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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

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 12月は愛媛30kを控えていたのでランニングにエネルギーを注いだ分読書量が少し落ち着いたかなという気がしている。とはいえ落ち着いてもちゃんと二けた読めているのは悪くないかも。
 今月はなんといっても『百年の孤独』を読んだのが大きかった。いつぞやかのみちくさ市で買ったものなので、4年とか5年とか積んでいたわけで、ほんとうにようやくという感じ。先月の『族長の秋』と比較してもちゃんと読めたかはかなりあやしいが、読んだことは自分の中に残るはずなので次へとつなげていける、はず。
 今月は小説以外が多くて、『ルポ 不法移民』の身体を張ったレポートはめちゃくちゃ面白くて泊まり勤務しながらのめりこんだし、中井久夫の『看護のための精神医学』が名著だと言われる理由が分かった気がした。
 もちろん中井久夫がここに書いたことですでに古くなっていることも多いよなあとは感じたが、精神科医療の原点がちりばめられているということと、症例が事細かく分類されている点をちゃんと抑えておくべきなのだろうと、医療ではなく福祉の立場としてではあるが感じた次第。治療はできないが寄り添うことはできるという意味で、精神科看護と福祉(そもそもどちらもケアが職務なわけで)はわりと近しいものだと思っている。

 mediumへの書評は8本でした。小説6本、政治学1本、同人誌1本。
 同人誌レビューをブログなどで積極的に行っている人はそう多くないので、多少古くて入手困難なものも入ってくるかもしれないが、たくさんある蔵書の中である程度のボリュームを持っていることだし、自分が読んだ分を還元していきたい気持ちがある。なので来年はこの部分も増やしていきたい、と考えている所存。

 そんな感じです。引き続き2017年まとめもアップします。

12月の読書メーター
読んだ本の数:10
読んだページ数:2645
ナイス数:29

百年の孤独 (1972年)百年の孤独 (1972年)
読了日:12月04日 著者:G.ガルシア・マルケス
Just Because! (メディアワークス文庫)Just Because! (メディアワークス文庫)感想
アニメまったく追えてないのだがよかったと思う。アニメも追いかけたい。
読了日:12月04日 著者:鴨志田 一
TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)TYPE-MOONの軌跡 (星海社新書)
読了日:12月09日 著者:坂上 秋成,武内 崇
ルポ 不法移民――アメリカ国境を越えた男たち (岩波新書)ルポ 不法移民――アメリカ国境を越えた男たち (岩波新書)感想
著者がUCバークレーで研究していたのはゼロ年代中盤のようだが、ここで書かれている状況はいまのほうがより苛烈なのだろうと想像する。身体を張った意義のあるフィールドワークであり、ルポルタージュ。NPOや教会、地元自治体の支援などはソーシャルワークの観点からも面白く読んだ。
読了日:12月13日 著者:田中 研之輔
看護のための精神医学 第2版看護のための精神医学 第2版感想
やや古い本であるが統合失調症に関する記述のバリエーションはさすが中井久夫だなと思いながら読んでいたし、読み物として単純に面白かった。それ以外では睡眠の章や躁うつの章、短いながら境界例、精神遅滞、てんかんの項目も仕事で関わる範囲であるので興味深く読んだ。後半はやや流したがアルコールやドラッグによる精神病への目配せまであるのも幅が広くてよいと思った。
読了日:12月15日 著者:中井 久夫,山口 直彦
比較政治学の考え方 (有斐閣ストゥディア)比較政治学の考え方 (有斐閣ストゥディア)
読了日:12月17日 著者:久保 慶一,末近 浩太,高橋 百合子
金融入門〈第2版〉 (日経文庫)金融入門〈第2版〉 (日経文庫)
読了日:12月19日 著者:
現代日本の批評 1975~2001現代日本の批評 1975~2001感想
流し読み。言及が膨大すぎてあれだが、加藤典洋はちゃんと読みたいです。
読了日:12月26日 著者:東 浩紀,市川 真人,大澤 聡,福嶋 亮大
失われゆくものすべて ――『氷菓』試論失われゆくものすべて ――『氷菓』試論感想
新刊が出る前に読み返してました。詳しい感想はこちらで。 https://medium.com/@burningsan/ad6434fbd16b
読了日:12月27日 著者:ねりま
人生100年時代のらくちん投資 (日経ビジネス人文庫)人生100年時代のらくちん投資 (日経ビジネス人文庫)感想
今年の読書納め。
読了日:12月31日 著者:渋澤 健,中野 晴啓,藤野 英人

読書メーター
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 11月はあまり体調が安定しない月で、2年半ぶりに熱による病欠みたいな展開もあってまあまあキツい時期もあったわけですがなんとか乗り切れました。
 今月はなんといっても『未必のマクベス』が最高か、という感じでした。駒大苫小牧野球部にまつわる本も二つ続けて読んだが、こちらもなかなか。いまだからこそ振り返れることもいろいろあるんだなと感じつつ、栄光の裏に多々あった影というか苦悩みたいなものを中村計がよく取材していたなと思います。
 mediumには15本の書評をアップしました。今月読んだ中からは4本アップしていますのでこちらもご覧ください。

11月の読書メーター
読んだ本の数:14
読んだページ数:4193
ナイス数:23

ジュンのための6つの小曲 (新潮文庫nex)ジュンのための6つの小曲 (新潮文庫nex)
読了日:11月01日 著者:古谷田 奈月
壁を超える (角川新書)壁を超える (角川新書)
読了日:11月03日 著者:川口 能活
高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)高慢と偏見 上 (ちくま文庫 お 42-1)
読了日:11月04日 著者:ジェイン オースティン
勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇 (集英社単行本)勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇 (集英社単行本)
読了日:11月06日 著者:中村計
早実VS.駒大苫小牧 甲子園を熱狂させた決勝再試合、その舞台裏 (朝日文庫)早実VS.駒大苫小牧 甲子園を熱狂させた決勝再試合、その舞台裏 (朝日文庫)
読了日:11月14日 著者:中村 計,木村修一
ふったらどしゃぶり When it rains, it pours (フルール文庫 ブルーライン)ふったらどしゃぶり When it rains, it pours (フルール文庫 ブルーライン)感想
一穂ミチは不調和を書くのがうまい作家、という認識を改めて強くした。男女間の不調和、男性同士の不調和、仕事でのささいな気がかりなど、キャラクターの抱える心理的な不安をどうほぐしていくかを、読むたびに楽しみにしている。
読了日:11月18日 著者:一穂 ミチ
彼女たちの売春 (新潮文庫)彼女たちの売春 (新潮文庫)感想
さすが荻上チキ、という仕事ぶり。集めたデータやインタビューの分析には飯田泰之も関与していると知ってなるほど感が。
読了日:11月21日 著者:荻上 チキ
未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)未必のマクベス (ハヤカワ文庫JA)
読了日:11月25日 著者:早瀬 耕
バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)バビロン 3 ―終― (講談社タイガ)感想
今後に必要な展開だったかもしれないが、この結末のためというには全体的に冗長。
読了日:11月26日 著者:野崎 まど
ばんちゃんがいた (双葉文庫)ばんちゃんがいた (双葉文庫)感想
朝比奈あすかにしてはやや平凡な作品かなと思うがガジェットの使い方と、ばんちゃんというキャラクターの書き方は面白かった。
読了日:11月26日 著者:朝比奈 あすか
残された者たち (集英社文庫)残された者たち (集英社文庫)
読了日:11月28日 著者:小野 正嗣
図解でわかる!  投資信託図解でわかる! 投資信託感想
基本的なことの再確認のため。レイアウトが読みやすく、図も解説も過不足なくコンパクトにおさまっているのはよい。今後運用を継続するなかでまたぱらぱら読み返すのにも便利。
読了日:11月29日 著者:風呂内亜矢
岐路に立つ精神医学: 精神疾患解明へのロードマップ岐路に立つ精神医学: 精神疾患解明へのロードマップ感想
精神疾患の根本的な治療を目指す著者の情熱がベースにあるエッセイ集という形だが、文章は膨大な先行研究や精神医療史をベースに書かれており説得力がある。精神疾患は単なる心の病ととらえるのではなく脳にもっと着目すべきだという主張はまっとうだと思うし、そのための研究のありかたや創薬のあり方を構想してはいるが、同時に本書で示される現状の停滞を打破するのは困難であるということもよくわかる。精神医学の未来はまだまだ難しい道のりだなと感じる。
読了日:11月29日 著者:加藤 忠史
地下街の人びと (新潮文庫)地下街の人びと (新潮文庫)感想
ラスト五行がめっちゃよかった。
読了日:11月30日 著者:ジャック ケルアック

読書メーター
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 9月までは試験がまだつづいていたり仕事がバタバタしていたが、どちらもとりあえず落ち着いたので10月はようやっと本が読めるようになった。
 記録つけたりまとめを載せるのは最近サボってたが、あとになって見返すと面白いことはよく知っているので自分のためにちゃんと続けていきたい所存。

 10月は以下のラインナップです。
 

10月の読書メーター
読んだ本の数:24
読んだページ数:6609
ナイス数:9

『空海の風景』を旅する (中公文庫)『空海の風景』を旅する (中公文庫)
読了日:10月05日 著者:NHK取材班
未成年 (新潮クレスト・ブックス)未成年 (新潮クレスト・ブックス)
読了日:10月05日 著者:イアン マキューアン
カラー版 - 近代絵画史(上) 増補版 - ロマン主義、印象派、ゴッホ (中公新書)カラー版 - 近代絵画史(上) 増補版 - ロマン主義、印象派、ゴッホ (中公新書)
読了日:10月08日 著者:高階 秀爾
Ten years after (1982年) (角川文庫)Ten years after (1982年) (角川文庫)
読了日:10月09日 著者:片岡 義男
響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 後編 (宝島社文庫)響け! ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、波乱の第二楽章 後編 (宝島社文庫)感想
https://medium.com/@burningsan/e3f02d919f6f
読了日:10月11日 著者:武田 綾乃
ノートブックに誘惑された (角川文庫)ノートブックに誘惑された (角川文庫)
読了日:10月13日 著者:片岡 義男
米澤穂信と古典部米澤穂信と古典部
読了日:10月14日 著者:米澤 穂信
文学効能事典 あなたの悩みに効く小説文学効能事典 あなたの悩みに効く小説
読了日:10月15日 著者:エラ・バーサド,スーザン・エルダキン
ターミナルから荒れ地へ - 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学ターミナルから荒れ地へ - 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学
読了日:10月16日 著者:藤井 光
ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)感想
見えない、聞こえないという圧倒的に孤独な戦場を戦ってきたからこその生きざまというところ。生来の楽天的な気分がなければしかしここまで来ることができなかったのだろうと考えると、稀有な人だと思う。見えない、聞こえない、孤独だからこそコミュニケーションこそが最大の生存戦略であると感じた。そして点字による膨大な読書量にはおそれいる。
読了日:10月18日 著者:福島智
太宰治の辞書 (創元推理文庫)太宰治の辞書 (創元推理文庫)
読了日:10月18日 著者:北村 薫
カタロニア讃歌 (1970年) (筑摩叢書)カタロニア讃歌 (1970年) (筑摩叢書)感想
https://medium.com/@burningsan/6fa72a546b1
読了日:10月21日 著者:ジョージ・オーウェル
調書調書
読了日:10月21日 著者:J.M.G. ル・クレジオ
きょうの日はさようなら (集英社オレンジ文庫)きょうの日はさようなら (集英社オレンジ文庫)感想
https://medium.com/@burningsan/b383ab5c7de0
読了日:10月22日 著者:一穂 ミチ
すこしだけ白、すこしだけ黒 (角川文庫)すこしだけ白、すこしだけ黒 (角川文庫)
読了日:10月25日 著者:片岡 義男
誰も書かなかった 武豊 決断 (徳間文庫)誰も書かなかった 武豊 決断 (徳間文庫)感想
武豊を若いころから長い間追いかけてきた島田だから書ける一冊なのだろうと思う。絶妙な距離の近さがいい。
読了日:10月26日 著者:島田明宏
月食の日月食の日感想
https://medium.com/@burningsan/565d6a0063ae
読了日:10月26日 著者:木村 紅美
嘘はほんのり赤い (角川文庫)嘘はほんのり赤い (角川文庫)
読了日:10月29日 著者:片岡 義男
カラー版 - 近代絵画史(下)増補版 - 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスム (中公新書)カラー版 - 近代絵画史(下)増補版 - 世紀末絵画、ピカソ、シュルレアリスム (中公新書)
読了日:10月29日 著者:高階 秀爾
バラッド30曲で1冊 (角川文庫)バラッド30曲で1冊 (角川文庫)
読了日:10月29日 著者:片岡 義男
族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)族長の秋 (ラテンアメリカの文学 13)感想
https://medium.com/@burningsan/b1f7ddbe009b
読了日:10月30日 著者:ガルシア=マルケス
あるようなないような (中公文庫)あるようなないような (中公文庫)
読了日:10月30日 著者:川上 弘美
冴えない彼女の育てかた13 (ファンタジア文庫)冴えない彼女の育てかた13 (ファンタジア文庫)
読了日:10月30日 著者:丸戸 史明
人生のちょっとした煩い (文春文庫)人生のちょっとした煩い (文春文庫)
読了日:10月31日 著者:グレイス ペイリー

読書メーター
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 新海誠の名前を一気に全世界的に広めてしまった『君の名は。』の公開から約1年経ち、今年の夏は円盤が発売されてこちらも売れ行きは好調な様子。で、このタイミングと合わせてなのかどうか分からないが書籍のほうでも過去作と絡んだ動きがある。8月はまず『秒速5センチメートル』の絵コンテ集と、加納版『言の葉の庭』のノベライズだ。この映画は新海自身の手によってすでに長いノベライズが完成しているが、新海のやり方とは異なるアプローチでかかれている。同様なパターンは『秒速5センチメートル』でも『君の名は。』でも繰り返されているので、おなじみのコンビが今回も、というところだろう。しかしいつも思うがある作品のノベライズが複数出るということ、そのこと自体がほぼ恒例になっているのもなかなか不思議な現象だ。





言の葉の庭
加納 新太
2017-08-14


 新海のノベライズのアプローチは映画では描ききれなかった複数の視点を詳細に書くということだった。というわけで、映画そのもののタカオとユキノの二人の恋愛模様を軸に据えつつも、その周縁というか、外延の部分への描写に力をいれたということだった。映画では何度か会話するだけのタカオの兄とは、そしてその恋人とはどのようなキャラクターなのか。あるいはユキノと交際していた伊藤先生は何を考えていたのか。そして相澤祥子は、なにを以てユキノを標的にしたのか(あるいは、しなければならなかったのか)。このように、映画にぽつぽつと登場しては消えていくキャラクターに焦点を当てることで、新海が映画の中で表現しきれなかった部分を一つずつ埋めていく、という形のノベライズになっていた。

 映画を改めて見返して思ったが、46分という短い時間は、タカオとユキノの美しい関係性を描くためには過不足なく、ハマっていると言えるだろう。他方で多様なキャラクターが絡んだ人間ドラマとしてこの映画を見るならば物足りないところが多い。だが、映画で話を広げすぎればタカオとユキノの美しい関係性を、美しいままでは閉じ込められない。こうしたある種のジレンマというか、トレードオフのある46分だな、と受け止めた。『秒速5センチメートル』でもそうだが、語りすぎればいいわけではない。それでも語り切れない部分を小説で補完する、というのが新海のアプローチだった。

言の葉の庭
2014-11-15


 では加納のアプローチはどういったものかというと、これも『秒速』の時と少しダブるが、基本的には元となっている作品の再定義といったところだ。なので今回の場合、タカオのユキノの美しい関係性という基本ラインは変えない。そしてタカオ視点からしか書かない、という形で視点も限定しておく。そのかわり、たとえばタカオがなぜ靴にハマり、今後どうしていきたいのかといった部分を補完したり、映画にも何度か登場する友人とその恋人との関係性についても補足する。この場合の補完や補足は作品全体を埋めるというより、タカオというキャラクターをより濃くするための仕掛けである。

 なので、ユキノについてはさほど詳細には補完されない。ある程度の分量を持ったノベライズなので、映画には描かれなかったユキノとタカオの会話は二次創作的に補完されてはいるものの、新宿御苑で二人が出会い、歩く練習と靴作りをそれぞれのペースで続ける日々がちょっとずつ交錯していく、という映画のストーリーラインからはほとんど大きな変更はない。なので、新海版のノベライズも読んだ人にとっては、少なくとも加納版に書かれている内容だけでは物足りないと思えるだろう。読書メーターなどを見ていると、現にそのような感じの感想は多く見受けられた。

 その上で改めて再定義という文脈から加納版の評価をするならば、『秒速』や『雲のむこう』のノベライズがそうだったように、映画では書き込まれていなかった美しい関係性をもう一度別の形で再現することの面白さだと思う。新海は映画と小説は別物として分けている。それは映画監督新海と、小説家新海を別のものにするためでもあるのだろう。それぞれの仕事に干渉しないためには、まったく異なるアプローチのほうがよい。

 逆に加納の場合は、ある意味では純粋に映画に沿ったノベライズを行っている。その上でさすがだな、と思うのは今回の小説の視点になっているタカオの靴作りに対する情熱を、加納がしっかり表現していることだ。実際に靴作りの専門学校に取材したことがクレジットされているし、地の文や会話文の中にもタカオだからわかる靴のディティールに関する内容が多く見られる。靴を作る15歳の少年というタカオのキャラクターを加納なりに再定義したことでこれらの描写が生まれており、それは転じてユキノとの関係性をより美しいものにすることにもつながっているのでは、と思う。

 それが確認できるのは、ユキノが東京を離れてからタカオにあてた手紙が文章化されているからだ。映画では一部だけだった手紙が、加納なりの解釈と二次創作で新たに付け加えられている。ユキノ先生がまさかそっちに、というのはやや意外だったものの、重要なのは「タカオと出会ったことによる変化」をユキノが真正面から受け止めていることだ。それもまあ、映画を見ていたらわかることではあるけれど、それも一つの再定義ではある。

 そんなわけで、新海版ノベライズとはまた違った味わいを、ぜひ楽しんでほしいと思う。映画公開から4年経ち、気づけば俺もユキノ先生と同じ27歳になったからかもしれないが、歩く練習の4年後は、ユキノにとってもきっとポジティブなものになっているだろうと、祈るように思いたい。




雲のむこう、約束の場所
加納 新太
2005-12-28


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 気づけば夏の甲子園も残すところあと一試合という感じになっており、夏の終わりを感じている。気温はまだまだ高いので(東日本はそうではないようだが)、体感的な夏はまだ続きそうだが。今年は東北勢がベスト8に2つ残ったりとか、16強&8強唯一の公立校として香川の三本松が健闘したりだとか、あるいは広陵の中村がホームランを6本放ったりだとか、清宮がいないことや絶対的なエース級の投手が少ないことで開幕前はやや盛り上がりを欠いた印象もあった。とはいえそれこそベスト8級が7校集結した日があったりだとか、ソフトバンクの今宮健太のいた年以来の飛躍を見せた大分の明豊打線だとか、始まってみると話題に事欠かないのも甲子園のなかなかこわいところかなと思う。

 このタイミングに合わせてかどうかまではわからないが、山際淳司の『江夏の21球』が角川新書から再刊され、売れているらしいということを知った。発売は7月で、買ったのは8月のはじめ。たしか甲子園が始まる直前に梅田駅構内の紀伊国屋で、だったと思うが、高松に戻って宮脇書店に足を運んでも平積みされていることを見ると、どうやら各地でそこそこ売れている(あるいは売り出されている)らしいことがわかる。「江夏の21球」という逸話は確かに野球ファンとしてはよく耳にするがちゃんと読んだことはねえな、という思いがあったので今回買ってみた。


江夏の21球 (角川新書)
山際 淳司
2017-07-10


 この本自体はなにかしらの底本があったわけではなく、山際の書いたエッセイやノンフィクションからセレクトした感じのアンソロジーになっており、いまになって改めて編み直した一冊というところらしい。山際は1980年に「江夏の21球」をスポーツ雑誌『Number』の創刊号に寄せており、さらにその文章を含む著書『スローカーブを、もう一球』ではノンフィクションの賞もとっている。95年に若くして亡くなっているので、現役時代のことはほとんど知らないが、この本に触れたことをきっかけに山際淳司を追ってみようと思った。

 「江夏の21球」は広島時代の江夏が近鉄と対峙した日本シリーズ最終戦、9回裏に投じた21球を追った文章だ。ただ単に21球のプロセスを追ったというより、江夏がそのときになるまで何を考えていたかだとか、21球にまつわる周辺事情や前後関係を詳細に拾い上げている。拾い上げた上でクライマックスに持っていくというライティングを山際は選んでいる。このすぐあとに収録されている「落球伝説」(こっちには阪神時代の江夏が登場する)でもそうだが、タイトルにもなっているシーンは意外とあっさり描写されたりもするのだが、そのかわりにそこにいたるまでに彼らが何を感じ、何を考えていたのかという人間性の部分をより引き立てようとするのだ。

 確かにそうした文章がスポーツライティングを(良くも悪くも)変えたとも言われる『Number』の創刊号に載っていた、というのは象徴的なように思う。いまのNumberのライターで山際と同じレベルの文章を書く人は、サッカー以外では中村計あたりだろうか。ここしばらくのNumberはサッカージャーナリズム的な雑誌になっているので、トータルのライティングセンスは落ちているんじゃないかと思われるが、中村計の文章はもっと読まれてもよいだろう。




 話がそれた。つまりまあ、山際の試みるような、スポーツにおけるエキサイティングな瞬間をとりあげるためにその周辺事情を人間ドラマで埋めていくというスタイルは今日では珍しくはない。昔のことはよく知らないし、どちらかというと熱くなってというよりは肩の力を抜いて書いているようにも見える山際の文体には、同時代にそれこそ角川で活躍した片岡義男を思い起こさせる。肩の力は抜いているが、山際のやろうとしているのはつまるところハードボイルドであって、それをフィクションではなくノンフィクションでやろうとしているのではないかと。もちろんそうした文章は好き嫌いが別れるだろうが、個性というのはえてしてそういうものだということにしておく。

 『江夏の21球』を読んだあと、続けて次の2冊を読んだ。





 『スローカーブを、もう一球』には「江夏の21球」も所収されているので最初に読んだ本と多少ダブりはあるが、あの有名な星稜対箕島を書いた「八月のカクテル光線」はこっちにしか入っていない。この文章はタイトルからしてできすぎているが、あの伝説の一戦は当該日程の最後の試合として組まれており、球児たちが甲子園でのナイトゲームを楽しみにしていた、というエピソードを引き合いに出しているところが非常によい。確かに、練習以外でナイターを組むことは公式戦ではほとんどない。夢に見た甲子園でカクテル光線に包まれながら、そしていつまでも終わらない延長戦を戦うのは疲れはすれども記憶にさぞ焼き付いたものだろうと思う。

 『男たちのゲームセット』は巨人がV9を決めた年の阪神との戦いの記録。巨人側、阪神側の両サイドから追っているが、阪神球団側の優勝は別にせんでええんや、2位争いでちょうどええんや、とかいう逸話や阪神時代の江夏の話、そして激情して監督に手を上げる選手たち・・・などなど昭和野球らしい(らしいというのもあれだが)エピソードがたくさんあってなかなか楽しめた。個人的には、名もなき後楽園球場のビール売りバイト青年の発言が、さっきの「八月のカクテル光線」での球児の心情と少しダブっていいものだな、と思った。

 スポーツはそのものが生き物であるということと、そのスポーツに身を投じるのは生身の人間だということ。だからこそ生まれるスポーツならではの魅力を、肩の力の抜けた文体で、かつストイックに書いていたのが山際淳司だった、ということはこれらの3冊でよくわかる。あまり触れなかったが、彼が野球だけを愛していたわけではないこともわかる。(香川県の棒高跳び選手を追った「ポール・ヴォルター」も非常に面白く読めた)

 プロ野球ももうあと一ヶ月と少し、甲子園もあと一日。クライマックスが近づくいまだからこそ読むにふさわしいと思えた。熱く楽しい読書体験だった。
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 タイトルだけ気になっていてすぐに買わなかったし、最初はちょっと情報量が多すぎてだるさもあったのだけど、半分近く読んでから俄然面白くなって下巻は一日で読み終えた。これは間違いなく読むべきというか、いままさに読むに値する本、だと言っていいだろうと思う。

 なぜそう言いきるかというと、著者もあとがきの最初のほうでのべているが本作には膨大な学術的知見が反映されている。主なところは認知心理学、行動経済学だが伝統的な経済学、政治学、あるいは社会学や哲学、文学(スタンダールが度々登場している)といった知見も紹介されていて読みどころが多い。著者のねらいとしては近年特に目覚ましい認知心理学と行動経済学の研究成果を一般読者に還元したいという意識(この意味では様々な研究を紹介したレビュー論文的でもある)と、ルソーが『エミール』で試みたような、架空の人生を通してよりリアルなメッセージをこめたい、という目的を両立させることだろう。

 ある部分では持ちつもたれつといったところで、フィクションに関する部分のディティールのバランスが崩れたりもしているが、そこはあくまで研究成果を反映される部分としてサブなものとして割りきればいいだろう。とはいえメインの部分だけを伝えるのなら実際に論文や本を読めばいい。そうではなく、ハロルドとエリカという一組のカップルを題材にしたフィクションを見せることで、読者に読み物としての面白さを提供することに成功している。なにせ二人が誕生するところから、二人の死までを通して書こうとするのだ。70年とか80年とかあるだろうスパンの読み物を文庫二冊で、しかもそれが単なるフィクションではなく限りなくリアルな世界に立脚したものであるという点が非常に試みとして面白く、成功していると言えるのだ。

 先に書いたように本作で取り入れられている知見は数多いが、ベースになっているのはおそらく行動経済学だろう。伝統的な経済学のオルタナティブとして出現した行動経済学は、人間や人生といったものを表すのにも向いている。アリエリーの数々の著書や『ファスト&スロー』といった日本でも訳されて有名になった固有名詞が多々出現するし、主人公のうちエリカはカーネマンをリスペクトするキャラクターでもある。ビジネススクール的な合理性を嫌い、そうではない部分、つまりヒューマニティや人間の非合理性に着目して、やがてビジネスを起こすのだ。



ファスト&スロー (上)
ダニエル カーネマン
早川書房
2012-12-28


ファスト&スロー (下)
ダニエル カーネマン
早川書房
2012-12-28



 ブルックスのねらいは人々の「無意識」に焦点を当てるところにある。『ファスト&スロー』で言うところのファストの部分とほぼ重なるし、非認知能力と呼ばれる最近の教育界隈で話題になっている要素にも近いだろう。ハロルドは中流以上の家庭で育ち、教育水準も高いがエリカはシングルマザーの家庭で育ち、生活水準も下流に近いところで子ども時代を送る。ここしばらくの傾向としては一般的に、階層によって教育水準が決まり、教育水準によって次の世代の階層も決まるという、階層の固定化がアメリカでも日本でも指摘されている。日本でも「貧困」がゼロ年代以降注目されてきたが、移民を多く抱え、南北の格差が大きいアメリカでは日本の比ではないのだろう。こうした状況の中、エリカは貧困から脱出するためのプログラムに参加するのだ。

 エリカはプログラムによってまず違う階層の人々の存在を実感する。大学進学後はよりそれを大きく感じることになるわけだが、教育というものがこうして階層を引き上げるのではなく固定化してしまっている現実がやはりアメリカでも問題視されているのだろう。エリカは大学に進学しなければ後々自分がCOEとなって会社を立ち上げることもなかっただろうし、その会社が傾いたあとに転職することも容易ではなかっただろう。高等教育は機会とスキルを提供することによって、人生の可能性を広げる。逆に言えば、その恩恵に預かれない可能性もまた存在するわけだ。

 行動経済学の話に戻ろう。この本は行動経済学の知見に満ちている。教育だけではなく友人関係や恋愛関係、結婚やセックス、そして幸福といった、人生や生活にあらゆるところに一般的な傾向としての知見が紹介される。ではそれらの知見を踏まえれば人生は成功するかというと、必ずしもそうではない。エリカは事業に失敗するし、ハロルドは鬱傾向からアル中一歩手前までいく。二人は離婚の危機をも迎えてしまうのだ。これはつまり、人生には自分の選択でコントロールできるものもあれば、コントロールできないもの(運や権力、あらゆる人間関係に左右されてしまう何か)が存在することになる。ではどうすれば、それらの限界を知りつつ人生を豊かにすることができるのか。

 人生を豊かにすることもまた、選択の範疇なのだとこの本は教えてくれる。ハロルドはかなりの回数転職を重ねているが(とはいえ平均して10回以上転職sるアメリカ人としては珍しくないのだろう)、そのたびに自身の可能性と限界を知ることになる。エリカもまた、野心に満ちてはいるが成功だけではない人生を歩んでいる。この本のねらいはそうした成功と失敗の繰り返しの中で、いかに内省をすることによって次の失敗の機会を減らしていくか、というところにあるように思う。人生すべてをマネジメントすることは難しいが、人生を細分化すれば個々のリスクに対応したマネジメントをとることはできる。たとえば家庭内でのスキンシップであるとか、お酒を控えて外に出ることとかだ。

 人生は難しいが生きるに値することを、最終的にブルックスは伝えたかったのだろう。老年期に入ってからのハロルドとエリカの充実度は、二人が青春時代に感じていたそれと同等か凌駕するかのようだ(そしてなぜそうなのか、という知見も合わせて紹介されている)。これはつまり、加齢、老いることに対してネガティブな現代社会に対する痛烈なアンチテーゼとも言える。誰もがやがて若さを失うし、老いるし、やがて死ぬ。そうしてごく当たり前の事実に丁寧に向き合うことが、やがて幸福な人生を招くのかもしれない。たとえ遠回りであっても、人生が続いていく意外なところに幸福が落ちているのかもしれない。




 これもハヤカワNFになるけど、類書としてはこれかなーという気がする。人生という長いスパンで見たときに、20代までの歩みが大きく影響を与えることを、これもまた豊富な知見を用いて紹介していく。
 いま何をすべきか、そしていま何をすべきでないかというヒントを与えてくれる重要な一冊。
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◆1巻
いまのところもっとも善良に思われるアリョーシャが変人というのはこのあとの展開が気になるところ。まだまだ先は長いが、1巻の中で膨大に費やされている宗教的な記述(主に信仰をめぐるもの)は今後の大きな伏線になっているのか。あとカテリーナという盤石そうなヒロインを配置しながらグルシェーニカというサブヒロインをどどーんと出してくるあたりも波乱含みになっていきそう。先は長いのでのんびり読んでいきたい。




◆2巻
イワンがアリョーシャに人生について語る流れはなかなか面白く読んだがそのあとにくるゾシマ長老の人生に圧倒されてしまう構成がとてもうまいなと思った。ベタなのだけど、長くいきてきた者にはそれだけの厚みのある人生があるということを、イワンやアリョーシャに間接的に示しているようにも見えた。






◆4巻
前半は長く感じたが裁判が始まってからはさくさく読めた。イワンは悪魔にとりつかれていたのか・・・。この時代のロシアにおける農奴制に関する知識がさほどあるわけではないのだが、終盤のフェチュコーヴィチの演説は時代背景を探る上でも重要な見所だと思う。




◆5巻
5巻はエピローグということであっさりと終わってしまうが(4巻が長すぎたせいかもしれない)そのあとに続く亀山せんせいの解説が読み応えたっぷり。ドストエフスキーはなぜ本作のようなスタイルをとったのかとか、「父殺し」というテーマに対して各キャラクターたちがどのようなアプローチをとっていたのか、などなど。再読へのポイントもご丁寧にまとめられていてよい。個人的にはグルシェーニカとカテリーナの比較が面白かった。最初の印象と違って法廷では確かにカテリーナのほうがしたたかな女性だったと思う。




 以上は読書メーターで残したそれぞれのログだ。3巻だけないのは単純な俺の怠慢だが、去年の夏から秋にかけて、ある人の影響でドストエフスキーの五大長編のひとつ、『カラマーゾフの兄弟』を亀山訳で読んでいた。新潮文庫で『罪と罰』を読んで以来、二つ目の五大長編である。
 カラマーゾフを選んだ理由は単にすでにキンドルに入っていた(セールのときに買っていた)からであって、そしてたまたまそのある人とカラマーゾフの話になったからだ。興味を持ち、手元にあるならばとりあえず読んでみるのが自然な流れだった。
 とはいえ1巻から膨大な長さであり、ストーリーはなかなか進んでゆかず、難儀な旅になるだろうなあという予感があった。2巻までの前半部分は確かにとにかく長く長い、ただ大審問と呼ばれる司法に舞台が移されてからは様相が異なる。それは単に司法を舞台にしたほうが盛り上がるから、といいたいわけではない。1巻と2巻の冗長さが(冗長さそれ自体はいかにもドストエフスキーらしい、とも言えるのだろうが)あってこそ、司法に舞台がようやく移っていくのだ、という流れを理解したからだ。

 なぜか。ひとつはこれは信仰を問う形式の物語になっているからだ。ゾシマ長老やミーチャなど、敬虔なロシア正教徒が重要な役割を持つこの小説は、展開が進むにつれてやがて罪を問う物語になっていく。罪を問うならばそれこそ罪をテーマにした『罪と罰』と同じだ。
 だがそれだけではない。もっと重要なのは、19世紀のロシアで書かれた小説だということだ。いまになっては古典だが、当時のロシアの読者たちは純粋な現代文学として受け入れたであろう時代認識や社会に対するイメージなどが、ふんだんに取り入れられている。
 『罪と罰』は展開が進むにつれて移動を多く試みる小説だったが、『カラマーゾフの兄弟』の基本ラインはクローズドな社会だ。兄弟と題されてある通り兄弟たちと父親をめぐる家族の物語でもあり、兄弟たちの青春や恋愛の物語でもあり、宗教と信仰の物語でもある。それらはある程度狭い範囲の社会を舞台にしなければ、深いところまでは書き込んでいけない。
 『罪と罰』が個人の実存という近代的なテーマを持っていたのに対し、『カラマーゾフの兄弟』の場合は時代が移り変わる近代において、古いものと新しいものとの間のコンフリクトがテーマになっている。その最たるものであり、象徴的なものが宗教であり、信仰だというわけだ。

 もちろんロシア正教会の信仰はいまでもロシア本国や周辺諸国において影響力は持っているだろう。しかしそれは、長い歴史から見た現代においてはらやはりかつてほどではない、と言うべきであろう。
 世俗化とはなにかを問うときに、この小説は非常に適している。古いロシアを乗り越えるためにゾシマや父カラマーゾフの死が意味を持つならば、新しいロシアを切り開いていくのは兄弟たちなのだろう。
 次回作を構想中に亡くなったドストエフスキーの無念を思いながら、ある歴史の転換点を小説の中で目撃できること。そのダイナミズムをキンドルという新しい媒体で味わうことができる現代の一人の読者として向き合えたことを、非常に興味深く受け止めている。




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 芥川賞(公式)

 前回はまあ悪くない予想をしたと勝手に思っているので今回もせっかくなので予想してみたい。

◎受賞作なし
〇宮内悠介「カブールの園」
▲山下澄人「しんせかい」
△加藤秀行「キャピタル」

 加藤以外の候補4作は既読。前回同様受賞作はレビューを書こうと思ってます。加藤の「キャピタル」については掲載されている『文学界』12月号はamazonのマケプレで注文したので近日中には手に入る予定。
 候補のうち山下澄人だけが4回目という常連っぷりだが次が加藤秀行の2回目、他3人は1回目の候補なので分かりやすい形で見ると山下と他4人といったところ。さらに社会学者の岸政彦「ビニール傘」と新潮新人賞からそのまま候補になった古川真人「縫わんばならん」はいずれも(文芸)デビュー作での候補ということになる。
 また、宮内悠介も「半地下」に続いて『文学界』に発表した2作目である「カブールの園」での初候補なので、まだまだ純文学業界では新入りと見てもいいだろう。それを言えば加藤だってまだ3作目である。(以前候補になった「シェア」が2作目)
 もちろん1回目や2回目の候補でかすめていくパターンがあっても全然おかしくないのだが近年では稀なほうで、又吉直樹の「花火」や黒田夏子の「abさんご」のようなインパクトを持っていないと初候補での戴冠は難しいだろう。
 よって本命は受賞作なしにした。

 芥川賞には長らく演劇畑の作家は相性が悪いというジンクスがあり(とはいえ戯曲だって候補のうちではあるのだが)前々回に本谷有希子がそのジンクスをようやくはねとばしたが、その次に山下が続けるかと言われるとやや微妙。
 山下のこれまでの候補作(「ギっちょん」、「砂漠ダンス」、「コルバトントリ」)はいずれも読んでいるが、これらと比べて「しんせかい」が悪くないのはいままでのようにトリッキーな構成をとることはなく分かりやすく展開されているところだ。
 候補作の中でも一番長い。長いが、演劇塾に参加したスミトの目線で書かれるリアルではあるがリアルさ以外に何を求めているかがはっきりしない構成が弱いなと感じた。ある意味、やや複雑でトリッキーな構成のほうが山下澄人の書きたいものは書けるのかもしれない。

 対抗に推す宮内悠介は一番筆致がこなれており、純文学サイドからどう受け止められるかは分からないが「カブールの園」で追求されている人種や国境をめぐる巡礼は文学的な視点から評価されうるだろう。VRのようなガジェットや精神医療を要素に持ってくるあたりはおなじみだが、これらの点はあくまでも個別の要素であって、主人公レイが休暇を利用して自身のルーツを巡礼するのが主なねらいだ。
 レイが訪れるのは戦時中の日系人収容所跡であるが、そこで引用されるレーガンのスピーチが印象的だ。この週末はアメリカでは歴史上最悪とも言われる権力移行がオバマ→トランプへと行われるわけだが、伝統的なアメリカ的思想とは真反対を向くトランプにもレーガンのスピーチは皮肉なものに映るだろう。
 こうした現代性は、宮内がレイを通じて探究しようとする文学的な視点とともに評価されていい。あとは細かい要素が蛇足とされうる可能性と、全体的な弱さがやや落ち目と言えるか。

 加藤秀行は読めていないと書いたが「シェア」と「サバイブ」を非常に面白く読んだので、期待こめつつの△。古川と岸は今回はさすがにきびしい。古川はその意匠に新しさをあまり感じないし、同じような手法なら前々回の滝口悠生のほうがやはりうまい。
 岸は小説としては悪くないしややミステリー仕掛けの面白さもあるが、最近の芥川賞をとるにはやはり短すぎる。

 以上、受賞作なしを本命としつつも宮内か加藤のどちらかが受賞するならとてもうれしいです。

カブールの園 (文春e-book)
宮内悠介
文藝春秋
2017-01-11



しんせかい
山下澄人
新潮社
2016-12-30



岸 政彦
新潮社
2017-01-31



古川 真人
新潮社
2017-01-31



文學界2016年12月号
文藝春秋
2016-11-07


 
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 冬コミ2日目がそろそろ始まりそうなタイミングになりましたが、3日目の告知です。3日目の東U12bで頒布されます。『』
 詳細:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20161229/p1
 膨大な楽曲データの分析と8本のエッセイからなる本ですが、「ラブライブ声優を卒業した彼女たちの途上――南條愛乃、新田恵海、三森すずこの現在地」というタイトルのエッセイで参加してます。
 夏ごろに本誌主宰のシノハラさんに今回の面白い企画に誘われ、10月ごろに原稿を書きました。原稿に誘われたころとほぼ同じ時期にシノハラさんも寄稿している『ユリイカ 総特集:アイドルアニメ』が刊行されていますし、この本と合わせて読むとより楽しめるかもしれません。
 ほかにもブースでは『筑波批評2013春』や『フィクションは重なり合う』が頒布されるようです。筑波批評ではシノハラさんとやおきさんのラブライブ対談が入ってますし、後者でもアイドルアニメ(二次元アイドル)特集があるので、合わせてどうぞ。




 今回参加した『MIW』がユリイカと異なるとすれば、タイトルにMusicと打ってあるように二次元アイドル世界における楽曲に焦点を絞っていることでしょう。MONACAフェスの興奮をシノハラさんは以前どこかで書いていましたが、作曲家や作詞家を軸に二次元アイドルの世界をとらえるとまた違った視点が生まれること、そして世界の広がりを別の角度でとらえられること。この二つが、今回企画に参加して個人的に感じた二次元アイドル音楽の面白さでした。
 最初から声優について書くつもりはなかったのですし、歌う声優というくくりは二次元アイドルから少し離れているではないかという話になりそうなので流れを説明します。今回文章の以来を受けた際に、シノハラさんから二次元アイドルに関することならなんでもオッケーということと、できればラブライブでなにかという二つの要素があったので、これらを考慮した結果ラブライブ声優に焦点を当てて書くことになりました。
 他の寄稿者の原稿にはジャニーズや宝塚というワードも入っているので、声優について書くのもそう遠からずだろうと思いました。結果的に。

 サブタイにもあげてますが、ラブライブ声優9人のうち、南條、新田、三森の三人の音楽活動について書いています。1年生役がいないと気づいて、最後に少しだけ飯田里穂についても触れています。ちなみに9人の中で一番歌がうまいのはPileだと思っていて、次点で三森と南條かなと。
 すでにfripSideとしての実績があった南條、音大出身ではやくから歌手志望だった新田、声優以前にはミュージカル女優であり、声優としてはミルキイホームズでのユニット経験を持つ三森、という感じの切り口で彼女たちの音楽活動の多様性に触れています。活動の多様性というより、活動の方向性の多様性といったほうがより正確でしょう。
 ラブライブ声優について書くことにしたのは、彼女たちがラブライブ声優というアイドルユニットとしての卒業を迎えているとあこと、卒業したということはグループの活動からソロ活動へと重心が移ることを意味します。徳井青空は唯一ソロ名義での音楽活動をおこなっていませんが、他の8人は音楽活動を行っているということは特筆すべきことかもしれません。

 歌う声優の存在は90年代の林原めぐみや椎名へきるあたりを出発点ととらえて、國府田マリ子や坂本真綾、堀江由衣、田村ゆかり、水樹奈々などなど、現在においてはもはや珍しい現象ではありません。『声優ラジオの時間』が90年代の声優特集を行って刊行した本がありますが、あのときといまとではもちろん声優が歌う意味は大きく変わっています。


 他方で、ラブライブ声優の9人はみながみな歌う活動をしていたわけではありません。そもそもPileのように、歌手オーディション出身で声優としての仕事はラブライブ!が初めてだという声優もいれば、飯田里穂や久保ユリカのようにビジュアルを押し出した芸能活動をした経験を持ちながら選ばれた声優もいる。
 単に新人声優9人で組みました、というわりには先ほど述べた南條や三森は年齢的にも経験的にも他のメンバーより少し先を行っています。はっきりした統一感があるわけではない9人がラブライブ声優になり、2013年のアニメ化以降のフィーバーを経験しながら2016年の4月で卒業を迎えます。唯一彼女たちをつなぐ共通点と言ってもいいラブライブ!というコンテンツが一つの終幕を迎え(そのかわりサンシャイン!!にバトンが渡されるわけですが)たいま、彼女たちのゆくえを探るのは面白いのではないかと思った次第です。

 他のコンテンツ、たとえばアイマスの場合はシリーズが次々に進行しながらも765プロダクションのキャラクターをつとめた声優たちはいまだにアイマス声優としての活動を続けています。毎年夏に西武ドームで恒例のライブを行っていることから、継続していく意志を強く感じます。それだけ成功した前例がありながらラブライブ!は同じ道を歩まなかった。必然的に、9人は卒業という選択をとらざるをえない。
 卒業しても声優としての活動は続いていく。いや、あるいはPileのように元々声優でないのなら、声優としての活動自体が必要でないのかもしれない。先ほど書いたようにもともと統一感のないメンバーだったにも関わらず、徳井青空以外の8人がソロ名義での歌手デビューの選択を選んでいるのは非常に面白いと思いました。
 AKB48などの例をとっても、みながみな卒業後に歌手を目指すわけではありません。グループとしての成功が卒業後の個人としての成功をそのまま意味しないことは、すでに卒業した大物メンバーたちの活動を見ていれば分かることです。
 答えはない、だからこそ自分で選ぶしかない。「たまたま」徳井以外のメンバーは歌手になったが、今後もみんな歌い続ける保障はない。新しい選択には迷いや挫折がつきものだということを、今回書いたエッセイから感じ取っていただければと思います。
 それは翻って、普通の人々の人生にとってもまったく無縁ではないのではないか、ということもふと感じました。だからこそ、彼女たちを応援したくなるのかもしれません。応援することで生まれる誰かの人生があるとすれば、応援することで生きられる自分の人生もあることでしょう。

 宣伝というよりは長ったらしいあとがきのようになってしまいましたが、まず第一にデータ的に非常に充実した本になっています。二次元アイドルの楽曲のべ1400曲以上を調査し、ことこまかくカテゴライズする本はなかなかないでしょう。シノハラさんが物量で攻めたとツイートされていましたが、その物量に一人の読者として圧倒されました。
 その上で自分を含めた8本のエッセイはこれら膨大な二次元アイドルの楽曲を楽しむ上での道しるべになっているはずです。ただ単に音楽を聞くことと、その背景を知った上で音楽を聞くのとでは、味わいも違うだろうと素朴に思うからです。
 ぜひ冬コミ3日目、大晦日の有明に足を運んでいただければと思います。
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 以前「走ることについての覚え書きと『脳を鍛えるには運動しかない!』のインパクト」という記事を書いたが、今回もランニングやスポーツにまつわる本を続けて3冊ほど読んだので、「走ることについての覚え書き」のパート2という感じでお送りする。
 今回取り上げるのは次の3冊。










 前2冊はいずれもマラソンを超える距離を走るレースについての本だ。ウルトラマラソンや100マイルレース、そしてトレイルランニングといったレースを概観していく。
 『EAT&RUN』は副題にもある通り、「僕」ことスコット・ジュレクが自伝的に書いた一冊で、学生時代にクロスカントリースキーの選手だった自分自身の生い立ちや、多発性硬化症を患い、次第に介護が必要になるまでに病状が悪化していく母について記述するなかで「走ること」へと情熱を傾けるようになるまでを非常にエモーショナルに書いている。
 そう、エモい。この本の肝はそのエモさだろう。レースをともにする友人たちとの関係、愛したはずの妻と別れ、そして再び恋をするまでのいきさつ。家族への愛。あるいは、日本人ランナーが食糧としてたずさえていたおにぎりへの感動、などなど。ランニングそのものに興味がなくとも、最初の部分を読んでスコット・ジュレクという一人の人間の人生に興味を持つことができたなら面白く読める一冊になっているのではないか。
 章末には短いコラムも挟まれていて、ランニング初心者へ向けた諸々のアドバイスもはさまっている。クロカンの選手だったジュレクはなにも元々ランニングの専門家ではない。彼とて、素人からのスタートなのだ。

 ウルトラランナーでもありヴィーガンでもある彼はタイトルに付してある通りEATの側面からも切り込んでいく。長い距離を走るには身体を形作る食べ物こそが重要だ、というシンプルな指摘だ。
 このへんはヴィーガンでない自分にとっては参考程度でしかないわけだけど(立場的にはダルビッシュがよく言ってるように日本人はもっと肉を食って筋肉つけろ派である)、おそらく食べ物を完全菜食という形でシンプルにすることも、ジュレクにとっては重要なルーティーンになっている。日々のすべてが100マイルもの距離を走るレースにつながるわけだから、確かに重要でないわけがない。
 まさに「食べることと走ること」によって幸せを獲得したジュレクという人間のストーリーが、そのまま本になっているといったところだろう。



 対して走ることの楽しさというのが次の『激走! 日本アルプス大縦断』からひしひしと伝わってくる。これは副題にもある通りトランスジャパンアルプスレース(TJAR)という、2年に1度8月に行われる8日間で415キロを走行するレースを追ったNHKスペシャルの書籍化なのだけど、日本海から太平洋の静岡まで415キロというとてつもない距離に、逆に『EAT&RUN』で提示される100マイルという距離が小さく思えてしまう不思議さがあった。
 いやまあそれはたまたま続けて読んだからなのだけど、今年のレースの覇者にもなった望月将悟はわずか5日間で駆け抜けるのだからもうわけがわからない。
 NHKオンデマンドで当時の放映(2012年)の内容も残っているので見てみたのだけど、全員フルマラソンを3時間20分以内(セレクションの基準の一つ)という強者揃いの中でも群を抜いて速く、いくつもの日本アルプスの山々を軽装で軽々と駆け抜けていく様は天狗か忍者のようにも見えてしまう。

 一方で望月以外の選手にも目を向けると、望月以外に対しては逆に非常に親近感の沸く選手たちが多い。Nスペ本編ではレースを追うことがメインになっていて、あまり選手個々の掘り下げはできていなかったが、書籍版のほうではランニングを始めたそもそものきっかけや、TJARに出るようになるまでのきっかけ、あるいは選手間同士の交友関係など、人間くさい部分についての書き込みが多く、とても身近なものになる。
 驚いたのは、多くの選手が元々は運動が得意でないか嫌いであり、望月のように子どものころから山を駆けるのが大好きで、といった選手のほうが少数派であることだ。たまたま友人や同僚に誘われて、あるいはダイエットのために、あるいは素朴に健康のためにといった形で足を踏み入れたランニングの世界にあれよあれよとハマってしまい、TJARのような過酷なレースに至った、というわけだ。
 という話を読んでもイマイチ最初の動機とのギャップがありすぎだろう、と思ってしまうが、しかしさっきのスコット・ジュレクを思い出してみれば納得がいく。彼のコラムにもあったが、誰もがいきなり長い距離を走れるわけがない。それがふつうだ。だからこそ、最初は歩いてもいいからちょっとずつ進むこと、そして走ることに目的や楽しさを見出すこと。
 それができれば、そしてそれがずっとできるのであれば、415キロという途方もないレースにたどりつくことだって不可能ではない、のかもしれない。それくらい、選手それぞれが山を走ることを楽しんでいるのが印象的だった。過酷に見えるのは事実だろうけれど、それを楽しむことができるのは素晴らしい体験にちがいない。



 最後の一冊、デイヴィッド・エブスタインの『スポーツ遺伝子は勝者を決めるか?』は様々なアスリートの能力を遺伝子レベルで分析するという一冊。専門書ではなく一般向けに書かれているので、分厚いが読みやすく、かつデータや引用論文の数も豊富だ。特定の何かや誰かではなく、スポーツやアスリートそのものに魅力を覚えている人にとっては、読み応えがあるだろう。
 とはいえ個人的に一番関心を覚えたのは、「1万時間の法則」に対する疑義や批判だ。

参考:"天才"に生まれ変わる「10000時間の法則」

 上のまとめでもあるように、最近ではいわゆるビジネス書でもたまに目にするが、はたしてそれはどれほど事実に敵っているのだろうか、という点を具体的に指摘していく。1万時間の法則が誰によっていつ提唱されたか、そしてそれがどのように浸透していったのか、といった言葉のルーツから始まり、実際のアスリートの練習時間を調べ上げて10000時間にはるかに満たない時間でトップレベルにのぼりつめたアスリートを反証として提示していくあたりは、まさに科学的な方法による批判と言えるだろう。
 この部分だけでも読む価値が大きい。つまり、単に10000時間練習したからといってプロになれるわけではないし、プロもみなが10000時間練習したわけではない。プロとアマチュアを分ける差異はもっと別なところ――たとえば遺伝子(ハードウェア)やトレーニング(ソフトウェア)――にある。
 遺伝子という言葉を付加しているが、本作の結論は遺伝子がすべてを決定するという話ではなく、アスリートの才能にとって遺伝子は非常に重要だが、それはあくまでハードウェアであり同時にそのハードを持って生まれたアスリートを育て上げるためのソフトウェアが必要だ、という穏健的な結論なのである。
 その結論にいたるまでの膨大な研究の蓄積が楽しい。4年に1度のオリンピックを見て楽しむようなライトなスポーツファンでも、この本に出会うことでさらにスポーツそのものの魅力にハマる。かもしれない。

 最近週に一回のヨガは継続しているものの暑さのせいでランニングがちょっとおろそかになっており、さらに春先に買ったクロスバイクの影響で・・・といった中で、再び走ることの面白さやスポーツそのものの魅力に触れさせてもらった。
 涼しくなったらちゃんと走ろうな、俺。長い距離を走ることはなんだかんだ言って楽しい。そして自転車も楽しい。
 「まだまだ遠くまで行こう」(by 大空あかり)


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