見:Jaiho
1998年に『八月のクリスマス』で商業デビューしたホ・ジノ監督の2作目、という位置づけらしい。Jaihoで配信終了が迫っていたのでなんとなく見た映画だが、まあ何と言ってもヒロインのイ・ヨンエが魅力的であり、ヨンエの演じるラジオ局のDJ兼プロデューサー、ウンスに惚れ込んでゆくサンウの気持ちは理解できる。
イ・ヨンエ演じるウンスが最初から最後まで自然体なのがとても良い。まあこれがサンウを惚れさせた要因でもあり、サンウとの破局へとつながる要因でもあるわけだけど、出会ってから関係が深まってゆく前半のイチャイチャから、違和感の夏を経て後半のしっとりした展開へシームレスに移り変わっていくのが良かった。時間の流れを描くことが主眼で、二人の破局は織り込み済みだったということがよく分かるのだ。
冬に出会った男女が春を経て、夏にひびが入り、そしてまた次の春へ、という1年間の時間を描いているが、この終わり方についてはつまり、春の日が過ぎゆく間に失われるものがいくつもあった、ということなのだと受け止めた。だからこそ、「音声を記録すること」(録音技師)を仕事としている主人公サンウのストイックというか、不器用な性格が最後まで映画の雰囲気にマッチしているとも言える。記録を何度も何度も呼び起こすとしたら女々しい気もするけど、そういう行為を普通にやってそうな気もするキャラクターではあった。
いくつもの場面で食事のシーンが移りこむが、(おそらく手っ取り早く済ませるために)ラーメンばかり食べる男女と、三世代が食卓を囲む実家での風景が対照的になっている。ラーメンばかり食べる男女のインスタントな関係は、盛り上がるのも早いが、終わるのも早い。他方で老人の余生は短い。実家には両親と祖母がいて、祖母は認知症の症状が出ており、食事がおぼつかないシーンも映される。両親よりもこの祖母が何らかの形で物語に絡んでくるのだろうとは思っていたが、その絡ませ方はなかなかに絶妙である。
若い二人の関係性は、余命という障壁はないものの恋愛初期の盛り上がりを楽しむフェーズから、互いが互いの感情を読み合う構図へと少しずつ変化してゆく。前述する食事のシーンは何度も登場するが、二人が腹を割ってじっくり話し合うことはない。むしろ常に何か足りない会話だけが繰り返されてゆく。だからこそ、ウンスが会いに来てほしくないときにサンウが押しかけたりだとか、サンウを拒絶したはずなのに別の(おそらく年上で、サンウよりはイケメンで経済的に豊かそうな)男との逢瀬に乗り換える。前半の盛り上がりを見ていると、後半の浮気はあまりにもあっけない。
男女関係はあっけないんだ、それはまるで美しい春が過ぎゆくようにね、とこの映画は表現しているように見える。一面的にはおそらくそうなのだろうと思う。あえて別の見方をすると、やはり関係性を深めるにはコミュニケーションが欠かせない、ということなのだ。実家にはサンウ含めて4人もいるから、何もしなくても食事中に会話が発生する。
でも食事の場面に二人の男女しかいない場合、どちらかが会話を切り出す必要がある。少なくともその糸口を見つける必要がある。二人は雑談することはできるけれど、それ以上のコミュニケーションは難しかった。ウンスとサンウにとって、目の前の相手と対話をすることは容易ではなかったのだ。たまたま出会った若いタクシードライバーとは笑いながら会話することができるのに。
男女の会話劇を作りこむ恋愛映画は珍しくないだろうが、この映画の場合は極力会話を削ることで、会話以外の男女の造形を映し出しているようにも見える。皮肉ではあるがだからこそ、イ・ヨンエの表情一つ一つだったり、彼女のファッションだったり、髪型だったりに目が行ってしまう映画でもあるなと思った。他方で、この映画を通じて人生の儚さを重ねて実感することになったサンウにも、また良き出会いや人生がありますように、と思える美しいエンディングだなと思った。
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