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2019年09月01日

誰でもいいわけがないから、確かな愛を探す ――『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019年)



見:出町座

 ずっと気になっていたがなかなか機会を逃していた山戸結希の映画をようやく初めて見た。このあと続けてみた2016年の「溺れるナイフ」も同様に、少女マンガをベースに山戸なりのアレンジを加えた(少なくとも本作に関しては再解釈とか二次創作という表現をしてもよいだろう)ものとなっていて、何よりそれこそが山戸結希の映画を見る醍醐味だと言ってよいだろう。

 一言で言えばエモすぎるというか、あまりにもまぶしすぎるものを見せつけられる。主人公の急に初に訪れたキラキラした世界からの訪問者は、彼女の王子様となって未知の世界へと誘っていく。他方で最悪の出会い方をした腐れ縁のメガネ男子は、初と接するうちに驚異的な終着を見せていく。そして血がつながっていない初の兄もまた、兄という特別なポジションを利用しながら距離を縮めていく。

 このような書き方をすると初に急にモテ期が訪れたように見えるし、実際そうなのだとも言えるのだが、実は一つの大きなミステリーが込められている。その意味では非常に、現実的かつ社会的なアプローチをしている。初の目には見えない世界が存在すること(善意も悪意も)を初は身を持って知っていくことになる。そうした現実の海の中で彼女は自分自身のアイデンティティと愛を探していくのだ。自分が本当に好きな人を最初から誰か一人には絞れないから、三人それぞれに対して。なんてエモい!

 山戸結希は少し前に放映された「セブンルール」の中で女の子の代弁者になることを目指している映画監督として紹介されおていたし、彼女のフィルモグラフィをひもとくと実際そうなのだろうと感じる。出世作となり彼女の知名度を一躍上げたといってもいい「溺れるナイフ」は、山戸の表現しようとすること、彼女の伝えたいことがあふれている。その先に、本作「ホットギミックガールミーツボーイ」があると言ってよい。(このこともツイッターかどこかで彼女自身が表明していた)

 その先というのは、パンフレットに彼女が寄せた「すべての少女と、少女の出会いゆく少年のために」という言葉に表れている。この社会のどこかで鬱屈とした日々を過ごしている弱い存在というのは、何も少女には限らない。もちろん男女の社会的格差を考慮する必要はあると思うけれど(山戸が少女を擁護する根拠でもあるはずだ)では少年たちにとって生きやすい時代であり社会かというとそうでもない。誰だって、鬱屈さや息苦しさ、あるいは大人の悪意に苦しみながら生きている。

 こうしたアプローチは、キム・エランやチェ・ウニョンの書く小説を連想させる。韓国も日本と同様かそれ以上に、女性であることによって不平等を得てしまう構造を持つ。ウニョンは一貫して意識的にそうした社会を生きる10代や20代の女性に寄り添ってきたし、エランもまた現代社会を生きる若者の苦悩や人間関係を丁寧に、そして繊細に記述している。キャラクターの、とりわけ少女の感情の演出を見ていると、かつての綿矢りさや村田沙耶香を思い出す。内側からほとばしるエネルギー、そしてそれを放出する瞬間のすさまじさ。

 山戸の映画もまた、小説と表現方法は違えど飾りないストレートな感情をぶつけ合うことで映像を構築していく。そして数々の音楽を利用しながら、キャラクター同士の関係性を演劇的に盛り立てる一方、一気に冷たい現実に叩き落とすシビアさも同時に見せる。そうした表現を用いながらビビッドな感情を届けようとすることに、何よりの魅力を感じるし、才能を感じる。

 彼女の、時代が待望した才能を見せつけられることについて、山戸結希の描くヒロインたちと世代は違えど、山戸結希自身と同じ時代を地方と東京で生きてきた者としては、これ以上ない幸福だと思う。もっともっと、彼女の才能を見ていたい。見続けていたい。

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burningday at 22:00│Comments(0)movie 

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