Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

movie



見:ソレイユ・2

 予告編を見た時にいくらか想像はしていたが、残酷な映画だなと素朴に感じた。でもそれ以上に、その残酷さの余韻を丁寧に観察し続ける映画でもあった。つまり、「その後」を画面に映し続けることに、何らかの希望的なものを見出すことはできるのかもしれない。そうしないと、まともに生きていくことができなくなってしまうのでは? とも感じさせる映画だった。

 ストーリー自体は非常にシンプルな構成になっている。親密な関係を築いてきた少年たち(レオ、レミ)が中学に上がり、クラスの女子から「付き合ってんの?」と茶化されたことから、その関係に亀裂が入ってゆく。そしてそのあとに突然、別れがやってくる。その別れを受け止めきれないもう一人の少年レオのことを、ただただカメラは追いかけてゆく。とても近いところ(CLOSE)で、追いかけてゆくのだ。

 だからこの映画のタイトルのCLOSEは少年同士の距離のことを指すのはもちろんのこと、カメラとレオとの距離感も指しているように感じた。レオはどこまでが演技で、どこまでが演技でないのかが分からないくらい、感情がぐちゃぐちゃになってしまった少年であり続ける。ストレートに自分の感情を周囲にぶつけるし、他方でやり場のない感情に苦しんだりもする。ああ、そうだよな、突然の別れって言うのは大人でも容易に受け入れられるものでもないが、ましてや中学生には荷が重すぎるよな、といったことを観客にメッセージとして届けている。言葉ではなく、表情や行動一つ一つで。

 繰り返すが、CLOSEな距離でレオを映し続けるカメラは、やはり残酷なまでにレオの表情を映し撮ってゆく。そのため、まるで演技ではないかのように見えるこの映画は、レオという一人の少年のドキュメンタリー映画にも見えるのだ。親友との別れを経験した少年のその後を観察するドキュメンタリーのように(でももちろん、ドキュメンタリーではなく劇映画だから一種のフェイクドキュメンタリーとも言えるかもしれない)。

 大人たちがレオを救えるかというと、そう単純にはいかない。ぽっかり空いたものを埋め合わせるのは容易ではないからだ。ある時は兄と一緒のベッドに入ったり、ある時はレミの母親に急に会いに行ったりと、行き場のない感情をなんとか落ち着かせるための行動をレオはとるのだが、それでも埋め合わせることは不可能だ。そうした不可能性を経験することとそのリアリティを、この映画はレオに体感させてゆく。

 ただ観客の視点からすると、レオ自身が最後まで後ろ向きにはならず、やり場のない感情や埋め合わせられない喪失感をぶつけながら生きていく様は、むしろ美しくも見えた。何よりそれが等身大で、飾りようのない素の人間性を体現しているように見えたからだ。レオを観察するカメラを通して観客もレオの気持ちを理解しようとつとめるはずだが、レオを追いかければ追いかけるほど、彼の抱えている苦悩を理解することはできないし、他人には分かりようがないと思えてしまう。近くに感じるからこそなお、レオの気持ちとどのように向き合えばよいのか分からないという感情を自覚させられるのだ。

 でもそれは、他者の感情は容易に理解できない、できるわけがない、という前向きな諦めを与えてくれるようにも思う。つまり、必ずしも他者を理解することが重要なのではないということ。理解できないとしても、できることはあるということ。抱きしめたり、ただそばにいたり、励ましたり。残酷な現実が覆う中でも周囲の人間ができることはきっとあるのだと感じさせるのは、最初に書いたように残酷さが残した希望的観測だと感じた。

 今年はここ数年の中では積極的に映画館に足を運んでいる方だと思うが、今年見た中ではいまのところこの映画をベストに選びたい。それくらい、このハードな筋書きを魅力的に見せるだけのものが、この映画には豊富に詰まっている。


※追記:「自分がかつて少年だったころと、その後の変化について」(11:10, 2023/9/21)

 一つだけ付け加えたいことがあるので少しだけ。

 この映画をいま大人である立場として見ていて感じたのは、映画の中のレオを通して自分の中にある「かつて少年だったころ」の記憶や感情を揺さぶられたことだ。少年だったころの自分もレオのように、行き場のない感情や埋め合わせられないやるせなさを周囲にぶちまけていたように思う。でもやがて成長する段階で、いつしかそうした感情の発露を自制するようになる。「自制したほうがいい」とすら思うようになる。なぜならば、「理性的で落ち着いている人間」として見られたいという欲望が自分の中に芽生えてきたからだ。

 しかしながらこうした欲望は、ストレスや葛藤を自分の中にため込んでしまうという副作用も生む。それが一番最悪な形で露見したのが2012年〜13年ごろだったと思う。あの時の自分はもう少年ではないから、レオのようにふるまえたとはとても思えない。それでも、(残酷さを経験した事実は胸にとどめた上で)少しだけ羨ましいなと思いながら見ていたのは、自分もかつて少年だったからなのだろうなと思った。

 かつて少年であり、いまは少年ではない、という事実。他方で、大人は感情をぶちまけてはいけないのか? という疑問に明確な答えはおそらくない。だからこそ少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいなと思った気持ちがあったことを、ここに追記という形で短く記録しておきたい。 
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見:ホール・ソレイユ

 これはぜひ見たいなと思っていた映画なので、目撃できてよかったなと思う。ただこの映画を見て最初に実感したのは、北アイルランドにおける「紛争」について、自分がほとんど何も知らなかったなということだ。今あらためてケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』をちゃんと見たいなと思うくらいには、今に続く根深さを実感させられる映画だった。



 この映画の主役は間違いなく一人の教師(ケヴィン校長)だが、同時に登場する北アイルランドはベルファストに位置する男子小学校の生徒たちも主役と言えるだろう。ケヴィン校長がただ存在するわけではこの映画は始まらない。子どもたちの語る言葉が、ほとんどすべてとも言ってよいからだ。もちろんその言葉を引き出すケヴィンを始めとした教師たちの「問いかけ」がなければ始まらない。その意味では、教師たちは映画の中では徹底的に黒子である。まあ、エルヴィス・プレスリーが大好きなケヴィン校長は、長身でスキンヘッドというルックスからしてどう見ても「目立ってしまっている」けれども。

 映画のパンフレットにはP4C(Philosophy for Children)という教育手法が紹介されており、日本での導入が進んでいることも紹介されている。NHKが以前特集したこの番組は、その象徴的な取り組みの一つかもしれない。この番組も主役は子どもたちで、教師たちが黒子に徹する姿は印象的だった。



 もちろん教師たちはある程度の情報提供はする。例えば北アイルランド問題について考える時に、過去の紛争や闘争の映像を見せる。君たちの親やおじいちゃんおばあちゃんたちがね、と言った語り口で。しかしあくまでそれは前座的な導入であり、議論は子どもたちの目線でスタートさせる。上から何かを教え込むということを、可能な限り避けている。その代わり、子どもたちに問いを投げ続ける。これは一種の、ソクラテス式問答法の教育分野への応用だと言えるだろう。



 アリストテレスやプラトン、それにソクラテスから始まり、近代以降の西洋哲学者たちのイラストが時折映像に映り込むが、ソクラテスはこう言った〜という導入も行われない。そうしてしまうと、哲学ではなく倫理の授業になってしまいかねないからかもしれない。哲学者の思考を学ぶより前に「考え方」や「問いへの向き合い方」、あるいは「他者の議論を聞く方法」とか「他者に主張をする方法」を学ぶことにつながる。

 この手法の先には、カール・ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」という概念も想起することができる。他者への関心がなければ、議論に参加しようとは思わないだろう。逆に言うと、関心があるからこそもっと議論をすることができるのではないか。映画の中盤では実際にクラスメイト間で起きたいじめが議論の俎上にも上がる。対立は街の中だけではなく、教室の中でも起きている。けれども、対立は克服することもできる。他者やコミュニティに対して関心を持ち、議論することができれば。

 小さな対立とそれに対する対処を学ぶことが、北アイルランド問題のような大きな対立に対する対処に役立つか、と言われるとそれは難しいだろう。どちらかというとそうした地域の中にある大きな問題に対しては対処を学ぶというよりは、自分たちも歴史の中にいるという実感を得ることの方が重要なのかもしれないと感じた。映画の後半では街にめぐらされている多くの壁の中からいくつかピックアップして壁画を描く、という場面があるがそこでも考える少年の図が描かれる。当事者として考え続けること。政治的対立の解消は容易ではないが、だからこそ関心と思考を続ける必要がある、というメッセージに見えた。

 映画の現代は"YOUNG PLATO"であるわけだが、小さなプラトンたちがソクラテス式問答で鍛えられる姿は、大人たちにも強く響く。小さなプラトンたちは、小さな教室で、小さな問いに答え続ける。それはいつかきっと、大きな問題に向き合った時に、あるいは対処する必要に直面した時に役に立つ……かどうかはやはり何とも言えないが、考える練習の先にあるのは、暗い未来ではなくて明るい未来であってほしいなと思える。


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春の日は過ぎゆく [DVD]
イ・ヨンエ
松竹
2002-11-22


見:Jaiho

 1998年に『八月のクリスマス』で商業デビューしたホ・ジノ監督の2作目、という位置づけらしい。Jaihoで配信終了が迫っていたのでなんとなく見た映画だが、まあ何と言ってもヒロインのイ・ヨンエが魅力的であり、ヨンエの演じるラジオ局のDJ兼プロデューサー、ウンスに惚れ込んでゆくサンウの気持ちは理解できる。

 イ・ヨンエ演じるウンスが最初から最後まで自然体なのがとても良い。まあこれがサンウを惚れさせた要因でもあり、サンウとの破局へとつながる要因でもあるわけだけど、出会ってから関係が深まってゆく前半のイチャイチャから、違和感の夏を経て後半のしっとりした展開へシームレスに移り変わっていくのが良かった。時間の流れを描くことが主眼で、二人の破局は織り込み済みだったということがよく分かるのだ。

 冬に出会った男女が春を経て、夏にひびが入り、そしてまた次の春へ、という1年間の時間を描いているが、この終わり方についてはつまり、春の日が過ぎゆく間に失われるものがいくつもあった、ということなのだと受け止めた。だからこそ、「音声を記録すること」(録音技師)を仕事としている主人公サンウのストイックというか、不器用な性格が最後まで映画の雰囲気にマッチしているとも言える。記録を何度も何度も呼び起こすとしたら女々しい気もするけど、そういう行為を普通にやってそうな気もするキャラクターではあった。

 いくつもの場面で食事のシーンが移りこむが、(おそらく手っ取り早く済ませるために)ラーメンばかり食べる男女と、三世代が食卓を囲む実家での風景が対照的になっている。ラーメンばかり食べる男女のインスタントな関係は、盛り上がるのも早いが、終わるのも早い。他方で老人の余生は短い。実家には両親と祖母がいて、祖母は認知症の症状が出ており、食事がおぼつかないシーンも映される。両親よりもこの祖母が何らかの形で物語に絡んでくるのだろうとは思っていたが、その絡ませ方はなかなかに絶妙である。

 若い二人の関係性は、余命という障壁はないものの恋愛初期の盛り上がりを楽しむフェーズから、互いが互いの感情を読み合う構図へと少しずつ変化してゆく。前述する食事のシーンは何度も登場するが、二人が腹を割ってじっくり話し合うことはない。むしろ常に何か足りない会話だけが繰り返されてゆく。だからこそ、ウンスが会いに来てほしくないときにサンウが押しかけたりだとか、サンウを拒絶したはずなのに別の(おそらく年上で、サンウよりはイケメンで経済的に豊かそうな)男との逢瀬に乗り換える。前半の盛り上がりを見ていると、後半の浮気はあまりにもあっけない。

 男女関係はあっけないんだ、それはまるで美しい春が過ぎゆくようにね、とこの映画は表現しているように見える。一面的にはおそらくそうなのだろうと思う。あえて別の見方をすると、やはり関係性を深めるにはコミュニケーションが欠かせない、ということなのだ。実家にはサンウ含めて4人もいるから、何もしなくても食事中に会話が発生する。

 でも食事の場面に二人の男女しかいない場合、どちらかが会話を切り出す必要がある。少なくともその糸口を見つける必要がある。二人は雑談することはできるけれど、それ以上のコミュニケーションは難しかった。ウンスとサンウにとって、目の前の相手と対話をすることは容易ではなかったのだ。たまたま出会った若いタクシードライバーとは笑いながら会話することができるのに。

 男女の会話劇を作りこむ恋愛映画は珍しくないだろうが、この映画の場合は極力会話を削ることで、会話以外の男女の造形を映し出しているようにも見える。皮肉ではあるがだからこそ、イ・ヨンエの表情一つ一つだったり、彼女のファッションだったり、髪型だったりに目が行ってしまう映画でもあるなと思った。他方で、この映画を通じて人生の儚さを重ねて実感することになったサンウにも、また良き出会いや人生がありますように、と思える美しいエンディングだなと思った。
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見:イオンシネマ綾川

 原作を読んでいたことすらこの映画を見るまで完全に忘れていたが、シリーズ前作が2019年4月公開だったことを考えると、この4年間のブランクにはいろいろな思いがある。2019年7月のあの悲しすぎる事件を経た後にキャラクターデザインを務めた池田晶子の名前を見ると、やはり複雑な思いにさせられる。それでも生き残ったスタッフたちが目指したことは、それはちゃんと続きを作ること、そしてシリーズを完結させる(=終わらせる)こと、だったのだろうと思う。そのために、この57分の特別編が必要だったのだ。

 2年生の秋、新体制になり、部長になった黄前久美子の逡巡からこの中編映画は始まってゆく。高坂麗奈や塚本秀一といった「勝手知ったる」メンバーを幹部に据えた体制の中で、しかし自分自身も当然ながらプレイヤーでいなければならない。いかにしてこの両立を図ればよいのか? は一つ彼女に与えられた課題である(そして当然この課題は、新入部員を迎えて正式な新体制を迎える3年生編に継続する)。

 北宇治高校の吹奏楽部においてもっとも重要なのは再び全国大会を目指す次の学年のシーズンであり、全国出場を果たせなかった2年目の秋は消化試合的な季節でもある。逆に言うと、この雌伏の時間をいかにして過ごすことができるか、つまりスポーツ選手がレギュラーシーズンのあとのオフシーズンをどのように過ごすかが重要になっているように、吹奏楽部にとってのオフシーズンの過ごし方が問われるアニメになっている。

 ここで重要な役割を果たすのが、部を引退した3年生たちの存在だ。運動部でも、引退した3年生が残された時間を利用して後輩たちの活動を手伝うことは珍しくないだろうが、吹奏楽部でもこのような形で先輩を再び自分たちの場に呼び寄せることが可能なんだな、と思いながら見ていた。

 もちろん夏紀と優子、希美とみぞれといった3年生4人を再び物語に巻き込むことはこのシリーズのファンサービスの一環でもある。同時に、彼女たちもまた、いかにして高校生活を終えていくのか、といった問いを抱えている存在だ。推薦で進路が決まった3人とは別に、音大を目指して一人練習に励むみぞれの姿は、高校3年生の秋の過ごし方には明確な差異があるのだという事実を象徴している。3年生たちにもまた異なったオフシーズンが存在するのだ、と(来年が確約されたスポーツ選手と、確約されていないスポーツ選手との違い、のような)。

 オフシーズンは「みんなで過ごした時間」の終わりの予感がはっきりと漂うとともに、残された時間を経験できる貴重な時間でもある。今回映画のキーパーソンの一人である釜屋つばめのような、技術に問題があるわけではないが合奏になるとうまくいかない、といった一人一人の抱える課題に向き合う時間でもある。大会に向けたシーズンになるとオーディションなどで部内での競争が活発化するため、課題と向き合う時間は大きく制約されるだろう。だからつばめが自分自身の課題と向き合うことや、久美子たち周りの力を借りて小さな成長を経験するのは、オフシーズンならではの光景なんだろうなと思いながら見ていた。

 あまり細かいシーンに言及することはなかったが、麗奈が久美子に対して見せる素ぶりを久美子が過剰に読み取るシーンなどは、もはや二人の関係性が円熟味を増したなというか、「仕上がってきたな」という感覚にもさせられる。Web版の『Febri』では声優二人の対談も公開されていたが、作中の二人が重ねた時間よりももはや声優たちの時間のほうが長くなってるんだよなとか、そうしたことも考えながら読んだ面白いインタビューだった。



 3年生編も劇場で、二部作くらいだろうかと思っていたらテレビシリーズ化が正式に発表され、来年の春からだという。視聴者の一人としてまさにオフシーズンを過ごすかのような気持ちで、あと半年の少しの間の時間を楽しみに待っていたいと思う。







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見:ホール・ソレイユ

 まずこの映画が実話に基づいているのも驚きだし、古い話ではなくて2000年代後半に実際に起きた話に基づく、というのが驚きだった。街からは隔絶された村に自動車はほとんど見られず、人々は馬車で移動している。生活も質素で、大卒の教師はいるが教育を受けるのは主に少年たちであり、文字を読めない成人女性も多い。100年、いや第二次大戦後の間もないころもあれば経済成長はまだ経験してないだろうから、と思って見ていたのでこの20年以内の出来事がベースになっているのはやはり驚きである。もちろんこの驚きは自分自身が先進国に住む人間であり、この映画の登場人物たちの持っている生活のリアリティに対する想像力を欠いていたからに他ならない。

 映画自体は本当にシンプルであり、タイトル通り村の女性たちが喋り続ける映画である。性暴力を受けた女性たちが村の男性が不在の間に投票をし、議論を行うというのが物語の筋なのだが、女性たち全員を議論の場に招待することは現実的ではない。そのため、いくつかの家族をピックアップして、議論が展開されていく。選挙で選ばれたわけではないが、言わば急ごしらえの議会ができるような形だ。そのため、この映画で行われるのは小さいけれども徹底された(代議制の)熟議民主主義の形と言えるかもしれない。

 代議制民主主義において重要なのは、まず人々に委任された意思を代表(representetion)することであり、そして少数の意見を無視しないことだと言えるだろう。議論はまず自分たちの被害を語るところから始まり、その途中で涙を流す女性もいる。同時に、その女性を抱き締める女性がいる。急がなければならないが、安易に結論を出すのではなくて一体感を確認するその作業は一人一人の傷を癒すセラピーの効果も持っているなと感じた。

 もっとも、みんなの前で被害を語るというデブリーフィング的な作業にはトラウマを呼び起こし、さらに傷を深くするリスクもある。けれども、一人一人が密室の中で何を経験したかを語ることなしで、女性たちが「わたしたちの意思」を決定することはできなかったのだろうと思いながら映画を見ていた。

 「わたしたち」に含まれない2人の男性の存在もこの映画に違った価値を与えている。書記を務める大卒教師のオーガストと、言葉を失ったトランスジェンダー男性として登場するメルヴィンの存在だ。オーガストは映画の中で唯一名前を与えられた成人のシスジェンダー男性として登場しており、彼の役割は特徴的でもあり異質である。女性の集団の中で唯一存在することを許された男性でもある、という立場を越えることはしない。それでも、教師という自分自身の役割を信じている。

 他方でメルヴィンは語るべき言葉を失った状態で、子どもたちと戯れる。それは必要な自己防衛であり、回復の過程にいることを示している。時には激しく感情を暴露しながら語る女たちが画面に映される中で、必ずしも語ることだけが回復の過程ではない、語れない被害者だって確かに存在するんだとその目で訴えるメルヴィンの存在は、語らない(語れない)がゆえに際立っている。

 代議制民主主義の一つの問題は明確に意思表示しない人の存在(投票に行かない、世論調査やデモに参加しない、など)を見落としがちなところだが、意思表示しない(できない)人の存在も含めてすべての人にとって何が良い選択なのかを構想することが果たして可能か。可能ではないなら、次善の策は何なのか。この映画は、「みんな」にとって何が良いのかを目指す熟議民主主義の一つの理想形に応えようとした映画とも言えるかもしれない。

 ルーニー・マーラ演じる理知的なオーラが議論をリードする場面が目立つ中、終始感情的な役割を与えられたサロメが最後に出した選択も同時に尊重されていてほしい。「みんな」が同時に納得することはない。それでも、「みんな」で決めた方向へ向かう。「みんなで決めること」の力強さを感じさせながら、映画は夜明けに向かっていく。






熟議民主主義の困難
田村哲樹
ナカニシヤ出版
2017-05-15


熟議の理由―民主主義の政治理論
田村 哲樹
勁草書房
2008-03-25


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もののけ姫 [Blu-ray]
ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
2013-12-04


見:金曜ロードショー

 宮崎駿の新作を見て、最初に思い出したのは『もののけ姫』だった。『もののけ姫』ほどファンタジックでもないし、時代設定が古いわけでもないが、社会変動や自分自身の環境の変化などをきっかけとして、「自分探しをせざるをえなくなった」男性主人公が、旅立った世界で少女と出会う。しかしその少女もただの少女ではなく、という大まかな筋書きが似ているなと思ったのだ。

 

 今回新作を見ながらネットでつながっている何人かには話したが、おぼろげながらの記憶として「映画館で最初に見た映画」が『もののけ姫』だったと記憶している。1997年、当時7歳で、学齢で言えば小学校2年生になる。そのタイミングでこの映画を見た時の率直な感想は「怖い」だった。26年ぶりにフルバージョンで再見したが(金曜ロードショーでチラ見はしていたが、フルは26年ぶり)確かにこの映画は怖い。多く登場する異形の存在も怖いし、何を企んでいるかわからない大人たちも怖い。しかし元居た集落を追い出されて孤立した少年であるアシタカにとって、この旅は恐怖そのものだったのかというと、そうではなさそうなのだ。

 むしろアシタカより、サンのほうがおびえている。白い山犬を従えて颯爽と森を駆ける彼女は表面的には強い力を持っているように見えるが、現実的には孤児であり、であるがゆえに山犬に育てられ、犬と森に対する忠誠心を持った少女である。サンの過去やトラウマは詳しく明かされないので立ち入らないが、いずれにしても人間のコミュニティからは孤立した存在であるアシタカとサンがその「拳を交わす」過程で惹かれ合ってゆくのは自然な流れだったのだろうと受け止めた。

 殺す寸前まで行ったアシタカを助けることに至ったサンは、アシタカの相棒ヤックルからアシタカの過去について聞かされる。そこで彼女がつぶやいた「話してくれた。お前の事も古里の森の事も」という言葉には、サンの中の戸惑いが見える。犬と森を信じ、人間を憎んできたサンが、アシタカという人間とその過去には興味を持つことになった。これは矛盾だと言えるだろう。

 これまで自分自身が持ってきた物語とは別の物語と出会い、それを語り直すプロセスのことをナラティヴ・アプローチということがある。社会福祉の面接や心理臨床で使われる技法だが、従来の物語(ドミナントストーリー)を、新しい物語(オルタナティブ・ストーリー)に書き換える作業のことをそう呼んでいる。



 過去のトラウマを書き換えるという意味ではトラウマケアの技法としてもナラティヴ・アプローチは使えるし、認知を修正するために用いるなら認知療法(ないし認知行動療法)とも言える。いずれにしても重要なのは、アシタカを助けたサンのように、他者に対して自分を開いていくことにあるのだろうと思う。自分の世界(物語)に閉じた状態では、ドミナントストーリーが優勢のままであり、新しい物語に書き換えることはおそらくない。ただ、その方が楽なこともある。異質な他者とのコミュニケーションは、アシタカを助けたサンのように葛藤や動揺を生むからだ。

 アシタカはサンのことを「そなたは美しい」と呼んだ。その言葉がサンを動かしたとも言えるが、それ以上にサンがアシタカと言う異質な他者を受け入れるプロセスの中で物語を書き換えたことが意味のあったことではないかと思う。そのプロセスがあって初めて、アシタカを信頼することができるようになったからだ。

 つまりこの映画はアシタカという、「孤立しているわりには楽観的な少年が、孤高の少女サンと出会って成長する物語」ではなく、「サンという孤高の少女がアシタカという異質な他者に影響を受けて成長する物語」だと解釈している。アシタカの場合、呪いが解けて腕の傷が消えればあとはどうにでもなる(と思われる。おそらく)。しかしサンの場合、映画が終わったあとでも大きく境遇が変わったわけではない。いずれにしても彼女は(孤児であるがゆえに)孤高の少女として生きることを続けるからだ。集団としての人間を信用できない以上、彼女にはそれしか選択肢がない。
 
 それでも、映画の最後に見せるサンの表情はとても明るくてまぶしかった。生き方は変わらない。それでも、サンは新しい物語を生きている。それは初めて彼女にともった、希望の明かりだったのではないだろうか。





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見:イオンシネマ高松東

◆時代背景と純文学的なアプローチ

 まずこの映画を語る際に重要なのは時代背景なんだろうな、というのは1937年刊行の同名書籍が原作(というよりあくまで原案)の時点で察するべきだった。文字通り、(日本が戦争に突入してゆく最中の)その時代、そしてその少し後の時代を書いた映画だからである。もちろん、このアプローチはほとんど同じ時期の1936年に発表された堀辰雄の短編小説「風立ちぬ」を原作とした、10年前の夏休み映画『風立ちぬ』のアプローチと似ている。

 しかしながらあくまで表面的には、である。実質的に2023年の夏休み映画として公開されたこの映画は、『風立ちぬ』とは全く異なるアプローチをしている映画だった、というのが素朴な感想である。なぜならば今回のこの映画は児童向けの小説を原案としながら、後期高齢者になった宮崎駿が「極私的」に翻案した教養小説(ビルドゥングス・ロマン)、つまり「純文学的な私小説映画」だからである。

「陽気で明るくて前向きな少年像(の作品)は何本か作りましたけど、本当は違うんじゃないか。自分自身が実にうじうじとしていた人間だったから、少年っていうのは、もっと生臭い、いろんなものが渦巻いているのではないかという思いがずっとあった」

 「僕らは葛藤の中で生きていくんだってこと、それをおおっぴらにしちゃおう。走るのも遅いし、人に言えない恥ずかしいことも内面にいっぱい抱えている、そういう主人公を作ってみようと思ったんです。身体を発揮して力いっぱい乗り越えていったとき、ようやくそういう問題を受け入れる自分ができあがるんじゃないか」

「君たちはどう生きるか」宮崎駿監督が、新作映画について語っていたこと。そして吉野源三郎のこと(朝日新聞好書好日, 2023年7月14日)


 Twitterでの検索や、映画の感想投稿サイトFilmarksを見ていると「よく分からなかった」というコメントが頻出していることが分かる。それは確かに正しい。なぜならば、多くの私小説や純文学は、少なくとも「分かりやすく」作られていない場合が多い。純文学的な私小説(わかりやすいところで言うと夏目漱石やヘルマン・ヘッセを想像すれば良い)は、一般的に主人公(多くは少年化青年)の内面の成長を描こうとするからだ。あるキャラクターの内面がすべて言語化されることは一般的にはない(『鬼滅の刃』が例外的なだけである)。だからこそ、「分からなかった」というコメントは正直だなと感じた。

 それらは多くの場合、成功を通じてというよりは、社会や集団、他者との接点の中での挫折と傷つきを利用した、反省的な内面の成長を描いている。そこには恋愛が絡むこともあれば友情が絡むこともあるだろうし、大人と子どもの心理的・社会的距離が絡むこともある。いずれにせよ、主人公が多くの他者と接点を持ち、コミュニケーションや感情の交換を行うことが純文学的な私小説の主眼である。そして多くの主人公は他者と出会うたびに、葛藤を抱える。年齢と精神的な未熟さゆえに、「善い生き方とは何か」をまだ知らないからである。

 他方で私小説の著者である作家はすでに成人しているというか、ある程度の年齢に達している場合が多い。宮崎駿に関しては御年82歳であるが、82歳という年齢は私小説を作る年齢にある意味適していると言えるだろう。82年間生きてきた中で経験したものを、まだ年若い主人公の少年に投影することが可能だからだ。監督を手掛けただけでなく脚本も手掛けている本作は、文字通り「作家としての宮崎駿」を読むことが可能だろう。その意味でも、「純文学的な私小説映画」あるいは「極私的な教養小説」として読むことは、むしろ適切であると考えられる。



 話を戻すと、多くの人が「よく分からない」と表明したのは正しい。そのもう一つの理由が、純文学をエンタメの領域に昇華した『風立ちぬ』のイメージが残っているからだ。今回も堀辰雄の原作とほぼ同時期の原作を扱っているし、主人公は少年である。ラピュタやもののけ姫がそうであったように、何らかの形で少年の冒険活劇が描かれるに違いない、と想定することは十分可能だ。しかし宮崎駿はその期待を、映画の中で繰り返し裏切ってゆく。であるがゆえに、置き去りにされる視聴者が多く存在し、その視聴者が「分からない」と述べたのではないか、というのがもう一つの仮説である。


◆2010年代の新海誠との類似と差異

――『天気の子』も今作も、言葉を伝えにいく物語なんですね。今年は新海監督が『ほしのこえ』でデビューして20年目となる年です。新海作品では、相手に言葉が届かないディスコミュニケーション状況が描かれてきました。近作における言葉の伝達の可能性に、新海監督の変化を感じています。

新海 初期の頃はディスコミュニケーションを描いていました。自分自身の周囲の状況もディスコミュニケーションだったし、観客と何かが通じあった経験も当初はあまりなく、だからわからないものは描けなかったのだと思います。作品をつくり続けてきて、観客との間で感情や思考の交換が徐々にできるようになってきて、そこに到るまで20年かかったということなのかもしれません。

『すずめの戸締まり』、新海誠監督ロングインタビュー。“たどり着いたのは、旅をしながら土地を悼む物語”(Pen, 2022年12月9日)


 映画の中盤あたりから、この映画は新海誠が2011年に公開した映画『星を追う子ども』に非常に類似しているなと感じながら見ていた。現にTwitterを検索すると、同様のコメントを書いている人が多数見つかった。『星を追う子ども』は母を亡くした少女・明日菜が、アガルタと呼ばれる異世界に行ってしまった父を追い、冒険してゆく映画だ。




 そのファンタジックな世界観とガールミーツボーイの展開は、当時から「ジブリっぽい」と評されることも多かったが、それから12年が経過して今度は逆に宮崎駿が「新海っぽい」と指摘されるのは非常に面白い。さらに細かいところを指摘して「庵野っぽい」とか「春樹」っぽいと指摘する人もいる。春樹に関しては特に新作の『街と不確かな壁』との類似を指摘する人もいる。重要なキャラクターが図書館の住人である点は、確かにそうだ。個人的には今回ポスタービジュアルにもなっているアオサギのキャラクターを羊男だと指摘する人の声にも同意したいところだった。

街とその不確かな壁
村上春樹
新潮社
2023-04-13





 とはいえ庵野や春樹と比較するのがこのエントリーの狙いではない(多分ほかの人がやってくるだろうとも思う)ので、あくまで新海誠との類似と差異についての話をしたい。新海誠のフィルモグラフィーを振り返ると、デビュー作『ほしのこえ』から2007年の『秒速5センチメートル』と、2011年の『星を追う子ども』以降では明確な変化が見られると、今回映画を見る前に感じていた。



 ヒロインを断念することについては『秒速5センチメートル』が最も分かりやすいが、『ほしのこえ』も『雲の向こう、約束の場所』も途中までは主人公の少年とヒロインとの心の交流や感情の交換を描きながらも、最終的に主人公が残された場所に一人立たされることを描いていた。『秒速センチメートル』については、成人後に主人公とヒロインがクロスする場面が描かれながらも、クロス(通り過ぎる)することが人生なのだ、という諦念が前面に出た映画になっていた。要は、「変わってゆく現実をいかにして受け入れるのか」を視聴者に問うたのが『秒速』までの3部作だったと解釈している。

 『星を追う子ども』は少し分かりにくいところもあるが、2013年の中編映画『言の葉の庭』と2016年の大ヒット映画『君の名は。』、そして続く2019年の『天気の子』は非常に分かりやすい構造を持っている。いずれの映画も、少年の主人公が、ヒロイン(ユキノ、三葉、陽菜)とのつながりを「変わってゆく現実の中で、いかにして諦めないか」が物語のクライマックスに提示される。





 新海は2010年代に頻繁に3.11について言及しており、2022年には『すずめの戸締り』という形で直接的に映画に仕立て上げたが、新海誠にとっての3.11以後というのは「諦めないこと」の価値を確認した時代だったのかもしれない。3.11のような巨大な現象に対して一見すると人は無力かもしれない。でも、本当に何もできないのだろうか? という問いを『君の名は。』でも『天気の子』でも繰り返し投げかけている。その答えが、結果がどうなるかはともかくとして「諦めないこと」だったのだろうと解釈している。

 具体的に言うならば、「ありのままの現実を受け入れる」ということだ。それはある面では喜劇かもしれないが、別の面では悲劇かもしれない。万人の望んだ結果ではないだろう。それでも、現実を受け止めるところからしか何も出発できないのでは?という問いへの答えである。ここに新海は神秘性と歴史性を導入する。神話、伝説、物語、あるいは老人だからこそ知っているかつての東京や江戸の形。





 翻って宮崎駿の2023年はどうだっただろうか。少なくともこれは単なるジュブナイル映画ではないことは確かである。ジュブナイルはあくまでエンターテイメントの技法であり、純文学の技法ではない。むしろ宮崎駿のファンタジックなジュブナイル映画を見たいなら、ラピュタを見返せば良いのだろう。連作短編小説をアニメーションで作るような『秒速5センチメートル』を発表して大きく評価を受けた後、『星を追う子ども』以降は一貫してエンターテイメントの路線を崩さない新海誠がいた。しかし宮崎駿は、後期高齢者にして純文学的な技法を取り込んだ。そうしないと表現できないこと、つまり重要な何人かのキャラクターの造形に関わることがあったからだ、と解釈している。


◆自閉的な大叔父と、呼び水としてのシスターフッド(あるいはマザリング)

※ここからは本筋に関わるネタバレを多く含みます

 まず最も重要なのは、異世界の創造主でもある大叔父だろう。人間離れした読書量を誇ったという大叔父の存在は「ばあや」たちによってあらかじめ語られているが、それはあくまで「伝聞」であって、事実を加工している可能性が大きい。塔の中に吸い込まれた後、塔の内部を巨大な図書館として建築した大叔父は、非常に自閉的な存在だ。もし大叔父が本当に自閉症スペクトラムか何かを患う障害者であったならば、戦前までの日本広い邸宅の敷地内に存在する塔の中に「私宅監置」することも合法的だったはずだ(根拠法は1900年施行の精神病者監護法)。そうする方が他者との交流を拒絶する大叔父にとっても、そして「イエ」を守る当時の人たちにとっても、いずれにおいても都合が良かったとも言える。



 他者とのコミュニケーションを拒絶し、書物に没頭する。異世界の主に君臨してからも、大叔父は孤独を貫いた生き方をしたまま老人になっている。これはすなわち後期高齢者になった宮崎駿だ、と解釈することは容易だろう。そして大叔父が呼び寄せた眞人は自身の正統な後継者だと感じたはずだ(ちなみにこの映画には宮崎駿の息子、宮崎吾朗のクレジットもされている)。

 しかし、大叔父の存在だけでは物語が動き出さない。何らかの呼び水が必要だからだ。その呼び水が、眞人にとっての二人の母、すなわち実母であるヒミと、義母である夏子である。夏子が塔の中に迷い込んだからこそ、眞人は塔に向かった。眞人が一人で塔の中に入ることはできなかった。塔の中に入る「目的」が必要だった。なぜならば、目的を達成することが塔を出る方法にもつながるからだ。この点は、父を追ってアガルタに旅立った『星を追う子ども』の明日菜と近似する。この映画もアガルタも、生と死の混ざりあう歪んだ時空間を持っている。

 その異世界の最初のガイドを務めたのは若き日のキリコだったが、その役割はすぐにヒミに移譲される。あいみょん演じるヒミは、あいみょんのイメージそのままに快活で明るくて元気な少女だ。従来型の宮崎アニメのヒロインの造形に近い存在とも言える。このヒミを「若き日の実母」と設定することで、「義母」たる夏子が塔に吸い込まれた理由にもつながるのではないか、というのが筆者の解釈である。つまり、夏子を呼び寄せたのは大叔父ではない。夏子を呼び寄せたのは、ヒミである(はずだ)。その夏子を追って眞人も塔の内部に行くため、間接的にヒミは眞人を呼び寄せたとも言えるだろう。

 ではなぜヒミは夏子を呼び寄せたのだろうか? それは夏子がいかに眞人の母になろうと努力したところで、眞人は夏子を母だと認識することを拒否したからである。それは当然で、眞人は映画冒頭で描写される病院火災で亡くなったヒミの遺体を直接見てはいない。見ていないからこそ、眞人はヒミが死んだという事実を受け入れられていない。表面的にはヒミの死を「知っている」かもしれないが、その事実を受け入れるような心理状況にはなっていない。

 この点(ヒミの死を拒否する眞人の心理)について、エリザベス・キューブラー=ロスの「死の受容過程モデル」を眞人にも導入できるかもしれない。キューブラー=ロスの受容過程モデルとは、がんなどにより寿命の告知を受けた患者がその残された時間の中で死をいかにして受け入れていくのか、その心理的な過程を5つに分けられるという理論モデルだ。しかしこれを、「身近な他者の死を受け入れられない第三者」にも応用して適用することも可能だろう。



 眞人は異世界に行く前にすでに第1段階の「否認」と第2段階の「怒り」というステップを経験している。続く第3段階の「取引」については、異世界でヒミと出会うことで果たされる。結果的にはヒミの死を受け入れるため、タイムパラドックスは成立しないが、「取引」は成功しなくても良い。神龍が存在するドラゴンボールの世界と違って現実に死者は生き返ることはないので、むしろ「取引の失敗」をいかにして受け入れるかが重要だ。そのため、「取引の失敗」のあとに「抑うつ」が生じるとキューブー=ロスは理論化している。眞人の場合、ヒミと出会わなければこの第3段階の壁を越えることは容易ではなかったかもしれない。ヒミと出会い、「取引」を試み、そして結果的に「取引の失敗」のおかげでようやく眞人は母の死を受容できるし、夏子を母として許容することができるようになるからだ。

 ヒミが一見、ご都合主義的な存在として映画の中で描かれているのは、注意して見た方が良い。もちろん作劇的に火を扱う能力があるヒミの存在は貴重で、ほとんど無力な眞人にとっては重要(かつ都合の良い)存在だ。でもそれはヒミが単純に「眞人に優しい」から成立しているわけではない。ヒミの行為には、ヒミにとっての合理性があると解釈すべきだ。それは何より、実妹である夏子に「眞人の母として幸せになってほしいから(シスターフッド的解釈)。そしてもう一つ、眞人に「自分の死を受け入れてほしいから(マザリング的解釈)である。ヒミは姉として、そして母として、夏子と眞人を呼んだのである。眞人を夏子と大叔父、それぞれの待つ場所に導く責任がヒミにはあるのだ。


◆私小説的な対峙、純文学的な結末

 最も、この映画のクライマックスは大叔父の待つ場所にたどり着いた眞人が大叔父と対話するシーンだろう。この連続するシーンにはアオサギやインコの王という第三者も介入するわけだが、いったん脇に置いておこう。ちなみになぜこの映画には鳥が多く登場するか。それは塔の中から出られなかった大叔父が見た、一つの夢(鳥のように世界を自由に羽ばたきたい)だったのだろうと解釈している。もっとも異世界の鳥、とりわけインコたちは飛ぶことをやめて歩いて生活しているので、夢は夢のままだったのかもしれない。

 話を戻すと、大叔父から重大な「問い」をもらい、それに対していかに「答え」を出すか。これがこの映画で最も重要な場面であり、物語のクライマックスと言ってもよい場面である。逆に言うと、これまでの冒険活劇はすべて前座的というか、伏線として重要な意味を持っているかというと必ずしもそうではないと思う(もちろんいくらでも解釈可能だが)。最後の大叔父と眞人の対話を最初に想定した後、あの天国のような場所にたどりつくまでの物語を逆算して構築した2時間だったのだろうな。これはこの映画の「よく分からない」要素とも関連している。先頭から順番に物語を作るならばもう少し整合性のとれた筋ができたのかもしれないが、結論だけ作ってあとから筋を作ったがために、複雑になっているのである。

 二人の対話の場面を私小説的な対峙、と書いたのは大叔父も眞人も、いずれもが宮崎駿の分身に思えてならないからだ。1940年代に出生した宮崎は戦中の雰囲気をおそらく経験的には知らないはずだが、もし自分がもう少し早く生まれていたら、という仮定をしてもおかしくはない。そして、老いた自分と、まだ若い(未熟な)自分を同じ画面の中で対峙させたらどのようなアニメーションを作れるだろう、と妄想していてもおかしくはない。もちろんこれは完全に妄想の世界であるが、吉野源三郎の原作を読んですでに老人たる宮崎駿が感化されただけでなく、内なる「リトル宮崎駿」も同時に感化されたのではなかったのか、と。

 純文学的な結末、についても触れておこう。この映画が『風立ちぬ』と大きく異なるのは、直接的に戦争を描くことをしていないことだ。他方で、その時代を生きた人間を描写する。冒頭では夏子と眞人が出征する軍人を見送るシーンがあるし、眞人の父は工場でおそらく軍需製品を作っている。あのいくつも並べられた透明なキャノピーは、この映画では飛ばなかっただけであり、『風立ちぬ』をすでに見ている視聴者ならば容易に飛んでいる姿を想像することができる。あるいはこの映画のどこかに、堀越二郎がいたのかもしれないと想像することもできる。

 『風立ちぬ』のキャッチコピーは「生きねば」だった。この映画の結末は、10年経ってなお、というか改めて「生きねば」をリフレインさせる構造を持っている。生きている者より死んでいる者の方が多い(キリコ)とされる異世界を出ても、多数の死を持ち込んでくる戦争の足音が聞こえる現実世界が待っている。「死の匂い」が常に漂う世界の中で、生きることと死ぬことを改めて問いかけたかったのだろう。折しも100年ぶりのパンデミックを経験した現実世界もまた、10年前とは比較できないほど「死の匂い」を多く経験した。

 この「生きねば」は眞人にだけ向けられたものではない。新たな命を宿している夏子にも、そしてこれから大人になってやがて眞人を出産することになる少女の姿をしたヒミにも向けられている。目の前の死を受け入れよう。その上でなお「死の匂い」に満ちた世界を、生き抜こう。それが厳しい時代を生き抜いて大人になるための、必要なステップなのかもしれない。足場が崩されても、がむしゃらにインコの王を追いかけたように。


◆「生きる意味」とは何か、「善き生」とは何か

 1997年の宮崎駿は『もののけ姫』主人公のアシタカを通して「生きろ、そなたは美しい」の言葉を残した。2013年の宮崎駿は堀越二郎を通して「生きねば」というメッセージを残した。1997年は阪神大震災や地下鉄サリン事件から2年後であり、2013年は3.11から2年後であった。それらの言葉は、災後を生きる当時の私たちに向けられたものでもあったかもしれない。翻って10年後の2023年は、1997年や2013年年とは全く異なる文脈で生と死について考える機会が多い。少年の顔をした宮崎駿が、老人の顔をした宮崎駿に対して「生きねば」と決意するに至るを描いたこの映画は、むしろ逆に82歳の宮崎駿に「(まだもう少し)生きろ」という思わせたのではないのか?

 異世界の大叔父は死を超越した存在かもしれない。世界を自分の思い通りに操れるかもしれない。しかし彼は、圧倒的に孤独である。大叔父の姿をありありと見た眞人は、最終的にそうした大叔父の人生を選択しなかった。第二次世界大戦を起こすような、悪意に満ちた愚かな人間たちの待つ現実世界で再び生きることを選んだ。母はもういない。でも幼き母もまた、生きることを選んだ。たとえ遠くない未来に死が待っていたとしても(そういえば彼女は火のことを美しいと言っていたが、サンの美しさとつながるかもしれない)、生きることを選んだ。いつか死んでしまうかもしれないけれど、嬉しいことがあるんだと目を輝かせるヒミの笑顔は眞人だけでなく多くの観客の目に焼き付いたことだろう。

 生きろ、あるいは生きねば。もはやそのどちらでもよい。古くはソクラテス、近代以降ではカントやロールズなど、多くの偉大な先人たちは「善き生」についての哲学的な考察に多くの時間を費やした。人はやがて死ぬ。けれども、いやだからこそ「善き生」について考えることには大きな価値があるということを、知っていたからだろう。また近年の森岡正博の研究に詳しいが、反出生主義が話題になるような時代だからこそ、生きる意味、あるいは生命の哲学の価値が再考されているのだろうとも感じる。

 宮崎駿は1997と2013年を経験しながら、2023年には永遠の誘惑を振り切って、限りある生の時間を積極的に生きることを選んだ少年を描いた。それは82歳という年齢を以て観客に問いかけたとともに、生い先の短い(だろう)自分自身にも突きつけた「善き生」の構想だったのではないだろうか。







政治的リベラリズム 増補版 (単行本)
ジョン・ロールズ
筑摩書房
2022-01-13


公正としての正義 再説 (岩波現代文庫)
ロールズ,ジョン
岩波書店
2020-03-17





◆おわりに

 最後になるが本エントリーに関してはあくまで個人的な解釈を多分に含んだ批評エッセイと言ったところなので、それ以上でも以下でもない。せっかくなのでまた頭が冷えてないうちに考えたことを残しておきたかっただけであり、他者の意見や感想を否定するものではありませんので、そのへんはご了承くいただきたい。

 何度も書いているようにすでに後期高齢者になった宮崎駿だが、アメリカでは10歳以上上のクリント・イーストウッドがまだ現役であることも考えると、さらに10年後にもう1本作ることで本当の遺作とすることができるのではないか、とも考えた。そうすると、『風たちぬ』と本作を含めた「遺作3部作」として送り出すことも可能なはずだ。今回と前回はいずれも1930年代、つまり昭和初期の小説を原案としているわけで、同様のスタイルでもう1本作るならばどのようなものができるかは単純に見てみたいものである。

 次はまたエンタメにもどるのか、あるいは再度純文学的な私小説をアニメーションとして表現するのかも含め、まだまだできるのではないか、という期待を持たせてくれる。もちろんアニメーションは多数の人間を巻き込んだ共同作業なので、老人監督に付き合わされる若い人たちが多数必要なわけだけれど、「多く人を自分の都合で巻き込むことの功罪」にも向き合ったのが今回の映画だったんだろうなと思う。

 改めて筆者は大叔父と眞人こそが宮崎駿であり、若き日の宮崎駿(である眞人)を物語の最初から最後までガイドし続けたアオサギが鈴木敏夫だったのだろうと解釈している。「友達ではない」と言いながら眞人を最後までガイドするのは、長年の腐れ縁たる鈴木敏夫にしかできない芸当だからだ。宮崎駿がどう考えていようが、鈴木敏夫が「もっと生きろ(そして作れ)」と言えば宮崎駿が翻意する可能性は、これまでの彼の発言録を振り返るまでもなく容易に想像できる。

 もしこの先もまた何か作ることがあるならば、きっと同じようなことを少し違った形で表現するのだろう。その時はまたネットで「アベンジャーズ」とも呼ばれた日本の有名制作スタジオ仕事が増えるのだろうが、その成果をぜひ、目撃したいものだ。



※このエントリーは7月14日夜のSpacesで会話したヘラジカさんコスケさんとのやりとりを一部参考にしています。自閉的な大叔父の私宅監置仮説については、コスケさんの「塔って巨大な座敷牢だよね」の発言に影響を受けています。この場を借りてお礼を申し上げます。
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見:イオンシネマ綾川




 原作を読んだのは約5年前なのでかなり忘れてていたが、思った以上に「ケアする兄」の要素をうまく出していた映画だった。兄が全部背負わずにうまいこと周囲の人間を頼るのはいい作り方で、原作のレビューでは「チーム花楓」という表現をしているがその形をどうやって構築し、広げるかが映画の展開にも良い影響の与えていたように思う(そもそも兄である咲太ってヤングケアラーじゃんということも同時に思い出した)。

 「ケアする兄」である咲太は、自分だけで妹の傷、あるいはトラウマといった問題に向き合わない。病気の妻のそばにいるため別居している父(「ケアする夫」である)が今回頻繁に登場するのは、多くの場合アニメやライトノベルで影の存在であり、ほとんどいないかのように扱われる「主人公の両親」は普通にちゃんと存在しているぞ、というメッセージでもある。

 映画の尺の関係もあってか、「おでかけシスター」という要素はあまり生かされていない。原作の持ち味としては、普段自宅にひきこもっている花楓の行動範囲を少しずつ広げ、最終的に高校入試までたどりつけるように、という構想と実践があったわけだが、その部分はかなり圧縮されている。その代わり、前述した「チーム花楓」の構築プロセスがこの映画の主眼となっている。

 花楓を支えたいという気持ちが多くのキャラクターに少しずつ共有されることで、花楓は一歩を踏み出そうとする。しかしそれは同時に、本心を隠したままでもあった。花楓がかえでだった時代の経験と、いまはかえでではなく花楓であるという分離を、どのように処理すればよいのか、その答えを先送りにしてしまうからだ。

 あえて群像という表記をこのエントリーのタイトルに使ったのは、花楓を支える周囲のキャラクタータチは、同時に自分自身とも向き合う必要があるということ、そしてそれは青春期にあるべき課題や葛藤であり、成長の過程でもあるんだろうな、ということが映画で表現されているからだ。咲太は花楓にとって優しい。でもその優しさは、常に花楓にとって正しいわけではない。咲太が兄として振舞おうとすればするほど、花楓は逆に傷つくかもしれない。

 もちろん咲太も自分の限界はよく知っている。だから豊浜のどかや広川卯月と言った、自分にはできないことをできるキャラクターの協力が必要になってくる。では豊浜や広川は、花楓を支える(あるいはケアする)キャラクターだと言えるのだろうか。個人的にはもう少し、相互作用的に見たほうがいいのだろうなと思った。花楓をケアすることは、豊浜や広川にも何らかの形で還元される行為なんだろうなと思えたからだ。とりわけ、咲太を含めた4人で海岸で語り合うエピソードは、この4人の間で起きている相互作用をきれいに表象しているなと感じた。

 次回予告のようなラストはご愛嬌といったところだろうが、今回は「花楓の姉」的な役割を果たした桜島麻衣が、次は自分とその家族と向き合わなければならないことはすでにここで示唆されている。様ざまなキャラクターを通して現代的な家族の形や青春期の群像を示すこのシリーズがまだ映像で見られるのは個人的にはとても嬉しいので、もう少し、楽しみが増えそうだ。
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見:イオンシネマ綾川

 野球日本代表、いわゆる侍ジャパンのドキュメンタリー映画はこれまで2本作られている。前回のWBCをドキュメントした2017年の映画と、稲葉ジャパン誕生から2019年のプレミア12制覇までを描いた映画だ。前者は見たのだが後者は見ておらず、という前提で今回の映画を振り返ると、分かりやすく主役が用意された映画だったなと感じた。とはいえ監督は三木慎太郎、JSPORTSが映像を提供し(おそらく)、アスミックエースが配給するこれまでの形式の延長なので、WBC決勝から数カ月での公開になったのはもはや慣れたものだなと感じた。

 ドキュメンタリー番組は画面全体をどうストーリーとして描くかが重要なので、特定の個人に焦点を当てることはむしろドキュメントの幅を狭めることになる。なので、誰に・どこに焦点を当てるか、そのバランスをどのように変えるのかが重要だと思っている。その点、この映画は本当に分かりやすい。栗山英樹という稀有な監督の存在がまずいながら、彼は究極の黒子に徹する。主役は選手であり、コーチたちなのだと。

 選手としての主役は、もちろん最後の最後に一番おいしいところを持って行ったのはこの映画のタイトルにもおそらく影響を与えている大谷翔平だろう。これはもう、野球ファンでなくてもそうでなくてもみんなが期待して、期待を全く裏切らなかったという貴重な瞬間を提供した存在である。彼のことが人間ではなく宇宙人とかユニコーンだとか言われるのも理解できなくはないが、この映画は野球中継やニュース映像に映らないバックヤードの映像を膨大に映すことによって、大谷翔平の人間くささを暴いていく。まあ暴いていくというより、単に我々が知らないだけ、ではあるのだが。

 もう一人決定的に重要な存在はダルビッシュ有だろう。これも多くの人が認識しているように、現代日本野球の最高峰の投手の一人である。2020年の短縮シーズンにはサイヤング賞投票で2位の成績を収めた(ちなみに1位の票を得て受賞したのは、現DeNAベイスターズのトレバー・バウアーである)。唯一30代の投手として参加した彼は、高橋宏斗や宇田川といったプロのキャリアがまだ浅い若手選手たちの良き見本となり続けた。全員の兄貴分であり、若手にとってのメンタルコーチであり、村田善則と協働して戦略を考えるバッテリーコーチ補佐でもあった。選手として、選手以上の存在であり続けたことが、この映画が映すバックヤードでこそ確認できるようになっている。

 ダルビッシュから始まり、大谷翔平で終わる。でもその間に目まぐるしく主役が登場するのが強いチームなんだな、ということも改めて感じた。ギリギリの合流になったにも関わらず持ち前の明るさですぐにチームに溶けこみ、攻守ともにファインプレーを連発したラーズ・ヌートバー。彼の不安や練習風景も、映像にしっかり収められている。特に鈴木誠也の不参加が決まり、外野全ポジションで出場する可能性が浮上したヌートバーにとっては、初めての代表参加のわりに責任が重すぎる(しかも一番打席数が回ってくるリードオフのバッター!)。その責任をどのように感じ、どのように克服したかも、この映画の見どころだ。

 そしてやはり重要なのはやはり源田と、佐々木朗希になってくるのだろう。源田は主役というより脇役かもしれないが、日本一のショートとして参加した彼は簡単には替えが利かない存在である。源田自身がそのことをよく分かっていることが、バックヤードの映像で彼が語る言葉や表情を見ていて痛いほど伝わってくる。そして佐々木朗希。3月11日の先発登板も、準決勝メキシコ戦の挫折も、いずれもが彼の野球人生にとって大きなものになったはずだ。通常カメラの前ではお茶らける表情も良く見せる彼が見せた涙や怒り(自分自身の不甲斐なさに対して)は、この映画のカメラだからこそ映し出したリアリティである。

 映画のほぼ半分はアメリカ編になっているので、あのメキシコ戦とアメリカ戦を映画館で追体験できるのはそれだけでも十分に楽しい、そしてずっと書いてきたように普段なかなか見えないバックヤードの映像は、野球ファンの琴線に触れるものが多くある。それだけの価値がある映像の集まりである。そしてまだWBCの興奮が醒めてない時期の公開ということもあり、誰が見ても満足度の高いドキュメンタリーになっているはずだ。



 あいみょんの、新曲ではないが確かに何かが確実にリンクするこの曲を主題歌に採用できたのもかなりビッグヒットなんじゃないかな、と思った。あいみょんファンの佐々木朗希は果たしてこの映画を見ただろうか。

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見:イオンシネマ高松東

 スピルバーグの自伝的映画と聞いたため、私小説なものなのだろうかと予想しながら見ていた。まず面白いのはタイトルがフェイブルマン”ズ”である、つまり複数形になっていることだ。主人公であるサミー・フェイブルマンの若き日々を描くのがこの映画の筋だが、彼がまだ子どもであるがゆえに(最後の場面ですら、大学生年代に相当する若者だ)完全な自由と自律を持たない。単純に言えば、親の管理の下で、コントロール可能な範囲で生きていくことしかできない少年だ。

 コントロール可能な範囲というのは、例えば手持ちの撮影機材や友人たちと協力して自主映画を撮影すること。コントロールできないことは、両親それぞれの選択であったり、移住したカリフォルニアでの高校生活などだ。元々住んでいたアリゾナからカリフォルニアは遠すぎる距離ではないため、一家は車に家財道具を積んで引っ越しを行う。しかし逆にサミーにとっては、かつて過ごした広大な土地(自主映画撮影にも荒野!)を後ろにしていく寂しさが募る演出になっているように見えた。

 新たに住んだ土地での高校生活も、期待していたものとは違っていた。名前をいじられるところから始まり、ユダヤ人であるというだけでいじめの対象になる。実際に経験したいじめよりは表現が和らいでいるという説もあるが(確かにいじめだけで映画を割くわけにもいかない)、いずれにしても引っ越しが彼にもたらしたものは孤立だったと言ってよい。少し、いやだいぶ変わった女の子とは親密になり、撮影を一緒に手伝ってくれるようにはなるものの。

 話を戻すと、この映画はフェイブルマン”ズ”なのである。妹たちの存在はフェイブルマンが成長するに従って後景に退くものの、親二人に振り回されるサミーは、そうであるがゆえに自分で自分の世界を作れる映画の撮影に没頭してゆくのだが、大人たちの生きざまは結果的にエゴイズムを植え付けているのでは? と感じながら見ていた。お前らが好きに生きるなら俺も好きに生きるぞ、的なマインドを。

 もう一つナラティブというワードをタイトルに並べたが、これは両親の振る舞いを見ていた感じたことだ。父も母も、自分の人生を生きることに忙しい。子どもの人生がどうでもいいというわけではないが、父と母の語るナラティブはしばしば重ならず、対立もする。自分で自分の人生を設計し、貫くというエゴイズムがベースにあるナラティブは、フィクションの映画として見る分には楽しいけれど、いい歳した大人二人が自由に生きるのは・・・という子ども目線の複雑な感情を丁寧に掬い上げていたなとは感じた。

 つまるところ、子どもは親を選べないし、住む場所も選べない。多くの場合がそうである。それでも、所与の環境でもがきながらやりたいことを貫くことはできるし、あきらめないほうが良い。あきらめの悪さが実を結ぶかどうかはわからないが、それができることは10代や20代の特権かもしれないな、と思いながら見ていた2時間半だった。青春は苦いが、青春期だからこその魅力もあるということがよく分かる2時間半でもあった。
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