海外での合法的安楽死という他力本願な自死への違和感と、ヴェーネ・アンスバッハが死ねなかった理由雲のむこうへ捧げる祈りと願い、あるいはジュブナイル映画としての新海誠 ――『天気の子』(2019年)

2019年06月20日

音楽やってて後悔なんてしたことない ――『さよならくちびる』(2019年)





見:イオンシネマ綾川

 まぎれもない百合映画だった。本当にこれはいい百合だった。パンフレットを読み、門脇と小松が共演する前から互いの共演を長く望んでいたこと、その二人の間に立つ成田凌を中性的な存在として評価していること。監督が成田を見たとき、成田とシマがダブったという話。それを言えばハルレオも門脇と小松にそれぞれ完全にダブっていくようにして撮影がなされたんだろうなと思うけれど、思えば『愛がなんだ』でも中間的なポジションに立つダメ男を自然体で演じていた成田には、恋愛的な意味では報われないが女性同士の関係性をつなぐために重要な位置を託したいのかもしれない。そうしたい魅力があるのかもしれない。

 そういうわけで、小松菜奈と門脇麦の百合が最の高なのは間違いない。でも、これは成田がいないと成立しない構図になっているのが本当に素晴らしい。元ホストでありバンドのマネージャー兼ローディという役割のシマがいることでこじれたりもするんだけど、二人だけならハルレオの関係はもっと早くに完全に破綻していたはずだ。それを、成田がいい感じのクッションもしくはサンドバッグとしてハルレオをつなぎとめているのではないか。

 ゆえにハルとレオの百合は持続する。何度も何度も壊れそうになっても、それでもハルとレオは二人でアコースティックギターを携えて、小さなライブハウスで歌を歌う。曲数はそれほど多くない。その音楽については、持ち曲はアルバム一枚分はあるという設定だが、実際に門脇と小松が歌うのは3曲だ。そのうちの一曲、表題曲兼主題歌が秦基博提供なのでパーフェクトだし、残りの二曲はブレイク前夜のあいみょんにオファー出してたというあたりも最高だ。髪が長い時の小松菜奈はちょっとあいみょん感あったし、あいみょんが作詞をした2曲は彼女らしい私性が出ていたと思う。なんというかその歌詞は、生きることについてのものだからだ。



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 ところでこれは小松菜奈のための映画だったのだろうか。




 そもそも俺がこの映画を見に行く決め手は鈴木ピクさんのこのツイートだったし、確かにこれは純度100%の小松菜奈の映画だと思う。彼女の笑う顔、傷ついて悲しそうな顔、歌っているときの楽しそうな顔。たくさんの小松菜奈がいる。レオがいる。そういう映画だと思う。

 でもそれは、レオを見るたくさんの人たちの存在によって演出づけられているのだろうと思う。観客はもちろんそうだが、シマとハルの二人、とりわけレオのことが好きでしょうがなくて、でもその内面はずっとずっと自分の中に隠し持ったままのハルのまなざしが、あまりにもいとおしくてしょうがなかった。具体的にどのシーンが、というのは難しくて、むしろほとんどすべてのハルとレオが同時に映るシーンにおいて、レオを見ている(あるいは意識的に見ていない)ハルのことをずっと思っていた。

 その報われない何かを抱えたハルを演じるのが、20代も後半になり、確実に映画女優としてのキャリアを積んでいる門脇麦だというのが、これも本当にたまらないことだなと思う。小松菜奈のための映画なのは間違いない。でもそれは同時に、小松菜奈を見つめる門脇麦のための映画である。ハルとレオの関係は常に破綻している。けれどその内面は、ずっと温かいままだ。だからハルを演じる門脇麦のまなざしに、どうしても惹かれてしまうのである。

 「音楽やってて後悔なんてしたことない」(うろ覚え。一字一句合ってる自信はない)は函館へのファイナル公演の直前にシマがハルレオに投げかける言葉だ。でもこれは、おそらくハルが最も共感できたはずだ。音楽のおかげで、シマやレオと過ごす、苦しいけれど最高の時間を手に入れることができたのだから。そういう風に、旅は続いていくのだろう。嵐がまだ待ち受けていようとも。



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海外での合法的安楽死という他力本願な自死への違和感と、ヴェーネ・アンスバッハが死ねなかった理由雲のむこうへ捧げる祈りと願い、あるいはジュブナイル映画としての新海誠 ――『天気の子』(2019年)