Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

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 原作も実写も経験せずに見たのは自分が障害福祉の領域で仕事をしていることとも無関係ではないし、事前に読んだ二つの文章が印象に残っていたからだ。





 ダブル手帳氏の批判点は主に次の二点だろう(「本稿では批判を一点に絞る」とあるがこの二つのうち一つは性に関するものであるが、もう一つは性やジェンダーとは関係ないものなので切り分けて考えたほうが良いと考える)
・「主人公にセクハラする男性が“消えた”」こと
・「本作でジョゼが新たに「芸術の天才」となった」こと


 前者に関しては、確かに田辺聖子の小説という意味で性に関する等身大の描写は重要な意味を持つ。従って、「車いすの女性」が性加害に遭遇しやすいという原作の描写を映画がほとんど脱色してしまっていることについては、批判されてもおかしくないだろう。ジョゼが「家出」して一人で街に出ていく場面ですれ違う男性に邪険に扱われるシーンは映画にもあるが、性の対象として見られることはなかった。性の対象に見ていたとすれば、主人公である「管理人」だろう。

 後者については、原作が情報量の多くない短編であることや、2020年のクリスマス公開に合わせて物語を新たに提示することを考えると重要な批判点とは言えない。『37セカンズ』が例に挙がっているが、障害者を表象した映画は当作に限らず多数あることだろう。確かに障害者でありながら天才という下駄をはかされていることへの違和感を否定するつもりはないが、ジョゼが自宅で読んでいたサガンを図書館で発見したり、その図書館で朗読のボランティアをしたり、足のない(そして地上の世界をしらない)人魚姫と自分を重ねるといったあたりの設定の組み合わせの妙を個人的には評価したいと感じた。

 それはなぜかというと、確かにストーリーとしてはベタベタと言っていいほどの青春もの(しっかり三角関係も描かれているし)でありながらも、現代の関西を舞台に作り上げたアニメーションだということが端々から伝わってくるからだ。舞台となった場所の具体名を挙げるとキリがないが、ジョゼが通う図書館(おそらく大阪市立中央図書館)がリアルに描写されていたことを個人的に高く評価しいている。地下鉄の西長堀駅直通のこの図書館なら、ジョゼが車いすで歩く距離を最小化できる(ジョゼの住居はおそらく南大阪だと思われるので地下鉄西長堀駅まで乗り継いでいく必要はあるが)し、この場所なら彼女が繰り返し一人で通うこともイメージしやすい。それ以外のデートスポット、例えば水族館や動物園、なんばパークスなどは単独では行きづらい場所だし、彼女が自己実現を達成するならばここしかないスポットだろう。

 その図書館で彼女が子どもたちに語って聞かせる人魚姫は、さながらこの映画がおとぎ話のような奇跡を待望していることも予感させてくれる。わがままなジョゼと、彼女に同情する気持ちがあった管理人との関係性も、終盤は純粋な利他主義として関係性を構築していくところには希望を持っていいと思ったし、前者から後者への心理的な転移は障害者と健常者といった枠を超えて、どんな場面、どんな関係性でも起こりうることではないだろうか(その転移が絶対的に必要なもので、絶対的に肯定されるべき、とまでは言わないものの)。
 
 パンフレットで脚本家が語っていたように、そもそもこの映画には障害者や健常者といった言葉はほとんど出てこない。こうした演出に対する評価はまちまちだろうが、ダブル手帳氏の言うように令和が純愛の時代だからこういう結末になったというのはいささか短絡的なこじつけに思える。それよりも、設定の巧みさと、それを具現化するアニメーションや脚本の緻密さの方を評価したい。練りに練って作られた物語の着地点ができすぎたハッピーエンドならば、いかにそれがベタな純愛だとしても自然に受け止められると感じたからだ。

 最後に。大阪出身の清原果耶の演じるジョゼが、最初から最後まで本当に素晴らしかった。映画を見てから原作を読んだが、原作のジョゼに息を吹き込んだ声優が彼女だったのは、僥倖だと言っても大げさではあるまい。

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)
田辺 聖子
KADOKAWA
2014-01-08



ジョゼと虎と魚たち Blu-ray スペシャル・エディション
新屋英子
TCエンタテインメント
2012-09-05



※追記

 すぱんくさんのこの映画評も(個人的な体験も含め)かなり読み応えがあるのでリンク貼っておきます。社会全体が脆弱になっていくことと対照的に、障害者の権利擁護や福祉サービスが充実してきたことの一つの皮肉が「2020年のジョゼ」に見ることができる(たとえば一見福祉を利用していないように見えるジョゼにも相談支援専門員のメガネ男性は時々様子を見に来る)と言ってもいいのかもしれない。


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見:イオンシネマ綾川

 志村貴子作品と言えば、その空気感だろうと思う。会話のリズムであり、雰囲気であり、キャラ同士の関係性であり、往々にして説明しすぎずに流れていくところがマンガチックではなくて写実的な匂いを強く感じさせる。また、性的な表現やジェンダーに関する表現も一貫して多く取り入れているが、映画のパンフレット寺田プロデューサーが言葉にしているように、いずれの表現も「フラット」に描写しているところが魅力だろうと思う。

 個人的には、このフラットであるというのは特別視しないことだと感じている。もちろん『青い花』や『放浪息子』のような、ジェンダーの揺らぎそのものをテーマの中心に据えた場合は別なのだが、本作の原作となっているマンガを読んでいても、様々な恋愛、性愛の形が出ては来る中で、そういうものもあるよね、普通に、くらいのテンションや温度で紡がれているのがいいなと思う。

 かといってこの「戸惑い」も大げさではなく、自然で、等身大的だ。BLも百合も特別なものではなく普通に描いている、と太田出版の担当編集が語っている(パンフレットpp.16-17)が、これも志村貴子の漫画の読者なら自然に感じ取っていることだろう。その上で、同性愛を表現する際につきまとう「戸惑い」の描写もぬかりない。

 「えっちゃんとあやさん」はこれもパンフレットによれば志村貴子が初めて発表した百合とのことだが(2015年刊行の新装版で最初に読んだので知らなかったが、原作自体は確かにもうずいぶん前である)その百合を、1988年度生まれで同い年の女性声優である花澤香菜と小松未可子が演じるというのもとても良い。良い、としか言えないのは物書きとしてどうなのかと思うが良いものは良いし、尊いのである。しかし初めての百合が、結婚式をきっかけに出会った二人による社会人百合というのは、いろいろできすぎている。

 続く「澤先生と矢ヶ崎くん」は男子校を舞台にしたライトなBLで、教師と生徒というこれも定番ものである。澤先生の妄想が楽しく、その澤先生を櫻井孝宏が演じているのが妙に色っぽく思えて面白い。男子校なので生徒は矢ヶ崎くん以外にもたくさんいるし、毎年新しい生徒は入ってくるし、その彼らとの関わり方を模索するような描写は、これも一つの社会人ものなのだなと実感させられる。

 後半の「しんちゃんと小夜子」「みかちゃんとしんちゃん」はそれぞれ時代設定が少し違うが、同じ登場人物が出てくる続き物だ。みかちゃん、しんちゃんという同級生の男女と、しんちゃんの家のおしいれに居候している親戚の年上の女性、小夜子。小夜子の過去を知ったみかちゃんは彼女に関心を持ち、しんちゃんはただただ動揺する。女二人の強さや好奇心、三人の中では唯一の男であるしんちゃんの儚さが、性的な話題を多く含む中でもユーモアたっぷりに描かれている。

 花澤香菜や寺田Pが「どうにかなる日々」というタイトルがいい、と感想を述べていたが、この映画を最後まで見ると確かにこのタイトルは絶妙で面白い。最初の百合カップルはのぞき、以降のキャラは関係性が曖昧なままストーリーが進んでいく。この曖昧さは感情の揺らぎでもあり、澤先生やしんちゃんの動揺する心や、矢ヶ崎くんやみかちゃんの攻める気持ちが交差しながらも完全には重ならないところに魅力があると思う。これも、恋愛関係であってもそうでなくても、関係性そのものの魅力を描くことを意識しているからなのだろう。

 極端なフラットさは悪い相対主義をひきつける(例えば差別的な言動やヘイトスピーチは表現の自由下の枠外に置かれる)けれども、志村貴子の表現するフラットさは、現実が規定しようとするものから離脱することで得られる自由を表しているように思う。そうした自由が、この映画にもあふれている。


どうにかなる日々 新装版 ピンク
志村貴子
太田出版
2020-04-17


どうにかなる日々 新装版 みどり
志村貴子
太田出版
2020-04-17


どうにかなる日々
クリープハイプ
Universal Music
2020-10-21

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見:イオンシネマ綾川

 テレビシリーズをnetflixで見ていたが、途中でやめてしまっていたため映画を見に行くのが少し遅くなった。10月に入ってからテレビシリーズと、昨年公開の外伝を一気に見たことで、この物語の世界観にどっぷり浸ったまま今回の劇場版を見に行けたのはとてもよかったと思う。結論から言えば3度泣いたし、同様に泣いている人が多くいた。公開から一か月以上経ってのこの光景ということは、公開後間もないころはどれだけの人が涙を流していたのだろうと思った。
 
 本編とは直接の関係がないとは言え、間接的にという意味では去年の7月18日に起きたことはあまりいは大きすぎる。まずもってここまで来られたこと自体が一つの奇跡のようなものだろう。それは、作中でヴァイオレットが願っても願っても叶わないかもしれない期待を、ひたすらに愚直なまでに信じ、祈る光景に似ているようにも思えた。このエントリーのタイトルを「追憶の日々と祈りの結実」と表現したのは、まさに彼女の過去と未来を鮮やかに、ドラマチックにつなぐことをこの劇場版が目指してきたからだろうと、率直に感じたからだ。

 前振りはこのあたりにして。本編は150分とアニメーション映画としてはかなりのボリュームであり、大きく分けて三つの局面のある構成になっている。まず第一に、テレビシリーズ10話に登場したアンの孫デイジーが、アンの死をきっかけとして彼女に送られた50通もの手紙を目撃するところから始まる物語。テレビシリーズが20世紀前半の社会状況だと想定されるが、それより二つ世代が下ったより現代に近い視点から劇場版は始まるのだ。つまり、ヴァイオレットたちがいた時代よりもずっと後であり、ヴァイオレットの存在自体が歴史化されていることが一つポイントになっている。ここはかなり重要な要素で、ある意味劇場版の主人公はデイジーなのである。彼女が、かつて存在していたヴァイオレット・エヴァ―ガーデンの軌跡を探す旅路が、一種のメタフィクション的構造を作り出しているからだ。

 二つ目はユリスとリュカの物語だ。これはヴァイオレットが担当する仕事の話で、クライアントであるユリスは病気のためか、少年であるものの死期が近いことを悟っている。その彼が、両親や弟、そして親友であるユリスにどのような言葉を贈るのか。テレビシリーズでも紡がれていた、表独力で表現できない言葉や感情を、ヴァイオレットが一つずつ汲み取っていく物語だ。

 そして三つ目が、ヴァイオレットの物語である。テレビシリーズからずっと追い続けてきた少佐の存在がかすかに観測できたことが分かり、彼女にも選択が迫られる。どのようなタイミングでどのような行動をとるのが適切なのか。少佐の兄であるディートフリートの意向をどの程度汲み取るべきか。そして、少佐自身の現在とどのように向き合うべきなのか。


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 長い間彼女は自身のクライアントと対話を重ねてきた。それは心の交流だったと言ってよい。もちろん最初はうまくいかず、社長や同僚のドールに助けられながら歩んできたプロセスである。それは、ヴァイオレット自身が、心を、感情を取り戻していく、一種の精神的なリハビリテーションでもあったと言える(そして同時に、元軍人に対する職業リハビリテーションでもあることが意義深い)。テレビシリーズでもヴァイオレットは誰かの役に立つことで、彼女自身もまた癒しを獲得してきた。彼女が職務を通して流した涙の分だけ、確実に癒しがもたらされていたことだろう。心を、感情を取り戻す過程がこうした相互作用的なものでなければ、ヴァイオレットはどれだけ経験を積んでも感情を持たないドールでしかなかったかもしれない。

 そんな彼女だからこそ、改めて少佐と向き合う機会が与えられた。長い追憶の日々を超えて、祈りが結実するかどうか。それは同時に、京都アニメーションにとっても同様だったはずだ。2019年7月18日の惨劇を乗り越えて、ようやく届けられたこの150分の大作は、京アニのスタッフたちにもまた必要とされた癒しがあったのではないか。もっともそれは作中のフィクションを超えた一面ではある。だが、本作の主人公のデイジーが歴史化されたヴァイオレットの痕跡を探るように、京都アニメーションもまた未来を取り戻すことで絶望的な過去を乗り越え、歴史化していく作業が必要とされていたのではないか。

 「泣ける映画」という触れ込みでロングヒットになっているのは、それ自体がいいか悪いかはなんとも言えない。もう少し踏み込んでほしいという気持ちは大きい。だが、去年と今年と様々な大きな出来事を経験してきた人たちにもまた大きな、特別な癒しをもたらすことのできる作品であることは間違いない。ufotableの制作した『鬼滅の刃 無限列車編』が記録的な大ヒットを記録する中、ヴァイオレットたちが紡いだ物語と歴史、それを追いかけるデイジーのまなざしに多くの人が心を寄せたこともまた一つの事実である。

 『鬼滅の刃 無限列車編』とは全く別の角度から、映画の持つ社会的なインパクトや、物語やフィクションの持つパワーといったものを再確認することのできる、稀有な映画として覚えておきたい。また、制作データが一時失われた可能性もあったことを考えると、この映画はただの奇跡ではない。本当に得難いものを味わうことができたのだと、強くかみしめておきたいとも思う。
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 Amazonプラムビデオで昨日まで無料配信されており(今日からはレンタル等で視聴が可能になっているので、配信自体は継続されている)、Amazonがレコメンドしてきたのでなんとなく見てみた。そう、なんとなく見てみた程度だったのであるが、意外なことに引き込まれてしまい、最後までかなり面白く鑑賞した。

 SKE48については、一部のメンバーを、それも名前と顔を少し知っているくらい(一期生の松井珠理奈については彼女が小学生でデビューしたころから記憶しているが)ではあったものの、そうしたミリしらに近い人ですらこのドキュメントは楽しめる作りになっている。そして同時に、この映画が面白いのはSKE48というアイドルグループの強さと弱さを露呈しているからだ、とも感じた。それもあまりにもわかりやすく、である。

 なぜなのか。それは、結成10周年を迎えた2018年に大きな焦点が当たっているからである。公開されたのも2018年なので、映画というよりテレビドキュメンタリー的な撮って出しの新鮮さがある一本だと言ってよいと思うが、2018年は松井珠理奈が初めて総選挙で1位を獲得した年であり、初めて彼女がグループから不在だった年でもある、ということが大きなクライマックスとして描かれているからだ。

 こうした描き方は、ともすれば松井珠理奈とそれ以外、といった形で松井珠理奈の特別さが際立つ一方でその他のメンバーの存在感が薄まりやすい。現にキャプテンの斉藤真木子やナンバーツーの須田亜香里ですら、松井珠理奈の不在を容易には受け入れられない様子が描かれる。特に、須田亜香里の弱さをしっかりとカメラがとらえたシーンはひどく印象に残った。彼女の彼女らしくなさ、と言ってしまえるほど彼女を知っているわけではないものの、日本のトップアイドルの中のさらにそのトップに最も近い存在であっても、一人の人間なのである、ということだ。

 この映画は松井珠理奈の存在の大きさをクローズアップさせながら、彼女の10年間の思い入れをぶつけながら結果的に多くのものを一人で背負い込んでしまった彼女の弱さもカメラは頻繁に映す。キャリア10年とはいえ、彼女とてまだ20歳前後の一人の若い女性でしかなくて、彼女が背負えるものは限られている。須田亜香里が背負えるものも限られている。斎藤や、あるいは村松香織といった古参のメンバー一人一人が、魅力と限界のいずれをも見せつけていく。見せつけるように、カメラは回り続けている。

 こちらも古参メンバーの一人である大場美奈が、2018年の総選挙で初めて選抜入り(ベスト16入り)が確定した際のスピーチが非常に印象に残った。ともすれば努力家のきれいごとに聞こえなくもないかもしれないが、ドキュメント映像の合間に挟まれる個別のインタビューを見ていても、最も自分の立場やSKEの立場、松井珠理奈や他のメンバーの存在を冷静に観察していたのも彼女だったように思う。熱狂の中で熱くなりすぎない彼女だからこそあの心を打つようなスピーチが生まれたのかもしれないと思うと、この映画の影の主役は彼女だと言ってもいいかもしれない。

 総選挙の後は「松井珠理奈の不在」をいかにして受け入れていくのか、その葛藤と模索の日々慌ただしくカメラの前で展開されていく。松井珠理奈がいてもいなくても、あるいは彼女が戻ってきても、「彼女たち」のアイドル人生は続いていく。それを続ける人もいれば終わらせる人もいることを、ドルオタならよく知っている。いつ終わるかも分からないアイドル活動はそのすべてが一瞬の輝きだと思うことがよくあるが、SKE48にとっては唯一無二の季節である2018年の輝きと、そしてユニットにとっての脆さを、その両面を丹念にとらえ続けたすぐれたドキュメンタリーだと感じた。


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見:Amazon Prime Video

 今年も9月11日が近づいたからかもしれないが、9.11後に最初に作られた関連映画『ユナイテッド93』がAmazonビデオの100円レンタルコーナーに入っていたので見てみた。グリーングラスは以前2011年にノルウェーの起きたウトヤ島連続殺傷事件を題材にした『7月22日』を見て非常に感銘を受けたので、過去作品も見てみたいと思っていたところだった。



 この映画には二つの緊迫が描かれている。一つは管制サイドだ。いくつかの管制が舞台になっており、アメリカ軍の関連部門も描写されているが、最初はそもそも何が起きているのかの情報が少ない中、画面上の針路や機内との交信などに「異変」を感じるところから始まっていく。会話を聞き、繰り返し再生して"planes"という単語を聞き取るシーンは、9月11日に現実に起きたことをよく知っていても鳥肌が立つ。ただのハイジャック(a plane)ではなく、planes、つまり何者かが組織的に複数の航空機をハイジャックしたのではないか、と。

 世界貿易センタービルに二機が突っ込むシーンも描写されており、ここで事態の大きさに気づき、愕然とする。いまであればソーシャルメディアで早くからリアルな情報を得られたかもしれないが、当時はまだ携帯電話を持っている人が大勢はいないようなテクノロジー環境だ。機内の人も機外の誰かから情報を得ようとするが散発的であり、結果としてもっと早く適切な情報を入手できていたら、結果は違っていたのかもしれないと思ってしまった。

 こうした情報環境はしかし、機内の人々の様々なやりとりを、いわば人生で最後の行為を映しとる。携帯電話で家族に連絡する者もいれば、その電話機を近くにいる携帯電話を持っていない人に貸し出す者もいた。祈り続ける者、大丈夫、なんとかなると自分や周囲を安心させる者。そして、なんとか反撃のチャンスをうかがっている者・・・などなど。

 グリーングラスが描きたかったのは、こうした名もなき人たちだったのだと思う。管制の人や軍の人たちも含め、この事件に関わった(そして亡くなった)人たちを画面に残したかったのだろう。『7月22日』もまさに、亡くなった人を丹念に描写し、そして残された人の闘いを鬼気迫る展開で追った作品だった。

 本作でもその鬼気迫るシーンは終盤に訪れる。しかし私たちは悲劇的な結末もまた知っている。いや、知っているからこそ最後の10分ほどのシーンを、たとえこの映像がフィクションだとしてもしっかりと見ておきたい。そう強く思って、見つめていた。



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見:ホール・ソレイユ

 今年観た二本の韓国映画、『1987』と『国家が破産する日』のほぼ中間の時代という認識を持ちながらこの映画を眺めていた。社会全体が変動の空気に包まれていた80年代が明けたが、かといってすぐに明るい未来はやってこない。男尊女卑や家父長制など、いまもまだ韓国に残るこれらの慣習(日本も他人事ではないが)は、この映画でも色濃く描写されている。こういう社会では、子どもの、とりわけ少女の立場というものはあまりにも弱く、儚い。それが特別な季節であったとしても、だ。

 ウニと呼ばれる中学二年生の少女の目に映る1994年とはどういうものだっただろうか。もちろん、時代という巨大なものを直接的に描くことはしない。クライマックスは別として、多くのシーンでは時代を象徴する出来事、例えばアメリカワールドカップ(日本はドーハの悲劇で出場していないが韓国は出場している)も、北朝鮮の金日成主席の死去にしても、少女の目にはテレビに映る出来事の一つでしかない。それよりも彼女にとっては、友人や後輩との語らい、彼氏との小さくて幸せな時間、カラオケ、クラブ、たばこや万引きといったちょっとした悪事などなどが、生活を形作る。

 その生活は、ひとときの楽しさや歓びがあったとしても、基本的には息の詰まるような日々だ。だから女友達や、学校の後輩、別の学校の彼氏などとの親密な時間はとても大切で、そこが優しい時間であってほしいとウニは望んでいる。それは半分は満たされるが、半分は満たされない。様々な事情や、あるいは権力的な構造が、ウニにとっての優しい時間を侵害する。彼女は親密さを単一な関係性(たとえば異性愛)ではなく、複数性を持つものとして手に入れようとした(同性愛に近い感情を含んだものと、異性愛のいずれをも受け入れる)。そして、そのウニの狙いと挫折の隙間に入り込んでくるのが、漢文塾に新しくやってきた大学生アルバイトの、ヨンジ先生だ。

 ウニとヨンジ先生との間の関係性をめぐる描写と演出がこの映画の半分くらいの意味を占めていると思うのだけど、はちどりを観る前に『1987』を見ていた意味を改めて感じる。あの時代の少し後の物語だけど、希望がたくさんあるというよりまだまだ不安が大きい、韓国社会にとっての過渡期の時代が90年代前半のように思えた。87年の翌年にはソウルオリンピックを経験しているし、民主化というものはそれ自体が、激動な過渡期である。

 ヨンジ先生のキャラクターについて少し言及すると、『言の葉の庭』のように、年上の女教師の魅力と謎を両方兼ね備えた存在でありつつ、ユキノ先生ほど饒舌には語らせないところが絶妙だと感じた。語りすぎてしまうとキャラクターが出来上がってしまうけれど、パンフレットを読む限りいろいろなイメージをヨンジ先生に表象させたかったのだろうと受け止めた。
 
 ヨンジ先生がウニに対して、上から目線で可愛がったり助言をしたり人生相談に乗ってあげるといった上下の関係ではなく、自分自身の苦しみを隠さず、自分が嫌になるときがあってもなんとか最善を尽くし、自分にできる話を分かち合うひとりの仲間のような存在であることを望みました。
 それはウニに対するヨンジ先生の態度というだけではなく、私がこの映画に反映させたい態度の在り方でした(中略)ヨンジ先生の態度は、世界に接するこの映画の態度の反映であり象徴だと言えると思います。
(日本版のパンフレットより)


 彼女は年齢的に70年代生まれで、ウニが94年を覆う巨大なものをみつめていたように、ヨンジ先生は激動の80年代を見て来たし、生きて来た。ソウル大学を休学していることが途中で明かされるが、その経緯や、彼女の本来の学年など、付随する情報は出さない。確かにここは『言の葉の庭』で新海が試みたこと、すなわち年上の女性は一見魅力的に映るが、当事者の立場になるとあくまで弱くてもろい、一人の人間でしかないことがキャラクターに投影されている。そして彼ら彼女らはいまもまだこの社会で、世界で苦しみとともに生きているということは、『82年生まれ、キム・ジヨン』を通してすでに多くの人に知れ渡っていることでもある。

 本当はヨンジ先生もユキノ先生のように涙を流したかったかもしれない。二人とも、少しずつ自己開示をすることで年下の友人と親しくなるきっかけを作った。なぜヨンジ先生は涙を流さなかったか、なぜヨンジ先生はウニとの関係を断ち切ってしまったのか。残された謎と悲しい出来事を思うことが、よりこの時代の韓国社会であったり、この時代に弱い立場で生きて来た多くの名もなき人たちのことを思うことにつながるのかもしれない。



1987、ある闘いの真実 (字幕版)
ソル・ギョング
2019-02-06



国家が破産する日 (字幕版)
ハン・ジミン
2020-04-08












82年生まれ、キム・ジヨン
チョ・ナムジュ
筑摩書房
2019-02-13

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 そういえばプライムビデオに入っていたはずだが、見ようとして見るのを忘れていたのがこれ。約100分、テレビシリーズとは全く異なったキャラクターを与えられたアネモネが、彼女の生きる新しい世界を疾走する。忘れたもの、失われたものを探すために。あらすじをざっくりとシンプルに説明するならこういった表現でよいだろうか。

 「ハイエボリューション」としてリメイクされた第一弾となった2017年公開の劇場版は評判がよろしくなく、実際に見たけれどテレビシリーズの総集編という印象しか残らなかった。テレビシリーズ放映時(2005年)から12年も経っているので若いオタクに向けてあえて総集編を作ったのかもしれないが、新作としての期待感が強かっただけに落胆が大きかったのかもしれない。だが本作『ANEMONE』は全く違う。前作が前作だったからか、まったく違うものを新しい視点で見せるということに(半分くらい皮肉かもしれないが)成功している。

 テレビシリーズでは十分掘り下げられなかったキャラクターであるアネモネ、そしてドミニクをメインに据えることで(ドミニクは厳密には助演男優賞的なポジションではあるが)「ハイエボリューション」として新作を作った意図も理解することができた。それはつまり、『エウレカセブン』の世界観の単なる再構築ではなく、「原作」である2005年のテレビシリーズや2012年放映の『エウレカセブンAO』を経たからこそ(さらに厳密にはいわゆる旧劇場版的立ち位置にあたる『ポケットが虹でいっぱい』)作ることのできたリメイクなのかもしれない。

 『ポケットが虹でいっぱい』は名前だけ借りた別世界ものとして作られたが、ハイエボリューションシリーズはエウレカやエウレカAOの延長にある。それは原作の映像を要所で使用しているというマッシュアップ的編集も含め、原作が説明しきれなかったSF的な設定をさらに拡張している点にあるだろう。だから昔からの視聴者は自分含めこの世界はいったいなんなのか?と困惑しつつも、まったく新しい姿で登場するアネモネがそうであるように、変わったもの、忘れたもの、新しいものを探しに行くような気持ちで見ていられる。ディストピア化する世界の中でもアネモネの明るさが失われていないからだ。

 アネモネはドミニクと、エウレカはレントンと、バディシステムのように心が通じ合う関係だ。それでもアネモネは常にドミニクには会えないし、レントンは生死不明であり、エウレカは自責の念に苦しむ。こうした心境を分かりあえるアネモネとエウレカの姿がまた美しい。どことなく綾波レイとアスカがダブってくるが、この二人の間に百合のような関係はほとんどなかった。心を開くようになったエウレカと、自分の気持ちに正直なアネモネとならばそれができる。ここもまた、リメイクされることによって生まれた新しい関係性であり、新しい世界観かもしれない。探しに行こう、二人で。物語はまだまだThere's No Ending.




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見:ソレイユ・2

 予定の調整が下手なので『エクストリーム・ジョブ』を見逃してしまったが97年のアジア通貨危機〜韓国IMFショックを描いている本作は絶対に見たいと思った。アジア通貨危機は日本でも高校生なら習うレベルなので、もちろん現代の韓国人にとっては悪夢であり重要な現代史であるこの一幕は学校でもおなじみの光景だろう(実際に小学校でリアルタイムに教えられるシーンがある)。

エクストリーム・ジョブ(字幕版)
シン・ハギュン
2020-04-10



 返ってこない手形、急速に進むウォン安ドル高(いまのドル円とはスピード感が違う)、減っていく外貨準備高、「不都合な真実」を隠そうと模索する財務官僚と、一刻も早い情報公開と経済立て直しを模索する韓国銀行(韓国の中央銀行)……ある程度金融、財政、為替、マーケットあたりの知見は必要だと思っていたが実際にその通りで、特に後半何の説明もなくIMFの専務理事が一種の悪役として登場するくだりはちょっと笑ってしまった。このあたりを抑えてから映画を見に行った方がいいかもしれない。

金融入門<第2版>
日本経済新聞出版社
2018-02-23



金融政策入門 (岩波新書)
湯本 雅士
岩波書店
2015-01-01



現代の金融入門 [新版] (ちくま新書)
池尾和人
筑摩書房
2014-02-07



日本銀行 (ちくま新書)
翁邦雄
筑摩書房
2014-05-02



 やや個人的な感想にはなるが、序盤のハン・シヒョンにシン・ゴジラの尾頭ヒロミみがあってとても良かった。情報量を早口で畳みかけるタイプ。どこかで読んだ情報では、現実の韓国銀行にハン・シヒョンが演じたようなキレキレの女性がいたわけではないらしい。だがあえて彼女をこのような役で起用したところは、韓国社会の男女間におけるいろいろな構造の変化を読み取れる。
 
 97年の金融危機はその後の韓国社会を形作ってゆくことになる。小さい会社があっさりと切り捨てられたり、対照的にサムスンのような巨大企業がより強い力を握っていったり。社会全体としては経済的に発展したかもしれないが、その内実は富める者がより富み、貧しい者は貧しい状態が強いられたままになる。アカデミー賞作品賞を獲得した『半地下』はその典型的な例だと言えるだろう。

 とりわけ民主化以降はもちろんいくつもの分岐点が韓国社会にあったのだろうけれど、バブル崩壊がその後の30年間の日本経済の形を大きく決定づけたのと同じくらいのインパクトが97年にあったことを、現代の視点から振り返るシーンがわずかながら挿入されているのもよいなと思った。ただの現代史の出来事ではないことを、その巨大なまでに発展した企業や街の姿と重ねることで改めて見せつけてくる。

 もう少し雑駁とした感想を続けると、韓国銀行で重要なポジションを務めるハン・シヒョン役のキム・ヘスが49歳と知って???という感じ。どう考えてもアラサーにしか見えなかったんだが。あと『バーニング』のユ・アインが転生して逆張り投資家として成功しているのも面白かった。でも成功しても喜びに欠けた表情が良かった。個人としての成功がを手にしても社会に向き合おうとするその姿が、現在の韓国社会が見る一つの夢なのかもしれない。勝者と敗者との間の分断を乗り越える夢を。


国家が破産する日 (字幕版)
ハン・ジミン
2020-04-08



バーニング 劇場版(字幕版)
パン・ヘラ
2019-08-07




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見:イオンシネマ綾川

 前にテレビシリーズを見たのがちょうど社会人1年目の時で、社会人5年目の視点から改めて振り返る的なエントリーを書いた。



 2クール目もやる予定だったがとん挫しているのは怠惰ということにしてほしい。今回劇場版を見て、「4年後の自信と覚悟、そして悪あがき」というタイトルをこのエントリーには打ってあるが、裏テーマとしては「社会人6年目になったと思われる宮森あおいたちの奮闘を社会人6年目になったバーニングさんの視点で振り返る」というものだ。あおいは短大卒業後にストレートでムサニに就職して(1クール目)おり、季節が一巡して社会人2年目の冬になったころに物語は終わる。なので劇場版でたびたび口に出される4年後、つまり社会人6年目だとしてもおそらく26歳くらいだろう。最近30歳になった自分とは年齢的に距離があるものの、1年目の時の6年目の時との違いを多々表現しているなと思われた。

 上記のエントリーでは「キャリアの浅さから生まれる悩みや挫折」とタイトルに振ってあるが、これを踏まえると今回は「キャリアを積んだ先にあるつらさと責任感」とでも言い換えられるかもしれない。逆に、これがあるからこそ「自信と覚悟、そして悪あがき」につながっていく。なぜかというと、人は悩みや挫折がなければ、それを乗り越えた経験がなければ簡単にはステップアップしていかないからだ。

 たとえば役割、あるいはポジション。テレビシリーズ終了後の世界線で起きた「タイマス事変」を経て、丸川社長が引責辞任するなどムサニのメンバーは散り散りになる。宮森とともに働いていた制作メンバーも何人かは会社を去り、ナベPは丸川の後を継いで社長(ナベ長)になり、宮森はそのナベPが担っていたラインプロデューサーの役割を、元請けの新作劇場版で担うこととなる、のが今回のあらすじだ。つまり、キャリアと責任が増えた宮森が、「劇場アニメを制作する」劇場版が本作である。
 
 特にアニメ制作の現場は限られた期間、予算、人員という、状況をハードにする要素があちこにち満ちている。これを「回す」ことが制作に求められるわけだけど、なかなか絵コンテを描かない監督に代表されるように、アニメ制作そのものは容易には進んでいかない。テレビシリーズ11話で矢野パイセンが言う「トライ&エラーって言うけど日々トライ&トラブル」が改めて思い起こされる。これを、1年目や2年目の制作の立場で迎えるのと、一種のマネジメント職であるラインPの立場で迎えるのとはまた異なる。仕事への向き合い方も、外部や内部のメンバーとの向き合い方も。そして、自分が何をしたいのかという、根本的な問いへの向き合い方も。

 一番面白いなと思ったのは、あの5人もそれぞれ4年の時間を経過しているから、彼女たちは同じ制服を着て、東北の某高校で過ごした時代からはかなり遠く離れてきていることだ。遠く離れるということは、次第に変わっていく自分たちの関係性であったり、あるいは自分のポジションにも向き合わなければならない。

 宮森がPになったのはもちろん、りーちゃんは脚本家(?)としてなぜか田中真紀子のフォームをマネながら脚本家(?)として重要なアシストを果たすし、絵麻は作監として作品や宮森と向き合う。もう「同級生」でもないし「部員」でもないし「先輩後輩」でもない。過去には戻れない。けれども彼女たちはそれをそのままに受け止めていて、いまをいまとして生きようとしている。これって結構、簡単じゃないよね?って思うのだ。特に、いまだに過去にとらわれている木下誠一が対照的であるがゆえに。

 翻って自分を見つめると、自分も社会人6年目になって、同じく6年目の宮森たちをすごくまぶしく思いながら見ていた。けれども5年前とは違って、自分の立場をそれはそれとして受け止められるようになったかなと思う。何もなかったころから、一応何かはあるいまへ至るまでの期間は楽ではなかったけれど、たどりついたいまをまんざらではないなと思っているから。

 きっとこれからも繰り返し見返していくのだろう。社会人10年目、15年目、20年目の自分にはどう映るのだろうか。あるいは、宮森あおいの10年目や20年目が描かれたりするのだろうか。物語はきっとまだまだ続くと、思ってもよいよね、って変わらずに期待させてくれるのは楽しい。宮森あおいはきっとこれからも悪あがきをあきらめないはずだから。
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見:ソレイユ・2
 一昨年に見た『四月の永い夢』もそうだった。現代の東京と、東京から少し離れたところにある(でも、遠すぎはしない)地方の町を往復しながら描き出す群像のリアリティには秀逸なものがある。若い世代を描きながら、東京でも地元(地方)でもその周囲を描くことで古いタイプの日本映画的魅力も同時に持たせているなと感じられるのだ。



 前回が朝倉あき、今回が松本穂香という、地味すぎず派手すぎない、やわらかさと強さを持った女優を据えてくるあたりの面白さがあると思ったけれど、今回はさらに光石研を筆頭に周囲を固めるプレイヤーが冴えている。特に光石研がいい。飲んだくれ、嗚咽したり急に小便をしたりとどうしようもない
姿を見せながらも、葛飾区の下町にある古い銭湯を一人で守り続ける。かたくなに。

 松本穂香演じる澪は、彼女の東京での受け入れ人兼下宿先になった光石研演じる三沢を理解し、銭湯の仕事を覚えるところから始まっていく。その前に少し小さなつまづきや出会いもあったが、多くの人間がそうであるように、上京物語はそう単純には進んでいかない。けれども、小さな出会いは少しずつ力をくれる。

 他方で地元の仲間や支えてくれた人たちの存在。祖母の残してくれた「わたしは光をにぎっている」というフレーズと詩集。澪は少しずつゆるやかに、あてどないかもしれないけれど、自分の日常を立ち上げていく。その先に東京での生活が続いていくことを信じて、彼女は生きていこうとする。

 『四月の永い夢』のように、過去の恋愛が絡んでくることもなければ、それに向かって物語がまっすぐ進んでいくわけではない。むしろ物語の筋が見え始めるのは、もう残り30分か40分かしたころになってからだ。どうやって進めていってどうやって終わらせるんだろうと思っていたけれど、『四月の永い夢』とも重なるのは、誰かの死と何かの終わりであって、では澪の場合はそれらに対してどのように向き合っていくのか、といったことだと感じた。

 澪の向き合い方も気になるが、それ以上にやはり一人ずっと銭湯を守ってきた三沢の心情も気になる。これが前作にはなかった魅力だろうと思った。光石研が役にあまりにもなじみすぎていて、こういうおっちゃんいるよな、というくらいの役になっているのがすごくいい。そしてそれに呼応するようにして、澪が自分の気持ちを表に出し始めるところもやはりいいなと思った。彼女はひとりで生きない方がいい。周囲に誰かがいて、ようやく澪は澪らしく生きていけるのだろう。そしてこう気づかされる。三沢の場合も、もしかしたらそうだったのかもしれないと。
 
 展開がゆるやかで澪のキャラクターもふわふわしているので、正直つかみどころが微妙な映画ではあった。だが『四月の永い夢』から『わたしは光をにぎっている』はまっすぐ一本につながっている。どちらもまっすぐ地に足をつけて、現実をちゃんと見て、そしてちゃんと前を向いて生きていく、そういう物語だ。
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