Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

IMF

■ In Memorial Fictionalization [woman side:02]
previous:01[man side][woman side]

 前の手紙に「あなたに知って欲しかったなあ」って書いたけれど、今こうやって書くのはちょっと変だね。今の私には大事な人がいてくれているから(あくまでも「今」のうちは)昔のことを振り返るのも変な話だし、その昔の想い出に対してさもあらなんという願望を描くのもおかしなことだ。
 最近はね。すごく平和だよ。ていうか、平穏?朝目が覚めて、いちにちが始まって、ごはんを作ったり部屋の掃除をしたり、ベランダの鉢植えにお水をあげたりそのあとにふとんを干したりしながら過ごして、夕方になったら今日は何を作ろうか、って考えながら買い物に行く。
 何も考えなくていいとかそういうわけでは全然ないのだけれど、自分と自分以外の誰か特別な人のために生きることが、思ったよりも楽しいな、って思ってる。毎日毎日、同じようだけれど違う日々をちょっとずつ刻んでいる。同じことでも明日は何をしようか、明日はちょっとやり方を変えてみようか、って思うことはできるし、それ以外のことを真剣に考える拘束性や必要性もない。

 歳をとっただけ、なのかもしれないけれど、おだやかな日々がずっと欲しかったのかな、とも思ってる。
 さっき刻んでる、っていう言葉を使ったけれど、この言葉ってすごく刺激的だしいきいきしてるよね。だってもやもやしているときよりも、いきいきしているときのほうががずっと「生きてる」って思う。自分の場所があって、その場所にいてもいいんだと、自分を認めてくれる人もいて。
 こうした関係だとか時間がずっと続いていけばありがたみも薄れるのかもしれないし、毎日朝起きて「わたし今日も生きてる!」って感じることはないのかもしれないけれど(でも今でも朝はすごくニガテだから起き上がるのはたいへんだけどね)いまはすごくしあわせです。生きている、と感じるときが一番幸福感を得られるときなんだ、ってやっと気づけた。少なくとも今の私にとって、毎日の生活をちょっとずつ違う毎日にすることが、「生きてる」って感じる。

*********

 きっと学生時代の私だとか、あなたには笑われるかもしれないね。「えらい丸くなったなー」なんて。端から見てるとこんな単調で、行動範囲も狭くて、人と会うことも稀な日常に、昔の私なら3日で窒息しそう。いや、学生だったらみんなそうかな。
 「丸くなった」っていうのはいい表現かもしれない。少なくとも「成長した」なんて思うつもりはない。あのころのようなギラギラした刹那的衝動がなくなっているのは、むしろ悔しくも思えるから。
 それに、歳をとることが必ずしも成長っていう、前向きにとらえられるような話でもないからね。前には進んでいるかも知れないけど、それこそ言いようもない若さや青さのようなものは失ったし、それらからしか生まれないものも、今の私には生み出せない。代わりに違う感覚や価値観を持って生きることはできるけれど、それはあくまで変化であって成長だ、っていうのはなんか違うと思う。
 
 成長したとすれば、そうだなあ。人生をもっと楽に考えられるようになったこと?楽というか、ゆったりと。
 特に学生時代って、あれもしたいしこれもやんなきゃとか、とにかく忙しくするのが大事で、暇が天敵のようなものだった。常に動いてないとなんか胸くそ悪いというか。
 今はもう考えられない。そもそも体が持たないかも知れない(笑)いや、冗談じゃなくて、ゆったりと一日を過ごす生活に大分慣れきってしまっているから。
 たぶんいまなら、自分のできる範囲のことならちゃんとこなせると思うよ。あのときみたいに、あれもこれもと手をつけるばっかりに、いつのまにか身近にあった大切なものや人や、時間を失って後悔する。なんてことは、きっとありえないと思うから。
 そういう自分の限界だとか、自分の手の届く範囲のことをきちんとこなすこととか、手の届く範囲から自分の生活とか幸福とか、楽しみを見つけることを、今ならできる。逆に言えば、そのうち落ち着くから若いうちには若いなりでいていいのかもしれない。あのときはきっといっぱい楽しんで、いっぱい傷つくことが必要だったはずだから。

*********

 うん、こうやって前向きに過去の自分と向き合えるようになったのも成長?なのかな。そういうカテゴライズはもういっか、めんどくさいし。
 あのころのわたしとか、あなたにはもう何も届かない。思い出せるだけの出来事を、胸にしまって。今日もわたしは一日を刻んで、生きていきます。
 あなたの日常は、いまどう映っていますか?昔とは何が違って見える?

 あ、そうか。こうやって遠い誰かを思えるだけの時間や気持ちの余裕があるということが、いちばん私が手に入れたかったものかもしれない。
 
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■ In Memorial Fictionalization
[woman side:01]

 何年前だったかなーと、指を折って数えてみる。ひい、ふう、みい・・・ああもうあと何年かで10年経っちゃうんだ。早いような、長かったような。当たり前だけど、色んな事があったなあ。あのときはこんなに早く結婚すると思ってなかったよ。
 人生ってよく分からない。けど、結婚生活を始めて見ると意外と違和感なくやれていると思うし(まだこどもがいないからかもしれないけれど)同じ屋根の下に誰かがいてくれる、という安心感や嬉しさは楽しい。ずっと一緒にいると嫌なこともあるしたまに居心地が悪くなったりするけれど、まあそういうものなんだろうな、という程度に考えることにしている。
 付き合っていた頃とちがって別れるのが手続き的にめんどうだから、っていう思いもあるし、今はまだ一緒にいることへの幸福感が大きいから。

 今も昔も、わたしはずっと朝がニガテだった。早起きができないわけじゃないんだけれど、目覚めるまでにすごく時間がかかるし、どれだけ寝ても目覚めの気分がすぐれているときはほとんどない。
 ふらふらとベッドから起き上がって、着替えたり、鏡の前に立ったり、そういう誰もがやっているような行動をとるのも一苦労。うーんうーん、とぜんぜん働いていない頭をぐるぐるさせながら起き上がるだけのワンシーンも、体を動かす前の準備運動のように感じる。
 だから毎朝寝起きすぐにスポーツをしているみたい。「あさのしたく」という、個人競技。何も考えないときもあるし、よそゆきの予定がある日は丁寧に準備をしなきゃいけない。戦う相手がいるようないないような、よく分からないスポーツを毎日のように繰り返してきた。


 「さすがにもう慣れたやろ」と言うかもね、あなたは。
 でもね、慣れてもたいへんなのはたいへんなんだよ。わたしの感覚や気持ちを分かって欲しい、と懇願するつもりはないよ。でも、たとえばマラソン選手が毎日何十キロも走る練習をしたり、遠距離から通勤で1時間以上ぎゅうぎゅう詰めの電車に揺られることが、毎日繰り返されても慣れてしまうとは思わない。いや、慣れる人もいるかもしれないけれど、スポーツ選手なら好きでやっている部分もあるかもしれないけれど、費やすエネルギーが減るわけじゃない。
 いつものように毎日同じエネルギーを使い続けることがどれだけ楽じゃないか。たいへんというのは言い過ぎたかもしれないけれど、楽ではないよ、ぜんぜん。

*******

 今思えばあのときのあなたに知って欲しかったなあ。わたしが毎朝一生懸命だったこと。
 
 今更だし何の意味もないと思うけど、こういうわたしのことをどう思うのか、率直な言葉が欲しかった。あなたの得意な理詰めの言葉じゃなくて、内面からまっすぐ出てくるような言葉が。
 いま一緒に住んでいる人は、わたしにあたたかい言葉をかけてくれるとか、きつくしかってくれるっていう人ではない。だけど、いつも自分の言葉で話してくれる人です。
 もちろんたまにはウソをついているかもしれないけど、優しいウソなら多少ならだまされてもいい。もっとも、長いこと一緒に住んでいたらウソとホントの見分けがつくかもしれないけどね。

 わたしがもうあなたと会わなくなって何年も経ってる。学校の同級生とかだったらどこかで会う機会もあるかもしれないけど、わたしたちはたまたま同じ季節を同じ場所で過ごしただけの関係だった。
 でも、覚えてるよ。自分に自信があるように見えて意外と脆いところとか、隣で歩いていてもどこか遠くを見ている風な表情とか。あと、もっと気を抜いて喋ればいいのに変なところで力んでしまうから、ちょっとおかしくて心の中で何回か笑ってしまったこともある。
 あの季節やあの場所はちょっとだけ特別だったから、どう分類していいか分からないまま記憶に残り続けている。本当にあれっきりだったから、残っていること自体が不思議だとも思う。
 
 少なくとも、いまのうちはね。
 いつか、もっと夢中になれるような大切な出来事があったら薄れていってしまう。
 その繰り返しが、記憶するということ、だから。
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■ In Memorial Fictionalization
[man side:01]

 ありがとうより「さようなら」を覚えているし、こんにちはより「ごめんなさい」を覚えている。

 なんでだろうなあ、と思い理由を考えてみることにした。たぶんありがとうやこんにちはは社交辞令のようなものでもあるし、使い慣れすぎていて一つ一つをちゃんと思い出せない。誰に言ったかはなんとなく覚えていても、どういうとき、どういう文脈だったかは、覚えているほうがすごいと思う。そういう人も世の中にはいるのかもしれないけれど。
 「さようなら」も「ごめんなさい」も、きみに関して覚えているのはもう一つ理由がある。きみと会話したことはほとんど忘れてしまったけど、どこで会ってどこで会話をしたかは今でもよく覚えている。当時よく歩いた大通りと、海の見える埠頭。さすがに海が近いから少し風が強くて、遠くにはタンカーが何隻も浮かんでいる。
 少し長いきみの髪が波風に揺れている様子を見るのが好きだった。黒髪と、夕日のオレンジの対比は本当にきれいだった。

 初めて話をするようになったきっかけも覚えていない。でも、鮮やかな景色やそのとき綺麗だったものは覚えている。
 それはきっと、きみがいたからだろう。きみがいなければ、景色はただの景色で、いつ見てもほとんど変わりなどなくて、ただそこに当たり前のようにあるからにすぎない。
 きみがいる、ということが今はもちろんだけど、あのときも当たり前じゃなかった。よく考えればトータルでも会った回数なんて両手でがんばって数えられる回数くらいしかないような気もする。

 そもそも、いったい、なんだったんだろうね。もちろん、深い意味はないと言ってしまうことはできるだろうけれど。無理矢理思い出して意味づけしようとする自分のほうがどうかしているのかもしれないけれど。
 もうあの日々からは年月も場所もだいぶ遠ざかっているし、当たり前だけどいつも考えているわけじゃない。それでもただ、なぜか忘れない景色と、なぜか忘れない黒髪を、きみの横顔を。いまも思うことができる。

 感傷とはこういうことだろうか。ひとりよがりなだけだろうか。
 ふとしたことで思い出したくなって、薄れそうになっていく記憶をとりもどそうとする。頭よりずいぶん上に置かれていてどう考えても届かない距離だけれど、気になっているから手を伸ばす子どものように。
 ああそうか、まだ自分は、子どもごころが捨てられてないんだ。まだまだ全然、大人になりきれてないんだ。

 今過ごしているのはこういう日々だ。やるせなくても、過剰に過去をなつかしく思うときがあっても、なんだかんだ大人の日々を生きてるよ。意外と人間は順応するものだ。もう自分のことなんて忘れているだろうけれど。

 きみも穏やかな日々を過ごしていることを、遠くから願っている。
 
******

 なんとなく文章を殴り書きしたいなーと思って始めて見た。
 いちおうシリーズ化したいけど不定期だし最悪今回で終わるかも(woman sideは大体書いたので近々更新します)だけど、「架空の思い出話」を「届かない往復書簡」という形にしたいと思っている。
 2人のことは書き手である俺だけが知っている、的な。どこかで聞いた話や自分の経験や、それとまったくの架空の設定などなどを合わせてフィクショナライズしていく試み。
 自分の中でもやもやしているものをただはき出すだけでなく、深呼吸するような感覚。一歩引いて、少しだけ長い文章を。
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