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2022年05月26日

新しい形態の犯罪者集団はいかにして暴かれたのか ――『サイバー地獄:n番部屋 ネット犯罪を暴く』(韓国、2022年)



 ちょうど新型コロナが流行しだしたころに日本のインターネットでも少し話題になったのが「n番部屋事件」だった。過去にない規模の参加者のいた集団的性犯罪であり、このネトフリのドキュメンタリーでも強調されていたように明確な性搾取の事件だった。日本で話題になったころは主犯格の2人、博士とガッガッがようやく逮捕されたころだったため、事件の概要も子細に語られていた記憶がある。

 ただ、このドキュメンタリーで改めて思ったのは、まだまだ知らないことばかりだったということだ。大規模な犯罪なのにテレグラムを通じた特殊なネット空間ゆえに露見しにくかったこと、プロのメディアではなく最初にこの事件に気づいたのがジャーナリストを志望する大学生2人組だったとのこと(しかも、コンペに参加する一貫の調査の中で事件を発見してしまった)、そして警察がいかにこの新しい犯罪者たちを追い詰めたかということ。

 本編の序盤は犯罪者たちの「性搾取」をアニメーションなどを使って再現することで、実際の加害と被害のイメージを視聴者に共有させることに成功している。そして成功しているがゆえに、アニメーションであってもあまりにも生々しく、残虐である。写真や動画は加工され、フィクショナブルなものに置き換えられているとはいえ、テキストでのメッセージは詳細に再現されている。そのため、このドキュメンタリーを見る前に、そういった心理的に危険なシーンが多数はめこまれていることには留意したほうがよい。女性たちを手招くための細かな手口やグルーミングの詳細が語られるところには何度も吐き気がしたほど。

 中盤以降は追う側の視点が幾重にも重なってくる。「追跡団炎」(メディアによっては「追跡団火花」や「追跡団花火」と訳されることもあるがここでは本作の翻訳に準拠する)として登場する二人の大学生、ハンギョレ新聞の取材チーム、テレビ局、そして警察。



 犯罪者たち、特に博士は追う側であるメディアを執拗にけん制し、脅迫する。それは彼がこれまでグルーミングをする中で使用してきた手口に似ている。脅迫し、要求をのませることで、自分の思い通りに他者をコントロールする。そうした欲望の塊のような存在である博士は、痕跡を多くは残さない。外国にいるというほのめかしさえする。ではどのように追うのか。

 「犯罪者が永遠に隠れることはできません」とは後半に登場するあるホワイトハッカーの言葉だ。テレグラムは痕跡をすぐに消すことが可能なメディアだが、かといってインターネット上のログを抹消できるわけでもないし、IPアドレスを完全に誤魔化すこともできない。新しい性犯罪とはいえ、インターネットを利用している以上、痕跡が残る。その痕跡を使って一つずつ犯人を追うという、新しさと古さが混合したような刑事手法が印象に残った。

 韓国では2016年に江南駅近くのトイレで22歳の女性が全く知らない男性に殺害された事件を一つのきっかけにして、多くの女性たちが社会に対して声を上げている。本作では省かれているが、NHKの『アナザーストーリー』がこの犯罪を扱った時に、多くの女性たちが「n番部屋事件」に対して抗議運動を行い、国会に請願する運動を行ったことも紹介されていた。





 韓国の現代文学や映画でも、女性蔑視やミソジニーといったジェンダー不平等は数多く題材にされている。これほどまでに女性たちが生きづらい社会があるということ(日本も例外ではないかもしれない)を直視することも、このドキュメンタリーの目指す地平だろう。少なくとも、吐き気がするくらいにはその試みは成功しているように思えた。


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2022年04月06日

ナラティブによる揺さぶりと、二人の巡礼 ――『ドライブ・マイ・カー』(2021年)



見:イオンシネマ高松東

 原作である村上春樹の短編集『女のいない男たち』を読んだのはもう何年も前なので、見事に内容を忘れたまま映画を見ることになった。いかにもな村上春樹の書く主人公である家福(西島秀俊)の惰性的なセックスとクリエイティブへのこだわりを見るにつれて、思った以上に饒舌(な印象を受けた)だと思ったが饒舌な主人公は濱口竜介作品にはよく似合う。劇中劇とそれを作る過程を描いた4時間の大作『親密さ』と比べると、劇中劇であるチェーホフの『ワーニャ伯父さん』がちょっと道具的じゃない?(制作のプロセスを詳細に扱っていたのだから、もう少し劇自体を長く見たかった)という不満はあったものの。

 原作である同作以外に同じ短編集から「シェエラザード」のエッセンスを取り入れることで、この映画で最も重要なのはナラティブなのだということが象徴的に描かれ、導入されていく。カップルの性行為(少し風変わりな)を起点として物語を進行するのもいかにもな村上春樹といったところで、ただ主人公がよく喋ることに意味があるわけではない。むしろ、たいていのことは語る彼の語らないことに意味があるのではないか。そのために、劇中劇が利用されているのではないかという仮説を早いうちに提示する。

 家福に付き添うのは主に二人。ドライバーのみさき(三浦透子)と、スキャンダルによってフリーランスになった俳優、高槻(岡田将生)だ。この二人の間の会話のやりとり、そして高槻が積極的に投げかけるいくつかの質問は、家福を揺さぶる。家福自身の感情を揺さぶり、彼のナラティブ(とりわけ、妻であった音に対するもの)を揺さぶる。

 同時に、会話ないしコミュニケーションは双方向のものであるから、問いかける側も常に揺さぶりを受けることとなる。この揺さぶりが、巡礼のような形で結実するのが終盤のみさきとの長いドライブだ。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』において、ある女性の死をめぐる多崎つくるの巡礼を描いた。彼の旅路は、謎を解くこと自体にももちろん重要な意味はあるが、旅をするというプロセスが彼の感情を揺さぶり続けることに意味があった。

 みさきは、一人では決して訪れることのなかっただろうその場所に訪れる。そして、思わず家福に甘えてしまう。こうした感情のやりとりもまた、家福が音との間に喪失していたものなのかもしれない。みさきの過去をめぐるための巡礼が、みさきとは無関係の他者であった家福を揺さぶる。客観的に見ると、家福がみさきを道具的に利用したようにも見えるが、みさきもまた家福を利用している。

 この双務関係とも共犯関係とも言える関係は、『多崎つくる』にはなかった形の巡礼である。多崎つくるも一人ではなく誰かと一緒に巡礼をしていればまた違った感情が芽生えたのかもしれないし、発見があったかもしれない。もちろん一人旅も悪いものではないが、一人ではなく二人であるということの意味は、意外にも大きいものだったのだろう。

女のいない男たち (文春文庫)
村上春樹
文藝春秋
2016-10-07


村上春樹
文藝春秋
2015-12-04




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2021年12月19日

まどろみとさみしさ ――『へウォンの恋愛日記』(韓国、2013年)



見:Jaiho

 前回『自由が丘で』を見たのに引き続いてJaihoでホン・サンス作品を見てみた。本作も『自由が丘で』といくつか共通していて、ドラマチックなことは起こりそうにない日常の中である男女の恋愛の風景が描かれている。その中では書くこと(今回は日記、『自由が丘で』では手紙)が反復されるし、日記も手紙もいずれも主観的な記録なため、事実関係や時系列は非常にあいまいだ。この映画でも、あいまいなものはあいまいなまま説明しすぎず、静かに時間だけが流れてゆく。

 へウォンは演技を学ぶ学生という設定で、彼女は所属している映画学科のゼミの教授と不倫関係にある。いい加減この関係を終わらせたいと思いながら、冒頭でカナダに行くことになったと語る母と離別する寂しさを埋めるために、教授との逢瀬を選んでしまう。そしてある日同じゼミの学生たちにバレそうになるのだが(おそらく明らかにバレている)、うまくごまかしながら関係を終わらせられず、時間だけが流れてゆく、という筋書きだ。

 そうした日々の記録をへウォンは定期的に日記に書き記そうとする。日記を書くのはいつも同じテーブルで、もしかしたら時間も決まっているのかもしれない。そして日記を書こうとするたびに彼女はなぜか眠くなり、机に伏してしまう。ある時に唐突に目覚めるシーンも何度か描かれているが、彼女が眠ってから目覚めるまでの間に映画が映し出す光景はいったい事実なのか虚構(夢の中の願望)なのか、容易には見分けがつかない。

 『自由が丘で』でホン・サンスは「手紙の順番がわからないが、とりあえず一枚ずつ読む」という方法で映画の中の時系列を混乱させた。最初から登場していた人物が、途中からはさも初めて登場したかのように振る舞うことがあったため、視聴者にもこうした混乱は具体的に伝わっている。他方で今回の場合、夢を見ているへウォン自身にはそれが夢か現実かの判断がつかない。視聴者はいずれもを見ることができるが、やはりはっきりと断定はできない。(これは明らかにうまくいきすぎだろうという展開ならば夢だと判断できるため、まったくわからないわけでもない)

 へウォンの中にあるさみしさが具現化する願望(夢)と、決着をつけなければならない展開(現実)との相関の中で、視聴者は彼女の心理状況を追体験する。いわば「寝逃げ」でリセットしたい気持ちと、消えてくれないさみしさの中で彼女の向かう先を、じっとみつめることができるのが視聴者の特権だということだろう。虚実ないまぜのまま進む、日常を。

ヘウォンの恋愛日記(字幕版)
イェ・ジウォン
2015-06-15



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2021年12月01日

理解されないから、衝動が乱反射する ――『ひらいて』(2021年)



見:イオンシネマ綾川

 綿矢りさの近年の作品では傑作の部類に入ると言ってよいし、2010年代の彼女の飛躍作でもあると思っている。駆け込みで劇場に行ったおかげで、原作を読んだ時の感慨を久しぶりに思い出すことになった。文藝誌『新潮』に一挙掲載だった原作を大学図書館で読んでうおおお、と悶えた記憶がある。2012年の春のことである。気づけば大方10年前の話だ。

 主人公の愛、愛が片思いをしているたとえ、そしてたとえの彼女である美雪。この3者関係が軸となっているのは原作と同じだが、学校とその周辺が舞台になっているだけあって、学校の同級生や先生、またそれぞれの親との会話など、主役3人の生活がより立体的に見えるなと感じた。文化祭に向けたアイドルダンスの練習で始まる冒頭は、今風の女子高生の日常を象徴的に映し出していると言える(楽曲はオリジナルのようだが、明らかに坂道を意識している)。アイドルダンスは一体感とルッキズムの象徴とも言えるので、地味な雰囲気の美雪や、チームワークが苦手な愛がそうした活動になじめないことも、早い段階から予見されているという意味でも象徴的な冒頭のシーンになっている。

 たとえの存在感も、原作よりはくっきりとしている。愛がみつめるたとえ、そして美雪が手紙をつづる相手としてのたとえ、二人の同級生から見つめられながら、しかしその内心は誰も知らないんじゃないかという、曖昧な存在としてのたとえを、ジャニーズJr.の作間龍斗が好演している。少しイケメンすぎるきらいはあるものの、学校でのたとえはほとんど常に表情を崩すことがなく、思考や感情が外に漏れないように見せるキャラクターとしてのたとえを違和感なく演じているのはとてもよかった。普段が普段なだけに、たとえの家を二人が訪問する終盤のシークエンスでは、普段と違ったたとえを演じることにも作間は成功している。

 美雪もまた、愛の視点からすると「よくわからない同級生」だ。美雪がたとえに渡した手紙を愛が盗み見ることで、美雪とたとえの関係に愛は気付く。その発見の後、愛はたとえを攻略することをいったん中止して、愛を攻略しようとする。しかしながら、たとえがそうであるように美雪もまた、一見してよくわからない上に、近づいてもよくわからない存在なのだ。だから愛は時に強引に攻めるというスタイルをいとわないわけだが、そうして身体の距離が近づいたところで、逆に感情のわからなさに愛は苦しむ。人間の心は、物理的に近づけば開くというほど単純なものではない。

 もっともこれは逆から見ても似たような構図だと言える。たとえは愛のことをよくわかっていないし、美雪もまた愛のことをよくわからない。二人とも、そのわからなさを愛に伝えているが、愛からするとなぜ二人が自分のことを理解しないのかがわかっていないのだ。美雪は愛の強引な姿勢と、それが純粋な恋愛感情に基づかないことをおそらく早いうちから察している。

 それでも美雪が愛を受け入れるのは、自分自身の寂しさゆえでもあるだろうし、たとえとの関係があるからだ。美雪は自分とたとえの関係が、愛とたとえの関係に比べて圧倒的に優位であることを知っている。だから愛にどれだけ攻められても、心を完全に許すことはない。自分の性欲を自覚しつつ、その欲に完全に流されることはない。だから、たとえとのプラトニックな関係を数年間にわたって継続することができているのだ。こうした時間の流れを、愛は頭でなんとんく理解していても、腹落ちするほどには理解できていない。

 愛はまた、自分が親や教師にも理解されてないことを知っている。周囲から見たら容姿端麗で、リーダーシップもあり、成績も良好だという評価を受けているようだが、それは彼女の本質ではない。自分の本質をわかってほしいのに、理解されない苦しさ。乱反射、とはパンフレットに掲載されていた山田杏奈の言葉だが、自分自身が誰にも理解されてない、それでもわかってほしいし、自分自身をさらけ出したい。そうした様々な欲求が(強引に)乱反射することで、「ひらいて」ほしいというメッセージを送り続ける。

 原作でも映画でも非常に愛はやっかいな存在で、監督である首藤凛の助言を受けながら愛のことを辛抱強く理解しようと山田杏奈はつとめたようだ。対して美雪は、一見よくわからない薄い存在だが、愛が美雪に接近すればするほど、美雪の芯の強さが際立つことがよくわかる。愛はきっとこの美雪の内面の強さが悔しかったのだろうな、だからこそ、衝動を発露するやり方が強引になってしまったのだろう。実はめちゃくちゃ不器用な愛の存在が、最終的には愛おしいとも思えてしまう、そういう愛を山田杏奈は本当に巧みに、粘り強く演じることができていると思う。

 愛は誰にでもできるような役柄では絶対ないので、原作ファンとしては山田杏奈の好演、熱演が、何よりとてもうれしかった。

ひらいて(新潮文庫)
綿矢 りさ
新潮社
2015-07-24




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2021年11月22日

何もないようで、小さな何かが起こり続ける ――『自由が丘で』(韓国、2014年)



見:Jaiho

 60分を少し超えるくらいの短い映画で、登場人物も限られた人数しかいない。加瀬亮演じるモリという日本人の青年が韓国を訪れ、ある女性を探すだけというシンプルなストーリーだ。モリは韓国で親密にしていた女性がいたが、あるときから連絡がとれなくなり、彼女を追いかけて韓国に来た。会話の流れを見ていると、仕事を辞めて韓国にまで来たようで、ただ単に人探しに来たわけではなさそうである。

 そのモリだが、本当に人探しをしているのかどうかが、映画が進んでいくとよくわからなくなってくる。あるときは宿泊しているゲストハウス近くのカフェのマスター(女性)と懇意になり、彼女の部屋を訪れることもある。またあるときは、同じ宿で暮らしている男性と飲みに出掛けることもある。モリは結局何をしにわざわざ韓国にまで来たんだっけ? と疑わしくなる場面がやたら多い。

 そしてもうひとつ気になるのは、モリが毎日一冊の文庫本を持ち歩いていることだ。表紙から察して検索すると、講談社文芸文庫から出ている吉田健一の『時間』だということがわかるが、まさにこのタイトルである「時間」が非常にくせ者なのである。なぜならば、本作でもっとも重要なのが時間だからである。

 「自由が丘で」とあるのは、モリの通うカフェの店名が「自由が丘8丁目」という日本(東京?)を意識したらしい店名だからなのだが、この空間において時間は単線的に流れない。なぜなのか、その仕掛けは映画の中で明かされていて、なるほどと思う。

 しかし、仕掛けがわかったところで新たに疑問に思うのは、結局モリは意中の女性と出会えたのかということだ。映画はこの女性を前半は不在なまま描写するが、後半ははっきり登場させるようになる。彼女は実は不在でもないし死んでいるわけでもなく、生きている。ただいくつかの事情があって、行方をくらましていたことは説明される。そして、モリも彼女の再会を果たす。ではこの映画はハッピーエンドと言えるのか?

 それがまたよくわからないのが、この映画における時間のトリックだ。現実の時間は不可逆には流れないし、フィクションの中でもその規律を守ることが多い。ただこの映画は、ある仕掛けによってその規律を順守しなくても成り立つ設定に仕立てあげた。そうした時間の歪みと、モリのふらふらとした韓国での暮らしとが妙にマッチして仕方ない、そういう不思議な映画なのである。

 モリの日々には何もないように見えて、あらゆる小さな出来事が起きている。そうしたディティールに目を凝らすことで起きるドラマ、いわゆる日常系アニメが得意として来た手法も実は取り入れられているように思えた。日常系の手法と、時間の流れが曖昧に感じさせる手法の相性のよさは、日本のアニオタならよく知っていることだ。

自由が丘で(字幕版)
ユン・ヨジョン
2015-07-24



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2021年10月04日

静かな夏、追憶と癒しの旅 ーー『サマーフィーリング』(フランス、2019年)





 前回アンデルシュ・ダニエルセン・リーが主演した映画を見たので、その流れで彼が出ている映画を見ようと思った時にたまたまアマプラに入っていた本作を選んだ。もう今年の日本では夏が終わったが、あらすじを見ているとむしろ夏の終わりの余韻にこそふさわしい映画なのではというイメージがわいてきたので、タイミングとして悪いものではないだろうと考えた。

 結果的に、その予感は当たっていたかなと思う。フランス映画らしい、間の多さや、ストーリーの曖昧さ、希薄さを前提にしつつ、だからこそこうした特定の個人への追憶といったテーマは当てはまる。冒頭でサシャという女性の死が語られる。彼女が病院のベッドで横たわるシーンは一瞬描かれるものの、彼女の死そのものは描かれない。必然、これは残された者たちの物語になっていくことが早い段階で予見される。

 アンデルシュ・ダニエルセン・リーは、残されたサシャの恋人であるロレンスを演じている。今回も彼は『オスロ、8月31日』で好演したアンデシュのように、繊細で感傷的で、内向的なロレンスを丁寧に演じている。彼が選ぶ言葉ひとつひとつが、サシャへの追憶を伴っていることがよくわかる。その上で、サシャの遺族を彼は巡っていく。村上春樹が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ほどミステリー要素はない(サシャの死の謎は、残されたまま提示されない)が、その代わりロレンスが自分自身と他者を癒すための旅を始める。

 ベルリン、パリを経てニューヨークまで。彼は一人で旅をする。そしてその過程で何人かの女性と出会っていく。誰もがサシャの死の傷を抱えており、癒しを必要としている。それが新しい恋愛になるわけではない。ある女性の言った、私を接待しないで、という言葉も印象に残った。それを笑って受け止めるロレンスの繊細さと優しさが、画面の中に染み渡ってゆく。

 公園やプールやクラブなど、人が集まる場所にも出向く。こうすることで、孤立しないこと、気をまぎらわすこと、ちゃんと日常を取り戻すことなど、いろいろな意味があるのだろうと感じた。そして何より、サシャが生きられなかった夏を、静かに楽しんでいるようにも思えた。

 残された人間にできることは、生き続けることしかない。そういうことなのかもしれない。ごくごくシンプルだけど、重要なことを丁寧に撮った美しい映画である。

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2021年10月02日

伝統や慣習を蹴飛ばして急展開で進む恋愛関係の複雑さ、面白さ ーー『高慢と偏見』(イギリス、1995年)

#1
2018-11-18


 今年は意識的にジェイン・オースティンの長編小説を読み進めているわけだが、彼女の作品は繰り返し映像化されており、中でも1940年に映画化されて以降、繰り返し映像化されているのが『高慢と偏見』である。最近では『プライドと偏見』という邦題で映画化されており、こちらもプライムビデオで視聴することができる(わたしはまだ見てないのでいずれ)。

 さて1995年にBBCによって映像化された本作は、全6話と日本の連続ドラマに比べるとそう長いわけではない(映画よりはボリュームがあるが)。故に序盤はある程度小説に沿って進むものも、中盤以降(ウィッカムやコリンズが登場してから)は急展開と言ってもいいほどハイテンポにストーリーが進展していく。故に重要なのは細やかな心理描写というよりも、個々の人間関係における駆け引きに焦点が当たっていくことになる。

 ここで言う駆け引きは単に恋愛関係における感情の綱引きではなくって、当時の結婚観や身分、言わば伝統や慣習といった制度的なものに制約された駆け引きだ。例えばベネット家のベネット夫人は原作から飛び出たほど豪快かつおしゃべりでおせっかいであり、冒頭のビングリーに対する反応はコメディかと思うほど大騒ぎをする。

 他方で、ダーシーの印象の悪さや、ウィッカムと駆け落ちした末娘リディアに対する厳しい反応も、ちょうど反転させた程度には大袈裟である。姉妹たちの父であるベネット氏は娘の行く末にさほど関心はないが、関心がないがゆえにエリザベスを擁護するという夫婦間のちぐはぐさはドラマの中でも皮肉を込めて描写されていた(ただこのちぐはぐさがエリザベスとダーシーのドラマを用意するとも言えよう)。

 とはいえそういった周囲の反応(末娘リディアの反応もなかなかである)が姉ジェインや、主人公エリザベスに戸惑いを与える。今とは比較にならないくらい女性の地位が低く、恋愛や結婚も個人の意思より家族親族など周囲の思惑が大きな影響を与える。しかしだからこそ、ジェインとエリザベスはそうした周囲の反応もうまく利用しながら、かつ自分の意思を大事にする。結婚という、自分にとっての幸せを探すために、である。

 最終話、あと15分ほどでドラマが終わろうかと思うとき、つまりもうエリザベスとダーシーが相思相愛であることを確認しているにも関わらず、ある親族のおばさんがエリザベスに対してこの結婚は反対だ、と面と向かって突きつける。なかなか、このドラマらしい展開だなあと思うとともに、最後までエリザベスのエリザベスらしさ、つまり周囲がどう思おうと自分の意思を貫く強さ、独立した個人としての女性といった側面が強調されている。現代の視点でジェイン・オースティンを読むときにフェミニズム的だと評価されるのは、こうした女性個人の意思をオースティンが強く描いたからでもあるだろう。

 「私は自分の幸せを考えて行動します」こう言い切るエリザベスの気持ちは、普段は控えめで賢い長女を演じるジェインにも共有されているはずだ。たびたびパジャマ姿で寝室で二人が語り合うシーンがドラマの中に登場するが、周囲のあれやこれやから逃れてプライベートかつ率直な会話を楽しむ二人のシーンには、シスターフッド的な妙味も感じられる(実際の姉妹に対してシスターフッドという形容が正しいかはよくわからないが)。やはり現代に見直しても面白いのがジェイン・オースティンである。



 小説の書評をmediumに掲載しているのでこちらもどうぞ。

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2021年09月30日

克服できない孤立と、印象的な夏の終わり ――『オスロ、8月31日』(ノルウェー、2011年)



見:Jaiho

 『アワ・ボディ』に続いてJaihoで配信されている中から気になっていた『オスロ、8月31日』を見てみた。『7月22日』で大量殺人犯のブレイビクを冷酷に演じたアンデルシュ・ダニエルセン・リーが、この映画では34歳の薬物依存患者アンデシュを好演している。彼の特徴は、孤独かつ孤立である。孤独なだけならまだよいかもしれない。ただ、リハビリ施設に入所し、つかの間の「社会」でのひとときを過ごす様子を描くこの映画は、徹底的にアンデシュがいかに社会から孤立した、取り残された存在であるかを描き出す。

 例えば映画の前半で就職活動をするシーンがある。雑誌出版社への面接に足を運び、実際に面接を受けるが、次第に彼は意欲を失っていく。面接の前にはある友人夫妻を訪問しているが、依存症患者で職歴もバラバラな34歳の自分には何もないことを実感させられる。その無力感を再確認した就活の面接で彼は、本当に自分には何も残されていないと悟る(もちろんこれは彼の思いこみ、ではあるのだが)。

 自分には何もない、今もこの先も。ある意味俗にいう「無敵の人」に近い存在になったアンデシュがどういった行動を起こすのかをそわそわしながら見守ることになる。ただ、何か特別なアクションを起こすというより、残された時間をどう生きるのかというミクロな行動や感情の生起に焦点が当たっていく。人生のそのどうしようも無さがそこかしこに表出しているのを淡々と撮り続けるカメラと、表情や言葉の些細な変化で演じるアンデルシュ・ダニエルセンー・リーの演技がとてもよかったと言える。『7月22日』とは違った意味で、まともな感情を失ったキャラクターを演じるのが抜群にうまい。

 夏の終わりでもある8月31日に向けて進むストーリーのせいか、あえてドラマチックに、印象に残るように作っている要素もある。束の間の夢のようでもあり、しかしそれは夢ではなく現実の一部でもあるというアンビバレンスさを詰め込んだ夜から朝にかけてのシークエンスは、アンデシュの心の動きとはおそらく連動していない。彼の心の動きとは無関係に周囲の人間たちはリアルな時間を生きている。ゆえに孤立が際立つ。

 こうした孤立の克服できなさをいくつもの場面で経験することになるアンデシュにとって、このオチ以外はないのだろうという終わり方を選択する。良くも悪くもそれだけと言える映画かもしれないが、社会の中(の人間関係)における孤立、あるいは社会の外にある孤立(社会の中になじむことができない疎外感や無力感など)を描いた映画としては白眉な作品だと言えるだろう。

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2021年09月26日

ランニングのメタファー、身体感覚、関係性 ――『アワ・ボディ』(韓国、2018年)



見:Jaiho



 Jaihoという映画配信サイトで今日まで配信だということを知り、急いで見てみたがとてもよかった。この映画には夜のシーンが多く登場するので、深夜に見たのはとても心地が良かったのかもしれない。女と女の関係性を描く映画だと言ってしまうのは単純かもしれないが、その描き方が好きな映画だったからよかったと素直に言えるのだと思う。

 主人公のチャヨンは31歳。冒頭、公務員試験予備校の講義を受けている様子が流される。ミクロ経済学やマクロ経済学といったワードを聞くと、27歳まで公務員試験を受けていた過去の自分のこともいくらか思い出されるが、日本以上に若者の就職が厳しい韓国ではまた違った重みがあることだろう。しかも31歳で女性となると、である。結果的にチャヨンは試験を放棄し、データ入力のアルバイトを始める。そのバイト先でもまた就職にあぶれた若者たちが何人もいて、休憩時間にインターンはどこにいく? という会話をしている。

 こうした現実に直面するチャヨンがある日、外でひとり酒を飲んでいたところ颯爽と通りかかったのがヒョンジュだった。ランニングウェアを身にまとった彼女は、チャヨンの落とした缶を拾うと、再び颯爽と駆けていく。その姿に見とれていたチャヨンは、思い立ってランニングを始める。そしてヒョンジュたちと同じランニングサークルに入り、一緒に練習を行うようになる。
 
 ランニングを通じて関係が深まり、現実とも向かい合っていくようになる・・・というような筋書きではおそらくない。ランニングはいくつかの意味でメタファーである。まず、自分を鍛えることである。自分の心と体を鍛える手段として、偶然目の前に現れたのがランニングであり、ヒョンジュだった。ヒョンジュがダンスをしていたらチャヨンもダンスをしていたかもしれないし、ヒョンジュがギターを弾いていたらチャヨンはギターを覚えようとしたかもしれない。また、ランニングを始めたからと言って現実はそう簡単に好転していかない(つらい)。

 ただこれは個人的にも(市民ランナーの一人として)感じることだが、現実から逃げるための手段としてランニングというものは非常に便利だ。まず、楽器などと違って始めやすい。シューズと、ちょっとしたウェアさえあればよい、最低限の。そして、走っている間は無になることができる。

 ランニングの場面ではチャヨンとヒョンジュが併走したり、前後を走るシーンが繰り返し映像に登場するが、二人はほとんど会話を交わさない。唯一会話が弾んだのはヒョンジュの部屋を訪れ、一緒に酒を吞みながら理想のセックスについて語らった時だろう。これ以外の場面で二人は自分のことを多く語らない。そして、互いに相手をよく知る前に、別れは訪れてしまう。

 その別れの場面がいささか唐突すぎて戸惑いを覚えてしまう。ただ、ヒョンジュがいなくなったからこそ改めてこの映画はチャヨンに問うてくる。どう生きるのか。人生をどう「走る」のか。ここに来るとランニングが持つメタファーが、別の次元へと移行していくことに気づかされる。社会の中では置き去りにされているチャヨンだとしても、年の離れた妹は彼女を慕っている。

 相変わらずチャヨンは多くを語らないし、彼女の人生は順調にはいかない。それでも、いやだからこそなのか、時間を作って一人夜の街を走る。走ることで手に入れた身体感覚と、ヒョンジュとの関係性を自分の身体に刻んで走り続ける。走ること自体に大それた目的はいらない。酒を飲むために運動する、でもよい。そう笑いながら語っていたヒョンジュのことを、彼女の背中や肌のぬくもりをチャヨンは繰り返し思い出して、そして時間が経ったころに忘れていくのだろう。それが残された者の、一つの役目かもしれない。

 最後、一人高級ホテルのソファに寝転んだままどこか遠くを見つめるチャヨンの姿は、とても美しかった。

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2021年08月04日

トリックに隠れた友情譚、あるいは百合作品として ――『六番目の小夜子』(2000年)

 2000年に放映されたこのドラマを何回見たか正確には覚えていないが、前回は中学生の時の再放送だったと思う。その後恩田陸の原作と、外伝である「図書室の海」も読んだがそれ以来17年以上は経っているので内容はほとんど忘れた状態で『六番目の小夜子』を見て感じたのは、ああ改めてよくできているなという感想だ。ありきたりではあるが、このありきたりなところも含めて恩田陸の、とりわけ彼女のジュブナイルの巧さだと感じる。

 恩田陸にとってファンタジーやミステリーを学園ドラマに導入するのは、少なくとも当時ではおなじみだった。1992年に今は懐かしき新潮社ファンタジーノベル大賞で最終選考に残った『六番目の小夜子』が出版された後も、『三月は深き紅の淵を』や『麦の海に沈む果実』などのファンタジー色の強い(オカルト寄りとも言える)小説を複数発表している。『六番目の小夜子』自体は2000年にNHKによってドラマ化されたことによって火が付いた作品だと言ってよいと思うが、この小説もオカルトに寄せながらそれは実はトリックに過ぎないことを、2021年に見返すとひしひしと感じるのだ。『六番目の小夜子』は純粋な群像劇であり、学園ものだったことがよく分かるようになった。

 もちろん当時はキャラクターたちと同じ中学生目線で見ていたからでもあるだろう。今は逆に大人の目線で、彼ら彼女らの危うさを生暖かく見守ることができる。その上で実感するのは、ドラマオリジナルキャラクターで、鈴木杏演じる潮田玲のキャラクターである(元バドミントン選手の潮田玲子と一字違いなのも、いま振り返ると面白い)。この彼女がオリジナルでありながら主人公として物語をガイドする役を務めていることが、徹頭徹尾うまくいっているなと感じたのだ。

 山田孝之演じる関根秋、栗山千明演じる謎の転校生津村沙世子、そして松本まりか演じる学級委員長の花宮雅子は、いずれもクセが強い。強すぎるくらいに強い。だから彼ら彼女らは、それぞれの形で「六番目の小夜子」ゲームに興じていく。8話&9話の文化祭編では演劇が作中作として上演されるが、ゲームに興じる秋や沙世子、雅子(まー)も、演劇的なキャラクターだ。彼ら彼女らの語りは常に信用することができない。ただ、主人公である潮田玲だけは信頼できる。彼女なら、裏表のない、直情的だけど素直で明るいキャラクターを以て、物語を動かしてくれるはずだと視聴者は実感できるからだ。

 秋や沙世子が主役を務めてもこのドラマは成立したと思うが、それだとサヨコ伝説にまつわる謎解きが主軸になってミステリー色が強く出すぎてしまうおそれがある。そこを潮田玲という、本人曰くどこにでもいる女の子ではあるものの、どこにでもいる女の子だから共感を集めやすいし、作中でも信頼を集めている。彼女だから、秋や沙世子や雅子のいずれとも仲良くなれる。

 くしくも物語の後半は中学生にとってのアイデンティティの揺らぎにシフトしていく。玲のいくつかのセリフは、『花咲くいろは』や『響け!ユーフォニアム』のようなジュブナイルアニメの傑作を思わせるほど、年代特有のきらめきと不安に満ちている。サヨコ伝説においても「扉」というのが一つキー概念になっているが、ああなるほどこれもまたうまいなと感じた。アイデンティティの揺らぎを自覚して、苦しんで、そしてそれを他者と分かち合ってようやく、扉は開かれる。

 ミステリーめいたトリックに騙されずに(それ自体も面白いものではあるのだが)キャラクターそれぞれの友情や成長譚として純粋に楽しむことができるのが改めてこのドラマを見返す面白さだと気づいた。そして玲と沙世子の間に生まれる特別な関係には、百合みを覚えてもいいだろう(当時は百合という概念を知らなかったので)。平凡だけど非凡さも併せ持つ主人公と、特別すぎるライバルとの絶妙な組み合わせには、何度も『響け!ユーフォニアム』の黄前久美子と高坂麗奈を思い出した。麗奈も沙世子も、ミステリアスで美しいほどにその長い黒髪がよく似合う。

 2021年夏、まさかパンデミックの中開催される東京オリンピックを日々見つめる中、ここまでノスタルジックになれるとは思っていなかった。いやはやNHK恐るべしである。


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