ゆったりと激しくかき鳴らす音とダンス ――RAMMELLS Mirrors release tour@心斎橋CONPASS(2019.5.9)2019年4月の読書記録

2019年05月16日

格差社会、フィクションと消失、そしてビニールハウスのメタファー ――『バーニング 劇場版』(韓国、2018年)



見:第七藝術劇場

 村上春樹の短編「納屋を焼く」を現代韓国を舞台にイ・チャンドンが映像化したのが本作。「納屋を焼く」は読んでいないのでネットでざっとあらすじだけおさえたが、基本的には小説の筋を追って映像化しているなということが分かった。ただ2時間半近くの映画にするにあたって、かなり大胆な換骨奪胎、あるいは二次創作を試みているといってもよい。その結果として、オーディションで抜擢された新人女優チョン・ジョンソの奔放な美しさとその儚さを堪能できるといってもよい。映画デビューが本作でありながらもおっぱいを大胆に露出するような濡れ場を演じ切る彼女のタフさはなかなかによいし、それでいてカードで作った借金が多すぎるゆえに家族にも見放された薄幸さをも同時に兼ね備えているのだ。

 チョン・ジョンソの話をせっかくなので続けると、彼女が演じるヘミという女の子について書こう。主人公のイ・ジョンス(ユ・アイン)とヘミは地元が同じで、ある日たまたま街角でキャンギャルのバイトをやっていたヘミとジョンスが会うことで物語が始まる。整形をしたヘミに最初ジョンスは気づかないが、一緒にたばこを吸っているううちに「やっぱりヘミだ」と気づき、いつのまにか二人は付き合うようになっていく。兵役を終え、大学を卒業したが何もせず小説を書く生活を細々と送るジョンスと、カード借金の返済のためにバイトに明け暮れるもののアフリカに旅をしに行きたいという若者らしい夢を持っている奔放なヘミ。都市でひとりぼっちで生きてきた二人が繋がるのは自然な流れなのだろう。

 ところがヘミがアフリカに行って帰国し、彼女を迎えに行ったところから物語がさらに動き出す。ヘミの隣にいた年上の韓国人、ベンと名乗る彼(スティーブン・ユアン)はヘミと仲良さそうにしており、ヘミの側もそれを隠さない。ベンが何者か分からず興味を持ったジョンスは、ヘミとともにベンの開いたホームパーティを訪れ、そこでヤバイ代物を発見して。

 というように、どう考えてもあやしいベンと、そのベンに惹かれていくヘミにいら立ちを隠せないジョンスではあるが、ジョンスから見て「ギャッツビー」であるベンに、ジョンスはあらゆるもので勝てない。彼のように贅沢なマンションやポルシェを持っているわけでもなく(スマートにポルシェを乗り回すベント、父親の乗っていたぼろい大型車を乗るジョンスの対比が分かりやすい)若い女たち(ヘミ以外にも複数の女性を交際があることが窺える)に囲まれるのでもない。韓国には三放ないし五放世代という言葉があるが、あらかじめあらゆるものが失われた彼ら彼女ら(ベンだけではなく)ヘミを含めるべきだろう)にとって、ベンは違う世界の人間のようだ。


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 タイトルに書いたように、本作の導入が原作を換骨奪胎した上で韓国の格差社会をある意味分かりやすいくらいに表現しているとすれば、そこから深まっていく本作のテーマの一つが「フィクションと消失」であると思う。村上春樹のよく用いるモチーフでいうと、井戸が挙げられる。井戸はどこか別の世界(多くの場合、それは実在しない世界)につながっていて、ヘミはかつて自分が井戸に落ちて、ジョンスに助けられたことをベンの前で語るシーンがある。しかしそのことをジョンスは覚えていない。

 また、ヘミはアフリカ旅行中に自分の部屋にいる猫に餌をやってほしいとジョンスに頼み、部屋のロックキーをジョンスに教える。ジョンスはたびたびヘミの部屋を訪れ、キャットフードと水を用意するが、猫の姿はどこにも見えない。あるいは、ベンはたびたびビニールハウスを焼くという趣味があるらしく、興味を持ったジョンスはビニールハウスを地図と照らし合わせて調べるが、ベンの焼いたらしきビニールハウスはどこにも存在しない。(ちなみに原作では「納屋」を焼いているが、作劇上の都合でビニールハウスに変更されている)

 思い出そう。まずもってジョンスは小説家志望、つまりフィクションを生み出すことを職業としたがっている。ヘミはヘミで、パントマイムを習っており、たびたび実現してみせる。パントマイムのコツをジョンスに語るシーンがなかなか面白くて、ミカンをむいて彼女が言うには「ミカンがあるかのように見せる」のではなく、「ミカンがないことを忘れる」のが大事だというのだ。彼女もまた、フィクション(虚構)を生み出すことを試みている。

 ベンの自宅に三人が集まったとき、ベンがヘミに対してメタファーという言葉を使い、ヘミがその意味を理解できないとき、ベンはジョンスに聞いてみな、というシーンがある。このシーンではヘミとジョンスが似たもの同士であること(そしてベンは笑顔でその関係を切り離すということ)や、メタファーという、小説の創作においては重要で、そしてこれもまた村上春樹がよく言及するワードだ。

 メタファー。それは焼かれないビニールハウスのことをも意味している。ベンはビニールハウスを焼くという趣味を暴露し、予告までするが、実際にジョンスの家の近くにあるビニールハウスは一つも焼かれない。だが、ほとんど同じタイミングで、ヘミが姿を消す。電話にも出なくなるし、自宅のロックキーは変更されている。ここから一気にミステリーの様相を見せてくるわけだが(もちろん探偵役はジョンスで、被疑者はベンだ)間接的な証拠がたくさん見つかるだけで、ベンは一向に心の内を明かさない。まるでジョンスに謎を解いてほしいかのように、ヒントを提供することに遠慮はないし、ベンからジョンスへ危害を加えることもない。僕と君とは違うのだよと、高いところであざ笑うかのように。


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 ヘミやジョンスたちの世代にとって、失われたものを取り戻すのはほんとうに大変で根気がいる作業であることだろう。多くの場合、ほとんど不可能かもしれない。その場合、ベンのような「ギャッツビー」たち、要は1%対99%の1%の側に立つ人間のような「持てる者」には一生なれないのかもしれない。

 日本でも格差や階層の固定化が言われて久しいが、それでもこの国に兵役はないし、人手不足によって求人倍率は上向いている。男女の平等ランキングでは常に下位にランクされるようなこの国ではあるが(これは韓国とも共通しているだろう)不思議と韓国社会ほどの悲壮感はない。チョ・ナムジュの『82年生まれ、キムジヨン』のような不正義を告発する小説がヒットするような韓国と(日本でも輸入する形でヒットしたが)少し古い言葉では「絶望の国の幸福な若者たち」が住む日本とでは、社会状況は類似すれどそこで生きている人たちの受け止め方が違いすぎるようにも思う。

 翻ってこの映画の後半の展開と結末を考えてみると、日本映画としてもしこの結末が作られたのならばあ、あまりにも攻撃性が強いと思ってしまう。ただ、現代の韓国を舞台としてこの映画が作られたという前提を加味すると、こういったカタルシスがなければ何も起きずにただただ不幸な物語として終わってしまうのだろうと感じた。

 村上春樹の小説はもちろん後者の立場でもいい、とするはずだ。強いて言うなら『1Q84』のBOOK3を想像しなくもないが、それは春樹の小説としては例外的で、彼の小説は常に多くの謎が残されたまま終わったり、主人公の置かれた状況が大きく変わらないまま終わることが珍しくない。それがちゃんとオチがつくエンタメ小説と、キャラクターの感情や内面の描写を重視する純文学との違いかもしれないし、小説と映画という表現方法の違いなのかもしれない。

 いずれにせよ、この結末を日本人としてどう受け止めていいのかに自分の中ではっきりと結論を出せていない(そもそも日本と韓国の差異にデリケートにならなくてもよいのかもしれないし、過剰に還元主義になる必要もない)が、そうかこれをやってしまえるのがいまの韓国の現実なのだな、と素朴に受け止めることにした。少なくとも現時点では。








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