ランド(字幕版)
ライアン・ゴズリング
2017-05-26

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見:アマゾンプライムビデオ

 先日『ラストレター』でアラフィフとなった中山美穂と豊川悦司のコンビを見て、これはちゃんと『Love Letter』を見ておかないとな、と思ったのが本作を見た動機。そして率直に、これはなるほど『ラストレター』が完全にセルフ二次創作だと感じた。前述したように俳優もダブってるいる(ダブらせている)のはセルフオマージュに他ならないし、いずれの作品でも10代と現在の日々が往復するように映画に投影される。

 つまり、映画を通して現在を生きるキャラクターたちにとっては一つの追想、あるいは追憶であり、『ラストレター』がどちらかというと老いることへの向き合い方や、中年と10代のきらめきの違いのようなリアリズムに目を向けたものであったとすると、『Love Letter』はかなりロマンチシズムに寄っているな、と感じた。

 でもどちらかというと「気持ち悪いな」と感じるのはかつての思いを断ち切れずに40代になって東京から仙台へと巡礼を始める乙坂(福山雅治)を描いた『ラストレター』であって、自身の思いを断つために神戸から小樽へ向かう博子(中山美穂)を描いた『Love Letter』はむしろ心地良さがある。それは、乙坂だけが過去にずっと生きている存在だったからだろう。松たか子演じる裕里はかつてのように姉になりすます快感を覚えながらも、現実から逃げているわけではない(夫とうまくいかないという現実はあるとしても)。乙坂だけが、ただただ過去に生きている。過去にとらわれたまま生きている。その乙坂を過去から解放して現実に引き留めるのは、とても正しい行為だった。

 他方で『Love Letter』の博子は、亡くなった婚約者に送った手紙がなぜか届いたことによって、その婚約者と同名の誰かと文通を始めることになる。ここでの博子も確かに過去に生きているように見えるが、彼女の場合乙坂とは違い、愛した人の死を知っている。知ってはいるがすぐに受け入れられない、いわば受容拒否のような状況にあると言える。人間はショックな出来事をストレートに受け止めてしまうとたびたび壊れてしまうため、防衛機制のような形で様々な心の動きが起きる。博子の場合も、病的なほどではないが、いずれ受け入れていくための一時的な拒否的状況がこの映画のスタートラインだったのだろうと感じた。

 だからこそ、「お元気ですか?」と冬の雪山に向かって叫ぶ博子が印象的に見えるかもしれない。亡くなった人に対して「お元気ですか?」と問いかけるのは非現実的ではある。だがこの映画ならではの設定によってこの言葉が別の誰かに対して特別な響きを持つ。同時に、この時点で笑顔で雪山に叫ぶ博子の姿は、死の受容を拒否していたころとは全く違う。

 すべてを知った乙坂が幸福だったと言うのは難しいだろう。だが、映画が終わるときの博子は、この映画の中でもっとも幸福そうな姿を見せてくれる。彼女にとっては、彼女なりのやり方で死を受け入れ、かつて生きていた婚約者の記憶をも受け入れること(まさに「あなたの思い出を分けてください」である)が、いわば幸福な追想の形を目指すことこそが必要だったのだろう。そしてそれが達成されたから、すべてを受け入れた上で、彼女は叫ぶ。誰もいない方に向かって、全身で、大きな声で。


Love Letter
中山美穂
2014-08-27

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 そっかーこういう風に映画を作ってくるのだなと素朴に感じた。岩井俊二のいいファンではないので、『打ち上げ花火』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』くらいしかまともに見ていない(『花とアリス』は一部だけ)ので、中山美穂の『Love Letter』や松たか子の『四月物語』と比べて今作はどうなのか、といった批評的な文章は書けない。

 ただ、その二作はいずれも90年代のもので、そこから20年以上経た中山美穂と松たか子が舞い戻ってくるというのは、二人の存在を知っている者からすれば不思議な感慨がある。平成生まれの自分がそうなのだから、自分よりもっと年上の、それこそ同世代であるアラフォーやアラフィフの世代からすると特別な感慨があるだろう。この二人と対比させるように広瀬すずと森七菜を配置するという試みと、福山雅治を徹底的に孤独な存在として演出するこのリアリティは、中年世代に対してより複雑な重みを持つだろうなと思いながら眺めていた。

 なぜ複雑な重みがあるかというと、これは一つはルート分岐をたどっていく筋書きだからだ。松たか子演じる裕里は亡くなった姉になりすまして小説家、乙坂との文通を楽しむ。乙坂もまた、裕里を姉である末咲だと思い込んで文通を交わす。もし、あの時に戻れたら。二人にはもちろんそれぞれの人生があって、過去に戻ることはないし、未咲が生き返ることはないし、はたまた裕里が庵野秀明演じる夫と別れることもないだろう。現実は変わらないし、過去も変わらない。それだけはあまりにも強固なはずなのに、強固な現実を忘れるかのようにして、つかの間便せんに筆を走らせる。

 この瞬間、新海誠の『秒速5センチメートル』を思い出さずにはいられない。遠野貴樹は篠原明里と遠距離になった結果、第一章から第二章までの間、手紙を送り続ける。第二章の貴樹は携帯電話(まだ白黒画面だったころのガラケー)を持っているが、メールで明里に言葉を届けることはしない。第三章では大人になってからできた恋人とメールを交わすが、「1センチも近づけない」まま関係は終わる。完全に終わってしまった明里との関係が復活することもなく、孤独な貴樹と婚約者を見つけた明里が対照的に長い間画面に映し出されていく。ところで未咲と裕里の苗字が遠野であるのは、少し意識しすぎかもしれない。



 いずれにせよ、「失われたルート分岐」には戻れない。人生にセーブポイントはないからだ。人生はどうしようもなく不可逆的に前にしか進んでいかない。別れた恋人は別れたままだし、亡くなった人は亡くなったままである。それでも人は「もし、あのときこうしていれば」といった反実仮想を止めることはない。『Love Letter』出演陣である豊川悦司と中山美穂がほんのわずかだけ登場するが、こうした反実仮想の無意味さ、非現実さをシリアスかつ当然なものとして二人は突きつける。『Love Letter』の時に20代だった二人も、とっくに中年になっているように。時間が経過すればするほど、過去に戻ることがいかに不可能なのかという現実を、二人は突きつけてくるのだ。

 だからこれはある意味ではバッドエンドかもしれない。期待だけ持っていた乙坂は悲しい現実に直面するだけだからである。未咲はもういない。ただ、美咲の娘と、裕里の娘が、この二人の存在があまりにもまぶしく映し出されていく。裕里や乙坂の視点からは悲しくてつらい現実にあふれているのが今かもしれないが、まだ子どもである二人の娘は、まさに等身大の今を生きている。大人である二人にとっては失われた追憶の時間かもしれないが、二人の娘にとってはかけがえのないいま、ここである。

 二人の娘を演じるのが広瀬すずと森七菜というのがあまりにも出来すぎたぜいたくなキャストであるが、二人の輝きが際立つのと対照的に、裕里と乙坂がいつまでも過去にとらわれているのは残酷だ。だから二人が夢から覚めるとしたら、未咲の死を受け入れ、自分たちには残された人生がまだあることと向き合うしかないのだろう。失われたものはもう戻ってこないが、大人たちにもまだ未来は残されているのだと。

ラストレター (文春文庫)
岩井 俊二
文藝春秋
2019-09-03



Love Letter
中山美穂
2014-08-27




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 一年ほど前からだったか、知人たち何人かでウェブで日記を書き続けている。毎日続けている人もいれば月に何回かという人もいるが、いずれにせよ継続しているのはすごいなということと、継続していることである期間のアウトプットであったり思考が文章に表れているのがよくわかる。読んだ本、見た映画、日常のこと、仕事のこと。いずれにしても、ツイッターにしろインスタグラムにしても多くはフローのメディアなので、ストックとして後から振り返るのにはあまり向かない。フローだからこそ瞬間的な「バズり」がパーソナルとしても商業的にも求められるというのは、確かに現在のメディア環境が生み出した帰結ではあるけれどもフローばかりというのはとても疲れるし、次第に飽きてきた。

 そんな中でストックのメディアを使うことには、かつてとはまた違う意味があるのかもしれないと思う。それも継続的に、である。この「Days」は最近ではすっかり映画か社会保障の話をするようなブログになっているが、もともとは日記を書くために2004年に始めたものだった。カテゴリ「days」はすべて日記として読めるようにしてあるが955もあるのはかつてそれだけネット上に蓄積を作ることや、日々を記録することにいそしんでいた表れだろう。

 ゼロ年代のインターネットは基本的にはストックとしてのブログや個人サイトと、フロートしてのチャットや掲示板が並列的に存在する世界だった。だから相互のメディアを行き来しながら、いまほど忙しくはないコミュニケーションをしていたように思う。もはや死語というか機能としてもなくなったが、「トラックバック」という仕組みはストックのメディアであるブログのエントリーを相互にリンクさせるという意味で、かつては重要な役割を果たしていたし、新しい世界への扉として機能していたように思う。

 2004年から開始したと書いたが、実際には2003年からドリコムの「マイプロフィール」というサービスを使って日記の公開は始めていた。もはやソシャゲ企業と化したドリコムにそんなサービスは残っていないが、ゼロ年代前半ははてなダイアリーや前略プロフィールが生まれた時代であって、個人サイトでhtmlでゴリゴリ書いていた日記やプロフィールを一つのサービスとして提供するという意図が「マイプロフィール」にはあったように思う。

 ライブドアブログに移ってきたのは当時絶好調だったホリエモンの影響は少なからずある。ちょうどココログで眞鍋かをりが「ブログの女王」として日々ブログを更新していた時代だが、個人として使いやすかったのがライブドアだったからこれにした、だったように思う。はてなダイアリーを使っている人が多かったけれど、多いから俺は違うのにしようというひねくれ意識も多少あった。そのはてなダイアリーも数年前にサービスを終了したし、本日正午にはヤプログも終了するという。

 先ほど書いたように一つのサービスとして展開されるということは、使い勝手がよくなる代わりにそのサービスがいつか終わる可能性を常に持っている。ブログの場合他サービスへの移行ができたりするが、すべてのサービスがそうはいかないだろう。幸いにもライブドアはいろいろあったあとにNAVERの傘下になり、LINEの傘下になり、そのLINEがZホールディングスと統合することによってソフトバンクグループの一員になったので、ライブドア自体が死ぬことはないだろう。だがいずれサービスの統廃合や終了はありうる。今年の5月にこのブログを書き続けて16年になるが、書き続けたきたことよりもサービスそのものが続いてきたことのほうが、よほど奇跡的に思えてならない。

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 やたら前置きが長くなったが、日記である。
 普段読んでいるのはひらりささん(note。月額500円)、早乙女ぐりこさん(note)、lop-norさん(blogspot)である。毎日読めないときもあるが、あとで振り返って読んでいるのでおそらく公開されたエントリーはすでに読んでいる。







 最近ぐりこさんと同じ早稲女同盟というサークルを組んでいた伏見ふしぎさん(note)も日記を始めていて楽しく読んでいる。物書きにかかわる仕事をしているようなのは以前から拝見していたので、きっとこれからも継続的に読んでいくのだろう。



 新興メディアのnoteよりは使い続けたライブドアに愛着があるしアーカイブも豊富にあるのでこれを使い続ける予定だが、普段いろいろなnoteを読んでいると自分語りに向いているメディアなんだろうなと思う。ソーシャルメディアとの連携もしやすいし、読者からの課金もできる。ビューや課金をもらうためには差異化する必要があるが、自分語りなら差異化しやすく、かつ最近だとフェミニズムやジェンダー論からの文脈で一般化、社会問題化することもできる。ある意味「個人的なことが政治的なこと」であるかのように、従来のブログメディアではなくnoteという新興のパーソナルなメディアを使って世に告発したり啓発するような文章は非常に多い。

 日記として書かれるnoteにはすぐさま政治的、社会的なトピックに発展することはない。だが、個人的な体験の記録である日記の中に、社会的な要素が皆無なわけもない。仙人や雲水でもない限り人は社会の中で生きている。だから極めて個人的なものとして書かれた文の中にも、書いた本人がたとえ意図していなくても個人的な話題が社会的なイシューへと発展する可能性もあるだろう。その是非はまた別の問題として。

 最初に書いたように日記やブログはストックのメディアだ。だがこれらがツイッターのようなフローのメディアにシェアリングされることによって、日記やブログそのものがフロー化していく。必然、またバズりのようなエントリーが増えることにもなるわけだけだしそれが2020年代的なのかもしれないけれど、先ほど挙げた自分が普段読んでいる日記はフロー化からは距離を置いているようにも思う。ストックのメディアをバズりを意識してフロー化させるのが現代的ならば、フロー化から距離をとるのもオルタナティブの現代的戦略だと言えるだろう。ひらりささんがツイッターを見る時間を減らしたいと時々ツイートしてが、これは一定の距離をとりたい気持ちの表れ(しかし容易ではないこと)と解釈している。

 俺自身もどちらかというとオルタナティブかもしれないが、そもそも16年続けてきたことを半分惰性で半分習い性で続けているだけなので、オールドタイプと表現する方が適切かもしれない。2020年代になってもゼロ年代の感覚を残存させながらウェブで文章を公開していくことが可能か。UIがどことなくnoteに似ているmediumというメディアで書評をアップし続けているが、これもやり方としてはさほど新しくはない。ただmediumがもともと「長いツイッター」として開発されたサービスであり、フローとストックの中間やハイライトなどによるリアクションができるようになっているのは個人的に好きなポイントだし、サービスの設計思想は現代的と言っていいかなと思う。

 長々と書いてきたが、そういうわけでできれば「days」カテゴリで日記を再開していきたいとぼんやり考えている。性格的に、あと勤務体系的に毎日の更新は難しいと思うので断続的にはなるだろうが、フローのメディアに慣れてしまうとあまりにも多くが右から左へ流れていってしまうので、いったん流れを切断したい気持ちはずっとあった。一種の懐古趣味かもしれないけれど、自分が再開することによって「2020年代のウェブで日記を書くことについて」考えを深められるかもしれない。

 タイトル回収を無事果たしたのでこのあたりで終わりたい。続けてきたものを終わらせたくはないし、他方で止まっていたものを再開させたい。先のことは分からないけれど、だからこそ。抽象的ではあるが、いま考えているのはこういうことである。
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見:横川シネマ


 映画を見たのは公認心理師現認者講習会を終えた初日で、広島にいる間に一度横川シネマに行ってみたかったこと、そしてそこで何か見たいものはないか(そして時間に合うものは)と考えたところ、ENBUゼミナールが制作に関わっている本作を見ることとなった。ENBUゼミと聞くと濱口竜介を思い出したわけだが、本作とは特に関係性はなかった。

 130分ある本編だが、最初の半分ほどは、そもそもこの映画をどのように見ていけばいいのだろうと戸惑うことが多かった。萩原みのり演じるみのりという若い女性が主人公なのは分かる。彼女がほとんど唯一、全編通じて登場するキャラクターになっているから逆説的に主人公だとも言えるが、そのようにまわりくどく考える必要があるほど、本作に一本線の通ったストーリーはない、と思う。もちろん一切ストーリーがないわけではなく、独立した小さなエピソードが、連続性を持ったり持たなかったりして映画の中で展開されている、と言うべきなのだろう。

 youtubeに初日舞台あいさつの映像があったので見てみたが、萩原みのりが余白という言葉で表現しているのがなるほどなと思った。



 余白。たとえばただ数人の人物がしゃべっているだけだったりだとか、ただ街のどこかを歩いているだけだとか、家の中でごろごろしているだけだとか、動きはあるが物語的な展開は特段進まないというシーンが多い。逆にそのシーンの方が印象に残るほど、動きがあってかつ物語が動くときは、一気に緊張感を持たせる。みのりがそういうキャラクターだからと言ってしまえばそうかもしれない。ただそれは半分しか正しくなくて、残りの半分は、緊張感を作り出しているのはみのりを取り巻くまなざしであると言えるからだ。

 彼女の抵抗と言えば大げさなのだろうけれど、彼女は彼女なりの信念や正しさをもって自己主張を止めない。そしてその「自己主張を止めない若い女性」を周囲がどう取り扱うのか、どう受け止めたり受け止められなかったりするのか。これはフィクションとして作られているものである一方で、あまりにも濃厚に現代社会の空気が流れ込んでいる映画でもある。

 不連続なシーンやエピソードの多くは、けれどもそれらがこの社会のどこかできっとありうるのだろうな、と思うものばかりでもある。みのりはきっとそれを「くだらない」と評するのだろう。そしてそうした「くだらない」ものに囲まれて生きるしかない自分自身ですら、「くだらない」と自己評価するのだろう。

 ソーシャルゲーム「Tokyo 7th シスターズ」に登場するユニットSiSHの「さよならレイニーレイディ」という楽曲に、「くだらない話を覚えてみたけど 僕はもともとくだらない」という歌詞がある。これは、好意を持っている相手に対して自分を良く見せたい一方で、決して高くはない自己評価とのギャップをみつめた時に生じる葛藤であると解釈した。みのりの場合、特定の相手に好意を持っているわけではない。だが彼女は常に何かに向かい合っている。それは何なのだろうか。

 彼女を取り巻くもの、街、人、社会、そして海。彼女がそれらに直面した時に感じる違和感は、その都度言語化され、自分が見ているものに対して向かっていく。若いとか青臭いとか、そういう言葉で覆い隠せないものを彼女が見せているからこそ、彼女がたとえ平凡な生活を送っていたとしても彼女自身の魅力が減じることはないなと思う。

 付け加えて言うと、みのり演じる萩原みのりの魅力もまた最大限に街の中に投影するためには、生の夏を舞台にした、長回しのカメラショットはひとつの最適解だったのだろうと思う。いつどこで切り替わるかわからない緊張感が長く続くことによって、みのりという女性の存在が比例するように際立つのだ。
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 最初は契約しているネトフリが薦めて来たが、あまりにもストレートすぎるタイトルにんーちょっといいかな、という気持ちが正直のところだった。それがおそらく去年の冬か春くらいの話だが、ネット上のある記事で本作の見どころを知って、具体的には主人公が同じ高校の生徒に対して「セックス・カウンセリングをする」という筋書きがとても気になったからだ。

 先日公認心理師現認者講習会も受講し、将来的にはカウンセリングを業とすることも考えているが、性に関する悩みや問題やトラブルはあちこちに満ち満ちている。高校生ならば特に敏感に反応する年ごろだが、逆に敏感すぎるがゆえに適切に対応できない年ごろでもある。何より「大人が子どもに」対してではなく「子ども(高校生)が子どもの目線のままで」性教育を行うことがどういった営みであるのか、そして「使われなくなった古臭いトイレ個室」の中でカウンセリングを受けることになるそうした「思春期真っ盛りな」高校生たちをどう描くのかが気になって、見てみた。

 見どころは多い。というか多すぎる。だが共通しているのは、ここに出てくるキャラクター、男女問わず性欲にあふれており、また性への関心が高いが、正しい知識を持たず、ハッピーな性生活を送れていない。だからこそ、主人公のオーティスとヒロインメイヴのコンビが始めたマイクロビジネス、「セックス・カウンセリング」の出番がある。オーティスは童貞ではあるが母親が性教育のセラピストとして博士号を持っているという家庭(しかも母子家庭)であり、家には日々クライアントがやってくる。そうした思春期的には非常に複雑な環境の中、彼のスキルを開花させていくのがメイヴだ。

 メイヴはと言えば、彼女は恵まれた家庭環境とは言えない。ドラッグにおぼれた母と兄は出奔し、誰ひとり頼る相手がいない中でトレーラーハウスで一人暮らしを送る。彼女を救ったのは、本、それもフェミニズムについて書かれた本である。彼女はこのドラマの中で最も知的好奇心があふれている存在でありながら、最も自己肯定感が低い存在であるせいか、自身の能力を生かしきれない。だからオーティスとコンビを組んでいる時の、彼女の自由闊達さは魅力的である。

 メイヴもある意味で、オーティスがカウンセリングをするクライアントに非常によく似ている。多くのクライアント(生徒たち)は、自分に自信がないか、あるいは親密な相手との関係に自信がない。ヘテロのカップルだけでなく、ゲイカップルやレズビアンのカップルもフラットに登場するのが非常に現代的であるが、誰かと親密になりたいという願望と、自分がこうしたい、相手にはこうしてほしいという欲望はきれいには一致しない。多くのキャラクターは悩みを抱えて、不安を募らせる。やがてそうした関係は行き詰まるが、そのボトルネックを解消するのがオーティスとメイヴの重要な仕事なのだろう。自分自身を振り返ってみても、10代の時に二人がいてくれたら、どれほど頼もしかっただろう。

 基本的に一話完結でありながら、オーティスやメイヴを取り巻く人間関係は濃密に展開させる。二人はいいコンビであるが、オーティスにはエリック、メイヴにはエイミーという、明るくお茶らけた同性のパートナーがいる(メイヴとエイミーの関係は時々百合に似ている)。こうした人間関係のバランスが常に保たれるわけではない。オーティスやメイヴはやがて道を違えていくし、オーティスとエリックが常に仲のいい親友とも言えない。10代の人間関係はかくも難しい。けれども、そこにあるドラマや感情は、もう大人になった私たちが、かつて経験してきたものでもある。だからこのドラマを見ていて非常に新しい物語だと感じるとともに、非常に懐かしい思いもさせてくれるドラマになっている。

 エリックもエイミーもそれぞれにまた悩みや葛藤を抱えているからだ。筋書き上の主人公はオーティスとメイヴだとしても、その隣にいるキャラクターが「脇役」だとは言えない。すべてのキャラクターが、息づいている。彼ら彼女らはフィクションの存在だけれど、彼ら彼女らの悩みや葛藤、高揚感、興奮……あらゆる感情はどこまでもリアルで、少し馬鹿馬鹿しくて、そしてヒューマニティである。

 ちなみに、今月からはシーズン2も配信が始まっており、少しだけ見たが相変わらずなかなかいい。メイヴは学校に復帰できたのだろうか。オーティスは初めてできた恋人であるオーラと「ちゃんとできている」のだろうか。そしてメイヴはどのようなまなざしでオーティスと向き合っていくのだろうか。一つの終わりは、また次の物語の、次の人生のスタートラインでもある。
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 マイ・ビューティフル・デイズ。そのまま訳すと「私の美しい日々」といったところだろうけれど、実際の映画は思ったよりキラキラしたものではなく、むしろ思春期独特の、めんどうくさい感情といかに向き合えばよいのか、といった普遍的なテーマである。

 これを、あるクラスでの英語の授業風景(フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』についての授業だった)から始まり、週末に少し遠いところで開催される演劇大会に参加する生徒3人と引率教師1人の人間模様を描いた、たった一週間、わずか90分弱のドラマとして表現するシンプルな映画だった。たぶんこれ以上引っ張ったりもう少し幅を持たせることもできただろうけど(たとえばサムはよくも悪くも「都合よく配置された」キャラクターにしか見えなかった)これはこれでいいのではないか、とも思う。

 一つは恋。不器用すぎるし、危険な香りしかしない恋。確かに10代の学生だったころ、少しだけ年上の女性教師がとても魅力的に思えたことはある。けれども、多くの場合実際には何もせず、内に秘めるだけの感情だ。だがティモシー・シャラメ演じるビリーは自分の感情を適切にコントロールできない。映画の中では行動障害という診断がついているが、具体的にはもっとメンタルのバランスの部分だったり、ADHD的な多動性だったりが絡んだ症状をビリーは見せる。それは狂おしくもあり、青くさくもあり、「こうすることしかできないんだ!」という情念そのもののように見える。

 それを結果的に受け止めてしまう教師のレイチェルにも危うさがある。校長からビリーについて事前に注意を受けている一方で、彼女が教師としてではなく個人としてビリーを受け止めてしまう瞬間があるからだ。もちろんこれはビリーにとっては高揚でしかない。けれども、教師としての正しさがあるとは言えない。ではどうすれば? 二人の関係はどうなる? 映画の中で残された時間がわずかな中で、落とし込んだ方向性はなるほどなと思った。

 つまりこの映画は、禁断の恋愛を描くものでもないし、かといって徹底的な断絶を描くわけでもない。人と人とが瞬間響きあう時があるということ。その瞬間には「正しさ」が入る余地がないということ。そうしたエモーションの高まりこそが、ある意味では青春と言ってもいいのかもしれないことだ。

 クラスのリーダー格的な優等生兼美少女でありながら、登場シーンはさほど多くないリリ・ラインハート演じるマーゴットの存在が非常に輝いている。彼女の存在は目立つし、華になる。しかし、彼女とて望んだものは得られない。何もかもが手に入るほど、青春は甘くない。ということと、付け加えて挫折に対してどう向き合うのか(いわゆるレジリエンス)が試されたとき、彼女の何気ない振る舞いがとても魅力的でいとおしく思えたのだ。不器用すぎるビリー、陽気だがマイペースなサム、危うい教師のレイチェルといった3人と比べると、一番安定感のあるマーゴットが輝くのは他者と関わる瞬間にあるのだなと。

 ビリーの演技の妖艶さは皮肉すぎるほど立派なもので、その天才肌のビリーを見て内心悔しい気持ちがあるだろうマーゴットの心情を思うとこれもまた青春の痛みがあるなと思う。けれども、最後は、最後だけは美しく。途中までの道のりがでこぼこすぎるのは、彼ら彼女らが不器用すぎるから仕方ない。でもまあ、青春ってそういうものだよね、といったある種の開き直りこそが、彼ら彼女らを本当に輝かせるのかもしれない。肩の力を抜いて、ただ、目の前の自分と誰かを見つめることができれば。
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 まずはベスト10から。

1.映画刀剣乱舞
2.響け!ユーフォニアム 〜誓いのフィナーレ〜
3.ビューティフル・ボーイ
4.バーニング 劇場版
5.沈没家族 激情版
6.さよならくちびる
7.海獣の子供
8.ホットギミック ガールミーツボーイ
9.人生をしまう時間
10.ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス
次点:天気の子ウトヤ島、7月22日
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