Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

politics

 前回の続き。前回はこちらです。
 気づいたら前回から5カ月以上近く空いてしまったが、気を取り直していきましょう。




■深層NEWS(BS日テレ)「【ウクライナ“反転攻勢”シナリオ】プーチン氏「3月東部制圧」失敗“第2のバフムト”空爆が1日20回…欧米主力戦車をどう使う?」(2023年4月4日)



 バフムトより南方にあるアウディーウカの戦況をレビュー。面積はバフムトに比べるとかなり小さいが、鉄道網の上にある地域であるため、兵站に苦労しているロシアとしてはここを取ることに魅力があるようだ(だがうまくいってはいない)。


■文藝春秋電子版「ワグネルとはクレムリンにとって〈軍閥マフィア〉か〈民間軍事会社〉か?」(2023年4月10日)



 小泉悠と高橋杉雄が改めてワグネルについて語り合う動画。この時点ではプリコジンの乱がまだ起きていないため、「プリコジンは大統領選に立候補するのか?(そもそも立候補要件を満たすのか?)」と言った話がされている。ご存じのようにいまはもう彼は現世にはいないため、5カ月前に隔世の感を覚える動画だ。


■広島テレビ「【インタビュー】「核の威嚇とG7広島サミット」小泉悠氏に聞く」(2023年4月21日)



 広島サミットを控えての、広島のローカル局が小泉悠にインタビューした動画。小泉のフットワークと軽さを実感しつつ、広島のメディアゆえか核に関する関心が中心的に聞かれているインタビュー。小泉が核について語り続ける機会は、よく考えると珍しいかもしれない。


■テレビ東京「ゼレンスキー大統領が記者会見“ニッポンに一番期待すること」(2023年5月21日)



 今あらためて言及することは少ないが、G7広島サミットにゼレンスキーを呼ぶことができたのは岸田「外務大臣」と外務省にとって、ロシアに対する大勝利だと言えるだろう。「この世に戦争が存在するべきでない」と語る言葉を、改めて重く受け止めたい。


■文藝春秋電子版「東野篤子×廣瀬陽子「ウクライナ反転攻勢で戦争は終わるか」」(2023年6月24日)



 まず二人の仲の良さが存分に伝わってくる対談。そもそも二人はいつから仲いいんですか?というなれそめの話もあり、面白い。
 フルバージョンは有料会員向けで無料で見られるのは26分だけだが、これまでの研究活動と現実の戦争で起きている現象の素朴なギャップなど(ワグネルの正体とか、ワグネルとロシア政府の関係とか)が聞けるのは純粋に面白い。とりわけ「未承認国家」や「凍結された紛争」の専門家である廣瀬がこの6月の時点でどのように戦争をとらえているのかについては、(局地的な分析に終始しがちな)地上波の解説では聞けない要素だと感じた。


■荻上チキ・session(TBSラジオ)「【専門家解説】ロシアのウクライナ侵攻〜クラスター爆弾の供与めぐる是非は」(2023年7月10日)



 クラスター弾を禁止するオスロ条約にはウクライナもロシアも、そして供与側のアメリカも加盟していないということ。とはいえ、世界的にはやめましょうというムードの中であえて供与することを決めた判断に対しての解説。弾薬が足りていない中で戦争を終わらせるキーとしての今回の供与。ゆえに「難しい」という廣瀬の言葉が正直なところだろうか。


■笹川平和財団安全保障研究グループ「ロシア・ウクライナ戦争における核エスカレーション・リスク 」(2023年7月27日)



 冒頭で高橋杉雄が指摘しているように、この戦争の開戦当初からロシアの核使用リスクや、エスカレーション・リスクは存在していた。リスクの程度の差はあれ、いまでもゼロになったとは言えないだろう。そうした状況を前提に果たして西側諸国はどのような行動をとればよいのか? といった骨太な議論が小泉悠や鶴岡路人らを交えて展開されるセミナーである。


■報道1930(BS-TBS)「プーチン氏「高支持率」の裏で…"終身独裁"か?"ポスト・プーチン"到来か?」(2023年9月21日)



 前半は戦況の分析だが、後半の大統領選挙の話が今回のメイン。プーチンが度重なる制度改正でライバル(特にナワリヌイ)の出馬を難しくしてきたのでプーチンの出馬と続投はほとんど既定路線。その上でプーチン後の体制も見据えている話など、ウクライナ戦争からは少し離れるもののこの地域においては重要な話題には違いないので興味深く聞ける。


■公益財団法人偕行社「小泉悠講師「ロシア・ウクライナ戦争を読み解く」」(2023年9月17日)



 9月1日に行われた講演の配信版。現段階での小泉の総括が約1.5時間に凝縮されており、これを無料で見られるのは非常に贅沢なものである。
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 前回の続き。前回はこちら。


 ウクライナ戦争から一年が経過したこともあってか、この一年を改めて振り返る番組が多かった。
 NHKの動画はなぜか埋め込みができないのでリンクを貼っている(そういうところやぞNHK・・・)。しかし改めて小泉悠がめちゃくちゃ出ているな(大学が春休みという事情もあるだろうが)と感じた。

■国際報道2023(NHKBS1)「ロシア人への怒りと恐れが表面化” ロシア系住民には戸惑いも バルト三国のラトビアはいま ウクライナ侵攻からまもなく1年」(2023年2月17日)



 有馬キャスターがラトビアからレポートする特集。ウクライナ戦争関係でラトビアを取材するのはさすがBS1の国際報道だなと思いながら、ロシア(ソ連)に対する怨念の名残を強く感じる特集だった。学校でのロシア語の制限や本などが排除される中、ロシア系住民の複雑な思いを取材しているのも良い。

■報道1930(BSTBS)「バイデン大統領キーウ電撃訪問 “仲裁”強調する中国の狙いは… 」(2023年2月21日)


■荻上チキ・Session(TBSラジオ)「【特集】ロシア軍の侵攻から1年、小泉悠さんと考えるウクライナ戦争のこれまでとこれから」(2023年2月21日)


 小泉悠ゲスト回。50分ほどある特集なので、この1年だけではなく、この1年に連なる過去の出来事(2012年のプーチン大統領返り咲きや、2014年クリミア侵攻に対する制裁についてなど)の振り返りもあるのがよい。

■ニュースウォッチ9(NHK)「【専門家解説】プーチン大統領演説から何を読み取る?国民の支持,中国との関係,制裁の影響…ロシア現地取材で徹底分析」(2023年2月22日)

 小泉悠のゲスト回。
解説部分はロシア市民が戦争をどうとらえているかの分析と、経済制裁の影響やロシアの兵器の現状について。制裁の効果がないわけではないが、制裁だけでは難しいという見立て。兵器についても戦車を多く失っているが、回復もしている。

■日本経済新聞「【ウクライナ侵攻1年】小泉悠氏「プーチン失脚でも終わらない可能性」」(2023年2月22日)


 「一つ大きいのは軍事力が存在していて国家間の対立が存在していれば、それはいつか使われるということを改めて可視化した」という小泉悠の語りから始まる番組。22分というコンパクトな内容だが、この一年間を振り返る上では面白い内容だった。中国の動静についての言及もあり。
 防衛3文書については、安全保障のコミュニティが長年言ってきたことを形にしたものだろうと述べた上で、「政府の文書に書く前に国民に一言あってしかるべきだった」と不満を述べているのも印象的だ。「いかにして戦争を起こさないようにするか」は政府や防衛省だけの仕事ではない。民主主義の思想に則った上で日本全体を巻き込んで考えていかなければならない、ということなのだろう。

■日経プラス9(BSテレ東)「ウクライナ侵攻1年 アメリカが描く戦争終結のシナリオ」(2023年2月24日)



 ロシアは攻勢を強めていると言いながら、アメリカ大統領がキーウを(あっさり)訪問した、というのはロシアと世界双方に対して大きなメッセージになったはずだ、との鶴岡の指摘は重要。アメリカでは共和党が支援疲れを訴える中で、バイデンがウクライナ支援を改めて現地表明した意義は大きい。

■国際政治ch「細谷雄一×高橋杉雄×鶴岡路人「ウクライナ侵攻、1年」 」(2023年2月25日)



 最近刊行になった鶴岡、高橋それぞれの単著の紹介を挟みながら、ウクライナ戦争一年の振り返り。ウクライナの死者数に言及する場面で、まだ埋もれている未計数の膨大な死者数(マリウポリなど)がいるはずだ、だから今わかっているよりもっと被害は大きいはず、という指摘は印象に残った。

■豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス「ロシア大攻勢の”初戦”は失敗か?ウクライナ戦争2年目の戦局は」(2023年3月2日)



 この一年間を振り返りながら2年目の攻防や展開を予測する動画。バイデンのキーウ訪問や消耗しながらもバフムトが持ちこたえていることを挙げながらロシア軍の「失敗」を指摘。また、ワグネルとロシア政府との緊張関係についてはプリコジンとショイグ国防相との間の対立があるのだろうと解説している。


■豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス「ロシアは敗北しないのか?ウクライナ戦争2年目の論理と欧米の失敗」(2023年3月2日)



 前記の動画と同じ日に公開されているが、こちらは戦局からいったん目を外し、ロシアが戦争を継続する論理とその継戦能力についての分析。兵器の損傷は激しいが、20世紀型のオールドタイプの兵器はまだ残っており、生産可能。財政力については原油価格の上限規制を欧米が仕掛けているが、こうした経済制裁は即効性というより、中長期的なダメージを与えるものという見立て。


■報道ステーション(テレビ朝日)「「プーチンにとってその程度の命」ロシア優勢の裏に“非人道的”戦術」(2023年3月9日)



 高橋杉雄ゲスト回。バフムトの攻勢でロシア軍の死者が膨大に上がっていることはこれまで指摘されてきたが、そのロジックはプーチンの戦争の目的より人命のほうが軽い、大義のために死ぬのだからむしろ良い、という解説。同じようなことは80年代のイラン・イラク戦争でも同じようなロジックで、訓練を受けてない兵が地雷原を歩いて突破した、という事例があったとのこと。いずれにしても、人の命が軽すぎることを改めて感じさせられる。

■報道1930(BSTBS)「ウクライナ“大消耗戦”の真実 ロシア“動員兵”「消耗品でも肉片でもない」」(2023年3月16日)



 小泉悠、兵頭慎治ゲスト回。前半はアメリカの無人機墜落について。これで緊張感が急激に高まってはいないものの、大国間のにらみ合いが続くとこういうことが起こりうる、それはリスクだという小泉の指摘は重要。戦争のエスカレーションはお互い回避したい中での事象であるため。中盤ではロシアの消耗についての議論になるが、大量動員をして人海戦術的な戦いをやるのはソ連時代からのやり方で、ロシアからすれば想定の範囲内。つまり、消耗が激しいからと言って戦争を止めるということにはならないだろうと兵頭が指摘している。

■テレ東BIZ「“第2のウクライナ”に?ロシアが欧州最貧国・モルドバの政権転覆計画か」(2023年3月17日)



 隣国であり、凍結された紛争地域である沿ドニエストルを抱えるモルドバ。貧しい国であり、インフレに苦しむ市民からはサンドゥ大統領に対する不満も噴出している。そんな中でロシアによる、サンドゥ政権転覆の計画があったことを大統領自身が公開した。アメリカも同じような認識を示している、と番組は解説している。モルドバ国内の反政府デモにロシアの手が及んでいることも狡猾であるし、沿ドニエストルをも利用しようと試みている。これがロシアのハイブリッド戦争である、と。

■国際政治ch「大庭三枝×東野篤子×鈴木一人「日本の外交力」」(2023年3月25日)



 もともと日本外交に焦点を当てた回だったが、岸田のキーウ訪問のタイミングと重なったため、多くの時間をその評価に割いている。物議をかもした某しゃもじについてここまで議論が交わされるのは尺に余裕のあるネット番組ならでは。
 また、民主主義と権威主義といった単純化して理解しようとする向きについては、「それぞれの国にはそれぞれの利害がある」ということを改めて主張している鈴木の言葉が印象に残った。今回のウクライナ戦争を見ていても、どちらでもないグレーな領域は多分にある(し、そういった勢力が早期の終結や和平を望んでいるかもしれない)。

■角谷暁子の「カドが立つほど伺います」(テレ東)「ロシア軍 失速? 中国はどこまで支える?」(2023年3月28日)



 兵頭慎治ゲスト回。バフムトではここしばらく激しい戦闘が続いているが、ゼレンスキーのバフムト訪問や大きく打撃を受けているロシアの失速をレビューする。ロシアほどではないがウクライナの消耗も大きいため、欧米のウクライナ支援は今後の戦況にとってやはり引き続き重要なキーになってくる。
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 約一年前にロシアによるウクライナ侵攻が起きてからBSの報道番組を中心に番組をほぼ丸ごとyoutubeにアップしたり、テレ東のようにyoutube用の独自番組を作成したりと、結構ネットでも見られるものがたくさんあっていろいろなものを見ていた。そのいろいろを、備忘録も含めてまとめとおけばいいんじゃないかと思ったのでまとめてみたエントリー。

 古いものだと戦況がかなり変わっているので、比較的最近見た中から10本(とおまけで1つ)選んだ。どれから見ても面白いと思うので時間のある時に、テレワークや家事の合間などにどうぞ。

■豊島晋作のテレ東ワールドポリティクス「ウクライナ戦争解説セレクションぁ岾戦300日」」(2022年12月30日)


 テレ東の豊島アナが定期的に公開している番組の総集編第4弾。年末年始にまとめて振り返るにはいい番組でした。小泉悠がゲスト回もあり。 

■報道1930(BS-TBS)「ロシア軍「携帯使用」“失態”発表の意図/兵士が証言 暖冬の最前線で“新たな事態”」(2023年1月5日)


 タイトルは携帯使用の話になっているが、この回の重要なポイントはロシア、ウクライナそれぞれの新年のメッセージを小泉悠が分析しているところ。

■報道1930(BS-TBS)「激戦地バフムト陥落か 戦車供与300両超で始まる“空の戦い” 」(2023年1月30日)


 まずバフムトでボランティア活動をしていた日本人男性のレポートから始まるが、こうした生身の戦場を知ることも定期的にやっておくべきだなと感じる。海戦初期はブチャやマリウポリなど、過酷な現場の報道が多くされていたが最近は少し減ってきたな(当社比)と感じていたので。


■中村ワタルの欧州沸騰現場「ウクライナから報告!国営通信 平野さんと考える戦時下のメディア」#103(2023年1月31日)


 「ウクライナのメディアってどんなのがあるの?」から「それぞれのメディア(国営、民間、公共、ネットetc.)の作られ方」まで、動画は短いが話題は広く、初めて知ることが多くて面白い番組だった。平野さんは開戦当時からキーウで積極的に情報発信をされているメディア人なので、彼の話す話題は非常に信頼がおける。

■角谷暁子の「カドが立つほど伺います」(BSテレ東)「米独が戦車供与 新局面を迎えたウクライナ情勢の行方は 東野篤子(筑波大学教授)」(2023年1月31日)


 前半は各国からの戦車供与の話。何がどの程度供与され、どうやって運用していくのかという実践的な話が面白かった。後半はロシアの兵器や財政の現状、今後予想されるスケジュールなど。兵器も厳しいし、財政的にも余裕はない状態でいつまで戦争を続けられるのか。エネルギー価格の上昇もひところより一服したためロシアの収入は逓減し、各国の経済制裁の効果は今年になって効き始めるのではという指摘も興味深い。

■PBS FRONTLINE"Putin and the Presidents: Julia Ioffe (interview) "(2023年2月1日)


 ロシア出身で、プリンストン大学を卒業後に複数のメディアで勤務したのち、いまは「Puck News」というショートニュースを配信するメディアに所属しているJulia Ioffe(ジュリア・ヨッフェ)のインタビュー。日本では小泉悠が時折試みているが、ここではIoffeががアメリカの視点からプーチンの脳内を解剖し、彼の中でgeopoliticsがどう見えているのかを紐解いてゆく形式のインタビュー。

 インタビュー序盤ではっきりと、これはウクライナとの戦争ではなくアメリカとNATOとの戦争だ、つまりワシントンとブリュッセルとの戦争だ(とプーチンは考えている)と話しているのが印象的である。インタビューは60分合って全部をちゃんと見たわけではないが、基本的にloffeはプーチンのこうした観点をフォローするような形で語り続けている。抽象的で複雑な議論ではなく、非常にクリアで明快な議論をしているところも印象的だ。

 PBSは以前"Putin's Road to War"という番組を制作しており、その際もloffeがインタビューを受けていたが、アメリカではウクライナ戦争の論客として継続的に情報発信をしているようだ。




■山川龍雄のニュースの疑問「解説:戦争はいつまで続くのか〜ロシアとウクライナの継戦能力」(2023年2月3日)


 山川龍雄は経済記者出身なので軍事の専門家ではないが、テレ東の山川解説はいろんなデータを示してくれるのがいい。ウクライナの鹵獲戦車の話とか、ロシアに対する援助の乏しさなどはやや楽観的な観測に見えるものの、ロシアが所有する兵器の現状は厳しそうである。とはいえウクライナも今後継続的な支援がなければ戦争の継続は難しいので、一進一退はしばらく続いてしまうんだろうなという感想。

 BSテレ東「カドが立つほど伺います」のフォローになっているので併せて見ておきたい。

■IOG地経学オンラインサロン「ウクライナ侵攻から1年」(2023年2月11日)


 鈴木一人と東野篤子の約1時間の対談番組。この番組は開戦当初から継続的にフォローしており、またテレビ番組のようないろいろな制約もないため、ざっくばらんとしたスタートながら密度の濃い議論がされていて面白い。

■日曜スクープ(BS朝日)「【ロシア大規模攻撃】激戦地で攻勢“兵力倍増か”ウクライナの反撃は」(2023年2月12日)


 今激戦になっている東部バフムトの解説と、今後の大規模侵攻の見通しについての解説。マップを見ながらの高橋杉雄解説はさすがといったところ。

■報道1930(BS-TBS)「ロシア「大規模攻勢」開始か 戦車・戦闘機供与めぐる課題は」(2023年2月14日


 「日曜スクープ」とややダブる内容が多いが、こちらは今後の展開を考える上での兵器の話が多め。

朝日新聞国際報道部(Twitter Spaces)「侵攻1年どうなるウクライナ」(2023年2月19日)


 おまけ的に追加。鶴岡×東野夫妻がセットで出演しながら、ウクライナからの現地リポートも含んだ密度の濃い番組。ツイッターの仕様だと1カ月は録音を聞けるはず。


 今回はこんな感じにまとめてみた。
 戦況が目まぐるしく変わるのでもっと早くやっておけばよかったかなと思いつつ、次回以降も続けていきたい。もうすぐ開戦から1年になるので、そういった感じの特集番組が増えそうだ。
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 以前紹介した『Putin's Way』はプーチン政権の残酷さを時系列的に告発する優れたドキュメンタリーだったが、本作『Wagner:Putin’s Shadow Army』もまた、プーチンがこれまで試みて来た戦争の実情を示す、格好のドキュメンタリーである。2022年だからこそ見るべき、といった類の。



 本作の取材対象である「ワグネル」と称されるロシアの民間軍事会社は、実質的にロシアの傭兵として機能している組織だ。ロシアが関係している民間軍事会社はワグネル以外にも多数あるが、その中でも実力が随一なのは、彼らが多くの内戦に派遣され、アフリカや中東などの各国の政治をかく乱している存在だという事実から伺える。このドキュメンタリーでも中央アフリカ政治と密接に関係し、堂々と、かつ巧みに作戦を実行していく姿がカメラにとらえられている。

 前回も紹介した廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』によると、ワグネルに接近したメディアやジャーナリストは過去にも存在するが、その過程でいくつかの不審な死が発生している。廣瀬によると、それらはワグネルによって「消された」のと同じだと言う。かくしてワグネルはジャーナリズムを近寄せない。本作は、元ワグネルの軍人を初めて直接取材できた貴重な記録でもある。(とはいえその男は、自分のやってきたことを堂々としゃべるだけの小物にしか見えなかったが)

 どちらかというと、もう一人の取材対象者、「バシリー」と名乗るワグネルの代理人という肩書の男の言葉の方が重要だ。彼は先ほどの男のように顔を出すことはせず、安全な場所で取材を求めてくる。家族を持つ、表の人生を持ちながら、裏の人生で世界中で仕事をしているという彼のような存在がワグネルを機能させていること、そしてそれがロシアの戦略に寄与していることが見えてくる。

 「プーチンとその側近たちは国際舞台でのロシアの復権を考えています」というロイターの記者の言葉が印象的だ。そのための戦略の一つは、西側をかく乱し、弱らせることだ。バシリーは言う、「冷戦は終わっていない」のだと。これらは今回のロシア・ウクライナ戦争にまさに直結する言葉である。このドキュメンタリーの最初の方でドンバス地方に送られる話が出てくるが、2022年にもまさにワグネルはウクライナのあちこちで暗躍している。

 小泉悠が『現代ロシアの軍事戦略』で行っている次の指摘も、ロイターやバシリーの指摘と重なる。
 
クリミアやドンバスにおいて軍事力が作り出した「状況」は、ウクライナを紛争国家化することであった。ウクライナを征服して完全に「勢力圏」に組み込むのではなく、同国が西側の一部となってしまわないように(具体的に言えばNATOやEUに加盟できないように)しておけばそれでよかったのである。非軍事的手段や民兵による蜂起ではこの目標が達成できないと見ると、ロシアは正規軍やPMCを送り込んだが、その任務は戦争を終わらせないことであり、実際に2021年現在に至るもウクライナは紛争国家であり続けている。「勝たないように戦う」ことがウクライナにおけるロシア軍の任務なのだと言えよう。(p.171)

 ワグネルは表向き(?)は会社なので、マーケティングや広報を行ってリクルーティングを行う。その手法も本作では一部が明かされているが、情報のコントロールや動画メディアを駆使したリクルーティングは、そのまま政治や紛争介入の正当化のための広報戦略といったハイブリッド戦争の手法に近い。

 人集めも、戦争も、いかに正しいか、いかに偉大かといった情報の書き換えにより、正当化してゆく。しかしそれはもちろんゆがめられた事実であり、オルナタファクトであるわけだから、真実を追うジャーナリストが「消される」のも当然だ。ジャーナリストが兵士として志願しないよう、うそ発見器も使うとバシリーは答えていた。

 こうした厳格な情報管理の中で危険な取材を試みたこのドキュメンタリーは、2022年の今こそ見るべき一本だろう。






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 「経済の停滞とウクライナ問題で緊迫するロシア。世界の目は、大統領ウラジーミル・プーチンに注がれています」
 「追い詰められた時のプーチンは危険です」


 こうしたナレーションでこのドキュメンタリーは始まる。もちろん2022年ではなく、もっと前(2015年)に作られたドキュメンタリーだが、2014年のクリミア編入の後というのは一つポイントだ。その時から(足掛け8年を経て)現在進行形で発生しているロシア・ウクライナ戦争を理解する一助にはなるだろう。(あくまで一助である。プーチンを理解することは重要だが、それがこの戦争のすべてではないからだ)

 かつてのKGB(現FSB)のスパイとしてキャリアをスタートさせた後、16年活動したのちにサンクトペテルブルグの市職員になり、副市長を務めるようになる。ここが、政治家としてのプーチンの活動のスタートであり、この時点から黒い政治に積極的に手を染めて、結果的にその黒い活動により自分のキャリアを築いていく。

 プーチンはやがてFSBの長官に就任し、エリツィンにも認められるようになる。そして、首相へ。このすべてを90年代にやっているのだから、「ただの元スパイ」としては十分すぎる出世コースだろう。人脈を築くこと、そのためには裏の世界とつながることともいとわない、手段を選ばないスタイルがすでに築かれていたことがよくわかる。

 90年代はソ連崩壊によって長くロシアが苦しんだ時代だ。そのため、2000年代に颯爽と登場したプーチンはロシア国民の期待を多く背負ったらしい。実際に2000年代のロシアは経済的には好況なディケイドで、BRICSと呼ばれる巨大な新興国家に名を連ねるようにもなる。このことは、当時高校生だった自分も現代社会や政治経済で学んだことだ。

 少し話を変えるが、廣瀬陽子の『ハイブリッド戦争』の中で、今のロシアを代表するPMC「ワグネル」についての記述がある。しかし、ワグネルの実態はまだよく知られていない。なぜなら、記者やジャーナリストがワグネルに近づこうとすると、「消される」からだと廣瀬は述べている




 このドキュメンタリーでもプーチンの闇、たとえばマネーロンダリングなどに接近しようと様々な人が登場するが、迫り切れない。全員が「消される」わけではないものの、核心に近づくことはできない。不都合な人間を排除する方法はいくらでもあるのだろう。

 1999年にはモスクワで高層アパートの連続爆破事件が起きる。このタイミングでプーチンは首相に就任しており、事件後にチェチェンへの侵攻を開始した。



 非常に奇怪な事件であるが、その後のチェチェン侵攻にあたってのプーチンのロジックは一貫している。目的のためなら手段を選ばない。敵を敵たらしめるために、自分の国の無実の民間人すら犠牲にする。同時に、まだ政治家として知名度がほとんどなかったプーチンが自分の存在をアピールするためにあちこちに登場したとドキュメンタリーでは語られる。

 このドキュメンタリーの邦題は「プーチンの道」となっている。彼の歩んだ足跡を表すという意味では悪い訳ではない。ただ、原題がway(roadではない)なので「方法」と解釈してもよいはずだ。いかにして彼は地位を駆け上がってきたか、そのhowがつまったドキュメンタリーであり、ある意味一貫してきたその手法(人脈構築に余念がなく、目的のためには手段を選ばない狡猾さと冷徹さを発揮する)は2022年にも顕在化している。

 もっと根本的に重要だとされるプーチンの歴史観についてはあまり触れられていない。これについては例えば以下の本で補う必要があるだろう。それでも、わずか50分ほどでプーチンの脳内と彼の歩みを把握できるという意味では、オススメの一本である。少なくとも2022年を生きるわたしたちは、彼の脳内を覗き見る価値はあるだろう、大いに。

ファシズムとロシア
マルレーヌ・ラリュエル
東京堂出版
2022-02-26

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見:ホール・ソレイユ

 『1987』や『国家が破産する日』など、去年から意識的に韓国の現代史を題材にした映画を見ているが、その中でも18年間大統領の在位にあった朴正煕を暗殺するまでの40日間に密着した本作を楽しみにしていた。少し前に『知りたくなる韓国』で韓国という国家や社会の成り立ちを勉強していたが、そういった歴史的な知識があった方がより面白く見られるだろうと思う。(韓国人にとっては当然の歴史も、日本人、特に若い世代にとっては近いけれど少し遠い国の歴史はリアリティが薄いため)

 とはいえ、『1987』やあるいは『タクシー運転手』あたりの軍政期の末期の民主化運動を題材にした映画は製作が容易ではなかったとも聞く。本作についても、「事実を基にしたフィクション」という体裁をとった映画としてキャラクターの名前は一部を変えられている。朴正煕の娘である前大統領朴槿恵政権が継続していた場合、本作を含めた一連の映画の製作は難しかっただろう。

 朴槿恵はただでさえ左派、リベラルの文化人をブラックリストとしてピックアップしていただけに、自身の父の威信に関わる映画を(しかも父を民主化を阻害し、市民に対して暴力装置として機能する敵として描く映画を)作るという行為は許しがたいものであったはずだ。ゆえに、朴槿恵政権が倒れたおかげで戦後史や現代史を題材にした映画が作られるようになったのは、当の韓国に住む人たちにはもちろん、海外で見る自分のような立場においても韓国という国を概観し、理解するための有益な道具となっている。これらの映画はそれぞれ独立しているが、続けて見たり比較したりすることで、鑑賞する側にとって戦後史をもう一度振り返り、現代を見つめなおすためのひとまとまりのプロジェクトクトのように見える。

 前置きが長くなったが、本作は大統領暗殺という明確な着地点を設定した上で、それがなぜ起きたのかを解き明かしていくミステリーのような構造をとっている(いわゆるwhy done it型のプロットである)。しかしそれ以上に本作を覆うのは韓国映画ならではのノワールの空気感である。それを真正面から体現するキム・ギュピョン役のイ・ビョンホンが最初から最後まで本当に素晴らしい。

 戦後も長く軍政が敷かれ、民主化までに長く時間がかかった韓国社会において、KCIAのような諜報機関の暗躍や、政治的に対立した人間に対する拷問や虐待などは珍しくなかったはずだ。本作でもわずかながら拷問のシーンが描かれているが、これがリアリティを持つのはまだ近い歴史だからだろう。若い世代は別として、中高年以上の世代にとって軍政の記憶はまだ生々しく残っているはずだから。

 先ほど最初から最後まですばらしいと書いたイ・ビョンホンが物語の軸である。あくまで本作の軸であって、すべての答えを提供しているわけではない。ただ、実行者である彼の動機、つまり心理的な動きの変化に密着することで、直接的な答えとはまた違う意志も見えてくるようになっている。韓国では現在でも権力に欲がくらんだという解釈と、朴正煕の独裁に対して反逆したという二つの解釈があるようだが、どちらが正しいとも言えない(どちらとも正しく、またどちらとも間違いの可能性もある)。イ・ビョンホンがあまりにも完璧な演技をする(特に表情、目の動きが素晴らしい)ことで、観客に対して様々なボールが投げられる。それらをどうキャッチして、どう解釈するかはこちら側にゆだねられているのだ、最初から最後まで。

 歴史でもあり、現代でもある1979年のことを考えるならば、その後に続く歴史である『タクシー運転手』(光州事件)や『1987』(6月民主抗争を中心とした一連の民主化運動や学生運動)に思いを馳せてもよいと思う。民主化して30年以上経つとは言え、少し前までは軍政期のイメージをもまとう朴槿恵が政権を持っていたのが韓国という国家でもある。過去は一時のものとして終わらずに現代まで確実につながっているということを、改めてこの映画を見て考えていた。





知りたくなる韓国
春木 育美
有斐閣
2019-07-11


1987、ある闘いの真実 (字幕版)
ソル・ギョング
2019-02-06


国家が破産する日 (字幕版)
ハン・ジミン
2020-04-08




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NHKスペシャル 平成史 第3回▽“劇薬”が日本を変えた〜秘録小選挙区制導入

◇いま小選挙区制導入を振り返る意味
 NHKが「平成史」というくくりで、平成を象徴する出来事を振り返るNスぺを継続して作っている。一回目は野茂英雄というのはやや意外性があったが、二回目が山一證券破綻というのはやや妥当すぎるとも思えた。
 そんな中、三回目のテーマが小選挙区制導入という、前の二つのテーマに比べればやや地味であり、しかしながらいまの国政にもダイレクトにつながる(安倍一強とか、野党の多弱とか)テーマを持って来たなという印象を受けた。
 選挙制度それ自体を取り上げるのは地味ではあるが、しかし政治を考える上で選挙制度というのは非常に重要なトピックだ。選挙の時だけ盛り上がるのはいまでも変わらないし、その盛り上がり方も昔と今では違う。そもそも、いまの若い人たちは社会党なんか知らないし、ましてや55年体制という言葉も知らないだろう。30代だとしても昭和の時代をリアルには知らないから、政治に興味がなければ昔の政治なんて知らない。
 そんな現状で、しかしいまの自民党一強多弱を生んでいるのはまぎれもなく衆議院における小選挙区制度に依るところが大きいわけで、振り返る意味はあったんだろうなと思う。

 番組自体は後藤田正晴から始まり、金丸信や小沢一郎を経由して、ポスト55年体制の主役となった細川護熙と河野洋平の会談、そしてそれを演出した森喜朗へのインタビューへをたどりついたところがクライマックス。エピローグとして流れるのは鳩山由紀夫や菅直人の登場の一方、小選挙区制導入と小沢一郎を猛烈に批判しながら、小選挙区の時代に勝ちまくった(たとえば2005年の郵政選挙)小泉純一郎を取り上げる。
 ゼロ年代に長く衆院議長を務めた河野洋平が政治の表舞台に出てくることはもうないし、森も小泉も細川も、あるいは小沢一郎も現代ではただの老害と化してしまっているので、番組で振り返る時代の彼らの若さ(特に小泉や細川)は同じ平成でもそれくらいの時間が経ってしまったのか、という気さえしてしまうが、良くも悪くもやはり平成の国政は小沢一郎を中心として動いて来た時代が長かったことを実感させられる。

◇小沢一郎の時代

 いまではもうほとんど小沢一郎の存在が目立つことはないが、少なくとも民主党が政権を持っていた時代まではこの男の名前が表舞台からなくなることはなかった。
 小選挙区制導入へのこだわりを小沢が見せたのは、これはゼロ年代に入ってからもそうだったがイギリス流の二大政党へのこだわりが強かったからだろう。他方で、後藤田は長く続いた55年体制が国政を劣化させることを恐れた。冷戦崩壊を経て世界がめまぐるしく変わっていく中で、自民党と社会党がほどほどに議席を分かち合うかつての仕組みを捨て、生きるか死ぬかの小選挙区制導入を急いだのは、いまから振り替えれば理解できる。
 ただ、当たり前だがそれはこれまでの自民党を否定することに直結する。55年体制下の自民党は派閥間闘争によって疑似的政権交代を生み出してきたとも言われているが、それを後藤田はもはやポジティブに評価できなくなった、ということなのだと思う。
 やがて大量に刺客を送り込んだりチルドレンを生み出して小選挙区で勝ちまくる小泉が、小沢憎しも相まって小選挙区制批判の先鋒だったというのは、なかなか皮肉めいて面白い。
 ただ、小泉だけではなく現状維持にこだわる政治家が圧倒的多数であり、小沢の思い通りにはなかなかいかないのも、妥当なものとしてうなずける。

 それでも実現したのは自民党の下野と、最終的には森喜朗のセッティングした河野と細川の会談だった、というのが今回のNスぺの結論だった。
 その結論にどうこう言うつもりはないが、結果的にいずれ自民党総裁に就く森喜朗が小沢一郎の願望をアシストした結果になった、というのもこれまた皮肉なもののように見える。
 森喜朗によって、小沢一郎の時代がむしろここから始まっていくのだ、とも言えるからだ。

◇選挙制度改革への拘泥と、永遠に三合目の政治改革

 小選挙区制にするメリットは、その時々によって票の入り方に大きなばらつきがでるということだ。もちろん死票がその分増えるが、いまの自民党がそうであるように、あるいは09年の民主党がそうであるように、勢いがあるときは大勝しやすい。逆にいまの民主系政党や09年の自民党がそうであるように、大敗もしやすい。
 55年体制化のように、自民党から見えた社会党のような、確固とした大きな野党がいればそうはならないかもしれないが、社会党は社民党になって一気に弱体化した。あるいは、アメリカやイギリスのように、地域や階層によって明確に支持政党が分かれていれば大勝も大敗も生まれにくいかもしれないが、日本の場合国政選挙に影響を与えるのは流動的な浮動票、つまり無党派層である。
 この無党派層をいかに取り込むかが、小選挙区制に入ってずっと試されてきたことだ。だから結果的に、小沢の描いた夢は、絵に描いた餅にしかなっていない。
 あれだけ選挙制度改革にこだわり続けたにも関わらず、である。そしていまも、参院の合区の問題であったり、選挙制度改革への関心は根強い。

 もう鬼籍に入ってしまったが、後藤田にとって小選挙区の導入は三合目でしかなかったという。しかし、政治改革に名の下に選挙制度改革が実施され、まあそのあと90年代後半に省庁再編等々の動きはあるものの、ゼロ年代の国政のテーマは主に新自由主義的な改革とか憲法改正とか自衛隊の位置づけの問題であって、政治改革それ自体が本丸とはなりにくくなっていった。
 もちろん民主党政権になり、大臣政務官の導入、事業仕分け(現在の行政事業レビューに引き継がれる)等の改革はあったし、安倍政権になってから官邸機能の強化といった合理化や「マイナーチェンジ」は行われたが、後藤田や小沢が構想したような国政そのもののあり方を大きく変える制度変革には至っていない。いまはむしろ、そうしたムードすらないだろう。安倍政権のもっぱらの関心は経済政策であり、そして憲法改正なのだから。

 結果的に永遠に未完で永遠に三合目のまま終わってしまった政治改革であるが、選挙制度改革は人々の関心を選挙そのものに向けることには成功した。投票に行こうが行かまいが何も変わらない55年体制時代とは違い、激戦区ではわずかな票差で候補者の生死が決まる小選挙区制は、確かにドラマチックだし、テレビ受け、ネット受けもする。
 だがネット時代の選挙は、かつて以上に熱しやすく冷めやすくなっている印象も受ける。選挙が重要なのはもちろんだし選挙の重要性がかつてより大きくなったのが小選挙区制ではあるが、しかしそれは政治の一部でしかない。大事なことは議会で、委員会で、あるいは霞ヶ関で決まっていく。選挙で決まることは、それらのベースの部分でしかないのだ。
 ネット自体、とりわけ3.11以降のソーシャルメディアの時代になってからは各地で社会運動を起こしやすくなった。国会前でのデモは日常だし、沖縄における社会運動もダイレクトにネットから情報や映像が伝えられる。
 こういう時代には、たとえ政治改革が未完であったとしても、制度外の部分で政治を変えていくことができるかもしれない。それはつまるところ、選挙制度改革にこだわってきた時代の終焉にもなるのかもしれないし、それでもなんだかんだ選挙制度の重要性が(少なくともメディアの中では)失われずにいるのかもしれない。

 平成の次の時代がどういう時代になるかはわからないが、運動の時代はもう少し続いていくのだろう。これはどちらかというと、世界的な流れである。皆が皆選挙の時にわーっと祭りのように盛り上がる時代が終わらなくても、その横で運動の時代が続いていくのであれば、永遠に三合目の政治改革を補完することにつながるのかもしれない。
 まだまだ、後藤田と小沢の影からは逃れられないのかもしれないけれど。 
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見:Netflix

 この映画の話から外れるが、最近NHKでやっていたオリジナルドラマ『フェイクニュース』を見た。北川景子演じるネットメディアの記者が、あるバズりをきっかけとしてその裏を追っていくという話で、政治家の闇までたどりつくか……?という展開になっていた。要はこのドラマは「フェイクニュース」というネタを使いながらドラマを作っていくという展開を目指した。『スポットライト』は実話に基づくせいか、ドラマ性はほとんどない。(全くない、というわけではないが)

 その代わり、ただひたすら、調べ、取材し、編集チームで議論し、また調べて取材し……という報道に必要なルーティンを繰り返し描写する。ボストングローブが実際に告発したのは、教会の牧師による子どもへの性的虐待(それも膨大な数)と、それを隠蔽しようとした教団側という闇であるわけだが、もちろんいきなり本丸は叩けないから外から埋めていく。大人になった被害者であったり、何かを知っていそうな弁護士であったりと様々であるが、そういうわえで誰かが常にどこかでしゃべっている映画である。

 報道、とりわけ調査報道においては何が重要なのか。それはまずはコストである。時間も費用もかかる調査報道の場合、ある程度アテをつけながら、かつ効率よく取材を行う必要がある。だから、記者とデスク側はこのコストについて論争を常に交わしているし、後半は持ってきたネタをいつどのタイミングで記事に挙げるか、といった話題で喧々諤々と議論となる。ドラマというほどの大きな物語展開があるわけではないが、これはこれで、ディティールという意味での一つの見せどころと言えるだろう。

 取材対象者は先ほどあげたように幅広いが、もちろんどの対象者もがおしゃべりなわけではない。口をつむぐ対象者もいれば、何かをしっていそうなふりをしながらそれを隠す者もいる。取材とはそもそもそういうもの、なのかもしれないが、悪をあぶり出していくプロセスは非常に地道な行為の繰り返しである。
 
 地道な行為を支えるのが熱意であることも、さっき触れた編集部における喧々諤々の議論から垣間見える。クソ野郎どもがいたということはわかっているし、その数がボストンだけにとどまらず膨大な数にのぼることも分かってきた。しかし確実に一つ一つの裏を取っていくのは地道で困難だ。だったら裏の取れた情報だけでも公開すべきだ。いやいや、ある程度まとまった数を出さないとインパクトがないし、小出しにすれば隠蔽されてしまう。などなど。

 明確な答えはないだろうが、ボストングローブの人たちの取材機関は、その時がちょうど9.11の頃と被っていることもテレビの映像で明らかになるが、当時のアメリカは9.11で安全への神話を失い、ボストングローブのスクープによって宗教への信頼を失ったんだなと思うとアメリカ社会の失ったもの、傷を思う。

 いろいろなところで触れられているが、エンドロールまでの一連の「リスト」がお見事である。ボストンの地方紙が動かなければ、すべてが闇だったかもしれない。調査報道の極意というものが、あのリストの中によく表れていた。


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見:Netflix

 グリーングラス作品を見るのは実は初めてなのだけど、まるでドキュメンタリーのようにリアルで生生しい映像に仕立て上げられている。これは2011年の7月22日に起きたノルウェー政府庁舎の爆破事件及びオスロ近郊のウトヤ島で起きた青少年たちのサマーキャンプ襲撃事件を題材にしている。77人もの人命が亡くなり(大半はウトヤ島で射殺された若者たちである)、数百人の負傷者を出したこの事件は、単独犯としては史上最悪の事件として大々的に世界でも報道された。

 その当時のことはよく覚えているし、昔起きた津山三十人殺しですら胸糞悪いほどなのだが、数百人を射撃したブレイビクという差別主義者は、確かに怪物のように見えてならない。本人はそのことをよく理解しており、自分の主義主張を勾留中の面会や裁判でも容赦なく浴びせる。あなたたちは私のことを怪物だと思っているだろうだとか、あなたたちは間違っていて私は正しいだとか、あるいはこれはすでに始まっている戦争であり私がやめても他の誰かが始めるだろうであるとか。その一つ一つのフレーズもまた生々しく、ブレイビクを演じたノルウェー人俳優のすさまじさにただただ脱帽していた。

 改めてこの映画を構成すると、事件を追ったドキュメンタリー形式として淡々と事は運んでいくわけだけど、主に3つのパートである。1つはブレイビク視点で彼の犯罪の経過や勾留後の経過を見つめたパート。もう1つは首相始め政府側がブレイビクと対峙していくパート。そしてもう1つは、息子2人が襲撃され、兄が重傷を負い、弟は無傷で生き延びたある家族の顛末を描くパートだ。この3つのパートが絡み合い、クライマックスとなる法廷ではこのパートがいずれも交差していく。

 ブレイビクと被害者家族を描いただけでも一つの映画としては十分なものになっただろう。むしろ、それぞれのパートの密度を考えるとそうしたほうがよかったかもしれない。ノルウェー政府側のパートをあえて描いたのは、国としてブレイビクにどのように対峙していくのか、という姿勢を描くためだろう。その意味では、後半登場する司法サイド(裁判官や弁護士集団など)のパートもこの政府パートに含めてよい。

 ずいぶん前に死刑を廃止した国であり、受刑者に対しても包摂的な処遇を見せるノルウェーにおいて、ブレイビクという存在を「適切に裁く」のは容易ではない。他方で、彼だけを特別扱いしないという姿勢もまた、それは実際の世論としてあったようだし、この映画にも描かれる。国選弁護人は仕事を全うするし、精神鑑定を司法の取引材料にもする。ある意味、日本でもありふれた殺人犯に対する司法の動きと似ている。だからこのパートで常に提示されるのは、現行の制度において、いかにしてブレイビクと戦うか、という問いへの格闘である。

 そのうえで、被害者であるビリヤルとその家族を描いたのは、ブレイビクと対峙する社会の側を見せるためだ。「この男の前で泣きたくなかった。強くいたかった。仲間のために」とビリヤルは法廷の場でブレイビクに向かって語る。彼は頭蓋骨に銃弾を複数浴び、生死の境を生き延びてきた。片手はマヒしているし片目は失われた。当初は杖がなければ歩けなかった彼も、もがき苦しんだあと「ブレイビクに会うため」にリハビリをやり遂げる。なぜビリヤルは、絶望の淵から這い上がり、再び生きようと思ったのか。「ブレイビクに会うため」という目的以外に、彼が多くの人に支えられていたからだろう。たった一人のブレイビクに対して、「仲間のために」と語るビリヤルの強さ。おそらく彼の言う「仲間」には多くの死者も含まれる。

 「仲間」の一人であろう、映画後半から登場するララという移民の女の子がとても良い。リハビリ中のビリヤルと交流する彼女の献身が救いになるのはもちろんだが、彼女もまたブレイビク(のような右翼的差別主義者)が憎んでいた存在でもある。だが、彼女は彼女なりに、したたかな闘いを続ける。女性で、移民であるということは、たとえ寛容な社会ノルウェーであっても生きていくことには困難がつきまとうはずだ。それでも、いやだからこそ彼女が他者とともに生きていく姿勢を見せることが、その生きざまが最も、この映画を、そして現代のノルウェー社会を象徴しているのではなかろうか。

 ブレイビクに罵声を浴びせようとするキャラクターも登場する(「木に吊るせ」とか「精神鑑定許さん」とか)が、ビリヤルとララは、いずれも確固たる主張を以てブレイビクを、そしてその思想を退ける。もっとも感情的になっていいはずの直接的な被害者であるこの二人が、理性的に、そして淡々とブレイビクを退けようとするのはその言葉に信念があるからなのだろう。つまり、寛容な社会というのは常に社会的に議論をする中で勝ち取っていくものなのだということ、不正義に対しては安易な厳罰ではなく正義を示し続けることで対峙していくべきだということを、この映画は如実に表している。

 いずれにせよ、約2時間半の間、私たちは刮目してこの映画を見たほうがよい。それは、ゼロ年代以降厳罰化の一途をたどる日本の視聴者からしたら遠い世界の出来事かもしれないが、でも確かに、この映画で描かれているのもまた、私たちの生きる国際社会の一片なのであるからだ。





 ノルウェーは修復的司法を積極的に取り入れている国としても知られるが、ここ数十年にわたる司法制度、刑事政策に大きく関与したのがニルス・クリスティだ。少し前に彼は亡くなったが、彼の遺した功績が現代のノルウェー社会の様々なところに息づいていることはよくわかる。
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 4月の頭に「ルート・アイリッシュ」と「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」を2日連続で見てきたんですが、どちらも見終えたあとに何かが残ってしまう映画で、うまく言葉はでてこないんだけどそれぞれに引き込まれる素晴らしい映画だった。
 ジャンルも違うし、社会性とか公共性も全然違うんだけど、どちらも共通していて主人公が大切な人をなくし、その喪失感とどう向き合うか、というスタートラインから始まっていく。
 とりあえずそれぞれの短評を書いてから、いろいろと考えてみようか。

ルート・アイリッシュ(2010年、イギリス、フランス、ベルギー、イタリア、スペイン合作)
監督:ケン・ローチ
主演:マック・ウォーマック、アンドレア・ロウ
公式サイト:http://route-irish.jp/
見:銀座テアトルシネマ

 ルート・アイリッシュは「麦の穂を揺らす風」のケン・ローチの最新作。アイリッシュとあるので今回もアイルランドの映画化と思ったらイラク戦争にまつわる小話、といったところ。大切な友人を喪った主人公ファーガスが、その背後にあったもの(死へつながる直接的な要因や社会的な要因含め)を探りながら、自身も迷走を深めていく、というお話。
 こういった筋書きなのであたりまえだが、明るい話ではありえない。どんよりとした空気感が最後まで消えない。ルート・アイリッシュとはバグダッドから空港をつなぐ間の道路なのだが、「世界で最も危険な場所」と名付けられているらしい。ここがテロの標的にされやすいからだ。映画のなかでは「マズいところにマズい所へ」という形容で、友人レイチェルの死が語られる。

 「ハート・ロッカー」を思わせるのは直接戦場を描写するというよりも、その戦場で具体的に何が起こったか、そして戦場の周辺でどのような人間関係が展開されたか、に焦点を当てている点だろう。それともうひとつ、「ハート・ロッカー」ではロボットが、本作では民間の戦争請負会社が、という対比でいずれも現代の戦争を象徴するキーとなる存在が大きく扱われている点だ。
 そしてその戦争請負会社はファーガスが直面しなければならないひとつの大きな存在でもある。その上で、映画の終盤にファーガスが下した決断を、誰が責めることができようか。

ものすごくうるさくて、ありえないほど近い(2011年、アメリカ)
監督:スティーブン・ダルドリー
主演:トーマス・ホーン、トム・ハンクス、サンドラ・ブロック
原作:Jonathan Safranfoer"Extremely Loud&Incredibly Close"
公式サイト:http://wwws.warnerbros.co.jp/extremelyloudandincrediblyclose/index.htm
見:渋谷シネパレス 

 まずタイトルが長くて気になったんだが、上に載せたように原作のタイトルをそのまま訳すとそらそうか、というお話でした。
 内容は9.11で父親を喪ったオスカー少年が、父の遺した紙切れと新聞記事を手がかりに人捜しをする、というお話。

 前の日に見た「ルート・アイリッシュ」はかなりシリアスで暗さが際だった映画だったが、こちらは爽やかさと明るさが印象的だった。それはおそらく主人公のオスカー役の少年が非常に生き生きと感情表現しているからだろう。アスペルガー症候群特有のひとつでもある早口もかなり流暢にしゃべりこなしていた。ほとんど演技経験がないというのはびっくりでしかない。
 最初はひとりでアメリカをさまよいつづける。9.11で亡くした父親の面影を探すために。途中から祖母の間借り人の老人が付きそうが、基本的には子守り程度でオスカーに深く介入はしない。むしろオスカーも間借り人も、二人ともがなにかを探し求めてさまよっている、という構図に見えたのが印象的だった。
 小さな旅を通じて成長を見守る。9.11を描いてはいるが、ある意味かなり王道とも言える映画だった。王道な展開にするためにあえて9.11をかぶせてみたのかもしれない。

 この映画には「ルート・アイリッシュ」のような悲劇はなく、喪失を克服するわけではないが乗り越えていくきっかけを、最後にオスカーは掴んだはずだと思う。
 ファーガスもきっかけを探していたのだろうと思う。乗り越えられるかどうか、克服できるかどうかよりも、彼にとっては死の真相を知ることが第一歩だった。だが現実には権力が立ちふさがる。一人の人間にできることは、あまりにも無力でしかない。
 極端かもしれないが、きっかけを手に入れられるか否かでひとつの分かれ道ができたのかもしれない、とこのふたつの映画を見比べて思った。

 もちろんオスカーとファーガスが直面する事態は違うし、ちっぽけな少年にとっての父親の死と、ファーガスにとっての友人の死を比較することはできない。
 だとしても、だとしてもあと少し何かが違ったら、とふと考えてしまう映画だった。実現可能性とは別に、オスカーもファーガスも手を抜くことも諦めることもない。その必死さが、いつか自分に襲いかかってくるかもしれないということも、オスカーはまだ気づかないかもしれないがある程度人生経験を経た人間なら実感のあることだ。
 どっちが正しいとか間違っているわけではない。Fate/Zeroの22話を見ていると、「命と天秤にかけられることなど、長く生きてもなかった」という台詞があった。つまりはそういうことなのかもしれないし、命と天秤にかかってしまう事実と直面した以上(この場合オスカーにとってはおおげさかもしれないが、少年にとって父親の死ははかりしれなく大きなものだとは思う)それ以上追求することはないとも言える。

 天秤に”かけてしまった”、つまり後戻りできない状況に自分で追い込んだのはもちろんファーガスのほう。オスカーはちょっとずつ前を向いていく。2日連続してみるとあまりにも対比的だなあと感じた。
 ものすごく〜の映画そのものについて触れておくと、大人が子どもを見守るというとパターナリスティックなものを想定するけどぜんぜんそうじゃない。街で出会っていく大人たちも、オスカーを子ども扱いはしないし、譲歩もしない。エゴむきだし、とは言わないがあくまで個人として個人と接しているという(その意味ではアメリカ的なのかもしれない)ことが基本にあったように思えた。もちろんオスカーのたゆまぬ精神やしつこさ(ほめてる)に大人が根負けするような展開もいくつかあるが、オスカー個人の魅力によるものであってそれ以上の意味はほとんどなかったんだろうなあと感じた。
 それでも彼がやはり子どもであるということを、トムハンクス演じる父親が回想シーンで断片的につづいていくことで実感させられる。子どもでもあるし、子どもというだけでもない、固有名を持った一人格でもある。言うはやすしだが、表現としてきれいに落とし込んでいるのはすごく素敵で寛容さがあるなあと感じた。だからある意味展開のご都合主義さはこの際除外してもいい。ルート・アイリッシュのように度肝を抜かれるようなことは少なかったが、プロセスの描き方、人ひとりひとりの接し方は丁寧に表現されていた。

 そんな4月のある2日間だった。次の日からは大学院の授業が本格的にスタートしたので、ほんの最後でつかの間の休息をすばらしい映画とともに過ごせたのは本当によかった。
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