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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



見:元町映画館

 2017年の暮れ、神戸にある元町映画館のイベント上映で鑑賞した。非常に素晴らしい体験だった。上映後の舞台挨拶で監督が披露した「ハッピーアワー」と題されたタイトルの由来についてまずは少し書いてみたい。

 いくつかの媒体でも書かれていることではあるが、監督が街を歩いているときにふと目にした居酒屋のこのワードに、なにかひらめきを得たらしいということ。つかの間ビールなどのアルコール類が安くなるほんのひととき、という意味をこめた(字義通りではあるが)と聞いたとき、なかなか面白い皮肉がきいていると思った。もう一つ言えば、作中に登場するアーティスト鵜飼が第一部で提示するワークショップ「重心に聞く」という言葉も、この映画が進んでいくにつれて意外なところで意味のあるものになっていく。

 これは神戸を舞台にした4人の女性の物語であり、監督が話していたことでもあるしパンフレットに書かれていたことを参照すると、「花嫁たち」という仮タイトルがあてられていたらしい。主婦の桜子、同じく純、ナースのあかり、そしてギャラリー勤務の芙美。桜子と純は学生時代からの付き合いで、桜子の夫は純が引き寄せたというか、桜子と夫の関係はぎこちない。純は実は離婚調停中だということを第一部で盛大に暴露する。

 そうした純の筋を通さない態度が気に入らないあかりは実はバツイチで、元夫とも関係が切れてないことが端々に宿る。では芙美は編集者である夫、拓也との関係が良好なのかというと・・・という形で、これも監督が話していたような気がするが30代の女性に起きうることを、リアリティとドラマを交えて5時間以上もの構成にしたてのがこの映画なのだろうと思う。

 サブテーマを見出せばキリがないほどあるだろうし、それについてはまた稿を改めて書いてもいいくらいなのだけど、この映画を貫いているのは関係性を維持することの困難さなのだろうと思う。まずオープニングが象徴的で、主人公4人がケーブルカーらしき乗り物で六甲の山を登っていくのだが、登りきると画面が一気に真っ白になり、雨に包まれて何も見えなくなる。本当ならば山から海が見下ろせるのだろう。降りしきる雨は、山に登り切ってため息を想わずついてしまう4人の、今後の関係性の不安定さをわかりやすく予感している。


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 もう4年半ほど前になるが、『親密さ』を見たときに浮かんだことも確かに似ていた。似ていたが、この映画はあくまで主人公2人のカップルのゆくすえとその周辺の人間関係(主に演劇を興じる仲間)の群像劇、というわかりやすい構造が出来上がっていたと思う。2人の関係性がいったりきたりしながら、しかし確実に充実していく、そのための4時間だったと覚えているし、それはまさに祈るようではあるが幸せな時間だったと記憶している。

 対して今回は5時間を超える長さではありながら、主人公4人の関係性は深まるばかりかどんどんとぎこちなくなっていく。言ってしまえば、いかにぎこちなくなっていくかを見ているようなものである。4人同士の関係だけでなく、彼女たちがそれぞれに持っている「親密圏」がいかに脆く壊れやすいものかと。

 確かに『親密さ』の2人はまだ20代だったが、彼らが30代になり、やがてさらに歳を重ねるときに、かつて持っていたはずの若さゆえの勢いだけでは乗り越えられない問題が多々生まれてくるだろうことは分かる。しかしそれでも、多くの人間は平穏に平和な日常を送っているはずなのではないか。ここまでドラマ仕立てになるほど、彼女たちは幸福へとたどりつけないのだろう。とりわけ純の離婚裁判の、その終結に向けた審判から幕があがる第二部が実に重たい空気を保っていた。

 しかしこれはまた明確な事実なのだけれど、彼女たちがぎこちないのは彼女たちのコミュニケーションがぎこちないからに他ならない。先ほど述べたように、男勝りなあかりは筋を通さない主張をとにかく嫌うことによって、彼女の視界に入らない感情をもみ消す。芙美もまた、表面的にうまくいっているけれど、内実は全然そうではないことをはっきりと予感しつつ拓也にその不和を告げることはない。

 純は純で、彼の夫が言うように勝ち目のない離婚裁判を、自分の中にある感情だけで押し切ろうとする。家族の前で優等生的な主婦を演じる桜子は、息子にだけは自分がそんなにすぐれたがそんなにすぐれた大人でないことを吐露しながらも、これもまた不和のある夫には明言しない。ディスコミュニケーション、あるいは過剰な、一方的なコミュニケーションによって、人間関係はいともたやすく崩れていく。

 だからこそきっと、鵜飼が最初に提示した「重心を聞く」というアイデアは、その抽象さゆえに理解されづらいだろうという予感をまた提示しつつも、後になって意味を持ってくるはずなのだ。4人を中心とする関係性からは少し離れたところにいる新人小説家のこずえは、第三部における朗読会後に開かれる打ち上げで、彼女たちがいかに自分の主語を語っていないかを指摘する。彼女たちはそれぞれに敏感で、だからこそ他人を助けたいとも思うし力になりたいと思っているが、それぞれがそれぞれのやり方でまっとうなコミュニケーションの方法を失った状態でもある。桜子はこずえの指摘に激怒するが、その怒りはまた、図星でもあったのだろう。

 桜子がこの打ち上げのあとに思わぬ行動をとるが、それはこれまでの自分とは違ったやり方で(それが正しいか正しくないかにかかわらず)コミュニケーションを試みた一つの結果なのかもしれないと思った。桜子に触発されるように、芙美もまた自分の殻を打ち破ろうとする。そしてあかりもまた。

 ここまできてようやく、未成熟な彼女たちが、傷つきながらも「大人」になっていく姿を見せられたのかもしれないと思った。打ち上げの席に同席しなかったあかりは鵜飼とともに訪れたオールナイトのクラブで意外な体験をすることになるが(そしてその体験を演出した日向子演じる出村弘美の一連の演技は本当にお見事だった)彼女もまた打ち破るべき自己を抱えた一人のキャラクターであり、後輩ナースである柚月との美しい和解は、この不思議な一夜がなければ存在しなかったのかもしれない。


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 濱口竜介はこの映画はタイトルにあるように非常に楽天的な映画なのだと語っていた。5時間以上をかけた映画の中で、人生はまたここから始まっていくのだとも語っていた。確かにそうなのだろう。人生は一本道をまっすぐ進んでいくわけではなく、社会制度によって、そしてライフステージに応じて様々な局面を溺れないように泳いでいかねばならない。つらいときも苦しいときもあるが、それは永続するものではない。楽しいときや幸せなひとときがずっと続くものでもないように(そうしたつかの間の意味での「ハッピーアワー」なのだなといまなら思える)人生は始まったり終わったりを繰り返していく。

 それと、第一部の鵜飼によるパフォーマンス、第二部の純たちによる離婚裁判、第三部のこずえによる朗読会など、節目ごとに舞台が設定されていることについて『親密さ』におけるいくつかのパフォーマンスとの関連について質疑で聞いてみたのだが、監督は特に前の作品を意識したものではなかったらしい。ただ、いくつかのパフォーマンスをほとんどそのままの時間映画に反映することには意味がある、というようなことを語っていた。

 確かにいくつか提示される舞台やパフォーマンスはそれぞれの章立てを象徴するものであったし、それらがなければのちの人間関係は規定されていかない。なによりキャラクターの体感する時間とほぼ等しい時間を観客が追体験するということもまた、観客としての不思議な体験の一つになりうつだろう。

  鵜飼のパフォーマンス「重心を聞く」を日常で実践するのは容易ではないが、きっとあるだろう重心を探ること、それを聞こうとすることは、コミュニケーションのプロセスにおいて一つの核になりうる。またこずえが小説に託したように、日常にある様々な小さなものを受け止めていくこともまた、慌ただしくすれ違っていく人間関係においては重要な要素かもしれない。ありふれた人間関係を価値のあるものにするためには、適切なコミュニケーションの繰り返ししかない。


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 しかしなぜこれだけ膨大なことを、しかしある意味では凡庸とも言えるそれらの展開を見ていてなぜ不思議と飽きないのか、飽きないばかりか彼女たちの行く末や決断が気になって仕方ないのか。劇作家の岡田利規がパンフレットに寄せてある文章に「出来事に直面する人間のほうにあくまで寄り添っている。出来事のほうを向いて人間の事情を軽んじることは一瞬もなかった。だから五時間を超える長尺になる」と書いているのを読んで少し腑に落ちた。

 そしてこのたとえが適切かどうかはよくわからないが、『CLANNAD』を思い出した。あの作品には人生がつまっている。この映画は、『CLANNAD』が書ききれなかった10代や20代のその先の人生が、たくさんつまっているのだ。だからまだまだ、5時間経っても物足りないのだ。人生がどれだけ膨大なものを、もう十分によく知っているから。

 舞台あいさつでは役者の人たちも多々訪れており、半年間にわたるワークショップで選ばれた役者の2/3が全くのアマチュアだったというのは驚いたけれど、撮影に半年以上を費やした彼ら彼女らが語る映画の記憶が幸福なものであったように、この映画を見る観客たちもきっとその幸福な時間を共有できていることなのだろうと思った。ある時期の神戸という舞台を閉じ込めたこの映画が末永く、愛されるといいと思う。

 繰り返すが、舞台となった神戸の映画館でこの作品を見られたのは幸せだった。俺でもよく知っている三宮周辺の光景、有馬温泉、六甲、そしてまさに俺がこの映画を見るために利用したジャンボフェリー乗り場。海も山もある都市、神戸という美しいロケーションが、彼女たちの人生の舞台になっているのだと、最後の最後の鮮やかなシーンでまた強く実感することができた。『神戸在住』や『その街の子ども』を引くまでもなく、神戸はいい街だよなと、憧れをまた一つ持たせてくれる。

















その街のこども 劇場版 [DVD]
森山未來
トランスフォーマー
2011-06-03

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