Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。



 ニコ生の特番だったかなにかはちょっと具体的に忘れてしまったが、『君の名は。』に至る前に『星を追う子ども』でジャンプをしたことが生きた、と新海自身が語っていた。『君の名は。』のレビュー記事で『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』との関連や影響は指摘したが、目に見えないところで『星を追う子ども』からの影響がはたらいているとは想定外だった。そんな流れの中でちょうどAbemaTVで新海特集をやっていたこともあり、公開から5年以上経ってようやく『星を追う子ども』を再見するに至った。この5年間一度も見返すことがなかったのは当時映画館で見たときのあまりものインパクトの薄さだったのだけれど、今回はこの時の落胆のような感覚が多少は薄れたかなと思う。

 明らかに分かりやすく宮崎アニメのような異世界ファンタジーをなぞりながら(Abemaのコメント欄でもナウシカ、ラピュタという指摘が多々あった)それでも新海誠なのだからキャラクターのエモーショナルな切実さがどこかで生きてくるだろう、と思いながら見ていた。特にわりと前半部分で「死ぬことは生きることの一部だ」という印象的なセリフが飛び出すところが肝だろう。おそらくこの作品にとって重要なのは生きることと死ぬことといった二分法的な対応ではなく、生きる者にとっての死とは何かであったり、その逆で死者にとって生きる者とは何か、という問いを提示することだ。その分かりやすい形として、妻を亡くした森崎という新任の先生や、シュンという新しい友人を手にしながらすぐに喪失をも経験してしまう明日菜のふたりをダブル主人公に据えているところだ。

 目的は異なるものの(そもそも明日菜は目的が何かすら分かっていない)喪失という出発点から地下にあるとされる異世界、アガルタを目指す2人。その2人を結果的に招き入れることになったシュンの弟シンと共に、3人の冒険活劇は始まっていく。ここまでは王道とも言えるファンタジー映画路線だが、前述したように明日菜には目的がそもそも分かっていない、というのがポイントだ。分からないのにアガルタへ行くのか、あるいは分からないからこそ理由を探しにアガルタへ行くのか。視聴者としては明日菜はいったい何をしたいのか? という不思議な思いを抱えながら行く末を見守ることになる。

 ナウシカやラピュタや、あるいは『もののけ姫』でもいいのだけれど、明確にこれをする、しなければならないと言った目的を抱えているジブリ映画の主人公たちとは違って、「自分でもよく分かっていないがここではないどこか遠くへ行きたい存在」であるのが明日菜なのだ。こういう風に見ると、ジブリ映画の構造をなぞりながらも主人公の目的というポイントで一線を画すことができているし、この「どこか遠くへ行きたい」欲求は『秒速5センチメートル』でも『雲の向こう、約束の場所』でも、あるいは『君の名は。』でもそれぞれの形で散見されている、新海誠らしいポイントの一つ、と言ってもおおげさではないだろう。

 この映画らしい特色と言えば呪いという言葉がよく出てくることだろう。アガルタの人たちは過去の歴史的経緯から地上人(地上で生きる人たち)たちとの交わりを嫌う。彼らが訪れることは不吉な予兆でしかない。そしてはっきりとした正体は明かされないが、夷族と呼ばれる骸骨のような生き物たちも地上人を嫌う。夷族とアガルタの人間はまったく別の種族だが、地上人を忌み嫌うところはよく似ている。森崎も明日菜も招かれざる客人であって、アガルタからすれば呪われた存在であるに等しい。一方でそうしたアガルタ人たちの保守的な姿勢に森崎だけでなくシンも批判的な態度をとる。これは一種の呪いを克服しようとするパフォーマンスのようにも見える。

 とはいえ呪いを克服した先に即座に福音があって祝福があるかというとそうではない。森崎の当初の目的である死者の復活には意外なほど容易に(成り行き的に、ではあるが)たどり着く。皮肉なことに明日菜を利用することで森崎は目的を一度は達成してしまう。しかしそこで逡巡がある。明日菜を利用することを、自分自身はほんとうに望んでいたのか? という迷いだ。そして明日菜だけでは足りないことにも気づく。死者の魂は生者の魂より重い。

 一方で明日菜に皮肉すぎる結末のように思えた森崎の目的の達成(瞬間的にであるにせよ)は、明日菜へも気づきをもたらす。思い返せば重要な場面で叫びであったり、叫びに似た慟哭がこの映画を大きくもり立てようとする。新海らしい幻想的で華美な美術描写であったり、ファンタジー的な世界観の構築を担う様々な生き物たち(ケツァルトルという神の容貌はまさにジブリ映画の神々を思い出す)に目をとられてしまうが、新海映画にとって重要なのは個々のキャラクターが持つエモーションであり、それを一気に爆発させるところだろう。いままでのようにおなじみのモノローグが息をひそめているからこそ、エモーショナルな展開に痛さはない。ベタな切なさと感動が、身を揺さぶってくる。

 ここでようやく最初の問いに戻ることが出来る。「明日菜はアガルタでいったい何をしたかったのか?」だ。これは「明日菜はアガルタでいったい何を得たのか(そして失ったのか)?」という問いに変換することもできるだろう。淋しかったんだ、と彼女は最後に悟る。ではなぜそれに気づくことができなかったのか。それはシュンを失ったこと、かつて父親を失ったことに対して正面から向き合うことができなかったからだ。彼らはもういないという現実を、まっすぐに見つめることができていなかったからだ。

 祝福は生きている者に与えられる。しかし、それは容易に得られるものではない。生きている者が死に向かい合うことで初めて得られるものではないのか……。森崎も明日菜も、最後には同じ地平に立って祝福の意味を悟ったに違いない。呪いと表裏一体の祝福。でもやはりそれは、生きている者に与えられるもの、であるはずだと。

 最新作『君の名は。』に引きつけて書くならば、『君の名は。』にも突如満ちてくる死の匂いに対して、そこから逃げずにどう立ち向かうかが立花瀧と宮水三葉の未来を決める重要な要素だった、というところだろう。二人が逃げなかったこと、逃げずに来たるべき「大きなもの」に立ち向かったからこそ、エピローグでのかつてない祝福が二人に訪れる。はじめに『星を追う子ども』との関連は想定外だったと書いたが、どちらも死が生きる二人を大きく突き動かしているところは非常に似ている。自分がそうだったからというのは置いておいても、ぜひぜひ、この機会に再見を、と思わなくもない。


関連記事:大きなものにまっすぐ立ち向かっていく ――『君の名は。』(日本、2016年)


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