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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

documentary

 いつも5本紹介するが今回は絞りきれなかったので6本紹介します。地上波、BSごちゃまぜだけど全部NHKなので一部の番組はオンデマンドでも視聴可能(リンクを貼っています)。オンデマンドで見られなくてもBS世界のドキュメンタリーなどは今後再放送があるかもしれないので、その時にチェックしてもらえると嬉しい限り。

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◆BS世界のドキュメンタリー「大量収監 急増する女性受刑者 〜アメリカ・オクラホマ州〜」(2023年3月8日)



 アメリカは犯罪大国で受刑者の数も先進国では図抜けて多い。というのは一つの事実だが、この番組を見ていると意図的に受刑者を多く生み出しているのでは? という疑問を抱く。保守的なオクラホマ州という政治的な文脈を取り上げながら、同じ犯罪や暴力を行っても男性に比べて女性の方が不当に扱われているという事態を検証していく。この事実(作られた女性受刑者の存在)に向き合う良心的な議員も登場するが、そうした議員が多数を占めるか、あるいは知事が誕生しなければこの現実は容易には変わらないのではないか、という無力感も味わうことになる番組だった。

◆NHKスペシャル「海辺にあった、町の病院 〜震災12年 石巻市雄勝町〜」(2023年3月11日)





 3.11から今年で12年になるが、NHKがこの時期に意識的にドキュメンタリーを作り続けることは改めて大事だなと思った。記憶がどんどん薄れていく中、このドキュメンタリーに登場する病院のように自分のまだ知らない被災地のリアリティがあることは、3.11がどれだけ広い範囲を襲った災害だったかを改めて感じさせる。亡くなった人のことを冷静に振り返る患者遺族もいたことを見て、時間が経過したことで話せるようになったことも多くあるんだろうなと感じた。職員を責める患者遺族は登場しない(むしろ高台に逃げられるのに亡くなった職員に同情する人もいた)一方で、亡くなった職員の遺族の悲壮感は消えていない。「一生懸命やったけれど最悪の結果になった」、「家族が負った傷は一生治らない」と受け止める職員遺族もいて、この差は非常にシビアだと感じた。

◆NHK松山「ぼくたちが"家族"になるまで〜離島中学・生徒寮の1年〜」(2023年3月24日)



 NHK松山の制作なので最初は四国ローカルの放映だったが、BS1でも放送されたいたので全国でも見られたドキュメンタリーだったと思う。中学生の集団生活ってどう考えても難しいことばかりだよな〜というイメージはあったものの、大きなトラブルというより小さなトラブルをどうやって乗り越えてゆくのか、そして寮生とされる遠方からやってきた仲間同士の絆がどうやって形成されるのかといった、等身大で素朴な視点で最後まで構成されていたのが良かった。

◆BS世界のドキュメンタリー「ペレinニューヨーク サッカーの王様 最後の大舞台」(2023年4月3日)



 サッカーの王様ペレが晩年アメリカでプレーしていたことはこの番組で知った事実だった。いまでこそMLSがアメリカでも人気を博しており、女子サッカーの代表チームはオリンピックやワールドカップを制覇しているほどだが、当時のサッカー人気がどれほどだったのかをよく知らない。それでもペレが来る、というだけで地元やメディアが沸きに沸いたことがこの番組からよく伝わってくる。昔のことを、つい最近の出来事かのように興奮して話す当時の関係者や目撃者の証言がとても楽しい。

◆BS世界のドキュメンタリー「秘密の文字 ―中国 女書(にょしょ)の文化を伝えて―」(2023年4月17日)



 韓国のフェミニズムは本(フィクション、ノンフィクション問わず)や映画、ドラマなどで頻繁に日本にも伝えられるようになったがこのドキュメンタリーは中国における草の根のフェミニズムを描いた良質なドキュメンタリーだった。フェミニズムという言葉は直接使われていなかったと記憶しているが、日本以上に強い家族主義の伝統の中、主に家庭内のケアを担う女性たちの間だけで紡がれてきた文字があったことは初めて知ったし、その歴史とリアリティを丁寧にたどる番組構成も良かった。


◆ETV特集「魂を継ぐもの〜破滅の無頼派・西村賢太〜」(2023年4月29日)





 ETV特集は時々作家を特集する回があるが(大江健三郎の追悼を意識した再放送もあった)、西村賢太回はなかなかに見ごたえがあり。彼の小説と彼の人生をリンクさせながら、七尾の地に眠る西村のお寺まで取材に行くのはNHKらしいところ。住職に頼み込んでまで藤沢清造の眠る七尾の墓地のすぐそばに自分の墓を建て、実際にそこに眠る西村の人生は本当にシンプルで一貫しているなと、改めて感じた60分だった。

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◆こころの時代〜宗教・人生〜「生き延びるための物語 哲学研究者・小松原織香」(2023年1月29日)








 小松原織香ははてな界隈で有名な人だった(し、いまもそうである。以前ほど積極的にブログを書いていないようだが)わけだが、その彼女が顔をだしてNHKのドキュメンタリーに出演する、というのがなかなか最初は結び付かなかった。研究者としての彼女を追う形だが、もっとパーソナルな部分を突き詰めようとする番組だった。なぜ彼女が水俣に関心を持ったのかも、この番組を見てようやく実感した。

◆BS世界のドキュメンタリー「“銃社会”アメリカの分断」(2023年1月23日)



 簡単に言うとアメリカの銃社会の深刻さをドキュメントした映像だが、アメリカの銃問題はもはや永遠に解決できない問題なんだろうなという認識を持ってしまう。アメリカという国が成立し、発展してきた過程に欠かせなかった自由という権利の負の側面を、銃問題は象徴している。解決困難だとしても社会に存在する問題である以上、向き合うしかないという複雑さも。

◆Dearにっぽん「ギフテッドが見る世界は 〜東京・渋谷〜」(2023年2月11日)





 ギフテッド特集はだいたい警戒して見ることが多い(実際は様々な特性があるはずが、「ギフテッド」というカテゴライズが適当なのだろうかという疑問)けどこれはいいドキュメンタリーだった。10代の少年と20代の青年という、異なる世代、異なる経験を持つ他者同士の交流を丁寧に映し撮るのは、ドキュメンタリーの王道とも言えるし、安易なオチに持っていかないのもよかった。どのような才能があったとしても、自分に適した生き方を見つけるのは容易ではない。だからこそ他者と出会うことが大事なんだろうなと改めて気づかせてくれる。

◆BS世界のドキュメンタリー「ブチャに春来たらば 〜戦禍の町の再出発〜」(2023年2月16日)



 ブチャという地名は、一時期世界で最も悲惨な場所として認識された名前だと思う。それでももちろん、生き残った人はいる。その彼ら彼女ら何を思い、どのような生活を送っているのか。日常は戻っているのか。ドキュメンタリー全体としてのストーリーはなくて、一人一人を訪ね歩くタイプの撮り方はとても正しいと思う。この方法しかなかっただろうとも。

◆NHKスペシャル「ウクライナ大統領府 軍事侵攻・緊迫の72時間」(2023年2月26日)





 最近のNHKスペシャルは制作のクオリティがまちまちのため毎回見る番組ではなくなってきているが(逆に同じ週末夜の枠であるETV特集は質の良い番組を作り続けている)、ウクライナ侵攻開始からの72時間を追ったこの番組は非常に見る価値の大きい番組だった。ロシアとロシア軍がいかにこの戦争を、そしてウクライナのことを「舐めて」いたかが(皮肉も交えながら)よく分かる。しかしそんな態度によって殺された多くの人のことを思うと、人間は残酷な生き物だとも思ってしまう。
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 ドキュメンタリーは比較的よく見ているが、見たものの感想を短くツイッターに放流して終わりになってしまうことが多かった。このブログで時々長い文章を添えることもあるが、すべてのドキュメンタリーに1本エントリーを書くことは現実的ではないので、今回こういう形をとってみた。

 なるべく続けたいが、とりあえず備忘録として使っていければいいかなと思っている。

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◆BS世界のドキュメンタリー「密入国 闇の組織を追え −英コンテナ39人遺体事件の真相−」(2022年10月27日放送、BS1、50分)


 この事件のことは知っていて、その壮絶さには言葉を失うし、この番組で死ぬ間際の当事者の語りや家族の語りなどを聞くとエグ……と思いながら見ていた。ただ、この番組は非常に優れた国際犯罪ミステリーを謎解くようになっており、これがフィクションであればすぐれたシナリオとして楽しめたのに、という複雑な思いも抱かせる作りになっていた。

◆ETV特集「ブラッドが見つめた戦争 あるウクライナ市民兵の8年」(2022年11月5日放送、ETV、60分)





 ここ最近見た中では最も印象に残っている1本。下手すると、いやしなくても2022年に見た中ではベストだったかもしれない。西野晶という、ある若い制作がウクライナ戦争についてネットサーフィンしている中で彼女が「たまたま発見した」ブラッドという青年との交流を描く。

 もうすぐ戦争勃発から一年が経つが、ウクライナ戦争をどのようにとらえるかは本当に難しい。その難しさを、改めて突きつけられる一本であるとともに、ブラッドという青年のビルドゥングスロマンにもなっている構成が非常にうまいなと感じた。

 彼は2022年に初めて従軍したのではなく、それ以前のロシアとの衝突ですでに従軍経験があったことが、日常を捨て、非日常の舞台へと誘ってゆく。なぜ、再び戦場に戻ったのか。「戦間期」に彼はどのような人生を送っていたのか。彼はいま、戦場で何を考えているのか。一つ一つの言葉、表情、そして母親の語る息子への思い。すべてを目に焼き付けたくなる一本。

◆「こうして僕らは医師になる〜沖縄県立中部病院 研修医たちの10年〜」(2022年12月3日放送、BS1、100分)


 2012年に放映されたドキュメンタリーの10年後を追跡したドキュメンタリー。小堀医師の在宅医療のドキュメントを継続的に撮ってきた下村幸子が本作も手掛けており(10年前もそうだったらしい)、その意味で医療現場の躍動感を、そこで生きる医師それぞれの人生の一端が見えるのがとても面白かった。




 何人かの医師が中心的に取り上げられているのが、一橋で医療経済学を学んだあとに長崎大学医学部に編入して、初期研修後に沖縄での離島医療や海外での留学などを経ていまは関東で在宅医療をやっている女性医師・長嶺由衣子の姿がめちゃくちゃ印象に残った。パワフルなのは当然なのだが、芯の強さ、純粋さというものを持ち続けている姿がとてもいいなと思った。小堀医師もそうだったが、市井で生きている人間一人一人への関心や思いというものが、在宅医療では最も重要なのではないかと思う。

 


◆映像の世紀バタフライエフェクト「ナチハンター 忘却との闘い」(2022年12月12日放送、NHK総合、45分)






 自分の中でナチスの存在とナチスに対する反省というものは、それ自体が少し古い歴史的産物だと思っていたけれど、全然そうではなくて現代につながってるんだ・・・! と思わせてくれる一本。
 
 「映像の世紀バタフライエフェクト」というシリーズがそういう「時代を超えたつながり」を毎回テーマにしているからこその(ある種意図的な)構成だったとは思うが、シリーズの中でも良くできた一本だったと思う。逃げようとする人間の邪悪さと、逃げる人間の追い詰めようとするまた別の人間の執念の強さの双方を、ドラマチックに描いている。

◆未解決事件「File.09松本清張と帝銀事件」(2022年12月29日・30日放送、NHK総合、150分)






 このシリーズはコストがかかっているわりに割と当たりと外れがあるかなと思っているのだが(前回のJFKはわざわざ今やらなくても、と感じた)今回の帝銀事件特集は当たりの部類だなと思った。ドラマ編もドキュメンタリー編も両方面白かったのは、ロッキード事件を扱った回と匹敵する。

 ドラマ編は大沢たかおの演技と、彼のキャラクターを生かした安達奈緒子の脚本が面白く、非常に生き生きとしている松本清張を現前させることに成功していたように思う。ドキュメンタリーはドラマ編の流れを追随しつつ、そこで描かれなかったことや、清張がたどりつこうとして跳ね返された政治的事情を戦後の非常にややこしい文脈の中で想像させる面白い構成だった。
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 以前紹介した『Putin's Way』はプーチン政権の残酷さを時系列的に告発する優れたドキュメンタリーだったが、本作『Wagner:Putin’s Shadow Army』もまた、プーチンがこれまで試みて来た戦争の実情を示す、格好のドキュメンタリーである。2022年だからこそ見るべき、といった類の。



 本作の取材対象である「ワグネル」と称されるロシアの民間軍事会社は、実質的にロシアの傭兵として機能している組織だ。ロシアが関係している民間軍事会社はワグネル以外にも多数あるが、その中でも実力が随一なのは、彼らが多くの内戦に派遣され、アフリカや中東などの各国の政治をかく乱している存在だという事実から伺える。このドキュメンタリーでも中央アフリカ政治と密接に関係し、堂々と、かつ巧みに作戦を実行していく姿がカメラにとらえられている。

 前回も紹介した廣瀬陽子『ハイブリッド戦争』によると、ワグネルに接近したメディアやジャーナリストは過去にも存在するが、その過程でいくつかの不審な死が発生している。廣瀬によると、それらはワグネルによって「消された」のと同じだと言う。かくしてワグネルはジャーナリズムを近寄せない。本作は、元ワグネルの軍人を初めて直接取材できた貴重な記録でもある。(とはいえその男は、自分のやってきたことを堂々としゃべるだけの小物にしか見えなかったが)

 どちらかというと、もう一人の取材対象者、「バシリー」と名乗るワグネルの代理人という肩書の男の言葉の方が重要だ。彼は先ほどの男のように顔を出すことはせず、安全な場所で取材を求めてくる。家族を持つ、表の人生を持ちながら、裏の人生で世界中で仕事をしているという彼のような存在がワグネルを機能させていること、そしてそれがロシアの戦略に寄与していることが見えてくる。

 「プーチンとその側近たちは国際舞台でのロシアの復権を考えています」というロイターの記者の言葉が印象的だ。そのための戦略の一つは、西側をかく乱し、弱らせることだ。バシリーは言う、「冷戦は終わっていない」のだと。これらは今回のロシア・ウクライナ戦争にまさに直結する言葉である。このドキュメンタリーの最初の方でドンバス地方に送られる話が出てくるが、2022年にもまさにワグネルはウクライナのあちこちで暗躍している。

 小泉悠が『現代ロシアの軍事戦略』で行っている次の指摘も、ロイターやバシリーの指摘と重なる。
 
クリミアやドンバスにおいて軍事力が作り出した「状況」は、ウクライナを紛争国家化することであった。ウクライナを征服して完全に「勢力圏」に組み込むのではなく、同国が西側の一部となってしまわないように(具体的に言えばNATOやEUに加盟できないように)しておけばそれでよかったのである。非軍事的手段や民兵による蜂起ではこの目標が達成できないと見ると、ロシアは正規軍やPMCを送り込んだが、その任務は戦争を終わらせないことであり、実際に2021年現在に至るもウクライナは紛争国家であり続けている。「勝たないように戦う」ことがウクライナにおけるロシア軍の任務なのだと言えよう。(p.171)

 ワグネルは表向き(?)は会社なので、マーケティングや広報を行ってリクルーティングを行う。その手法も本作では一部が明かされているが、情報のコントロールや動画メディアを駆使したリクルーティングは、そのまま政治や紛争介入の正当化のための広報戦略といったハイブリッド戦争の手法に近い。

 人集めも、戦争も、いかに正しいか、いかに偉大かといった情報の書き換えにより、正当化してゆく。しかしそれはもちろんゆがめられた事実であり、オルナタファクトであるわけだから、真実を追うジャーナリストが「消される」のも当然だ。ジャーナリストが兵士として志願しないよう、うそ発見器も使うとバシリーは答えていた。

 こうした厳格な情報管理の中で危険な取材を試みたこのドキュメンタリーは、2022年の今こそ見るべき一本だろう。






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 NHKが「君の声が聴きたい」というコンセプトでやっていた企画の一番組という位置づけだったが、もともとの取材源はハートネットTVだったようで、過剰なナレーションが入らずに現場での実践にじっくり寄り添うタイプの静かなドキュメンタリーだった。精神科には仕事柄いくらかなじみがあるが、児童精神科のさらに病棟となるとほとんどなじみがないため、新鮮な気持ちで見ていた。




 番組タイトルの「奪われた言葉」と言う表現はややおおげさというか(企画のコンセプトに合わせたのか?)「失った言葉」だとか「抑圧した言葉」と言った方が適切なように思えた。つまり、明確な他者によって奪われたものというよりは(他者の存在ももちろん重要だが)自分自身といかに向き合うことができるのか、その困難を抱えた様々な子どもたちが登場していたからだ。困難を含む様々な経験ゆえに、「語りえない」のかもしれないし、「語りがたい」のかもしれない。

 彼ら彼女らの多くはおそらく、多くの語彙を持たない。単に学校の授業に十分通えてないのではという可能性以上に、多くの子どもたちが口にする「人間関係」もおそらく重要な要素だ。友達同士、親との関係、教師との関係など、様々な人と人とのつながりの中で言葉を獲得するし、語彙を獲得するし、感情表現ができるようになる。だが、この番組の子どもたちの多くは、そうした経験に乏しい。経験が乏しいと、他者への期待も乏しい。話したってわかってもらえないだろうし、相手は自分の話なんか聞かないだろうしという認知のもとで、「語らない」という意思決定をしがちだ。

 だからだろうか、ゲーム依存や摂食障害、行動障害といった症状そのものの治療よりも、「自分の気持ちを言葉にすること」を重きに置いた取り組みが新鮮に映った。「ホームルーム」と名付けられた対話形式の治療共同体が何度か登場するが、退院の目安が3か月に設定されていることもあってか、メンバーの入れ替わりが頻繁にありそうだ。けれどもその3か月の間に、気持ちを打ち明ける経験や、他者の言葉を聞く経験をできることは、おそらく価値があるのだろう。

 松本俊彦が編集した『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』を最近少しずつ読んでいるのだけれど、その中で勝又陽太郎が述べている内容が興味深かった。
 
筆者は最近、「SOSの出し方」や「援助希求」の代わりに、「援助の成立」という言葉を使っている。手前味噌で恐縮だが、この言葉は筆者らが開発した自殺予防教育プログラムGRIPにおいて教育の目標として置いているものである。自殺予防のためには、悩みを抱えた人とそれを援助する人の場で援助関係が成り立つ必要がある。そのためには、単に悩みを抱える人が援助を求められるようになるだけではなく、それがきちんと受け止める援助者側の対応も重要であると強調したい。(kindle版p.46)



 福岡にある病院だからか、ホームルームでも患者と医師との面接でも、頻繁に博多弁が飛び交っている。勝又が述べるような、援助関係が成り立つ場を多職種の支援者たちが作り出そうとしていることもよくわかる(何人もの看護師、公認心理師、精神保健福祉士が番組の取材を受けていた)。言葉を多く持たない子どもたちが自分の感情を吐露するためには、「きちんと受け止める援助者側の対応」がいかに重要かもよく伝わってくる。

 とはいえ最後のあおいさんのケースを見ていると、医療と福祉の連携の難しさも実感する。詳しく触れられていないので事情は分からないが、福祉施設側の余裕のなさ(人員、財務、スキルセット等)が、いわゆる問題行動を起こす(あるいはその可能性が高い)子どもの受け入れの困難さと相関するのではないかと推測することはできる。そうした子どもこそ手厚い支援が必要なはずだが、福祉施設側にそれを提供するキャパシティーが常にあるわけではない。そしておそらくこれは構造的な問題だ。

 もちろん常に完ぺきな支援などできるはずがない。ある程度人員もスキルもなければ「きちんと受け止める援助者側の対応」が困難なことは、この番組の病院がある意味実践している。ここまでやってようやく、という実践を。でもそれでも、当事者である子どもたちの語りがたい言葉を聴くことはできるはずで、そこからすべての支援が始まっていくんじゃないかということを改めて実感する。その意味で、カール・ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」の一つの形を見たような気がした。










言葉を失ったあとで (単行本)
上間 陽子
筑摩書房
2021-12-02


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 たった60分のドキュメンタリーであまり大きなことを期待したり、分析したりということはできないだろうけれど、それでもこのドキュメンタリーに出てくる八王子拓真高校の取り組みは面白いなと思った。単位制であり、かつ定時制を持つ公立高校だからこうした教育ができるのだろうし、番組を見ている限り校長のリーダーシップが大きな影響を与えていそうだ。実際、校長の方針について現場の若い教師たちが議論するシーンも撮影されているが、教員全員が同じ方向を向いているわけでもないのだろう。それでも、多くの教員が価値を共有しているからこそ、こうした学校が存在するのも確かである。

 多くの教員が共有している価値とは何か。最近ではありていな言葉かもしれないが、「生徒たちを取り残さない」ことだろう。退学者は毎年数十人はどうしても出ているようで、高校が最後のセーフティネットだという言葉が登場する。東京都内の大学進学率が6割を超えることを考えると、非大卒は3割強。ここには専門卒や高卒が含まれることを考えると、高校中退(=中卒)は東京ではかなりのマイノリティだ。その後の人生設計に大きな支障が出そうなのは容易に想像がつく(大人であれば)。



 ただ、この高校に通ってくる子どもたちの現実は厳しい。いじめや不登校を経験した生徒たちが集められるチャレンジクラスはその典型だろう。また、親が病気である、親が片親である、あるいは自身が生活費を稼ぐためにと、様々な理由で通学が困難な生徒たちが登場する(いわゆるヤングケアラーだと言ってもよい)。番組ではあまり触れられなかったが、軽度の知的障害や発達障害、精神障害を持つ生徒もおそらくいるだろう(一瞬だけ車いすの生徒が映像に映ったが、詳しく取材されてはいなかった)。

 学校側は当初、登校してこない(何らかの事情で登校できない)生徒たちを「怠惰」と言う評価で扱っていたこともドキュメンタリーで紹介される。つまり、生徒たちの背景に何があるかを十分考慮せず、目に見える行為(=登校しないということ)だけで評価していた可能性がある。この発想を転換して、生徒たちの抱える背景や社会問題に目を向けることでようやく生徒たちの登校を促すことができる、という教育に転換していくプロセスが描かれている。

 こうした生徒たちに対して高校がどこまで介入したり支援したりすべきなのかは、教育現場の実態や権限を知らないので十分なことは言えない。ただ確実に言えるのは、多くの教員たちに共有されていたようになんとかして高卒として社会に送り出すという熱意だろう。高校中退では厳しいというのは前述したとおりだが、かといって単に高卒という肩書を与えればいいものでもない。最低限、高卒だと言える程度の教育水準を提供した上で生徒たちを送り出す。いわば、公教育というより個別支援とも言ってよい取り組みが学校のあちらこちらで実践されていく。

 以前読んだ秋山千佳『ルポ 保健室』の中では、なんとかがんばって中学生活をサポートしたとしても、進学後の高校で十分な理解や支援を受けられずに中退してしまうというケースが紹介されていた。もっとも福祉的支援が公教育において大きなウェイトを占めるまではないし(特別支援教育は拡大しているが、まだまだ発展途上である)、教員の労務管理のハードさを考えるといまの学校現場にそもそも余力が残っているかどうかもあやしい。

 ただ、この学校の生徒たち一人一人の立場になってみると、これほど通ってよかった学校、出会えてよかった先生というのもないのではないだろうか。まだまだ未熟な高校生にとって、学校は家庭の次に大きなウェイトを占める。その家庭が様々な困難を抱えている場合に、頼れるのは学校しかない、という生徒たちがこの番組にはあまりにも多い。

 「子どもの貧困」というワードやヤングケアラーという概念が流通して久しいが、個別個別の支援だけでなく、もっと大がかりな形でのサポートの充実が必要なはずだということを、この番組の生徒たちと先生たちは体当たりで教えてくれる。



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 「経済の停滞とウクライナ問題で緊迫するロシア。世界の目は、大統領ウラジーミル・プーチンに注がれています」
 「追い詰められた時のプーチンは危険です」


 こうしたナレーションでこのドキュメンタリーは始まる。もちろん2022年ではなく、もっと前(2015年)に作られたドキュメンタリーだが、2014年のクリミア編入の後というのは一つポイントだ。その時から(足掛け8年を経て)現在進行形で発生しているロシア・ウクライナ戦争を理解する一助にはなるだろう。(あくまで一助である。プーチンを理解することは重要だが、それがこの戦争のすべてではないからだ)

 かつてのKGB(現FSB)のスパイとしてキャリアをスタートさせた後、16年活動したのちにサンクトペテルブルグの市職員になり、副市長を務めるようになる。ここが、政治家としてのプーチンの活動のスタートであり、この時点から黒い政治に積極的に手を染めて、結果的にその黒い活動により自分のキャリアを築いていく。

 プーチンはやがてFSBの長官に就任し、エリツィンにも認められるようになる。そして、首相へ。このすべてを90年代にやっているのだから、「ただの元スパイ」としては十分すぎる出世コースだろう。人脈を築くこと、そのためには裏の世界とつながることともいとわない、手段を選ばないスタイルがすでに築かれていたことがよくわかる。

 90年代はソ連崩壊によって長くロシアが苦しんだ時代だ。そのため、2000年代に颯爽と登場したプーチンはロシア国民の期待を多く背負ったらしい。実際に2000年代のロシアは経済的には好況なディケイドで、BRICSと呼ばれる巨大な新興国家に名を連ねるようにもなる。このことは、当時高校生だった自分も現代社会や政治経済で学んだことだ。

 少し話を変えるが、廣瀬陽子の『ハイブリッド戦争』の中で、今のロシアを代表するPMC「ワグネル」についての記述がある。しかし、ワグネルの実態はまだよく知られていない。なぜなら、記者やジャーナリストがワグネルに近づこうとすると、「消される」からだと廣瀬は述べている




 このドキュメンタリーでもプーチンの闇、たとえばマネーロンダリングなどに接近しようと様々な人が登場するが、迫り切れない。全員が「消される」わけではないものの、核心に近づくことはできない。不都合な人間を排除する方法はいくらでもあるのだろう。

 1999年にはモスクワで高層アパートの連続爆破事件が起きる。このタイミングでプーチンは首相に就任しており、事件後にチェチェンへの侵攻を開始した。



 非常に奇怪な事件であるが、その後のチェチェン侵攻にあたってのプーチンのロジックは一貫している。目的のためなら手段を選ばない。敵を敵たらしめるために、自分の国の無実の民間人すら犠牲にする。同時に、まだ政治家として知名度がほとんどなかったプーチンが自分の存在をアピールするためにあちこちに登場したとドキュメンタリーでは語られる。

 このドキュメンタリーの邦題は「プーチンの道」となっている。彼の歩んだ足跡を表すという意味では悪い訳ではない。ただ、原題がway(roadではない)なので「方法」と解釈してもよいはずだ。いかにして彼は地位を駆け上がってきたか、そのhowがつまったドキュメンタリーであり、ある意味一貫してきたその手法(人脈構築に余念がなく、目的のためには手段を選ばない狡猾さと冷徹さを発揮する)は2022年にも顕在化している。

 もっと根本的に重要だとされるプーチンの歴史観についてはあまり触れられていない。これについては例えば以下の本で補う必要があるだろう。それでも、わずか50分ほどでプーチンの脳内と彼の歩みを把握できるという意味では、オススメの一本である。少なくとも2022年を生きるわたしたちは、彼の脳内を覗き見る価値はあるだろう、大いに。

ファシズムとロシア
マルレーヌ・ラリュエル
東京堂出版
2022-02-26

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 先日NHKスペシャルで池江璃花子の特集が組まれていたので見ていた。約一年前の冬、高校卒業の直前のタイミングに白血病を発症し、競技者としての活動を停止。結果的に来年に延期になったとはいえ、東京生まれの彼女が地元で迎えるはずだった東京オリンピックへの参加が相当厳しい状況になってきた。

 それでも彼女は病室から、あるいは自宅から定期的にメディアを通してメッセージを発してきた。自身のインスタグラムでも発信を続けている。以下に引用するのが昨年12月に退院した際の直筆メッセージだ。


 
 一人のアスリートとして、そして一人の難病患者として。それでも彼女はまだ18,19歳の少女である。そんな彼女が、自身の社会的役割を深く自認するかのようなメッセージを発信し続けることに、個人的には強い驚きを持っている。もちろんインスタグラムのようなソーシャルメディアがあるからこそ、彼女はダイレクトに自身の言葉を発信できる。最近ではウィッグをつけていない、あの長く黒い髪がほとんどない画像のアップもしている。NHKスペシャルでの密着でも、彼女は自分自身をさらけ出すことにとても積極的だった。発病直後の、とても弱くなった姿ですら。

 受容理論というモデルが心理学にはある。障害の受容理論や病の受容理論といった形で使われることが多い。



 中途障害や難病など、心身の状況の変化を受け入れることが困難な出来事に遭遇した時、この理論によればショック期→否認期→混乱期→努力期→受容期といった5つのステップを経て人は新しい心身の状態を受け入れていくようになると言う。ただ、いったんステップが進んだあとに戻ることもあれば、この期間が誰にとっても共通なものとは言えない。ガンなどの重大な疾病の場合、亡くなるまで受容期に至らないままということもあるだろう。

 こうした受容理論の一般的な経過を考えると、池江璃花子はあまりにも早く努力期ないし受容期に到達しているなと言える。若いからだ、と考えることもできるだろう。闘病生活は容易ではないだろうが、回復に至る段階になれば彼女にはまだ残された時間は長い。東京が無理でもパリを目指せばいい。何より早くプールで泳ぎたい。こんな心境をNスぺの映像から感じとることができた。

 ただ、かつて自分自身がそうだったが、病を受け入れるのは相当に苦しいものである。病そのものとの闘いも苦しいが、何より、他人と比較してしまう自分に打ち克つ必要があるからだ。周りは学校に行って元気に勉強したり遊んでいるのに、自分は退屈な病室で飲みたくない薬を飲まなければならない。病院のごはんはおいしくない。何より外で思いっきり体を動かすことができない。5歳や10歳の再発時、病院で考えていたのはこういうことだ。自分だけがなぜ苦しまなければならないのか、といった現実を受け入れることが、10歳の自分には到底難しいものだった。

 もっとも、彼女とて楽だったはずがない。映像の中にもいくつかは映っていたが、そこには映らない彼女の苦しみを想像することはできる。それでも難病と闘う同世代の仲間や、遠くにいるファンや、泳ぎたいという気持ち。起きているだけで体がしんどく、「死んだほうがいいんじゃないか」と思ってしまうほど深く大きく心理的に落ちたあとに、そこからリバウンドする力がなんと強くてすがすがしいことか。

 レジリエンス、という言葉をここ10年ほどでよく聞くようになった。3.11の時にもこの言葉をよく聞いた。退院後、彼女とて例外ではなく同じように、いや、免疫機能が弱まっているがゆえによりリスクの高い形でCOVID-19とともにある世界で生きることになった。それでもなんて彼女はポジティブで力強いのだろうと感じさせてくれたのは、COVID-19の流行を機に減ってしまった献血への呼びかけだ。
 
 彼女は強いから魅力的なのではないと感じた。彼女は自然な姿を見せるだけで、それだけでものすごく魅力的に見えるのだ。やさしさ、ポジティブさ、強さ、弱さ、もろさ。ありのままのいまを見せようとする彼女にどうしようもなく惹きつけられる。同世代のほとんどが味わうことのないような過酷な経験をしたことでもろさ、弱さを知った彼女が見せる新たな表情と言葉が、とてつもなく強く、まっすぐに響く。

 彼女はもう過去の彼女には戻れない。でも彼女の輝きはきっとこれからも失われないし、新しい色になって存在感を示していくのだろう。願わくばまた彼女が笑顔で、そして強くプールで泳いでいる姿を見られることを。あるいはそれが叶わないとするならば、彼女の見つけた新しい道を、人生を。
 
 もうすぐ20代になる彼女の見せる、10代最後に見せるまぶしいまでの輝きをこれからも見続けていたい。


※このエントリーは5月9日に配信したツイキャスを下に書きました。ツイキャスの録音は以下を視聴ください。


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ETV特集「親亡きあと 我が子は…〜知的・精神障害者 家族の願い〜」


 以前ETV特集で放送された「長すぎた入院」は精神病院における長期入院を取り上げた良質なドキュメンタリーだった。長期の入院により失われるものの膨大さを丹念に切り取りながら、番組の後半では退院した患者を受け入れる小規模グループホーム(GH)を取り上げていた。今回、知的障害者や精神障害者の親と当事者に焦点を当てたのは、高齢者介護に比べると「社会化」がまだまだ足りていない障害福祉の世界における重要なテーマだからだろうし、「長すぎた入院」のアフターとしても見るべき番組だった。

 番組の要点は大きく分けて3つある。まず、成人になった知的障害者が親と同居する一方で親が年老いていったり貧困化し、障害者自身の生活の将来像が見えないこと。次に、精神障害者の地域移行(一人暮らしや施設入所)が親の疲弊に加え、資源の不足や周囲の偏見といった困難さを抱えていること。最後に、ではどのような形でケアを社会化させ、親の負担を減らすことが可能か、といったところが要点だったと思われる。

 中でも、成人してから20年近く幻聴に苦しみ、10回以上の入退院を繰り返した後に最後は実の父親に絞殺され、亡くなった女性(明示されていなかったので断定は避けるが、統合失調症の症状の表れ方に類似していた)を取り上げていたのが衝撃的だった。モザイクがかかってはいたが、女性の遺影や遺品、部屋を映しながら、殺人の罪で起訴された後に執行猶予がついた父親(こちらもモザイクがかけられていた)へのインタビューを試みていたのは、強く印象に残った。

 こうしたあまりにもヘビーな現実をふまえながら、現実的なケアの社会化(家族の外でケアを行うこと)や地域移行(病院や大規模施設以外の形でケアを行うこと)の形を探す取り組みとして、千葉で行われているACTや、大阪(だったと思う)のある地域で行われていた当事者親のGH建設運動が紹介されていた。ただ、屁びーーな現実は当事者や支援者の努力だけでどうにかなるものではないのも現実で、GH建設運動の行き詰まる様は現代社会におけるマイノリティの生きづらさそのものであると感じた。

 高齢者介護については、当事者である高齢者のボリュームが大きく、票田にもなることから選挙の争点にもなりやすい。ここしばらくホットである年金問題も、本来ならば障害年金も含まれるべきだろうが、あくまで老齢年金の話題として取り上げられる。家庭内でケアを行うことになる現役世代の問題でもあり、まだ低賃金かつ重労働の典型である介護現場の待遇改善といった話題も、介護保険以降の課題として取り上げられることが多い。

 ただ、それに比べると、すべての人が当事者や関係者にはならない障害福祉の領域は、あくまでone of themの論点として政治の世界では扱われがちだ。今回の参院選では山本太郎の政党が当事者を比例で擁立したことで話題になったように、一般的な領域というよりはやや特殊な領域として語られることが多い領域である。結果とし、浦河べてるの家のような一部の先進的な団体や地域を除いて、成人した障害者ケアの社会化というトピックは大きな形では浮上しない。

 おそらくこうした現実が、障害者たる子が成人しても親と同居している現実や、新しくGHを建設しようとしても周囲の理解が得られないという問題ともリンクしている。わかりやすく言えば、一般の人々にとっては障害者とおは「未知なる他人」であって「自分とは異なる他者」として見られることもそうそう一般的ではないのだろう。ただでさえ階層や属性による分断が進む現代においては、「他者」という存在を認知、受容することすら難しい。当事者の連帯は社会運動的な意味でも負担の軽減的な意味でも重要な要素だが、当事者以外の他者と連帯することの難しさを、まざまざと見せつけられるドキュメンタリーになっていた。


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 こうした状況を踏まえて一人の支援者として言えることがあるとすれば、目の前の利用者に対して何ができるかを考え、同僚や関係機関と上手に連携して、少しずつ自立度を高めていくことしかないのではないか。ただ番組でも紹介されていたように、あまりにも資源が足りない現実(この点においては高齢者介護も同様である)は拭えない。身も蓋もないことだが、ズブズブにならないよう淡々とできることをやっていくことでしかない。

 もちろんこれはまず目の前の相手に対してできることであり、長い目で見た時はまた別だ。ACTのように、その時々で使える制度をうまく利用してやっていくことが経済的だし、ロールモデルになりうる。とはいえACTも現実にはなかなか難しいという話も聞くし、多職種連携は介護の世界で重要な要素だが、連携のコストを乗り越えなければ実りのある支援にはなりづらいだろう。やり方はいろいろあっていい。当事者の利益にかなうことは何かをじっくり考え、支援スキルを磨いていくことを、個人として改めて意識づけられた。

 ただ、一つ言えることがあるとすれば、90年代以降にノーマライゼーションが制度や生活の場面で少しずつ浸透し、立岩真也『生の技法』から時間がだいぶ流れた今になっても、古くから課題が解決されずに残っていることや、障害者とそうでない人たちとの間の断絶の大きさ(相模原事件を引くまでもなく)があることは否めない。乗り越えていくべき課題は多い。まだまだそういう時代、国に生きていることを改めて実感するドキュメンタリーだった。











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NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」

 NHKスペシャルで50代の日本人難病女性がスイスでの安楽死をした際の経緯に密着した番組が放映された。リアタイではなくてNHKオンデマンドで見たので、リアタイの反応が見られなかったのだけれど、『障害者の傷、介助者の痛み』などの著者がある渡邊琢がかなり批判的なツイートをしていた。なるほどこれは見ないとな、と思ってオンデマンドで見た次第。
 

 このツイートの中で言うと、「今の社会状況」というのがポイントとなる。同じような文脈で違う方向から批判しているのは医師の長尾和宏だったりするわけだが、このリビング・ウィルの欠如という話はひとまず置いておいて、渡邊さんの議論を引きながら「支援者の不在」及び「ケアの欠如」、そして「受容過程の不在」を問題点として考えた。つまり、難病患者である本人や家族の困難を指摘した上で、ケアの側で解決可能な要素を指摘している。
 また、いくつかの恣意的な編集による誤ったアジェンダセッティングの可能性の指摘を考えると、この特集のヤバみを感じた。おそらく番組の女性を通じて安楽死の是非について議論をしてほしいというアジェンダセッティングの意味もあったのだろう。でもそれはこれまで書いたような事情で誤ったアジェンダセッティングである。議論するには視野があまりにも浅い。
 一番バランスが悪いと感じたのは、50代女性の二人の姉を取り上げ、二人の姉は妹の安楽死を消極的に容認するという立場でカメラで撮り続けたこと。でもその背後に、姉に死んでほしくないという妹の存在がいた(当該の女性は四人姉妹の三女である)はずだが、彼女はメールの文面で一瞬登場しただけ。ここにも編集の恣意を感じる。
 渡邊さんも書いていたが、安楽死という問題を家族という枠組みに閉じ込めたこと。病院のシーンはあるのに主治医もナースも出てこない。福祉スタッフももちろん出てこない。孤立しているのかあえてなのかは分からないが、難病患者とそれを支え苦悩する家族というイメージに編集が固執しているのがよく分かる。つまり、この時点でかなり誤ったイメージを発信している。

 最後にもう一つ、ヴェーネ・アンスバッハの名前を出したい。彼女も番組の女性のように、何度も自死を試みたがそれができなかったという(フィクショナルではあるけれど)キャラクターだ。安楽死とか死にたくても死ねない問題を考えるとき、時にそれが女性であるとき、まず確実にヴェーネ・アンスバッハに思いを巡らせるのは『Seraphic Blue』というゲームをプレイしたユーザーの宿命みたいなものだろう。

 以上を踏まえてある程度のことは自分のツイッターに書いた。ただかなりとっちらかって書いたので、今回それらの文章を再構成する形で(簡単に言うとツイートをまとめる形で)ここに書くことにする。
 また、多間環さんとの議論も今回のエントリーに少し反映させているが、彼女はいまアカウントを非公開状態にしている。そのため、彼女の当該ツイートは引用しない。

●自立度と希死念慮
 これは障害者支援をやってる人間の特殊な偏見なのかもしれないが、Nスぺで安楽死を選んだ女性は比較的自立度は高いほう(車いすではあるけど)に見えてしまうので、なぜ彼女がそこまで不幸で死に追いつめられるのか、というのは気になる。
 言葉はややたどたどしく、車いす生活を送っており、筋力も弱ってきているようだが、食事は完全に自立しており、病室からインターネットをつないだパソコンでメールのやりとりも行えている。そういう見た目だけを見ると、珍しくない身体障害者に見える。
 ただその上で、あなたはまだマシ、もっとしんどい人がいるという気は全然ないし、それぞれの人の抱える痛みは安易に相対化すべきではない。それは原則的に守るべき。ただ、障害や難病の度合いと希死念慮は別の所にあるのではないか。

 例えば重度身障者が皆希死念慮があるかというとそういうわけではない。番組の女性のような中途障害者や難病患者が同じようにそうではない。どちらかというと、その過程でメンタルを病んだり精神障害を発症するという二次的な作用が希死念慮を引き起こすというイメージだ。
 つまりある人の順調な人生が難病の罹患によって完全に折られてしまい、精神的にも立ち直れなくなった過程で希死念慮を持ってしまったのだろうと仮定する(あくまで仮定として)。障害の受容段階論で言うところのショック期を超えられるか分かれ目なのだろう。

●難病を受容する過程

 当人の受容過程が希死念慮を考える上で大事なのだが、番組においては「私らしいうちに死にたい」という彼女のショック度を表現しているにとどまった。この彼女が安楽死を不可逆的に選択したとなると、あまりにも多くの人が安楽死を選んでもおかしくはない、となりそうだ(番組の編集の問題として)。
 それがいいのか悪いのかは正直分からないし、安楽死という選択それ自体を批判するつもりはない。ただ、進行性の神経難病の場合、あれは確かに希死念慮を持ってもおかしくないということは、かつて神経系の難病患者だった人間としては否定できないということは理解できる。
 一番病気がつらかった10歳の時、周りの大人に死にたいって言ったら相当怒られた記憶がある。言った相手が同じ難病患者の子どもを持つ親だったと記憶しているので、怒られるのは当然だ。つまりそれはそれで一つの正しい反応だろう(命を粗末にするなという意味で)なと思うし、結果的に私自身は29歳になるまで生き延びているので、希死念慮それ自体への対処法ってのはあるはずだ。希死念慮を尊重しすぎると、それはそれでロクな結果につながらない。

 番組の女性については韓国の大学を卒業し、翻訳や通訳などのキャリアを持ち、その後児童養護施設での勤務を考えていたらしい。仕事一本で生きてきたような、タフな女性だったのだろう。ただ、タフであるがゆえに進行的に身体の自由を失っていく難病生活が耐え難かったのは容易に想像できる。
 しかし、言ってはなんだが歳を重ねると様々な事情でキャリアを中断するということはあまりにもありふれている。あるいは、若くしてがん患者になり、容赦なく余命を宣告される人も珍しくない。自身は健康でも親の介護で離職するというケースも、40代以降に差し掛かったなら本当に珍しいことではない(それを支える制度もまだ貧弱であるし)。
 彼女に似た人は大勢いる。だから彼女が安楽死を選んだことを容易に正当化するのは危ういが、番組はあまりにも彼女の主張を尊重しすぎてはいないか、というのが最大の違和感と言ってもよい。

●制度・政策的観点
 海外と比べて日本は安楽死の議論が少ないと番組では語られていたが、日本は高度な医療技術と世界的にも稀な医療制度を持っている。遅ればせながら障害者支援の枠組みに難病患者も取りこまれるようになっている。このような難病患者が生き続けるための環境について、番組では触れられることがなかった。
 だから渡邊琢さんのようなケア職の立場の人が番組の構成に疑義を唱えるのは当然だ。日本の医療制度にほとんど言及せず、尊厳死は認められてきたが安楽死は認められないという単純な二項対立でしかこの議論を行わない番組の構成は、あまりにも雑だと感じる。その雑さが誤ったイメージを発信しているとすれば、マスメディアとしての姿勢として大きな疑義がある。

 さらに福祉政策の観点から考えると、重度身障者は訪問、通所、施設系の障害者支援サービスを豊富に受けることはできるし、事業者にはそれなりに加算もつくけれど、難病患者への福祉サービスの受け入れの実態としてはまだまだといったところだ。そして番組の女性が入院していた新潟にその資源があったかというと……という印象は拭えない。
 例えば高齢者は社会的入院が問題になった80年代以降、どんどん病院から出ていける(出て行かざるをえない)ようになったけど、難病患者は病院で社会的入院を続けざるをえない、となるとつらいものがある。可能ならば在宅で、地域で訪問看護や訪問介護などのサービスを使って生きていける選択がもっと広まっても良い。というか、実際にはそういう例は豊富にあるはずだ。なのになぜか番組ではそういった施設外のケアについては触れない。
 故小山剛の先進的な在宅介護の取り組みで知られるこぶし園は新潟(長岡市)だし、地方だから何もないとは思わない。このあたりの掘り下げは、それこそ地域に密着するマスメディアであるNHKならあってもよかったのではないか。

●死ぬことと生きること
 高齢者福祉の世界では死が本当に目の前にあるけど、障害者福祉の世界だとすごいやり方で生きている人と、死にたいが口癖だけどやっぱり生きてる人と、いろいろな人がいる。生と死は単純な二元論ないなと日々この領域で仕事をしていて思うところだ。
 渡邊さんが今回の番組の編集を相模原障害者施設殺傷事件になぞらえてていたように、生きることのグラデーションが窮屈な社会というのは、役割を終えた人や役割を失った人から、生きることを容易に奪ってしまう。生産性がなくなったから死ぬことを目指し、それを容易に容認するような社会なのであれば、そもそも医療も福祉も最低限にしか必要がない。
 もちろん先天的な障害と中途で罹患する難病や確かに状況が異なるものであろうが健常ではない存在を否定し、それを容認してしまうということは、実際に健常な身体や精神を持たずに生きている人たちを見殺しにしてしまうのではないか。彼ら彼女らの尊厳への目配せがあまりにもないのではないか
 治療の見込みが、身体の機能の改善の見込みがないならば不要になるということだ。しかしそれは正にディストピアだし、ナチズムに通じる。このあたりの視野がNHKに欠けていたことも、あまりにも危険だと感じた。

●ヴェーネ・アンスバッハのこと
 番組の女性がやったことは積極的安楽死でもなんでもなく、現代日本社会の中で生きられなかった人の自殺の手段が電車への飛び込みではなくて投薬だった、という風にも理解できるだろう
 難病の進行と希死念慮を経ての安楽死は安楽死というより単なる自殺だと考える。それは、セラブルのエピローグパートにおいて、天使としての役割を終えて、何もない、無の存在となったヴェーネ・アンスバッハの言動とダブる。
 でもヴェーネは二年かけても死ななかったし死ねなかった。ある意味飼い殺しとも解釈できるアフターエピソードはかなり残酷だし、他方で役割がなくなって無になったとしても死ぬ必要はないし生きて良い、という天ぷらのイデオロギーかなとも感じた(なので女性にも安楽死する前にぜひセラブルをやってほしかったな、その上で結論を出してほしかったかなというのが強引な感想)。
 ヴェーネもそうかもしれないが、安楽死した人にも「尊厳」の呪いのようなものがあるかなと思う。結局のところ完全に病気を受容すると尊厳が失われるかのような錯誤をしたまま死んでいったような気がするし、それは本当に幸福な決断なんですかね、と問いかけたい。
 受容した上で自死するならともかく、受容の過程を経ずに病気によって変わってしまった自分自身をただただ否定して自分を殺してしまうというのは、簡単に言ってしまえばエゴだろう。別にエゴであってもよい。
 ただ、そのエゴをさも正しいものかのように振る舞うことについては留保が必要だ。あなたにとって正しいことが、他人にとっても正しいとは限らない。この意味では、同じ病気の別の重度身障者の女性を番組で取り上げていて、ここは数少ないバランスに配慮した部分かなと感じた。

 「ヴェーネ論」の結論で書いたことは、ヴェーネにいかに生き方の幅をもたらすかであった。安楽死を選んだ女性にとっても、これまでの生き方を失ったからと言って、今後の人生の生き方の幅を全否定しなければならなかったのだろうか。ここには留保が必要である。
 また、生き方の幅を失った、あるいはそもそも持たない人間が一つの役割を終えたから死んでしまうというのであれば、この世界には死者だらけになってしまう。そうではなくて、何か大きなことを終えたあとでも死ななくて良いという話をしたかった。あるいは、何か大きなことが難病等でできなくなったとしても、それでも何か別のことはできたのではないだろうか。
 もっとも、ヴェーネの場合は希死念慮が容認されたわけではない。番組の女性は二人の姉に容認され(一人の妹には否定されていたが)ここは大きい違いだろう。そして自殺未遂を繰り返すものの、彼女は死ねなかった。ここには迷いもあるのかなと感じました。生きること、死ぬことのいずれのが出来ない戸惑いのようなものがある。
 番組の女性はあまりにも死にとりつかれていて、そして姉もそれを容認する、死以外の外部性を失わせるという、「ヴェーネ論」で出した結論と対のアプローチをしていた。死による救済を掲げるキャラがセラブルには複数出てくるが、ヴェーネはその敵に抗した。ヴェーネが死ねなかったのも、もしかしたらここに理由があるのかもしれない。

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 以上、かなり番組に批判的なコメントを書いてきたが、ケア職の立場として言いたいことはすでに渡邊さんが詳細に論点を提示しながら批判していたので、分厚く書くことはなかった。
 その代わり、ヴェーネ・アンスバッハのことを考えずにはいられない自分の性分をしたためたつもりだ。当初番組の女性がヴェーネっぽいのではと思っていた部分はむしろそうではなく、ヴェーネとは遠いところに番組の女性はいた、という風に結論付けたい。
 そういうわけで、来るべき「ミネルヴァ論」のための布石としては、いい思考のトレーニングになりました。





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