Seraphic Blue

2011年12月09日

【ヴェーネ論予告】ハッピーエンドの失われた結末に向かうために

 Seraphic Blue(以下、基本的にセラブル)というゲームの特徴的なのは、途中で明確に主人公が交代することでもある。だから、最終的に主役の座を射止める(というか、その場に置かれてしまう)ヴェーネについて論じることがセラブルというゲームの核心部分にも繋がるはずであると考える。そしてそのためには、ヴェーネがどのようにして主役の場に置かれるようになったのかについての記述が必要だろう。
 また、それ以前の彼女はどのような経験をした存在で、それ以後の彼女はどのような宿命を背負って戦いに向かったのか。俗な言い方をすれば、世界を救うために彼女は戦ったわけだが、その理由は運命という言葉で片付けてしまっていいものなのだろうか。
 などなど、ヴェーネという複雑な経験を経た人物について描くのはなかなかに難しいし、絡んだ人物の多さや濃さを考えると非常にやっかいだ。

 ヴェーネの宿命の帰結について先に触れておくが、その前に次の文を引用してみる。

さて、戦いを終えて、結局、ヴェーネは洗練されたシステマチックな功利主義者(=新自由主義下における『新しき哲人』)になるわけでもなく、戦いの後にレイクやユアンと抱擁を交わし、彼らに命を繋ぎとめられながら、ドラッグに溺れつつも、フリッツと共に生きることを選択し「家族幻想」に半ば回帰してしまう。プレイヤーは存じているだろうが、60時間以上かけてたどり着いたこのゲームのエンディングは、実際かなりグダグダである。乱暴にまとめるなら、メンヘラ女が死にたがったり生きたがったりする様を蛇行的に描写するだけだ。

出典:http://d.hatena.ne.jp/tapimocchi/20110823

 
 ヴェーネの運命の帰結をプレイヤーがエンディングとして見つめるときに、いくつかの驚きがある。そのひとつが上に引用したように、超越的な世界の救済者であった彼女(文字通り天使と言ってもいいかもしれない)が、ごくごく一般的な人間の幸せに落ち着いてしまっている点はまず指摘されるべきだろう。
 次に、運命という枷を外してしまったときに、彼女が実際に見せる言動は尋常ではない。度重なるリストカットや逃亡、薬物濫用というふうにしか描写はされないが、いわゆる人間らしさというものを完全に失ってしまっている。メンヘラ女というカテゴライズは適切かも知れないが、個人的な印象としては落伍者という感じがした。文字通りの廃人と言ってもいい。もはや生活の体をなしていないのだから。
 そして最後に指摘したいのは、世界を救うことで彼女自身も世界も生き延びたというのに、これだけの堕落した結末を見せつけられると果たしてこれはハッピーエンドなのかなんなのかがよく分からないということになる。最後のシーンを描く必要がなかったのではないか、という感想を持ったプレイヤーもいるだろう。

 と、これだけ書くのにここまで文章を使ったのでこの先について書くともっと長くなるだろう、という意味で予告編にした。なんか半年前にも予告編っぽいのを書いた気がするけどこっちがほんとうの予告編です。
 単純と言えば単純な発想だが、世界の存続に向けて戦うことを運命づけられたヒロイン、という意味でぱっと思いついたのは魔法少女まどか☆マギカである。ここで出てくる魔法少女たちもそれぞれに運命を背負っていて戦いに身を投じていくが、ヴェーネとの比較でどのようなことが言えるのかを試してみたい。
 
 その上で、ヴェーネを拘束するものは何かを探る。彼女が名実共に命運をかけたヒロインになる以前の彼女だったころの経験に鍵があるというのはジークベルトとの関係などからも明らかではあるが、ヴェーネとジークベルトの関係性だけでも丁寧に記述しようとすれば膨大になってしまうので(日記書きすぎだし)いくつか要素を抽出してみたい。
 これも改めて書くまでもないかもしれないが、彼女は生まれながらにして運命を背負っていた。宿命と言ってもいい。もっとも、彼女のみが背負っていたのではなく、物語の過程で彼女が唯一にして最大の存在になってしまうのはジークベルトにしては想定外だったかもしれないし、傍観者的に見ればまたもない物語の筋書きかも知れない。
 ただ、そうやって負担感は変化したかも知れないが、前述のように彼女が世界の命運を握るのはあらかじめ予定されていた未来である。そしてこれがヴェーネにとってさらに残酷なのは、戻ることができないという事実だろう。

 ジークベルトの言う「ハッピーエンドは失われた」とは、ヴェーネの実存をシンプルに説明すると。これより他にふさわしい(そして文学的な)言葉はないかもしれない。

 そうやってヴェーネの人格を構造的に、また経験的にあぶりだしていきたいと思っているのだが、その上で提示したいものは何か。つまり、ヴェーネという表象はセラフィックブルーというゲームの枠内においてどのような意味を持ち、ゲームの外で一般化するとどのような意味を持ちうるのかという点である。
 セラブルの世界はファンタジーでもなんでもなく、私たちがどこかで見てきたような世界(というか社会)がまざまざと描かれている。アメリカやロシアを思わせなくもない国家も出てくるし、それらと時には手を組みつつ最終的に自分の目標を遂行しようとするエンデは今の時代で言えば歪んだイスラム原理主義を基盤とする中東のテロ集団と言ってもいいかもしれない。
 このような世界、あるいは社会で描かれたヴェーネの像について考えたときに何が言えるのかはまだ自分の中でも定まりきっていない。手がかりとしてあるのは運命についての記述を中心にしようと思っているので、宿命を進路変更不可能性と言い換えればわたしたちの社会にも適用できるのではないか。システム的な進路変更不可能性ならありふれているし、その中でどう振る舞うかを考えるのは重要なことだ。下手しなくても生存に関わるだろう。
 もちろんセーフティネットがないわけではないという意味では進路変更不可能性は大げさとも言える。とはいえ、システム的に、または社会通念的にも、人生という長いレールを考えたときにある種の硬直性は散見される。受験をして大学に入ったら企業に就職するくらいしか基本的なモデルが与えられていないというのは、なにも日本にかぎったことではない。資本主義は自由主義と結びつくことで多様性を擁護しているようで、実はモデル化された人間を延々と生産しているだけかもしれない。
 
 いくら投げ出したいとのぞんでも、あきらめたいとのぞんでも社会の中で生きるためには容易にできない。不可能ではないかもしれないが、かなりの困難を伴う。硬直したクソみたいなシステムからとっとと離脱するために、困難を克服してレールを外れろというのはあまりにマッチョな主張だろう。自分のことは自分で決めて、結果責任も自分で負うべしという新自由主義は、原理的に結局一部の人間の利得を向上させるにすぎない。
 一見するとヴェーネは困難な壁を乗り越えていく、つまり新自由主義の中で生き残っていく強者にも思える。とはいえ、それが肉体的に、精神的にあまりにもギリギリだったことは彼女の帰結にもつながっているだろう。
  
 書いてきて思ったが、こういうところが論点だと思っていてああしてこうして展開しますよ〜というのは論文か何かのはしがきのように思えてきた。いやもっとちゃんと書かないと「論文」には仕上がらんだろうけどねもちろん。
 あと、ついつい長くなってしまうのが悪い癖なのである程度コンパクトな論になるように頑張ってみようかな、と思っている。うまくいけば年内にはケリをつけたいが、諸々の事情との兼ね合いがどうなるかは俺にもよく分からん。
 まあそんな感じで、一人の大学生の戯れ言というか趣味以外のなにものでもない文章に今後も付き合ってもらえるのならこれほど幸いなことはない。職業ライターでもない個人の物書きにとっては読んでもらえることがまず何よりの喜びだ。そこから何らかのコミュニケーションに繋がれば楽しいのは言うまでもない。

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2010年12月08日

クルスク家のテーゼの再考 ――絶望と希望の隙間で

 2年ぶりにSeraphicBlue(以下セラブル)についての記事を書こうと思う。当時はどう解釈して良いかが分からず衝撃という二文字を抱えて、口が開いたままにエンディングを迎えたのをよく覚えている。ラストは夜通しプレイし、エンディングを迎える頃には朝日が昇っていたのも印象的だった。頭の中はそれほどすがすがしい気分ではなかったけれど。
 2年ぶりに書こうと思ったのは、当時からこのことについてはうっすらとながらずっと頭の片隅にあって、まだ答えが出ているかどうかはよく分からないものも今書ける範囲で書こうと思ったからである。頭の片隅に葬ってしまうよりも、一度形にしたかったからというのもある。おそらく、この観念については一生考えなければならないしことあるごとに意識せざるをえない、普遍的なものでもある。古くは鴨長明、今では誰だかよく分からないし普段生活をしていて意識することはほとんどないのだけれど、だからこそ忘れてしまわぬように書いておきたい、というのがねらいのひとつ。
 書きたいことはクルスク家の示したテーゼについて。ケイン、レオナ、そしてアイシャをめぐる物語。
 
 「中毒性と乱用性を持つ物語だからこそ、放たれる言葉の持つ力は大きい」と2年前の記事で書いている。その最たるものがあるが、終盤もいいところなのでネタバレ勘弁。ゲームに興味があってネタバレ知りたくないというかたはご注意を。

 
あらゆる悲しみや苦しみから救われる真の救済。それを為す真の愛。
“生まれて来ない”事、“生み出さない”事を。
故に言った。
そして願わくば、この愛が此処に在らざる子供達に届かん事を。
生命を誕生させない事で、
全ての悲しみや苦しみから、守り救う事が出来る。
未来永劫に渡る、“無”に於いての安寧の眠りを与える事が出来る。
それが私達の思う、愛と贈り物。


 この台詞はクルスク家のレオナがEp43のステージ、アイシャの空でヴェーネたちに投げかける言葉である。本来は死して怪物となったアイシャに投げかけるはずの、親心としての言葉を。
 そして親心は続く

 
子供は生まれて来た時に泣いているでしょう?あれはそういう事。
能くも私を産んで呉れたな。
ハイリスクを背負わされてまでの
不確かな幸せなんて、欲しくなかった。
真なる愛と救いの中で、永遠の無で在りたかった。
怒りと、嘆きと、悲しみ。それこそが彼らの産声。
ならば私達は生命を否定し、そして実際に行動を起こそう。
忌まわしき生命の美学<イデオロギー>の下に
振るわれる暴力より、無力な子供達を守る為に。
世界を無に還す。


 この言葉に対してフォクシーやヴェーネのように吐き捨てるのは簡単だし、あるいはヤンシーやミネルヴァのように違う、そんなはずはないと対抗することもそれほど難しくはない。あくまで、対抗することにおいては。
 ただ、この言葉を、このイデオロギーを完全に看破することなどあるだろうか?おそらく人類がユートピアのような世界を作り上げないことには不可能だろう。世界は不幸と悲嘆と、絶望に満ちている。それ自体は疑いようが無く、その大半は他ならぬ人間によってもたらされている。
 幼い頃に夢や希望を持てと教育され、素晴らしい未来があるに違いないと教え込まれたあげく、見るのは人間同士が惨めに争う姿だ。その産物である絶望に対して、幸福な立場にいる人間は目を向けようともしない。そんなものは知らない、とでも言わんばかりに。セラブルにおいてはイーヴル(遺伝子異常で人間が怪物と化した姿)をめぐる思惑が好例だろう。いわば”失敗作”として天から地上に放り投げられ、天はそれを無視する。地上は天に敵意を向けるし、それを煽る者も出てくる。イーヴルを何か別のことに置き換えれば、容易に想像できる不幸のなすりつけ合いである。

 失敗作の1人であるアイシャ(後に最強の怪物、イーヴル・ディザスティアとなる)が不幸のなすりつけ合いの延長として刻まれている以上、レオナの親心をそんなものはばかげていると簡単に片付けてしまうことはおそらくできない。反論できるに足ほど、それほど綺麗な世界を、提示できていないのだから。そしてそれ自体は不可能だろう。
 こっちの世界に置き換えてみれば、人口はまだまだ増えるし新しい憎しみは生まれていく、歴史は当然のように繰り返していく。いつどこで、誰が不幸に巻き込まれるかは分からない。リーマンショックは人間の手の制御できない世界の象徴であると言っていいし、市場にはもはや神すらいない。

 この2年間考え続けて出した結論は、レオナの言葉を一方では受け入れ、他方では反抗していくという二律背反を抱え続けることしかできないということ。複雑化する現実を前にできることはそれくらいのことだと思っている。だが、坂上智代が言ったように、決して絶望はしない。絶望することはすなわち、レオナを肯定するようなものだ。
 あきらめたらそこで試合終了ですよ、ということはスラムダンクで15年以上前に書かれていることだ。世界はめまぐるしく変わっていく中で、決して絶望しない覚悟を持つのは簡単じゃないことも自明のことだろう。
 それでも、そうすることでしかレオナに、ひいてはクルスク家に対抗することはできない。そしてひいては、アイシャの供養にもなる。こっちの世界にも彼女に準じるような不幸を持った少女は、数え切れないほどいるのだから。

 絶望を生み出すような現実を作り出したのが人間だとするなら、生まれてきた人間の問題であるならば、これから生まれ来る者に当然責任はない。逆に言えば、これから生まれ来る人に対してこっち側の人間が向き合っていくべきだろう。不可能かもしれなくても、そうするしかない。
 不可能なら意味がないとレオナは言うかも知れない。そんな世界は結局のところありえないのに何の意味があるのか、と。
 だからこそ希望を提示する、希望を捨てないでいるというのは青くさいのだろうか?全てを変える希望などありはしないが、いつかレオナをぎゃふんと言わせるような世界を提示するためにもがき続けたいと思う気持ちを無駄にしたくない。自分が若いから、というのもあるかもしれないが。
 
 最後少しキレイというかエモーショナルにすぎるかな?とも思いつつ。
 そう遠くないうちに、ヒロインであるヴェーネとダークヒロインであるエルに関するエッセイでも書く、かも。今回ヴェーネのレオナに対する反論についても深く書こうとしたけど長くなりすぎる気がするのでパス。
 まあなんというか、このゲームが内包している問題意識はすさまじいということが再確認できた。次回作は難航しているようだが、完成を願いつつ、本稿を締める。


*参考
・Blue Field http://www2.odn.ne.jp/~caq12510/
→制作者天ぷらさんのサイト。Seraphic Blueは2004年に公開された3作目の作品である。前2作は今はDLできない。俺は持ってるけど未プレイ。
・Seraphic Blueまとめウィキ http://www21.atwiki.jp/seraphicblue/
→キャラについての説明をかなり端折っているので、人間関係などの参考にどうぞ。簡単に言えばクルスク家がボス、それ以外の言及しているキャラはプレーヤー側のいわゆる仲間
・Seraphic Blue文章版
→プレーヤーの一人が作成したゲーム内の台詞をそのまま引用し、編集したもの。ブログを書く際には参考にしました。初版は2007年公開のようですが、今はもう手に入らないようです。残念。

 

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2008年10月19日

Seraphic Blue part1

 どれだけかかっただろう。一番古いデータに2005/8/19と記されている。それから、3年と2ヶ月。丁度今日も19日だったから丸それだけの時期になる。長い長い物語で、エンディングをのぞくプレイ時間は67時間にも達した。
 重くのしかかる、長い長い旅だった。時間の比もあるが、それ以上に突きつけられるものの重さのせいなのは、プレイした人にとってはさも当然だろう。もう一度やる気というのはなかなか起こらなくて、エンディングを見て彼らの行く末を案じ、かみしめるのみであった。

 どこから書き始めて良いかも分からないくらい、長かった。最初に純粋に面白がってプレイしていたことが懐かしい。多分、ここまでエゴイズムをむき出しにして、イデオロギーを武器に(それこそ現実の戦争のように)戦うRPGは他にどれほどあるだろう。イデオロギーという点においては世界系と絡めることによって、ある意味では拍子抜けともとられる。たったそれだけのために、世界が戦わなければならないことは、現実にはおそらくないだろうと思うので。
 まあだからこそ全てを終えたときには長い小説か、もしくは長い映画を見たような気分だった。一般的にRPGを全クリしたときに感じる達成感というよりは、終わったことへの安堵感と疲労感のほうが大きかった。伏線に次ぐ伏線、最終章に入ってからのどんでん返しの連続。もうほとんどのエピソードを伏線として消化しきっているような、まあ一部にはやや強引なところはあったものも、ここまで緻密に計算されているとは思わない。どんなゲームだよ、と。これがアマチュアなのかよ、と。
 
 アマチュアだからできた部分というのも数多くあって、一番は世界観。厭世に次ぐ厭世、残虐性、グロテスク。そうした言葉とは切っても切り離せないものがある。
 簡単に言えば、学校では教えてくれないしテレビには映せない。よい子は真似しちゃダメ、なあれをまざまざと見せつけられる。一部には反論の余地もあるが(厭世のイデオロギー的な部分に関しては特に)彼らの論を完全に崩すこともまたできない。
 一番のショックは「生まれくることは幸せではない」という考え方の存在が最後まで大きく幅をきかせることになる。ネタバレになるかもしれないのであまり詳しくは書けないが、そうした社会があることもまた事実なのであり、平和に過ごす分には目をそらしても構わないかもしれないが、そこにしがみつくしかない人々がいるのもまた事実。現実の世界においても、だ。ストーリーの後半はひたすらに生きる意味を問いかけられることになる。地に足の着いた存在であり、ある程度物語り慣れしてないと最後まで続けることは困難なのではないかと思う。
 よって、このゲームは多分売れない。イデオロギーに対しての熱狂はあるだろう、俺のように冷静にこのゲームをプレイする人もいるだろうが、少数には違いないだろう。RPGの持つファンタジー性をはなから放棄していることが一番大きい。オープニングであの台詞を叩きつけられては、たまならないだろうし。
 ベクターのランキングでも上位だったようだが、それはフリーゲームという点が結局は大きいのではないか。ダウンロードは容易い。金を払ってプレーする心構えとは、また違うものがあると思う。特に本作の場合は。幸い、三部作のラストということで今までブルーシリーズを経験した人は積極的に仮にシェアウェアでも買うかもしれないが。

 話がそれた。まあ、だからこそ世に送り出された意味がある。それこそ桜庭一樹の小説のように、中毒性と乱用性を持つ物語だからこそ、放たれる言葉の持つ力は大きい。
 ミネルヴァというある国の王女を務めるキャラクターが存在するが、彼女の世間知らずな(失礼)純粋な言葉はことごとくはねとばされていくのはそのせいもあるだろう。綺麗事は綺麗事。リアリズムには、ほど遠いと。
 
 一回で書ききれる内容では決してなく、また思い返しながら思いついたことを書きつづっていこうと思う。カテゴリーもこのために新たに作った。今回は全クリ直後の感想ということで非常にまとまりが悪い。どうしようもない。

 俺は結局はゲームが好きと言うよりは物語が好きなのだと改めて気づいた。ワイルドアームズ最新作に手が伸びるのはいつのことだろう。
 

 
 

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