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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

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 今年は久しぶりに競馬が楽しい。理由はいろいろあるが、去年くらいからまたコツコツ馬券を買うようになったことだろうと思う。ウインズが近くにあることと、可処分所得がちょっと増えたことが大きい。余裕資金で馬券を買うくらいならのめりこまなくてよいし、当たったときの喜びは大きい。外れたらしゃーないなと思って切り替えていく。
 まあ無精なので昔からG1メインに重賞をたまにくらいの予想しかしないが、いまもその傾向はあんまり変わってない。(ちなみにゼロ年代の中盤くらいまでは毎週末に予想を公開していました。ブログの過去ログに残ってるかも)
 去年の春競馬ではダービーでマカヒキに勝たせてもらったり、宝塚ではマリアライトがとんできたおかげで地味に収支をプラスにしたりと、個人的に気に入っている馬が走ってくれるのはやはりでかいな、と思う。好きな馬がいる(そして馬券に絡む)ことと、馬券が予想通り当たること。この両方が続いてくれれば競馬はなんだかんだ楽しい。

 記憶の中にあるリアルタイムで見た最初のレースが2001年の有馬記念で、テイエムオペラオーの引退レースであり、当時3歳だったマンハッタンカフェが鮮やかに勝ってアメリカンボスが穴をあけるという、世代交代と波乱含みというところに競馬の面白さを知った。
 中学や高校のような、馬券の買えない時期によく競馬を見ていた。関西テレビ制作のドリーム競馬がなければ、ここまでのめりこまなかったかもしれない。ディープインパクトの競馬ブームのときもよく覚えているが、それ以上に競馬を見始めたばかりのころのシンボリクリスエスの強さとオリビエ・ペリエというとてつもない天才ジョッキーを目の当たりにしたことのほうが印象に残っている。
 あるいはアドマイヤグルーヴやダンスインザムードのような古馬相手にも健闘する牝馬の活躍も面白かった。福永祐一を背中に乗せたシーザリオがアメリカンオークスを制したときは、そのニュースがNHKで何度も繰り返し流れたことにとても興奮したのを覚えている。
 大学時代はウオッカとダイワスカーレットの世紀の一騎打ちになった天皇賞のインパクトが強すぎて、そのあとのことはよく覚えていない。有馬記念にはコツコツ足を運んで、寒い中山競馬場で何度も歓声を上げていた。

 そしていまになってはここで挙げた馬たちが親世代になり、子どもたちが活躍する時代になっている。競馬を見始めた当時はギャロップレーサーで昔の馬の名前を覚えたりしたが、いまはむしろ自分の記憶をたどるほうが多い。
 名馬が必ずしもいい親になるわけではないが、血のロマンというのはあるなと思う。いまおそらく一番強いキタサンブラックで言うと、ブラックタイドというやや地味な戦績だったが良血統を持つ少しなつかしい馬の血を引いている、という時点でロマンが大きい。北島三郎が馬主であるというのはささいなことで、現役のときは重賞がやっとだったブラックタイドの子どもが、ディープインパクトやテイエムオペラオーの稼いだ賞金額に匹敵しているというのは、やはりロマンだと思う。

 東京時代に府中と中山によく足を運んでいたが、高松に戻ってからはさすがに行けてない。せいぜい新宿のウインズが限界だ。いまは西にいるのだから、いずれ阪神や京都に、というモチベーションもまた出てきたころ合いかなと思う。
 今年はオークスダービーを二週連続でプラスにして以降は自分の予想がイマイチはまらなかったが、この前の菊花賞と天皇賞でようやく自分の読みが当たってきたかなと感じた。当たる当たらないも大事だが、長く馬券を買うためには自分の勘をちゃんときたえたほうがいい。なによりそのほうが楽しい。
 天皇賞のソウルスターリングやカデナがそうだったが、秋競馬は3歳馬と古馬が初めて相まみえる展開が続く面白さがある。キタサンブラックの最後のシーズンでもあるし、今年も有馬記念まで楽しませてくれそうだなと思う。
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 気づけば夏の甲子園も残すところあと一試合という感じになっており、夏の終わりを感じている。気温はまだまだ高いので(東日本はそうではないようだが)、体感的な夏はまだ続きそうだが。今年は東北勢がベスト8に2つ残ったりとか、16強&8強唯一の公立校として香川の三本松が健闘したりだとか、あるいは広陵の中村がホームランを6本放ったりだとか、清宮がいないことや絶対的なエース級の投手が少ないことで開幕前はやや盛り上がりを欠いた印象もあった。とはいえそれこそベスト8級が7校集結した日があったりだとか、ソフトバンクの今宮健太のいた年以来の飛躍を見せた大分の明豊打線だとか、始まってみると話題に事欠かないのも甲子園のなかなかこわいところかなと思う。

 このタイミングに合わせてかどうかまではわからないが、山際淳司の『江夏の21球』が角川新書から再刊され、売れているらしいということを知った。発売は7月で、買ったのは8月のはじめ。たしか甲子園が始まる直前に梅田駅構内の紀伊国屋で、だったと思うが、高松に戻って宮脇書店に足を運んでも平積みされていることを見ると、どうやら各地でそこそこ売れている(あるいは売り出されている)らしいことがわかる。「江夏の21球」という逸話は確かに野球ファンとしてはよく耳にするがちゃんと読んだことはねえな、という思いがあったので今回買ってみた。


江夏の21球 (角川新書)
山際 淳司
2017-07-10


 この本自体はなにかしらの底本があったわけではなく、山際の書いたエッセイやノンフィクションからセレクトした感じのアンソロジーになっており、いまになって改めて編み直した一冊というところらしい。山際は1980年に「江夏の21球」をスポーツ雑誌『Number』の創刊号に寄せており、さらにその文章を含む著書『スローカーブを、もう一球』ではノンフィクションの賞もとっている。95年に若くして亡くなっているので、現役時代のことはほとんど知らないが、この本に触れたことをきっかけに山際淳司を追ってみようと思った。

 「江夏の21球」は広島時代の江夏が近鉄と対峙した日本シリーズ最終戦、9回裏に投じた21球を追った文章だ。ただ単に21球のプロセスを追ったというより、江夏がそのときになるまで何を考えていたかだとか、21球にまつわる周辺事情や前後関係を詳細に拾い上げている。拾い上げた上でクライマックスに持っていくというライティングを山際は選んでいる。このすぐあとに収録されている「落球伝説」(こっちには阪神時代の江夏が登場する)でもそうだが、タイトルにもなっているシーンは意外とあっさり描写されたりもするのだが、そのかわりにそこにいたるまでに彼らが何を感じ、何を考えていたのかという人間性の部分をより引き立てようとするのだ。

 確かにそうした文章がスポーツライティングを(良くも悪くも)変えたとも言われる『Number』の創刊号に載っていた、というのは象徴的なように思う。いまのNumberのライターで山際と同じレベルの文章を書く人は、サッカー以外では中村計あたりだろうか。ここしばらくのNumberはサッカージャーナリズム的な雑誌になっているので、トータルのライティングセンスは落ちているんじゃないかと思われるが、中村計の文章はもっと読まれてもよいだろう。




 話がそれた。つまりまあ、山際の試みるような、スポーツにおけるエキサイティングな瞬間をとりあげるためにその周辺事情を人間ドラマで埋めていくというスタイルは今日では珍しくはない。昔のことはよく知らないし、どちらかというと熱くなってというよりは肩の力を抜いて書いているようにも見える山際の文体には、同時代にそれこそ角川で活躍した片岡義男を思い起こさせる。肩の力は抜いているが、山際のやろうとしているのはつまるところハードボイルドであって、それをフィクションではなくノンフィクションでやろうとしているのではないかと。もちろんそうした文章は好き嫌いが別れるだろうが、個性というのはえてしてそういうものだということにしておく。

 『江夏の21球』を読んだあと、続けて次の2冊を読んだ。





 『スローカーブを、もう一球』には「江夏の21球」も所収されているので最初に読んだ本と多少ダブりはあるが、あの有名な星稜対箕島を書いた「八月のカクテル光線」はこっちにしか入っていない。この文章はタイトルからしてできすぎているが、あの伝説の一戦は当該日程の最後の試合として組まれており、球児たちが甲子園でのナイトゲームを楽しみにしていた、というエピソードを引き合いに出しているところが非常によい。確かに、練習以外でナイターを組むことは公式戦ではほとんどない。夢に見た甲子園でカクテル光線に包まれながら、そしていつまでも終わらない延長戦を戦うのは疲れはすれども記憶にさぞ焼き付いたものだろうと思う。

 『男たちのゲームセット』は巨人がV9を決めた年の阪神との戦いの記録。巨人側、阪神側の両サイドから追っているが、阪神球団側の優勝は別にせんでええんや、2位争いでちょうどええんや、とかいう逸話や阪神時代の江夏の話、そして激情して監督に手を上げる選手たち・・・などなど昭和野球らしい(らしいというのもあれだが)エピソードがたくさんあってなかなか楽しめた。個人的には、名もなき後楽園球場のビール売りバイト青年の発言が、さっきの「八月のカクテル光線」での球児の心情と少しダブっていいものだな、と思った。

 スポーツはそのものが生き物であるということと、そのスポーツに身を投じるのは生身の人間だということ。だからこそ生まれるスポーツならではの魅力を、肩の力の抜けた文体で、かつストイックに書いていたのが山際淳司だった、ということはこれらの3冊でよくわかる。あまり触れなかったが、彼が野球だけを愛していたわけではないこともわかる。(香川県の棒高跳び選手を追った「ポール・ヴォルター」も非常に面白く読めた)

 プロ野球ももうあと一ヶ月と少し、甲子園もあと一日。クライマックスが近づくいまだからこそ読むにふさわしいと思えた。熱く楽しい読書体験だった。
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 以前「走ることについての覚え書きと『脳を鍛えるには運動しかない!』のインパクト」という記事を書いたが、今回もランニングやスポーツにまつわる本を続けて3冊ほど読んだので、「走ることについての覚え書き」のパート2という感じでお送りする。
 今回取り上げるのは次の3冊。










 前2冊はいずれもマラソンを超える距離を走るレースについての本だ。ウルトラマラソンや100マイルレース、そしてトレイルランニングといったレースを概観していく。
 『EAT&RUN』は副題にもある通り、「僕」ことスコット・ジュレクが自伝的に書いた一冊で、学生時代にクロスカントリースキーの選手だった自分自身の生い立ちや、多発性硬化症を患い、次第に介護が必要になるまでに病状が悪化していく母について記述するなかで「走ること」へと情熱を傾けるようになるまでを非常にエモーショナルに書いている。
 そう、エモい。この本の肝はそのエモさだろう。レースをともにする友人たちとの関係、愛したはずの妻と別れ、そして再び恋をするまでのいきさつ。家族への愛。あるいは、日本人ランナーが食糧としてたずさえていたおにぎりへの感動、などなど。ランニングそのものに興味がなくとも、最初の部分を読んでスコット・ジュレクという一人の人間の人生に興味を持つことができたなら面白く読める一冊になっているのではないか。
 章末には短いコラムも挟まれていて、ランニング初心者へ向けた諸々のアドバイスもはさまっている。クロカンの選手だったジュレクはなにも元々ランニングの専門家ではない。彼とて、素人からのスタートなのだ。

 ウルトラランナーでもありヴィーガンでもある彼はタイトルに付してある通りEATの側面からも切り込んでいく。長い距離を走るには身体を形作る食べ物こそが重要だ、というシンプルな指摘だ。
 このへんはヴィーガンでない自分にとっては参考程度でしかないわけだけど(立場的にはダルビッシュがよく言ってるように日本人はもっと肉を食って筋肉つけろ派である)、おそらく食べ物を完全菜食という形でシンプルにすることも、ジュレクにとっては重要なルーティーンになっている。日々のすべてが100マイルもの距離を走るレースにつながるわけだから、確かに重要でないわけがない。
 まさに「食べることと走ること」によって幸せを獲得したジュレクという人間のストーリーが、そのまま本になっているといったところだろう。



 対して走ることの楽しさというのが次の『激走! 日本アルプス大縦断』からひしひしと伝わってくる。これは副題にもある通りトランスジャパンアルプスレース(TJAR)という、2年に1度8月に行われる8日間で415キロを走行するレースを追ったNHKスペシャルの書籍化なのだけど、日本海から太平洋の静岡まで415キロというとてつもない距離に、逆に『EAT&RUN』で提示される100マイルという距離が小さく思えてしまう不思議さがあった。
 いやまあそれはたまたま続けて読んだからなのだけど、今年のレースの覇者にもなった望月将悟はわずか5日間で駆け抜けるのだからもうわけがわからない。
 NHKオンデマンドで当時の放映(2012年)の内容も残っているので見てみたのだけど、全員フルマラソンを3時間20分以内(セレクションの基準の一つ)という強者揃いの中でも群を抜いて速く、いくつもの日本アルプスの山々を軽装で軽々と駆け抜けていく様は天狗か忍者のようにも見えてしまう。

 一方で望月以外の選手にも目を向けると、望月以外に対しては逆に非常に親近感の沸く選手たちが多い。Nスペ本編ではレースを追うことがメインになっていて、あまり選手個々の掘り下げはできていなかったが、書籍版のほうではランニングを始めたそもそものきっかけや、TJARに出るようになるまでのきっかけ、あるいは選手間同士の交友関係など、人間くさい部分についての書き込みが多く、とても身近なものになる。
 驚いたのは、多くの選手が元々は運動が得意でないか嫌いであり、望月のように子どものころから山を駆けるのが大好きで、といった選手のほうが少数派であることだ。たまたま友人や同僚に誘われて、あるいはダイエットのために、あるいは素朴に健康のためにといった形で足を踏み入れたランニングの世界にあれよあれよとハマってしまい、TJARのような過酷なレースに至った、というわけだ。
 という話を読んでもイマイチ最初の動機とのギャップがありすぎだろう、と思ってしまうが、しかしさっきのスコット・ジュレクを思い出してみれば納得がいく。彼のコラムにもあったが、誰もがいきなり長い距離を走れるわけがない。それがふつうだ。だからこそ、最初は歩いてもいいからちょっとずつ進むこと、そして走ることに目的や楽しさを見出すこと。
 それができれば、そしてそれがずっとできるのであれば、415キロという途方もないレースにたどりつくことだって不可能ではない、のかもしれない。それくらい、選手それぞれが山を走ることを楽しんでいるのが印象的だった。過酷に見えるのは事実だろうけれど、それを楽しむことができるのは素晴らしい体験にちがいない。



 最後の一冊、デイヴィッド・エブスタインの『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』は様々なアスリートの能力を遺伝子レベルで分析するという一冊。専門書ではなく一般向けに書かれているので、分厚いが読みやすく、かつデータや引用論文の数も豊富だ。特定の何かや誰かではなく、スポーツやアスリートそのものに魅力を覚えている人にとっては、読み応えがあるだろう。
 とはいえ個人的に一番関心を覚えたのは、「1万時間の法則」に対する疑義や批判だ。

参考:"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

 上のまとめでもあるように、最近ではいわゆるビジネス書でもたまに目にするが、はたしてそれはどれほど事実に敵っているのだろうか、という点を具体的に指摘していく。1万時間の法則が誰によっていつ提唱されたか、そしてそれがどのように浸透していったのか、といった言葉のルーツから始まり、実際のアスリートの練習時間を調べ上げて10000時間にはるかに満たない時間でトップレベルにのぼりつめたアスリートを反証として提示していくあたりは、まさに科学的な方法による批判と言えるだろう。
 この部分だけでも読む価値が大きい。つまり、単に10000時間練習したからといってプロになれるわけではないし、プロもみなが10000時間練習したわけではない。プロとアマチュアを分ける差異はもっと別なところ――たとえば遺伝子(ハードウェア)やトレーニング(ソフトウェア)――にある。
 遺伝子という言葉を付加しているが、本作の結論は遺伝子がすべてを決定するという話ではなく、アスリートの才能にとって遺伝子は非常に重要だが、それはあくまでハードウェアであり同時にそのハードを持って生まれたアスリートを育て上げるためのソフトウェアが必要だ、という穏健的な結論なのである。
 その結論にいたるまでの膨大な研究の蓄積が楽しい。4年に1度のオリンピックを見て楽しむようなライトなスポーツファンでも、この本に出会うことでさらにスポーツそのものの魅力にハマる。かもしれない。

 最近週に一回のヨガは継続しているものの暑さのせいでランニングがちょっとおろそかになっており、さらに春先に買ったクロスバイクの影響で・・・といった中で、再び走ることの面白さやスポーツそのものの魅力に触れさせてもらった。
 涼しくなったらちゃんと走ろうな、俺。長い距離を走ることはなんだかんだ言って楽しい。そして自転車も楽しい。
 「まだまだ遠くまで行こう」(by 大空あかり)


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 ランニングブームという現象は、たとえば宮間あやが言うところの「ブーム」から「文化」にすでになっているのではないか。
 ということをあえて考えたわけではないけど、現状ではいたるところで市民マラソンが行われているし、関西や東京圏の大都市の大会になると応募倍率もなかなかに高い。東京マラソンに○年連続で落ち続けている、みたいな話はネットではいくらでも耳にする。
 自分にとってのランニングは小学生のころから毎年のように上位に入り込んでいたマラソン大会が原点にある。そのあと中学に入って入部した陸上部では長距離ではなく短距離といくつかのフィールド種目(幅跳びや高跳びを経験したあと最終的にはなぜか砲丸投げに落ち着いた)を経験したので、長距離的な意味でのランニングからは少し遠ざかってしまった。
 なので基本的には趣味的なランニングを高校や大学時代にはよく行っていて、山手線の内側に住んでいた大学院時代には池袋や新宿方面の繁華街に走って行くのを楽しみにしていた。
 高松に暮らしているいまのランニングの楽しみとしては、間違いなく海に行くことだろう。時間を問わず、高松港の近くにはランナーがたくさんいるし、港周辺は年に一度行われるトライアスロン会場にもなっている。平坦で景観がよく、そして大都市ほど密集していない。大きなアップダウンがなく、自然にほど近い地方都市というのはランナーにとってはやさしい街なのだと思う。(しかし夜走るときには車に気を付けないと普通に危ない)

 そういうなかでランニングというよりは走ることそのもの、あるいは運動することについての知識や関心をもっと深めようといくつかの本を最近読んだ。
 最初のきっかけはジョン・レイティとエリック・ヘイガーマンによる『脳を鍛えるには運動しかない!』だった。原題はもっとシンプルだが、このタイトルは本の内容を分かりやすくコンパクトにようやくしている。つまり、運動(本のなかではとりわけ有酸素運動が推奨される)が脳に与えるインパクトや効能について、様々な視点から書かれている。



 原著はアメリカで2008年に出ており、日本では2009年に訳された本なので少し前の本ではある。ただ、2000年代に入ってからの医学論文に関するレビューも多々記述されていて、科学的に運動と脳の関係を書いた本として読むことができる。本書は専門書ではなくて一般書なので、専門的になりすぎずに読みやすいという点で、バランスもとれている。
 たとえば第一章と二章では運動が勉強や学習にもたらす効果について書かれている。第一章でのアメリカの学校の取り組みの例は非常に面白い。それは、体育の授業のやり方を変えたことで成績が向上したという内容で、体育をスポーツの得意な誰かのためではなく、授業に参加するみんなが楽しめて、身体を動かすことができる方法に変えたということだ。
 その他うつや依存症、あるいはADHDといった脳内物質と関連のある疾患や症状に対しても運動が効果的であることを説明している。このあたりは最近NHKスペシャルかなにかでにたような番組を見たことがあったのでふむふむ、という程度だったが、第八章で女性の脳に及ぼす影響について書いた部分は非常に興味をもって読んだ。
 女性に特有な生理、つまり月経とその負の影響(月経前症候群:PMS)については、男性には完全には想像しづらいが女性には日常的な現象だろうと思う。生理前だからイライラする、だるい、頭痛が、という話はよく耳にするし、周期的に訪れる不可避な現象という辛さについてはやはり想像を絶する。
 このPMSにも運動が効果的だと書かれている。それは単に気分転換という意味ではなく、ホルモンへの影響が科学的にも明らかになっているという説明だ。ホルモンの変動に関しては同様に、産後うつや更年期障害といった女性特有の症状にも見られることであり、ここにもやはり運動が適する。
 そして女性特有の現象として挙げられるのが、妊娠だ。妊娠中の運動はリスクではないのか、という前置きを置きながら、2002年のアメリカ婦人科学会の報告を引きながら運動の有用性を提言している。もちろんやりすぎはよくないし、身体を痛める。具体的にどの程度の、という点が書かれていることや、妊娠中におけるストレスや不安を軽減する精神的な作用についても触れられている。さらに、妊娠中に運動をしたグループとそうでないグループとでは産後の子供の身体能力にも差が見られる、というポイントはなかなか面白い。

 というように、運動の具体的な効用とその方法について膨大な例が挙げられており、読むだけで身体を動かしたくなる一冊、というところがすばらしい。その上に読みやすい。
 第十章で書かれている言葉に、本書の主張の根幹が書かれているので引用しよう。
 わたしが強調したかったことーー運動は脳の機能を最善にする唯一にして最強の手段だということーーは、何百という研究論文に基づいており、その論文の大半はこの一○年以内に発表されたものだ。脳のはたらきについての理解は、その比較的短い期間にすっかりくつがえされた。この一○年は、人間の特性に興味をもつ人すべてにとって、心沸きたつような時代だった。

 この本を読む読者もまさに、心沸きたつような気分になるのではないか。運動を始めよう、というのは苦手な人や嫌いな人にとってはハードルが高いものかもしれない。それでも、ここまで運動のインセンティブがあるのなら、運動こそが自分自身を救ってくれるのかもしれないのなら。
 第十章にはご丁寧に、「運動が嫌いでも落ち込むことはない」というアドバイスもセットで書かれている。運動の効用を大げさに評価するべきではないだろうが、書かれていることには耳を傾けて損のないことばかりだ。
 というわけで、寒い冬だけど逆に身体を暖めるには最適なので、みなさん運動しましょう。というオチをつけつつ自分もちゃんと最近は走れてないことについて自己嫌悪を覚えている。時間のやりくりが一番むずかしい。

 あと、さっきの本に加えてジョン・レイティが書いたもう一冊の本と、走るために生まれたような民族について書かれたまた別の本について触れたかったけど長くなったのでまたいずれ。
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