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2018年09月23日

8月の遠征はいつだって暑くて熱い ――小説読書会、レトリカイベント、C94

 秋めいてきたこのごろにいまさら感あるけど、8月の振り返り。

 今年は夏コミに合わせて、11と12日に上京してきた。11の朝に着いて12の14時半には品川から新幹線に乗っていたので、滞在時間は30時間強といったところ。睡眠時間はいつも通り7時間くらい確保したが、寝ている間と移動中以外はほぼほぼ何かしら予定があるという、贅沢で慌ただしい滞在だった。まあ慌ただしいのはいつものことで、たまにはもう少しゆったりしたらいいものの、なぜか分刻みのスケジュールになってしまうのは自分の貧乏性なのだろう。

 特に夏コミの時期は。東京に来る機会は、なんだかんだ貴重ではあるので有効活用したい結果がこうである。逆に言うと、完全に個人的なタイミングで上京しているので、会う人会う人にはありがたさしかない。雑ですが、この場を借りてお礼を。

文学賞受賞作読書会

 11日の昼は6月にも参加した読書会の続きに参加した。かれこれ10年近いかそれ以上の付き合いになっているレイズさんに誘われて6月に参加した読書会がなかなかに面白く、かつ自分にとってためになったなということで、今回も夏コミの期間中にたまたま開催時期が決まっていたので続けて参加することにした。前半で課題図書を一冊読み、後半は参加者それぞれが提出したオリジナルの短編小説を合評するという、異なる種類の読書会を連続した形で行っているという読書会だ。会のスタンスとしては、前半で得たものを後半にもつなげる(可能な範囲で)という形で連続性を持たせた読書会になっている。

 これは同人サークル「アレ Club」が毎年大阪の谷町六丁目で開催しているイベントにも近い形かもしれない。アレの場合は読む→書く→合評という形を約3時間に押し込んでいるので、まだこちらも2回しか参加していないが密度が濃くて毎度面白い。やっぱりこう、集まって何かをするのならそれなりに効果のあるものにしたいという思いがどちらの側にもあるのかもしれないな、となんとなく思ったのと、久しぶりに集まって読んだり書いたりというイベントに続けて参加して、純粋に楽しかったという思いがある。

 もちろん楽しいだけじゃなくて、自分の強みと弱みの再確認にもなったし、何より他人が書いたものを読み、その他人が目の前にいてしゃべっている、という環境はなかなかにいい。地方暮らしでは得難い体験を続けてさせてもらったな、という気持ちがある。もちろん地方でもできないわけじゃない、ということも再度認識しつつ。

 ちなみに今回読んだのはこれでした。


レトリカイベント「避暑


















 11日夜はいったん大久保のナインアワーズにチェックインしたあと、秋葉原で行われていたレトリカのイベントという名の公開編集作業実況?みたいなのに参加した。2012年から2年おきにレトリカは本を作っているが、今回も秋の文フリに合わせて作っているということで(しかし遅れているということで)レトリカ4に参加予定のメンバーを中心としたゆるい集まり兼企画のプレゼンという感じだった。いろいろな人が来ていて、旧知のレロに至っては滞在時間を伸ばしてもらって会うことができたので、やはりいろいろ感謝しかない。瀬下くんやまつともくんも元気そうで、ほかのレトリカメンバーともいろいろと話をした。

 自分がした話としては、主に地方暮らしと現職に関することが主で、合間で小説の話やらアイカツの話やらをしているという具合だった。当日も誰かに話したことだったけど、レトリカがいいなと思うのは、慶應の同期メンバーを中心としつつ、誰か一人だけが中心にいるわけではないということと、その核となる部分の周辺にいろいろなクラスタから人が集まっていることだろう。瀬下くんがプレゼンの中で改めてレトリカのコンセプトを話していたが、「作り続ける」という運動を、かれこれ2012年から数えてずっと一貫しているのはすごいことだと思うし、建築、都市、デザイン、メディア、生活といった複数のタグを用意しながら多様なメンバーを集め続けることができているのも、なかなかできないことだと思う。

 同人サークル、特に文章系の場合は1人ないし2人の中心メンバーとそれ以外、といった感じで成り立っている印象がある(大学のサークルをベースとした集まりはこの限りではない)ので、中心メンバーが抜ければ存続が難しくなるし、中心メンバーの気分や考え次第でサークル全体のコンセプトも変わることがあるが(これ自体がマイナスになるかどうかはまた別だ)レトリカの場合中心がゆるやかであるせいか、ふわっとしつつも2年に一度ごとにプロジェクトを駆動させながらコンセプトを固めていっているおかげで、2012年に掲げたテーマの継続性と一貫性、そしてそれらを磨いているなという印象がある。

 もっとも、これは2012年のレトリカ創刊時に自分が投げかけた問いでもあるのだけれど、それでもやはり個人のライフステージの変化がサークルに与える影響が大きいのではないかということ、それと、いまは続けることに熱心で、それが続いているのは素晴らしいと思うのだけれど、それでもいつか終わりが来るとするなら、それはどのような形で着地させるのかということも、いずれ無縁ではいられないのではないだろうか。

 これらは少々穿った見方であることは承知しているし、彼らの活動に水を差すつもりは全然ないのだけれど、やはり多くの文章系、批評系のサークルが生まれては消え、あるいは止まり、という現象を見ている中で、レトリカもそうした盛衰とは無縁ではいられないはずだ、という予感がある。もちろん無縁のままさらに10年や20年続けられたら素晴らしいことではあると思うけれども、やがて離散するのであれば、そこに何らかのレガシーを残してほしいなという思いも勝手ながらある。それは作り手である彼らだけだけではなく、受け手である自分たちの問題でもあるのだけれど。

 とかなんとか言いつつも、イベントは本当に楽しくて面白かった。2012年からずっとちゃんと追いかけているわけではないけど、6年経って皆それぞれ肩書きや住む場所が変わってもまた一つの旗の下で集まれるんだな、というのは現代の若い書き手や作り手に対して一つの希望的なモデルを示しているんじゃないかと思う。さっきも書いたように、2010年代の間にたくさんの盛衰を見てきた側からすると、レトリカは別のところにいるな、と思えるのだ。あと自分の課題でもある、個人ワークと集団での創作をどう両立させるのか、みたいなところにちょっとした示唆を持てた気がする。


C94(3日目)

 暑かった。最終日だけ21万人てどういうことや……(たぶんアイマスとFGOのせい)



 以上が夏の遠征のお話でした。総じてとても暑くて熱かった。コミケとか行くたびに早く帰りたくなるけど、でもまたいずれ参加するのだろう。それもまた不思議だね。

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2012年12月08日

文学フリマ15に行ってきました

 少し前だけどTRCで行われた文学フリマ15に行ってきたので軽く雑感を。数週間前に同じ会場で行われたM3にも行ってきたが、最近はイベント関連だとここにいくか池袋のサンシャインにいくかの2択になりつつある。
 文学フリマと同日開催になってしまっていたコミティアにも行きたかったけどそんなにお金に余裕がないのでパス。また次回。

■イベントそのもの感想
 
 半年前の5月6日に行われたときと同じ会場配置だったし、今回は開場後ほぼすぐに行ったこともあってか人の動きをじっくり見ることができた。
 買いたい物は最初の30分くらいで全部買えたので、そのあとは現地で人に落ち合ったりブースの人とお話したりわりとのんびり。だいたいイベントにはいつも遅刻する感じで午後から行くことが多いが開場してすぐだと人の入りもまばらなのでのんびり買い物できるし、ブースで多少話し込んでも他の人の失礼にもならないのでいいなーと思った。
 とはいえ2Fを中心にまわってたので(1Fではひとつくらいしか買い物してない気がする)あくまで2Fの印象だけにはなるが、面白かったのは14時〜15時あたりか、それ以降に少しずつ人が増えてきたことである。コミティア組がもしかしたら来ていたのかも知れない。大体この時間になるとどのイベントでも人が引いていくので、こういう光景を見られたこと自体はレアだった。

 次回開催は4月上旬に大阪のなかもず、下旬に幕張メッセ(ニコニコ超会議内の開催)ということでいろんな意味で無理をしているので大丈夫か、という思いが強い。大阪の人と話していても感じたが大阪開催だとまた違う客層が多いだろうし、実際東京からわざわざ遠征していく人がどれだけいるのか。
 同じ月に超会議での開催が決まってしまっただけに、よほどでないと遠征するインセンティブがないような気がするし、そのことが結果的により東京ローカルを強めてしまうんじゃないかという懸念はある。

■買った本について
 


 ざっと数えたところフリー配布も含めて27種類ほど。ざっと全部には目を通し、読みたいところだけを読む方式を採用しているので通読したものはわずかしかない、という前提でいくつか雑感を書いていく。

『Project AMNIS』vol.01
『RE:AMNIS』
http://lamer-e.tv/amnis/
 ちゃんと確かめたわけではないがたぶん東大とかその周辺の学部生の人たちが作ったっぽい一冊。ニコニコ動画でもいくつか投稿して名前を知っている茶ころさんの印象的な表紙と、オフ会で一度お会いしたことのある透明ランナーさんが論考を載せている、ということで購入を決めた。
 本誌の付属のような形で無料配布されたREのほうでは刊行に至った経緯などを読めて面白かった。どのようにして作られたのか、っていうのは同人誌を読むときのひとつの楽しみでもある。
 本誌のほうでは仮想vs.現実というふうに名を打っているが、そうした境界性というよりはインターネットを使うという体験だとか、それによってもたらされるものという形の論考が多かった。PAST、NOW、FUTUREの3部立てになっていて、特にPASTと、NOWの仲山ひふみさんの論考はその色が強い。

 Pasta-KさんやShinさんの論考を読んでいて思ったのは、パーソナルなインターネット利用について考えるとするとSNSの利用という見方が中心に据えられるということ。今後もその傾向が続くかどうかは分からないが、SNS的なものは昔からあったし、SNS的なものはこれからも生まれるのだろうということが、Web2.0から3.0への架橋、もしくはポストWeb3.0を見据えたときの視点の置き方になるんだろうなと感じた。
 架橋がうまくいったのはスマートフォンの発明といったテクノロジーの影響はあまりにも大きすぎるので、ハード部分のテクノロジーがどのように変容していくか、みたいな論考があれば面白かったかもしれないな、と感じてもいる。逆に、テクノロジーによってどのような表現が現れてきたかという趣旨の論考を書いた透明ランナーさんの「インターネットとアートの諸相」は読んでいて面白かった。

『辺境私論』平成24年春号、秋号 http://our-age.jugem.jp/
 新刊は秋号。前回の文フリが初出展らしいこのサークルは高校1,2年生集団というだけあってびっくり。中心メンバーは麻布高校生と聞いてやや納得。事前チェックはしてなかったけど売り子の女の子がかわいかったのと(不純な動機でごめんなさい)辺境私論、というタイトルネーミングが面白かったのもあり立ち読みした後購入。
 評論を中心に秋号では小説の創作もあるなど、等身大ながら意欲的なことをやっているのはよく分かる。明らかに自作だと思われる冊子は文集的なそれに近くもあるが(そのせいか価格設定が低めで少し得した)内容的には年齢的なフィルターを外しても十分読むことはできる。

 とはいえ文学フリマという、最低でも大学生以上だと思われる空間に高校生が出典しているのはレアなので書き手の一人である大熊美優さんと少し立ち話をした。今の高校2年生は95,96年生まれで、オウムや阪神大震災は知らないというよりもそもそも通過すらしていない可能性もあるし、2001年の9.11の記憶はあるかと聞いてもない、という返答が返ってきた。
 秋号の巻頭言には「巨大なるもの」というフレーズがいくつかでてくるが。これはまだ10代であるということと、90年代の空気感を知らない/通過していないことから来る経験していないものに対する畏れ、のようなものがあるのかもしれない。いやほんとはどうなのかわかんないし俺自身も90年代前半はほとんど覚えていないが、90年代後半の空気感、とりわけ1999年の終末論への恐怖みたいなものは小学校低学年のときには共有されていただけに、ゼロ年代以降しかリアルタイムに体感していない彼ら/彼女らの世代はいったいどのような感覚を共有しているんだろうか、というのは気になった。
 大半のメンバーが2年生であることから今後は受験勉強に専念するためサークルとしての活動は休止する模様。残念だが仕方ない。読んだなかだと秋号にある大熊美優さんの論考『「自由、平等、友愛」から愛と自由の関係性を見る』が面白かった。政治学やってる身というのと、最近夏目漱石をいくつか読んだというのも影響しているだろうな。

『フミカレコーズ』 http://fumikarecords.com/
『VOCALOID CRITIQUE』vol.03,05
『UTAU CRITIQUE』
http://www.vocalo-critique.net/
 ボカロクリティークは最初に刊行されたPilot版にまつともくんが論考を載せてたり、ボカロ批評っていういままでほとんどなかったようなものが出てきたこともあって気になっていたので持っていなかった巻を購入。いまのところvol.04は持ってないのでどこかで手に入れたいところ。
 vol.05とウタクリのほうに座談会が載っていたのが新鮮。非女性向けコンテンツでありながら下手すればリスナーの半分以上が女性かもしれない、という特異な空間において、当事者である女性がボカロについて語ることは聴き専ラジオのNezMozzさん以外にそれほど思いつかない。その点でも座談会は批評的な意味でも入っていてよかったコンテンツだと思う。
 こうしたボカクリの経験を下敷きにしつつ、『フミカレコーズ』では同人/インディー音楽全般の批評を目指している模様。前回の文フリに出された音楽系の批評詩をレビューする、という試みも面白くて、音楽について語ることについて語る、というメタ的な読み方ができるようになっている。まだまだ音楽について語る、ということは開けておらず可能性はあると思うし、今後の展開にも期待したいところ。どのように言葉を、語ることを届けるかへの意識がかなり強いのを読みながら感じた。

 ボカクリにはどこかで一回書いてみたいなあ、ともぼんやり思っていたがこの冬のコミケでボカクリの刊行は休止する模様なので乗り遅れたわたくしでした。
 あ、あとボカロ、UTAU曲のクロスレビュー企画(5人の寄稿者が曲を持ち寄り、全員でレビューする)はまだちゃんと読んでないが(個人的にはyplさんや沙野カモメさんが選曲されていてひゃっほー、という気分)まとめがあったのでこれを眺めながら冊子のほうも読んでみようと思う。

『セカンドアフター』EX2012 http://d.hatena.ne.jp/second_after/
 震災後の想像力という文脈で刊行がはじまったセカンドアフター。これで3冊目だが、EX2012とあるように2012年を総括する一冊。あとジョジョ特集があるのだけどジョジョはほとんどわからないので未読。
 そのなかで面白かったのは主宰の志津Aさんとてらまっとさんの対談。「雲の向こう、約束の場所」やアニメ「じょしらく」を引きながら、日常系とセカイ系のふたつの想像力の境界をあやふやにする表現について語る。そもそも日常系、セカイ系という言葉は後付けとして生まれたカテゴリなので、境界も後付けで作られたものでしかない。その上でいつどのような条件で「奇跡」は生まれるのか。映画版「けいおん!」を引きながら「目覚めながらにして夢を見る」という表現で奇跡の可能性を語ることは、境界が曖昧な世界を生き抜くためのひとつの生存戦略としてはありうるのかもしれない。

 3.11を経て、「いかにして退却するか」を改めて突きつけられる今(真っ最中の選挙戦にそうした観点があるのかどうかはあやしいが)どのような死生観と追悼の形を構想しうるのかを、柳田の『遠野物語』を引きながら論じた兎男さんの論考は今回も歯切れがよく読み応えがある。文フリでげっとしたものから読んだ文章としてはいまのところ一番のお気に入り。
 締めくくりとして次のような言葉で語っているのが印象的なので引用する。

この「モーニング・エイジ」にあって、社会はまさしく人間社会として、人と人とが「挽歌」をともに歌ってゆくようなあり方は模索できないだろうか。戦争体験を持つ世代がいよいよ少なくなってゆくとともに戦後社会は彼方へ過ぎ去り、二万人の鎮めるべき死者の魂を持った「災後社会」において、時代は今、「レクイエム」を歌い始めるのだ。かつて私のそばに居たあなたのために。そしてまた、これから生き、死んでゆく私のために。
兎男「『モーニング・エイジ』に生きる」―ポスト3・11の幽霊<ゴースト>たち 『セカンドアフター』EX2012、pp112-113


 65歳以上人口が3.000万人を越えている今、大きな災害がなくても向こう10〜20年近くあるいはそれ以上は多死(そしてかつ、少産)社会に突入していかざるをえない。だからこそ、社会保障という制度的な試みとは別に、個々人が身近な死と向き合うというミニマムな模索も同時に必要となってくる。

『Kulturtrieb-G(KTG)』vol.4 http://ktg.ria10.com/
 ついったーで交流のある鈴木真吾さんや、まりえってぃこと関根麻里恵嬢が所属する学習院の表象文化研究会という、院生を中心としたサークルの冊子。文フリでは常連組のポジション。
 90年代を旧ゼロ年代と呼称し、オウム、阪神大震災、酒鬼原聖斗、エヴァンゲリオンなどなど、90年代を席巻したイベントについて振り返っていく。
 辺境私論のところでも書いたが、90年代前半の記憶があまりないので、オウムのことはほとんど俺の中では地下鉄サリン事件とイコールで結ばれる。坂本弁護士一家殺人事件のこともイメージとしてはあるが、これは後追いの報道などによって植え付けられたもので、事件当時のことはほとんど知らない。震災に関しても、大きな地震があったという事実は記憶にあるだけで、当時5歳になる直前だった俺の記憶には地震のときは早朝だったので寝たまま起きなかったらしい、ということが親によって伝えられるくらいのことしか覚えていない。

 そういったことを踏まえると、辺境私論のところでごちゃごちゃ書いているわりには90年代のことをまだまだ知らない。エヴァもかなり後追いだし。
 ちょうどヱヴァQ公開があったりもしたし、3.11は阪神大震災を引き合いに出されることも多かった。そういえば今年は長らく指名手配したオウムの3人が全員捕まるという、非常にレアな自体が起きた。90年代、とりわけ95年から2012年を架橋する意味でも読む価値はあったなと感じている。

『Rhetorica』#01 http://web.sfc.keio.ac.jp/~t10170to/rhetorica/special/
 慶應の学部生(特に慶應SFC)が中心となって発足したTEAM:RHETORICAによる一冊。当日まで製本作業をやっていたらしく、TRC到着が14時台という怒濤の展開になりながらも、前評判の高さもあってか速攻完売。俺も含め何人かがレトリカまだかなー、とつぶやきながら待っていたのが面白かった。さっきも名前を出したまつともくんやせしもさんが関わっていることもあり、購入。
 巻頭言「つくり続ける生き方をつくる」に「ものづくりの民主化」という言葉を出しているように(この文脈で政治的な用語である民主化という言葉を出すのはちょっとよくわからないところではあるが)個人がものをつくる、ということが時代を進めて容易になりつつあるなか、ものを作り続けることを可能にするための構想を模索する、というところが趣旨らしい。
 瀬下、太田による「フラット化するデザインについて」では、つくることのハードルの高さを超えていくために、まずは楽しむ、求めることが重要だと指摘する。ただ、それだけではつくり「続ける」ことを可能にはしない。だからこそ、まつともくんの「祭りの後には何が残るのか」と題された通称文化祭論が生きてくる。この瀬下、太田の文章に始まり、まつともくんの文化祭論、つまり終わらない祭についての議論で終わるこの一冊は、読書体験として非常に気持ちいい。

 あえて批判的に検討すると、何もかもがフラットになったとしても内容としての質はきっと求められるし、続けていくことを考えると何かを糧にしないといけない。つまり、続けるということに対しての反省と回顧や、つづけていくためのインセンティブの設計が必要になる。「可謬主義」や「探求」という概念は創作のハードルを下げることには寄与していると思われるが、インセンティブの設計につながるかどうかと言えばやや弱いように思える。
 ただ、おそらくそうした持続可能性という危惧も考慮に入れた上で、村上裕一が『ゴーストの条件』で中心的に記述した「ゴースト」という概念を援用し、論考は終わりへと向かう。要は、文化祭という祭が終わったとしても生きながらえるものを祭の中に設計することができれば、終わらない祭の永遠の対象として「ゴースト」がよみがえる。やる夫も初音ミクも、終わらないどころか日を追うごとに「成長」していることようにも思える。
 しかし今度は、永遠に続いてしまうものを続けたくないと思ったときに、どのようにしてやめればよいのか、という問いも新たに立ち上がってくるとも言えるのではないか。と、軽くツッコミを入れてみる。

 長くなったのでつづき。てかまだ10/27しか紹介してないのか。。
 特に創作関連については全然書けてないのでまた後日あらためて書けたら書く。書けたら(大事なことなので2回)
 

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2012年05月28日

アートアワードトーキョー2012の最終日を見てきたにちようび

 22日火曜日だったかの朝日新聞文化欄でアートアワードトーキョーなる展示会が丸の内の行幸地下ギャラリーという場所で開催されていることを知って行ってきた。(*1)地下ギャラリーってそもそもどっから入るんねんと思ってたらご丁寧に案内があって余裕で見つかりました。東京の地下ってすごいですねほんと。
 ちなみにせっかく東京駅近くまでいったのでそのまえに新橋のウインズに行きダービーの馬券を買ったのですが2,4,5着は当てたけどというたいへん惜しいけど残念な結果でした。まあ競馬とはそういうものですな。最近ちゃんと競馬見られてないし、有馬がマグレだったことを再確認。
 アートアワードトーキョーは毎年この時期に開催されているようで、各芸大の卒展と修了制作展から選んだ作品のなかからグランプリや各賞を決める、というものらしい。芸大の卒展とか学祭とか見に行くのは大好きなのでこれは行かねば、と思い行ってきた。
 見ていていくつか気になったのを撮りためてアルバムにしたのでどうぞ→http://pics.livedoor.com/u/burningday/album/182217

 もひとつこの開催を見に行こうと思ったきっかけはグランプリをとった東京藝大大学院修士課程の片山真理さんの作品に強く惹かれたため、である。







 会場では作品の写真がふたつと、写真の中身を再現するために散りばめられた様々な物が展示されていた。(*2)直感的に思ったのは、圧巻というよりワクワクという気持ちだった。きれいなような汚いようなものが雑多に膨大に並んでいるのは引く気持ちともっと見たい、という気持ちの両方を抱えているような感覚でもあった。
 プライベートな空間に、おそらくその部屋の主であろう女の子も作品の中にいる。女の子の部屋をのぞき見るような感覚にもなるが、散りばめられたものの膨大さとそのカオスさに人の部屋にしては非現実感も同時に感じてしまう。そういうアンビバレンスがさまざま混じってひとつの空間を構成している、というのが彼女の作品の醍醐味であると思う。男が見たからのぞき見る、という表現を使ったけど女性がこの作品を見たら思うことがまた違うかもしれない。

 朝日の記事によると幼いころから足が不自由で9歳のときに切断し、以後は義足で生活しているらしい。とはいえ、障害者としての自分というよりは素朴に足がない自分の身体性をどうやったら面白く表現できるか、というところに主眼があったような気がする。
 記事にあるとおり、あと俺がいろいろ妄想したように彼女の作品はとても物語に満ちている。その中で義足の彼女はあくまで等身大の女の子なんだろう。
 これから追いかけたい人がひとり増えた。卒展や修了制作展を見に行く楽しみのひとつでもあるが、彼女の表現にもっとわくわくしたい。

 他にも面白い展示はもちろんいくつかあって、東京藝大の梅村圭さんの作品は写真風の絵なんだけど人がぜんぶガイコツ、というようなもの。アイデアとしては珍しくないけどどれもコミカルだったので単純に面白かった。映像でインタビューも流れていて、確か路上で並べているみたいにしてみた、と言っていたような気がする。
 あとはムサビの椿崎さんの作品(下の画像)がいいなと思った。作品の縦に入っている線を檻に見立てるんだけど(彼女いわく動物の入るような檻。だがあんまり強くなくて、居心地のいい場所)絵自体は花びらの明るいところと森を思わせる暗くて深い緑が共存している様子に、不思議な感覚を覚えた。ちょっとした一工夫をいくつも重ねることで全然違うアウトカムになるんだな、と。



 最終日だったからかどうかは分からないが制作者の方々が大勢来ていて、ひとりずつ作品紹介するという場面に出くわしてとてもラッキーだった。馬券は外したけどとてもいいにちようびであった。
 
 
*1 リンクがいつまでもつかは分からないけどネットでも記事があったのでリンク貼っておく http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201205230274.html
 
*2 作品そのものではなく写真だったのは、彼女自身も作品になるという意味でパフォーマンス物だったからだろう。片山さんもこの日来場していて、話しかけようかなと思ったがタイミングが合わなかったのとおなかがすいてたので惜しいなあと思いつつも退散してきた、という小話。こんど機会があればぜひお話したいものではある、がはてさて。ほんとうはそれ以前にも藝大先端2012(公式サイトはなぜかリンクが死んでるがブログは残ってたので彼女の紹介ページを)という修了制作展に行けたらいくよてい、てはあったんだけどね。逆に言うと行けなかったけど改めて出会えてよかったのかもしれない。

追記:片山さんのサイトでも今回の作品についてのページがあるようなのでそちらも http://shell-kashime.chu.jp/2012/2012_02.html

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2012年02月29日

4年ぶりの今日を迎えるということ

 うるう日ですね。4年前の今日の記事を軽く振り返りつつ今日のことを書きます。
 なんか最近振り返り系の記事が多いですがストックがいっぱいあるので有効活用しましょう。
 
 4年前の今日は大阪での国立入試を終えて、卒業式まで宙ぶらりんの一週間のうちの一日、だったような気がする。
 『さよなら妖精』を読んでたのは、たぶん高校時代の間に改めて読んでおかないと大学生になってしまうといまが完全に過去になってしまうとか、そんなことを考えていたからだと思います。「初読のときとは違い、自分が主人公達の年齢になっていることへの驚きが一つ。あんまり実感はないんだけど」と書いているくらいなので。実感を得てしまうその前にもう一度、というところかな。
 クラスには数人女子が来てたんだけど確か男は俺だけで、静かな部屋の片隅の窓際のイスに腰掛けて、のんびり読みながら過ごしていたのを覚えている。長い勝負が終わって、非常におだやかな晴れた午後だった。4年後の同じ日にガンガン雪に降られるとはまさか思わない。

 というわけで、今日は雪に降られながら国立新美術館に行ってきました。文化庁メディア芸術祭と、五美大卒展を見るために。どっちも同じくらい楽しみにしていたのでとても楽しかったです。
 3時間有ればある程度見られるかなあと思ったが全然足りなかった。午前中に来て一回中休みして、午後にまたというプランが妥当だっただろうなと思う。メディア芸術祭も新美の展示しか結局見てないしね。
 実は初めての国立新美術館だったんだが、とてもきれいで大きくて、近くの森美術館同様とても未来的で21世紀的な作りだった。あっちは森ビルだから豪華だし、こっちは国立なので豪華、ってところなのかな。

 五美大卒展には武蔵美、多摩美、女子美大、日芸、東京造形大の人たちが参加してた。ちゃんと見たのは有名な最初の2校かな。違いがちゃんと分かったわけではないが、さすが美術の世界では有名大だけあるなあという展示だった。
 来訪者のある人が言ってたけど「ただうまい」だけならどこの大学もほとんど差がないと思う。あるのは学部生か院生か、の差くらいかな。要はそれ相応のクオリティみたいなものです。これは美術に限らずどの分野でも言えると思うけど。
 ただ、表現力というか、作品を通じて何を伝えたいのかという点への工夫では武蔵美と多摩美が抜けていたのかなあと思う。細かい部分は本当に分からないのでちゃんと論評する気とかは全然ないんだけど実感としてはそんなところ。ただこの2大学以外でも個性的で面白いなあと思う学生の作品はもちろんあったし、大学ごとの卒展だとその大学のカラーしかないけど、見比べることができた利点は単純に多様な作品に出会えたことだと思う。
 時間的に余裕があれば3階でやってた東洋美術学校の卒展も見たかったけど、メディア芸術祭を見たかったので残念ながら。卒展も芸術祭も今週日曜日までやっているので無料だしお暇な方はぜひぜひ。卒展ですこし残念だったのは製作者の顔が見えなかったところかなあ。大学別の卒展だと直接お会いできる可能性も高いと思うけど合同展なので、っというところなんだろうか。
 今月は卒展めぐりをしていてこれで4回目、計8校を見てきた。(*1)いくつか見ていると数だけで膨大になるわけだけど、ある程度全体を眺めつつ気に入った作品の前に立ってじっくり見る、という流れで見ている。自分の好きなものが見つかるのは喜びだし、その気持ちを伝えるためにノートに感想を書いたりしながら、そのときしかない体験を大事にする。写真も撮れる場合が卒展は多いけど、前に立つという行為の希少性は揺らがず重要なのかなと。

 で、メディア芸術祭なんですが国立新美術館では受賞作がそれぞれ展示されているという感じ。大賞を大きく扱いつつ、他の賞や推薦作品はスクリーンで個別にという感じ。
 大賞といえばまどマギを見ないわけにはいかないので見てきたけどうめてんてーの原画とかまどかの等身大(っぽい)立体フィギュアだとか、全話のダイジェストに「コネクト」をあてた動画だとか、なかなか見られないものが多くて単純に楽しかった。ただでさえ雪だし平日なのでそんなに人はいなかったけど週末は混むんだろうなあ。ブースそんなに広くなかったし。
 それ以外もいろいろ見てきたけど印象的だったのはamazarashiのPVと「rain town」かな。後者はニコニコに上がっているのを去年見てたいへん感動したのでぜひ見に来たかった。

 

 1つしか歳が変わらない人が卒業制作としてつくった作品なのだが、切なさといとおしさ、あたたかさとつめたさなど相反する感覚が内包されているけれども全然バランスが崩れていないのがまずすごい。そして静かな音楽で進む映像に、勢いこそないけどいつのまにか引き込まれるのが印象的だった。久しぶりに見たからだと思うけどかなりぐっときた。 
 会場では原画とか設定画が展示されていて行ってよかったと思った。今回新人賞を受賞したようだけど新人賞でこれだけ大規模に展示されるのは本当にすごいなあ、と思いつつ。

 4年前と今日をつなぐものがあるとすれば、情感あふれるコンテンツに触れて一日を過ごしていたことだろう。今日くらいは、今日くらいは自分の好きなものにふれて、楽しくかつのんびりと過ごせたらという思いがあったようななかったような。
 4年後はなにやってるんだろうね〜。学生はもう卒業してくれているとありがたいんだがwまあ、4年後がもしお休みの日なら、同じようにのんびりと何かに触れて過ごしてみたいといまは思っている。

*1 2月頭に東京芸大@上野キャンパスと多摩美造形表現学部造形学科@上野の森美術館、中旬に東京工芸大@ベルサール秋葉原and秋葉原UDXを見てきた。多摩美は2回見たことになるけど同じ作品はなかった気がする。そして来月末にもう1回八王子キャンパスに見に行きたい。

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2010年04月22日

いつも笑っていられるように

 体調がだいぶよくなってきた今日この頃ですこんばんは。まだ少し頭痛があるんだけど、水曜日はだいぶんよかった。4月なのでさすがに学校をサボるわけにもいかず、大学行く→帰って飯風呂して寝る、という生活が一週間ほど続いてました。
 去年末のとは違って、頭痛がひどくてそれのせいで体が重たかったので、花粉症のせいかな、とも思ってみる。体調のよかった昨日は鼻の調子もよかったので。まだ今月いっぱいは油断しないほうがいいんでしょうね。今日ももうそろそろしたら寝ることにします。CLも気になるけど。

 さてまあ、そんな状況ながら火曜日の5限の時間帯に、早稲田大学国際会議場井深大ホールという、若干分かりづらい場所にあるホールで行われたキャリアセミナーのイベントに行ってきました。
 テーマは「インターネットの未来」で、司会が『就活廃止論』の佐藤孝治、ゲストが最近はツイッターで有名な津田大介に、αブロガーでもある起業家の橋本大也でした。一言、単純だけどめちゃくちゃ楽しかった。津田さんのパツキンがすごくまぶしいw

 話の流れとして
・学生はどうやってインターネットを活用すべきか
・ゲストの二人はどういう学生生活を送って今に至るのか

 でした。
 さすがだと思ったのは、場所の分かりづらさと雨というせいか参加者が150,60人くらいだったんだけど8,9割がツイッター使いであったこと。水曜日のセミナーでもツイッター利用者の割合が多かったようで、あと年齢が1〜4年、またそれ以上と区切ってもバランスよくて、それだけでセミナーに出て行こうという人たちの気概を感じた。既に内定もらった、って人も15人くらいいたし。
 インターネットの活用法については、津田さんがツイッターに関してはまだまだ出始めのメディアであり、誰も正解を知らないから好きなように使えばいい、と言ってたのが印象的。年上の人と話すときも、礼儀正しく生意気に、と。
 単純にツールを使うのではなく、自分なりの使い方を見つけてそこから何か新しいものにつなげていく、広げていく、っていうことが当たり前のように重要で、そのことの貴重さも感じる。いろいろな偶然さを目の当たりにしても、そこでアクションを起こすか起こさないかは人によりけり、だしね。
 津田さんも橋本さんも自己紹介から始まったんだけど、ふたりとも90年代前半に早稲田に入学し、そこで早稲田の情報処理環境の先進性に驚いたらしい。橋本さんは当時チャットにはまって、非常時接続だから家でやればうん万円かかるけど、大学ならタダで使い放題だからずっとこもってたとかね。
 なつかしい時代の話であるが、今から考えたらそんな時代がはるか昔のことのようにも思える。自分の体験で言っても10年前にようやくISDNが、中学のときにADSLが、高校に入ってFTTHが、という風に段階を経ていることを再確認した。今のような状況がうらやましい、とお二人が語ってたのも印象的で、それは本当にここ何年か俺がネットを通じて実感していることでもある。当たり前のように、いろいろなことができすぎている、という環境に麻痺しないようでいたい。そこからまた新しい可能性や繋がりが生まれてくるかも知れないしね。

 ゲストの二人の人生ですが、なかなかに壮絶であったw 津田さんは大学時代今でいうところの廃人のような生活を送っていて、それでも様々な要因を経て自分の生きる術を信じ続けたから今があるのだろうと思う。
 ツイッター上の有名人のような位置づけの存在なので、それ自体に対するやっかみが今でもいっぱいあるんだけど(5万人もフォロワーがいるんだから仕方ない)やっかんでも意味がないというか、むしろたくましさを見習いたいと思う。
 橋本さんは8年通い、しかも最後は中退したという壮絶さ。「とりあえず大学卒業しろ」と口酸っぱく言ってました。前半4年間はAISACで実務を学び、後半4年間はバンドをやったりネット上で今につながるクチコミマーケティングのような仕事を始め、結局卒業できなかったようです。経歴だけなら今年の本屋大賞をとった冲方丁と全く同じであるw 大物は早稲田を中退してナンボだなと改めて。
 橋本さんがネットについて言ってたのは「ブログを書け。書いていればいつかほめられる、ほめられたことが才能」だということ。自分をさらけだすことで、他人からの評価を得ることだから、ということなんだろう。俺の場合はあれやこれや書きすぎていて脈絡がなさすぎるので、何かもっと特化してもいいのかな(たまに)と考えてみるなど。
 俺の場合はブックレビューがブログ代わりのコンテンツとして成立しているので、なんとも言えないし、ブックレビューはなかなか評価が目に見えないからまた難しい。あれをブログでも同時うpしようかしらん、と思ってみたりもする。「Daily Feeling」単体のアクセスよりもブログのアクセスのほうが多いので、そのほうが露出も増える、つまり何より俺がメインにやっていることを多くの人に発信できるということなので。

 最後の佐藤さんのまとめも印象的で「津田さんはネットだけじゃなくて、ネットと音楽を組み合わせたことで周りと差別化をはかったから成功した」ということ。色んなビジネスにも言えることだけど、ちょっとした付加価値があるだけで全然違うものになるというのはよくあること。ものだけでなく、仕事それ自体にも同じことが言えるということである。

 最後の津田さんのまとめも面白かったw 覚えている限り列挙
・好きなものを徹底的に使ってみる
・ダメなところを極める(そのうち飽きてくるから
・3年ごとにモードを変える(柔軟性を持たないと生き残れない
・新しいメディアは使ってみる
・ゼネラリストとスペシャリスト→複数のスペシャリストを目指す
・上の世代に「礼儀正しく、生意気に」
・心が折れそうなときは根拠のない自信と、いつでも考えを変えられる柔軟性を(なんとかなる精神も大事



※質疑応答/Twitterについて
津田「ルールを決めないで使っていこう」
橋本「カオス。定まってないから、面白い」
佐藤「新しくはなくて、再帰的なメディア。昔のネットに似ている」

※早大生に向けたメッセージ
津田「早稲田は群れないけど、お祭り好きなところはツイッターに似てる」
「ツイッター大学生=慶応SFCのイメージだから、早稲田にツイッターを取り戻せ!」
橋本「あなたはどうか分からないけど、早稲田は友達の半分くらいが偉くなるので、打算的な意味でも友達は大切に」

 自分の中でもやもやしていたものの、解決の糸口のヒントが見えた気がした、そんな一日でした。
 本当は金曜日の「地域活性化」にも行きたいけど必修の授業である。。


*タイトルは植村花菜の1stアルバムのタイトルでもあり、そこに収録されている楽曲のタイトルから。大事なこと、よね。いつか、思いっきり笑ってみせる。そういう日々を目指す。 

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burningday at 01:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)