痛快かつ超教育的で、限りなくヒューマニティ ――『セックス・エデュケーション』ファーストシーズン(イギリス、2019年)2020年代のウェブで日記を書くことについて

2020年01月28日

余白と不連続が映し出す夏 ――『お嬢ちゃん』(2018年)



見:横川シネマ


 映画を見たのは公認心理師現認者講習会を終えた初日で、広島にいる間に一度横川シネマに行ってみたかったこと、そしてそこで何か見たいものはないか(そして時間に合うものは)と考えたところ、ENBUゼミナールが制作に関わっている本作を見ることとなった。ENBUゼミと聞くと濱口竜介を思い出したわけだが、本作とは特に関係性はなかった。

 130分ある本編だが、最初の半分ほどは、そもそもこの映画をどのように見ていけばいいのだろうと戸惑うことが多かった。萩原みのり演じるみのりという若い女性が主人公なのは分かる。彼女がほとんど唯一、全編通じて登場するキャラクターになっているから逆説的に主人公だとも言えるが、そのようにまわりくどく考える必要があるほど、本作に一本線の通ったストーリーはない、と思う。もちろん一切ストーリーがないわけではなく、独立した小さなエピソードが、連続性を持ったり持たなかったりして映画の中で展開されている、と言うべきなのだろう。

 youtubeに初日舞台あいさつの映像があったので見てみたが、萩原みのりが余白という言葉で表現しているのがなるほどなと思った。



 余白。たとえばただ数人の人物がしゃべっているだけだったりだとか、ただ街のどこかを歩いているだけだとか、家の中でごろごろしているだけだとか、動きはあるが物語的な展開は特段進まないというシーンが多い。逆にそのシーンの方が印象に残るほど、動きがあってかつ物語が動くときは、一気に緊張感を持たせる。みのりがそういうキャラクターだからと言ってしまえばそうかもしれない。ただそれは半分しか正しくなくて、残りの半分は、緊張感を作り出しているのはみのりを取り巻くまなざしであると言えるからだ。

 彼女の抵抗と言えば大げさなのだろうけれど、彼女は彼女なりの信念や正しさをもって自己主張を止めない。そしてその「自己主張を止めない若い女性」を周囲がどう取り扱うのか、どう受け止めたり受け止められなかったりするのか。これはフィクションとして作られているものである一方で、あまりにも濃厚に現代社会の空気が流れ込んでいる映画でもある。

 不連続なシーンやエピソードの多くは、けれどもそれらがこの社会のどこかできっとありうるのだろうな、と思うものばかりでもある。みのりはきっとそれを「くだらない」と評するのだろう。そしてそうした「くだらない」ものに囲まれて生きるしかない自分自身ですら、「くだらない」と自己評価するのだろう。

 ソーシャルゲーム「Tokyo 7th シスターズ」に登場するユニットSiSHの「さよならレイニーレイディ」という楽曲に、「くだらない話を覚えてみたけど 僕はもともとくだらない」という歌詞がある。これは、好意を持っている相手に対して自分を良く見せたい一方で、決して高くはない自己評価とのギャップをみつめた時に生じる葛藤であると解釈した。みのりの場合、特定の相手に好意を持っているわけではない。だが彼女は常に何かに向かい合っている。それは何なのだろうか。

 彼女を取り巻くもの、街、人、社会、そして海。彼女がそれらに直面した時に感じる違和感は、その都度言語化され、自分が見ているものに対して向かっていく。若いとか青臭いとか、そういう言葉で覆い隠せないものを彼女が見せているからこそ、彼女がたとえ平凡な生活を送っていたとしても彼女自身の魅力が減じることはないなと思う。

 付け加えて言うと、みのり演じる萩原みのりの魅力もまた最大限に街の中に投影するためには、生の夏を舞台にした、長回しのカメラショットはひとつの最適解だったのだろうと思う。いつどこで切り替わるかわからない緊張感が長く続くことによって、みのりという女性の存在が比例するように際立つのだ。

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