最近『げんしけん』で知られる木尾士目の初期作がどういうわけか新装版としてリリースされているのでたて続けに読んでいる。その中で、『四年生』という一巻完結の漫画と、その続編である『五年生』を読み終えた。大学生編である『四年生』は比較的ハッピーエンド志向の作品だが、男が留年し、女が就職するというどう考えてもうまくいかないシチュエーションを想定している。あとがきを読むと、意図的に二人の仲を引き裂いたあとにどうやって再生していくのかを書きたかったらしい。しかし最後の最後まで再生どころか決裂している関係をどうやって戻すのかと、やきもきしながら読んでいた。
そしてどことなく『イエスタデイをうたって』に似ているなと(時系列的にはダブる部分もあるし)思いながら、より直情的というか、理屈よりもその場の感情で動いていくキャラクターがあまりにも多くて、つらい部分もあった。とはいえ、これは結局は距離を描いたお話なんじゃないかと思いながら読むとしっくりくる。心理的な距離と物理的な距離があったとして、そのいずれもが近くにあるのが『四年生』で、そのいずれもが遠くあるのが『五年生』だったんじゃないかと。
『イエスタデイをうたって』のヒロインは榀子とハルという、分かりやすく言えば理性と感情、大人っぽさと子どもっぽさという二人の女性を登場させていたけれども、木尾士目の描くキャラクターはどのキャラクターも感情を表現しようとする。まわりくどい場合もであるが、それでもわかりやすく感情をぶつけてくるのだ。『五年生』に登場するアキオの下級生である吉村はその典型だろう。どう考えても悪い女風に登場して、最後まで一貫している。アキオもそのことをある程度予感しながら吉村を受け入れていく。この時点ではもはや、かつての恋人である相馬芳乃の存在なんてない。アキオは、物理的にも心理的にも、距離の近さを好むのだ。
対して芳乃のほうは達観しているというか、就職したあとは一貫して東京で暮らし続ける。アキオ(は木更津にいる)と会うとしてもたいていは東京だ。アキオがまだ大学に残り、細々とながらゼミの学生やOBたちと交流するのに比べると、大学卒業後の芳乃のまわりには仕事と家があるだけだ。これは明確に、学生時代と社会人時代のラインを引きたい芳乃の感情の表れだろうし、そうすることが正しいと思っている彼女の生きざまなのだろうと思う。だから学生時代はなあなあで交際していたアキオに対して、かつてほどの思いは持たないし、「アキオがダメな男であるとわかっていながら付き合っていた自分」を相対化させていくのが『五年生』のストーリーだろう。その中に彼女の不倫も含まれて、同時に彼女自身もまだ脆い、不完全な存在であるという事実に直面したりするわけだが。
結局のところ、とどまるか離れるかが正解というわけではない。私たちは生きていく場所を選べたり選べなかったりするわけだが、それでも結局生きていくしかないんだよなということ、そのときに、遠くにいようがいまいが、だれかと寄り添うことは可能なのか? というのが最終的に『五年生』を通じて表現したかったことのように思う。ある意味で、『イエスタデイをうたって』のリクオが最後に選んだ選択と似ていて、近いところにすべてをゆだねればいいのではなくて、あるいは受動的に何かを選択するのではなくて、遠くにあってもそこに手を伸ばすことに、それを積極的に選び取ることに人生の意味があるんじゃないか、ということだと思う。
まあしかし人生なんてものは20代のうちはまだ序の口で、そもそも二人の関係がうまくいくような気はしない。気はしないが、それもあらかじめ分かっていたことではある。その感覚を再帰的に受け入れながら選び取った芳乃とアキオの選択、その思いや悩みというものは、なるほど案外尊いのかもしれないな、と思った。俗っぽいと言えばそれまでだけれど、うまくいかないコミュニケーションを費やした上での選択であるならば、意味がない、とは言えないんじゃないか。きっと。
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