文庫版をひっくり返した帯文にはこう書いてある。「『スクラップ・アンド・ビルド』以上に、自分の名刺代わりにしたい作品です」と。本書にはいずれもSM嬢による調教を受けることを選択する主人公が二人登場(関連性はおそらくない)していて、それぞれサトウとカトウという名前を持っている。「メタモルフォシス」は野外プレイを望むようになってしまった証券マンのサトウの話で、「トーキョーの調教」は女子大生SM嬢と思わぬ場面で再開してしまうテレビマンのカトウと、嬢である武内愛子(マナ)の話だ。

 「トーキョーーの調教」では主に相互の駆け引きを、「メタモルフォシス」ではM男としてSMを極めようとしてしまう快感とそのいく先を書いているが、なにかを極めようとしながら目の前の相手との駆け引きを書くことで二者間の関係を意外な方向へと立体化させていった「スクラップ・アンド・ビルド」に通じるものが両作から垣間見ることができる。そういう意味でも面白い読書だった。

 順番としてはあとに書かれている表題作「メタモルフォシス」はとにかく過激だ。野外プレイは序の口のうちで、その時点でも警察官や周囲の人間との距離を駆け引きしなければならない究極のプレイなのに、さらにSMを極めようとしてしまう本性がとにかくおそろしい。嬢のほうはある程度仕事としてわりきっているところが印象的で、とにかく極めよう、ハマっていこうとするサトウと、サトウを試しながら明確に一線を引いてある嬢の間にははっきりとした距離感がある。でなければできない仕事ではあるのだろうけれど、脱糞からの一連の流れのすさまじいリアリティ(一連の内容というより感情の面で)はまぎれもない狂気の表れだけども、一線を引いた嬢に対するサトウの挑戦として読むと痛快ではある。(勝ち負けというのがあるわけではないとは思うが)

 そのサトウが当然のように食中毒をこじらせて搬送された病院で、さらなる挑戦を思い付く。それは嬢に対してでも自分に対してでもなく、自分を超える他者に対しての無謀な挑戦だ。証券マンとしてのあまりにもドライな日々も描写されるが、いかにそのときのサトウが虚飾に満ちているかがよくわかる。体も心も素になった状態にならなければたどりつけない地平がはたして幸福なものなのかどうかももはや重要ではなく、純粋なあこがれとして。サトウの選んだプロセスは、無意識のうちに日々すり減っていく感情を、狂気という別の感情でリセットしているかのようだ。だから客観的には絶望的な結末すらもサトウの主観ではそうは映らない。新しい未知の体験として、さらなる狂気を快感なものとして受け止めるのだ。

 対して「トーキョーの調教」では狂気という言葉は少し控えめに見ておいたほうがいい。表題作が最初から最後までやたら強烈なことに比べると、テレビマンとして長いキャリアを歩いてきた中堅のポジションにいるカトウにとって、狂気に至るまでの自分探しはもはや必要ない。それでもSM嬢のマナと出会うことで、彼の中にあった何かが刺激されていく。妻との他愛ない会話よりも、よほどマナとの会話(それは必ずしも許されたものではない)に真剣に向き合ってしまうようになる。

 そのマナと別の場所で(もちろん別の名前で)再会するところからがこちらの短編の醍醐味だ。ホテルの一室の中では奴隷と嬢という関係性が、別の場所では違うものに変換される。そのことに気づいたとき、相手の狙いが一瞬わからなくなる。ただの偶然なのか、狙っているものなのか。そして真の狙いはどこにあるのか。ちょっとしたミステリー仕立てとして、新しい二人の関係性が始まっていく。

 いずれの場所でも二人の関係性は少しずつ前進していく。互いが互いを意識し合うことで、コミュニケーションの駆け引きはよりスリリングになっていく。二人の関係性が異なっていても、最初から最後まで言葉が重要な要素になっているところが小説(あるいは純文学)という方法と非常に相性がいい。言葉が表現する関係性と、言葉が生み出す新しい緊張感。最後の面接のシーンは本当に圧巻で、面接というアイデンティティを問いながらも虚飾を覆いがちな場面において虚飾を一気に解き放つ瞬間は最高にエモーショナルだ。その戦略性の高さに、女子大生であるとかSM嬢であるとかといった肩書きなど忘れて、一人の強烈な個性が目の前に現れることに驚かされる。

 「トーキョーの調教」においてカトウは当初サトウという名前でマナに近づく。この時点で読者にはいくらか「メタモルフォシス」のサトウがダブってしまうわけだけど(このために掲載の順番を設定したのかと少し思う)新しい関係性が立ち上がってくるときに名前ながなんであるかなど実は重要ではないという要素と、いやそれでも名前がアイデンティティに影響を与えてしまうといういずれの要素もうまく絡み合った、面白い設定だ。そのことはもちろん、マナこと武内愛子にもあてはまる。わたしはいったい誰ですか、という問いはわたしはわたしである、というトートロジーが究極の解なのだろう。

 「メタモルフォシス」の時点では芥川賞にはいたらなかったが、いずれの短編も羽田圭介という作家の才能を見せつけるには十分すぎる。作中のキャラクターと同一視するわけではないが、こういう小説を書いてしまえる羽田自身、内面では相当狂気な作家なのだろうと思ってしまう。もちろん、真実かどうかはさておいて。


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