Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

監督:神山健治
脚本:神山健治
主演:滝沢朗(CV:木村良平)、森見咲(CV:早見沙織)

劇場:テアトル新宿

 楽しみにしていた東のエデン第二部をようやく見てきた。第一部がいかにも二部のための伏線としてでしかなかったので、劇場版で言うところの本編である本作を楽しみにしていた。そして思うところが色々あったので書いてみたい。
 よって、この文章は映画の感想というよりは映画”考”の部分が大きいと思われる。ネタバレあり。

セレソンについて

 アニメとして、ストーリーとして終わらせるということは今までに貼った伏線や謎を考えると明らかに無理だろうと分かっていたので、その上で映画の着地点をどのあたりにするのだろう、ということが本作を見る前の心づもりで、それを鑑みてもひととおりの満足はしている。
 めちゃくちゃいい、というわけでもないが小さな伏線を少しずつ消化しながらの展開は痛快で、主人公滝沢のキャラクターを生かし切ったストーリーである。彼を中心に世界が回っているという意味ではある意味リアルな一人セカイ系なのかもしれないが、それはまあしょうがない。そうしないと、たぶん時間内に映画が終わらないから。
 セレソンにもそれぞれ役割があって11人全員が平等に登場してきたわけではない。それはセレソンという某国サッカーチームの相性に由来するように、チームスポーツでは誰もがヒーローになることは不可能だし、そんなことに意味はない。早い段階からNo.1の物部と9の滝沢のツートップという展開は分かっていたし、このふたりにパスを出すことでアシストしたり、独走して脚をひっぱったりということも、いかにも統率のとれていない(最近はそうでもないが)セレソンというチームを思い浮かべる。彼らをアズーリと命名したことよりも、セレソンと命名したことの妙味を改めて感じた(ここまで意識している人はサッカーファン以外にいないかもしれないが

現実政治志向とユートピア志向

 物部と滝沢の考え方の違いについて考えてみたい。滝沢は「あんたとは考えが似ている」というが、物部は「わたしたちは合わないね」と言う。この違いは何か。
 滝沢は物部と何回か話をするたび、結局目指す方向は同じじゃん、と思ったのだろう。物部の言う国家転覆論のはすなわち既存権益の破壊にあるわけだから、滝沢が若者がもっとものを言えたり仕事をしたり、というような社会にしていこう、というのと遠い考えではない。ただ、物部はあくまでも現実政治を元に考えている(そのへんが元官僚、という設定らしい
 やるべきことの下地を作ったら自力でなんとかしていける。それだけのパワー(権力的な)と人脈を物部は持ってるんだろうと推測されるしテレビアニメ、映画通じてこの人がやっていたことを考えると無理もないと思う。スタンドプレーが好きで、それでいて何かを変革したいと思っている。自分が中心だ。もしくは自分と能力のある人たちが。そういう発言も映画の中で見られたのでね。
 映画の中での物部の「国家のダイエット」という言葉は、システム論的に国家を考えているのがよく分かる。その上で現実政治を利用できるだけ利用するし、変革もそうやってトップダウンでやっていこうと思っているのだろう。こうやって振り返ると小泉純一郎元首相のやり方に近からず遠からず、かな。小泉さんがノブレス携帯を持っていたらこの世界は良いか悪いかは分からないがもっと激変していただろうし。
 ひるがえって、滝沢はニート二万人誘拐事件に代表されるように、政治とは全然関係ないやり方、滝沢にとって身近なやり方で行動を起こす。身近な、と言うのがおそらくポイントで、物部にとっては政財界の関係者が職業上身近であるが、一人の若者でしかない滝沢にとっては同じ世代のニート連中が身近だった、というだけの話だと思う。
  滝沢はユートピア志向と書いたが、世代間でよけいないさかいやけんかのない、みんな仲良くな世界を目指したいのであろう。心理的社会主義というか機会均等主義というか、大人の事情で若者にハンデがある現状を打破したい。大人がいつまで世界を牛耳っていても、新しいものは生まれない。そういうことを、身近な東のエデンの面々や京大生ニートの板津を見て思ったんじゃないだろうか。若者が若者らしく楽しく生きて何が悪い、と。
 結果的に物部はトップダウン、滝沢はボトムアップでやろうとした、おそらくは年齢や社会的立場がそうさせた部分もあるというだけのお話。物部が主人公にしても二次元アニメはつまらないが、滝沢が主人公なら政治的な概念がからんできても、全体として話が面白くまとまる。
 これが神山のねらいの上手いところである。どこまでねらったかどうかは分からないが、普通アニメーションで政治を扱うということはなかなか少ないと思っていて、ある意味それすら話のネタにしてしまったのが東のエデンシリーズの妙味である。


現実的悲観主義と、CLANNADの風子に通じる一途さと

 もう一段階滝沢と物部について考えてみる。
 現実的悲観主義というのは物部の中にあるものだと思っていて、彼の原点は現実への絶望だろう。何も変わらない、変わるとしても時間がかかりすぎる。どうやったらもっと事をスムーズに、思ったように運べるのだろうかというところが原点なのではないか。
 そのためにはマキャベリズムとも言わんばかりに手段を問わない。使えるものを使う。悪者官僚に代表されるような狡猾さをさらっと発揮していくのがこわいこわい。また、悲観主義は特別物部だけにあるものではなく、広く一般的にあるものだろう。特に政治に対するそれは政権が変わろうが変わるまいが、政治家という職の特別性によって悲観主義からはぬけだせない。
 たとえば新しい内閣が成立したときは前内閣の支持率をはるかに上回るのが通例だが、ここ最近では小泉さん以外は内閣成立後に順調に支持率を落としている。このことからも、期待が失望に変わるシークエンスをわたしたちは何年かの周期で見ていることになる。政治が力を持っていて何かを変えられると思う一方、所詮政治家だからあてにできない、というやるせなさであると思う。
 滝沢は、人脈やコネを使い周りを利用しまくる物部とは違い、記憶もないわアニメで最初に登場したときは服もないわ、たまたま会っただけの森見咲と一緒に帰国し・・・という破天荒な人生である。
 たまたまうまくいったという展開もあったが、その中で滝沢は自分なりにあがき、しかも基本的には一人で行動する。ヒロインである森見咲を常に心配させるくらい置き去りにし、自分自身は孤高な存在として、よく言えばフリーランスという身軽さで(というかただの無職だが)ストーリーを、ゲームを駆け抜ける。
 滝沢を支えるものは何なのかということについてずっと考えていた。アニメの主人公である彼が何かをやらかすのは分かるが、その上でモチベーションというものを感じられないとリアルさを感じえなくなってしまう。
 一つはゲームに乗せられてしまったことに対する怒りと、楽しんでやろうとは思いつつもいつか「Mr.Outsideをぶん殴りたい」と思っている気持ち。それが出発点ではあるだろうけれど、それだけではモチベーションには乏しいとも言える。一人で動き回るのは性分なのかもしれないが、何か足りないなあと思っていた。
 その疑問が氷解したというか、ああそうか、そりゃそうか、と思うようになったのがアニメのストーリー後半からであるし、劇場版の二編を見て強く思ったのが、ヒロイン森見咲の存在である。記憶をなくした滝沢が初めて会った人、雛鳥が親だと認識した、その感情があるかどうかは分からないが、一緒に旅をする中で惹かれていったもの、そして離れている自分のことを常に気に掛けてくれている存在、それが森見咲だろう。
 彼女は板津やみっちょんのようにITに精通しているとか、平沢のようにマネージメント能力があるとか、特別な能力を持っているわけでもないわりと平凡な女子大生(アニメ放映時)で、就活の面接であっけなく落とされる(アニメ3話だったかな?)ような女の子である。ある種の献身とも言える滝沢の奮闘は、CLANNADでの風子の存在を思い出した。風子が姉のために、最初はたったひとりでひとでを彫り、それを配り続ける。風子に興味を持った朋也や渚が助けるようになるが、それも滝沢をエデンチームがサポートし始めたことと同じような動機だろう。
 風子と滝沢、それぞれ孤高で、ちょっと頭のネジがずれてるんじゃないかというような破天荒な行動パターンを持ち、それでいて人として魅力的な存在。単純に一緒に何かをやっていて、面白いことが起きるんじゃないだろうかという好奇心。風子が目指したかったのは姉の幸せだけであり、滝沢の目指したかったものは大きすぎるかもしれないが、滝沢の頭の中には常に森見咲の存在が欠かせないから、結果的には彼女の幸せを願うことになるのではないか。
 そこで初めて、このストーリーは脚本力もなかなかだが、何より滝沢というキャラクターに生かされて面白い展開になっていることを実感した。彼のようなキャラでなければここまでエキサイティングな展開にはならなかっただろう、と。

終わりの始まりと始まりの終わり

 映画第二部や映画のパンフレットでいくつかのネタバレはなされているものも、ストーリー全体の謎が解明されたわけではない。JUIZは結局何者だったのか、彼女の技術はどうなっているのか。セレソンも11人すべてがまともに登場したわけではないし、などなど。
 ただ、ストーリー通じて展開されてきたゲームは一つの落下点を得て着地した。そのことに不満はない。ゲームそのものに関する小さい伏線の消化は見事だったし、劇場版第二部は滝沢以外のエデンメンバーがそれぞれ役割を与えられ活躍している。ある種の群像劇としても成り立っているので、見所は第一部よりもはるかに多かった。
 そして、ラスト。終わりの始まりに近づく中で、感じさせてくれた始まりの終わり。そう簡単に、滝沢の人生に結論が出るものか、と。まあ、うん、個人的には悪くないと思っている。いかにも彼らしいからね。

終わりにかえて
 大分長くなってしまった。ここまでで4200字も書いてしまったらしい。どれだけ暇なんだと。いや、やることもちゃんとやってます。時間がある春休みだからこんなことができたとしか言えない。たぶん。
 東のエデンというタイトルを聞いて、エデンの東というジェームズ・ディーン主演の50年以上前の映画を思い出した。まあ、極東にあるエデンだからそれだけで通じるし、あくまで俺が思い出しただけでしかもこの映画は概要くらいしか知らないのだが、ジェームズ・ディーンの役柄もなかなか若者的で破天荒な感じだったと聞く。
 このことを同世代に言ってもそんな映画しらねーよ、と返されてしまったので何とも言えないけどw ディーンの映画も暇だったら見てみようかなあ、と思ったり。
 というあとがきでした。俺のブログではよくあることだけど、長々と読んでくれた方は本当にありがとう。 
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