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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

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著者:桜庭一樹
出版:富士見ミステリー文庫(2005年)、角川文庫(2010年)


 1月からアニメ化されているGOSICKシリーズの第4弾。富士見ミステリーで出たのは2005年なのでもう6年も前のことか。本書の面白さは1巻に通じる実際の歴史+偽史をくみあわせている要素(書きすぎるとネタバレになるかもしれないが)で、実際の歴史をとりいれることによってソヴュールという国自体を浮き彫りにしている。ヴィクトリカの正体にも焦点が当たるが、このあたりはまだまだこれからといったところかな。個人的にはアブリルももう少し書いて欲しいけど、というところか。

 初夏の学園。時計塔で発見された謎の死体。そして、見つかったリヴァイアサンと名乗るもののメモワールと、錬金術にまつわるお話。これらが「知恵の泉」で再構成されるとき、歴史に隠された謎が見つかる・・・という全体の流れ。世界史とのつながりというのに加え、学園の歴史に関しても触れられている部分があって面白い。そういう意味では、あくまで偽史であるGOSICKがどういう世界であるのか、がだんだん分かってくる巻だ。

 個人的にはアブリルをもう少し書いて欲しいと前に書いているが、アブリルらしさが発端となっているのは興味深い。彼女はどちらかと言えばストーリーそのものからは脇役で、あくまで久条になんらかの思いを寄せている少女、としての描写が大半だったが、本作では彼女のらしさが少しだけど生かされている点が少し救われた思いにもなる。いや、けど大半はまだまだ脇役なんだろうけど。あとセシル先生が調子に乗るのはいつものことですね。恋愛パートはまだまだおあずけ、と。

 1巻が特にそうだったが、間奏として挟まれた偽史としてのエピソード、それと実際の世界史との混合がかなりすんなりはまっている感のある展開となっている。1巻はあくまで謎解きの要素として、だったが本作では謎解きの要素にはもちろんなっているが偽史と実際の世界史が統合して、前述したようにGOSICKの描かれる世界、つまり久条やヴィクトリカがどういう世界を生きているのかが伝わってくるようになっている。1巻はあくまで現実世界、つまり読者側の歴史の文脈の中で偽史が語られるという形であったが、本作では現実世界を起点として、GOSICKの世界史を描くことに成功していると言えるだろう。

 その過程でヴィクトリカたちのいる学園とはなんぞや、である。いわゆる七不思議ではないが、学園に謎はつきものというオーソドックスな展開を巻き込みながら、学園そのものを描写しつつさらに謎に包まれているヴィクトリカとは何者なのか、についても少しだけ踏み込んでいるシーンがある。詳しく書かれているわけではないし、この巻の謎解きそのものには関係ないのだが、シリーズが進む中で少しずつヴィクトリカの仮面がはがされているような気はしないでもない。もっとも、「退屈だけが友人だ」という彼女らしさも当然生きていて、全ての謎が解明される必要は必ずしもないんだろうな、と感じるが。麗しの美女(というか美少女だが)に謎は必要条件である。

 今までなんとなく読み流してきたのでシリーズのレビューを書くのは今回が初めてになるが、ちょっとずつミステリとしてもストーリーとしても面白くなっている印象を受けた。アニメも始まって毎回見ているが、同じようなことを感じる。だから今までは少し物足りないと思った人でも、読む価値はあるんじゃないかな、というのが素直な感想である。ヴィクトリカかわいいよヴィクトリカ・・・はさておき、彼女が自ら謎に挑むのは珍しいかもしれない、そういえば。
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著者:有川浩
出版:角川書店(2007)、角川文庫(2010)


 文庫版帯には「男前な彼女たちの制服ラブコメシリーズ第一弾!!」とあるが、本当にラブコメだらけの(全ててはないが)本作である。たぶん第二弾は『ラブコメ今昔』であろう。
 本作は自衛隊シリーズの番外編的部分に位置づけられる短編集で、あの話の続編もあれば、独立した自衛隊話もアリ、ということになっている。有川浩らしい情熱的でもあり、シリアスな展開もありつつも、基本的には堅い方向には流れないことが功を奏している作品群である。
 文章がめちゃくちゃいいわけではないが、そのあたりのバランス感覚は作家として素晴らしいと思っている。独自の路線を貫くことで納得させられる部分は多い。日本においてだからこそ、成立している部分もあるかもしれないが。

 本作は6編収められていて、「ロールアウト」だけはやや色が違うが、他5編の大きな要素は実にシンプルだ。つまり、自衛隊にとって恋をすること(結婚も含めて)とはいったい何なのか、ということである。『塩の街』以降の自衛隊シリーズではそれぞれにある事件を描きつつ、その中で揺れ動く人間模様や恋愛感情について書ける範囲で書いてきた、と思ってる。
 ただそこでは恋愛感情は当然ストーリーを際だたせる要素でしかなかった。だからかどうかは分からないが、恋愛がメインに据えられている本作は番外編的位置づけとしてとらえられるだろうし、ある意味有川浩が書きたくてどうしようもなかったことなのかもしれない。彼女の小説の中でだだ甘でベタベタな恋愛、というのは通例であるので。

 色が違うと書いた「ロールアウト」も、自衛隊という男組織の中で女性がどう振る舞っているのか、どう振る舞えないのか、について書いた話であるから、これも長編で細かく書けなかったことには変わりない。女性目線というものを男社会に食い込ませるのがいかに難しいか、というのが「ロールアウト」のテーマで、デリカシーの問題がいかに問題にならないか、が面白くもあるが切実に描写されている。
 いくら男女共同参画だという文言があっても、自衛隊だけでなく多くの社会は男社会である。そういう意味では男性読者にはズバズバ突きつけられる女性の素の感情がこもっているのが「ロールアウト」の醍醐味。

 逆に「国防レンアイ」では素直になれない女性像として三池舞子という三曹が登場する。分かってもらえないつらさ、という意味では「ロールアウト」宮田絵里に通じるところもあって興味深い。男性社会である以上声に出すことが難しく感じる絵里と、自衛隊という特殊な職業上、外側からの不理解に苦しむ舞子。
 それは「ファイターパイロットの君」に出てくる『空の中』のヒロインでもあった光稀が自分の娘に対して持っている悩みとも通じるものがある。確かに自衛隊員というのは国家公務員とは言ってもただの役人ではないし、かと言って軍人というわけでもない、この国では特異中の特異の存在だ。
 
 そのせいか、多くの登場人物は不理解を当たり前のものとして受け入れているように描写されている。ただ、当たり前と言っても当然悩みはする。そういう人間らしさのリアルさが諸処に際だっていて、本作を通じて有川浩が埋もれた感情を代弁しているような、そんな気もした。

 「クジラの彼」と「有能な彼女」は『海の底』でも活躍した夏木と冬原の、それぞれの恋のお話。長編を読んでいると意外な本音が見えてきたりで面白いが、「クジラの彼」はこれもまた不理解という観念に関係するお話でもあり、また本作の中で一番笑える話でもある。彼女の書く人間像がきわめて等身大であるので、ああいうアホなヤツもいるよなあ、と変に共感させられるのかもしれないが。「有能な彼女」では成長した望も登場、そしてその望みに対して夏木は・・・というお話。

 「脱柵エレジー」という短編が、自衛隊の実情と現実、について一番リアルに書かれているように思う。この短編は特定の個人に焦点をあてるというよりは、自衛隊の存在や規律、つまり”自衛隊なるもの”の中において人がどういう行動様式をとってしまうのか。またそれに対して周りはどう厳しく、どう寛容なのか。
 地方では就職先の一つとして自衛隊が存在しているという現状も一方ではあり、普通の人が自衛隊という組織にどう染まっていくのか、というのも一端ではあるがのぞき見ることが出来る。脱柵、という聞き慣れない単語にも、そのあたりが象徴されているようだ。こういうストーリーを書けると言うことは有川の取材力に依るところも大きいのだろう。

 文庫版解説では杉山松恋が有川浩の硬軟をうまく織り交ぜるスタイルについて解説している。意外とまともな、と言っては失礼だけど納得できる部分が多かったのでそちらもぜひ。

 たとえば古処誠二の書く戦争ものは硬をつきつめて人間を書くが、有川は軟の路線でどう等身大の人間像、特に自衛隊にまつわる人間像を書けるか、にこだわっているのだろうな。軟だからと言ってライトにすればいいわけでもなく、確かな取材とそれに裏付けされるリアルさ、そしていくら特異な職業とは言え誰もが人間であるという、当たり前の共感を改めて突きつけられる。
 そのことが楽しくてたまらないのが、本作である。
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著者:米澤穂信
出版:新潮文庫

 読み始めて1時間半くらいで一気読みした。米澤穂信はそこまで一気読みさせるような作家だとは思わなかったが、本の中で流れる時間がそれほど長くなく、結果が分かってしまえばシンプルな故に一気読みできたのかな、と思う。まあけど、いかにも米澤穂信らしいというか、人間のこわさ、不可解さを淡々と書き連ねることで妙なリアリティを醸し出す。パラレルワールドというのは基本的にありえない設定だし無茶苦茶だ、とも言えるんだけど、安易にハッピーエンドを要求しないで現実をつきつめていくスタイルは『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のあたりから見受けられる。

 主人公の嵯峨野リョウは東尋坊で転落死した中学時代の恋人を弔うために事故現場を訪れていた。花を携え、立ち去ろうとしたリョウは意識が混濁し、崖から落下する。だが目覚めると金沢の川沿いのベンチの上にいた。どうやって移動したのかは不可解なまま自宅に帰ると、見知らぬ女性がいた。嵯峨野サキと名乗る彼女は家の住人だと言うが、リョウには覚えがない。しかもサキもリョウのことを知らない。話をしていくとお互いの家に共通点があることも相違点があることも分かるが、そもそもなぜこういう状況に陥ったのかは謎のままだった。ふたりは謎を解くために一緒に行動するようになるが・・・。

 リョウのキャラがかなり地味というか、どちらかというと自己完結的なタイプに対して、サキはかなりノリがよく(キャピキャピとまではいかないが)見知らぬ訪問者であるリョウを積極的に受け入れ、謎に対して興味を示す。サキの貢献による分が大きいのかふたりの会話はかなりユーモラスでもある。リョウの重たい語りに対してサキの軽妙なしゃべりはアンバランスではあるが、言い換えれば均衡がとれているとも言え、本作を一気読みさせた原因にもなっていると思われる。これ自体も大きな伏線であるとは最初は全く気づかないわけだけれど。

 本作が上手いと思うのは小さな伏線をちりばめて物語を構成しながら、パラレルワールドという大きな物語を並行して描くこと。元のプロットは10代の米澤穂信が書いたというだけあって、主人公であるリョウの抱える悩み、拠り所、漠然とした不安は10代にしか出せない未熟さを内包する。タイトルである「ボトルネック」は何を意味するのか、ということに関して読み進めると面白いのだが、『犬はどこだ』がそうであったように楽な展開は用意されない。10代の主人公をここまで追い詰めるとかという展開もいとわない、その真意はどこにあるのだろう。など、いろいろな角度から読み進めることができるが、実際はそれほど長くないので一気読みだったりもする。

 10代のときにプロットを書いたせいか、ストーリーの尺自体は短くて、個人的には実験作なのかなと思う。古典部シリーズのようなキャラクター性も、『さよなら妖精』のようなとてつもない余韻も、『犬はどこだ』のような完成度の高いミステリー構造も本作にはない。あるのは10代の憂鬱と、金沢の風の冷たさ、かな。主な舞台が金沢なのはおそらく米澤穂信が金沢大学に通っていたからであろう、大学も近く兼六園や市庁舎などのある金沢の中心街を舞台としている。この春に旅行したときは香林坊まで行けばにぎやかになるが、兼六園方面はわりと静かだったのを覚えている。静けさと賑やかさが隣り合わせの街で、リョウがどのような心境で歩いたのか、彼の目には何が映ったのか。それらを追体験するのは彼の空虚さを追体験することにならない。その空虚さがどこから由来し、どこへ向かうのか。見届けるのは楽じゃない。

 比べてみれば『さよなら妖精』や『犬はどこだ』のほうがよほどカタルシスがあった。小説としての完成度が高く、それ故にラストシーンが衝撃的だったからである。本作はそういう意味では特別優れた小説だとは思わない。ただ、圧倒的な共感力はあると思う。何度も書いたが10代の憂鬱というものは10代を経験した人なら誰しもが経験することであり、今この瞬間にも様々な憂鬱に直面している10代はありふれているだろう。青春と称されるほど輝かしい時期でもあり、同時にどうしようもないほどの憂鬱を抱える時期でもある。本作はそれらをパラレルワールド構成という一つのアイデアで構成しようとした、それだけと言えばそれだけの小説である。米澤穂信という名前がなかったら見向きもされないかもしれないが、読後に思うことは間違いなく本作は米澤穂信の小説だということだ。何か日本語がおかしい気もするが、米澤穂信の小説をずっと読み続けている身からすれば、終盤の展開はさすがと言いたくなる。

 気楽に読める文章量であり、しかもサキのキャラクターが相まって一気読みさせられるけれど、安易に読むことはオススメしない。この本を読み終えたときが夜でなくて良かったと切実に思った。
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著者:円城塔
読了した版元:ハヤカワ文庫JA(2010年)


 予想はしてたが、本書は一読しただけでは何がなにやらサッパリ分からない。いや、それは少し言い過ぎか。第二部の展開で第一部で見かけた伏線が出てくるので、おやっ、と思って読み進めていたら終わっていたという感じである。サッパリ分からないは言いすぎだが、だからと言って何が分かったのだろうと思う。ある男と女の時空を超えたラブストーリーか、いやそれどんな時かけもしくはゼーガペインだよと言われそうでもあるが。ミステリーの要素はあるが、基本的にはSFだと言っていいと思う。純文学と言えなくもないが、まあけどジャンル不問で作家が円城塔だ、ということが一番大事かもしれないね。さらにまだ32歳というから驚き。執筆時はまだ20代か。

 あらすじはあったないようなもので、とりあえず「Event」という事態があり、その前後で世界は劇的に変わってしまったということ。イベント後の世界で謎を探るジェイムス、その彼が幼いころに交流のあったリタという少女、巨大知性体と呼ばれる人間とは別の存在、さらには超越知性体、そして外部からの訪問者。彼らはどういう世界に生きて、どこを目指しているのか。ジェイムスとリタは再び出会えるのだろうか?

 まず、構成が緻密である。展開無視なら何でも書けるだろうというツッコミもあるだろうが、一見繋がってないように見えてどこかは必ず繋がっているはずだ、と思わざるをえない展開なので、一連の流れというものは確かに存在している。だから前半であれ?と思って当然だろうが、それでも確実に読み進めて欲しい。どこかで前半部分の伏線やキーパーソンに気づくと、俄然本書が面白くなる。読み進めていけばいつか閾値を超えるはずなので、最初は辛抱強く読み進めて欲しいと思う。だから、こう感じさせるだけの緻密さは確実に存在する。

 内容の細かいところはハヤカワ文庫の解説で佐々木敦が書いているし、ここで書いてもネタバレになってつまらないので書かないでおく。ただ、話ごとにそれぞれ主人公と思われる人物がどんどん変わっていくこと(ジェイムスなど、同じ人物の再登場もあるが)でこれがますますストーリーの連関を複雑にしている。さらに鯰だとか大量のフロイトだとか、ブラックボックスだとかそういう謎めいた物質が出てくることでますます、である。何のために複雑にするのか、何のために奇怪な物質が存在するのか、そもそも語り手は存在するのか、このあたりに思いをめぐらせて読むことで、より深く読めるのではないかと思う。考えれば考えるほど分からなくなるという矛盾につきあたってしまう、とも言えるかもしれないが。多面的、また多重的な読み込みが可能なのも本作の醍醐味であろうし、だから表象が無駄というわけではなく、表象だけでも面白さはある。たとえば「o1:Bullet」はこれだけで何かの一顛末ということで完結しているし、「01:Yedo」は文字通りエドと呼ばれた時代の、その街の一風景だ、と言うことは可能である。

(表面的な構成以上のもの、に対する言及という意味で、ここからはいくらかのネタバレを含みます)
 このことによって何が示されるのだろう。多くの章はそれ自体が完結しているものと言っていいと思う。だが、完結した章をつなぎ合わせても、長編として、一つの小説としては何一つとして完結しているとは言い難い。「エピローグ」は無理矢理あることを終わらせているにすぎないと思う。であるならば、そもそも本作は小説なのかという疑問にぶちあたる。何らかのストーリー、物語性のある文章には違いないが、小説というフォーマットとして本作を扱えるのかということ。物語性があるという意味で広義では扱えるだろうが、文章を並べるだけで小説と言えるのかという意味では狭義に本作を小説ととらえられないのではないか、という疑問である。ひねくれているかもしれないが。

 ただこうした疑問を持つことで、本作を別の言葉で再定義しようと考えた。本作は、誰かの見ている「夢」ではないだろうか。多くの人が眠っているときに見る、「夢(Dream)」である。

 本作の途切れつつも不思議と繋がっている世界は、いくつかの分散した夢の繋がりなのではないかと考えた。夢は一つ一つは中途半端であれ完結するが、いくつか見た夢が綺麗に繋がっているわけではない。だが、繋がりがないわけでもなく、ある夢が次の夢に部分的に引き継がれることもある。だが総体として見たときに、一晩に見た夢は不完全な物語でしかない。だけど予想もつかない展開や、意外な人物の登場は、それだけで嬉しくもあり、場合によっては悪夢でもあるだろう。「Self Reference Engine」という夢を見終えた読者の、”寝起き”の実感はどこにあるのだろう。おそらくそれは、人によって全く異なるベクトルを向いているんだろうけれど。

 円城塔は自然科学でいうところの複雑系に関わっていたようなのだが、夢という系も複雑系と言えなくもないだろう。本作を複雑系の小説というよりは、もう夢だろう、と言ってしまったほうが分かりやすくていいんじゃないかと考えただけで、それ以上でも以下でもありません。あれやこれや考えながらも、意外と本質がシンプルかもしれないという気づきがあったりして、頭をぐるぐるとめぐらせながら読める楽しい小説でした。
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著者:有川浩
読了した版元:角川文庫(2010年)


 今をときめく作家のひとりになった有川浩のデビュー作が、本作『塩の街』である。電撃小説大賞を受賞したこともあり、当時はライトノベル界でにぎわっていたのを覚えている。何故か当時は買わなかったため、時間が経って入手困難になり、一度加筆されて単行本さえ、さらに角川から再文庫化されてようやく6年越しに読むことになった。加筆修正版とは言え、当時読まなかったことを激しく後悔した。
 有川浩の作家としてというより、ストーリーテラーとしての魅力が十分につまっている。謎めいているが青くさくかっこいい大人、非現実的な事件を経て成長していく主人公、絶対的に加わる恋愛の要素もしっかり本作に表れている。『図書館戦争』シリーズで一気に有名になったが、本作から始まる自衛隊三部作ももっと読まれて欲しい、と改めて思わせられる。

 日本のある平日、突如として飛来した隕石のばらまいた塩化ナトリウムにより、関東圏の人口が1/3に減ってしまった。その後日本各地、また世界で同様の現象が観測され、”塩害”と呼ばれる事態が世界を襲っていた。日本では首都圏を直撃したこともあり一般市民をはじめ政府高官や国会議員も被害に遭い、政府機能が壊滅状態に。たまたま熱を出して寝込んでいた真奈は被害を免れたが両親は帰って来ず、悪化する治安の中、真奈は自宅を脱出、たまたま遭遇した元自衛隊員の秋庭の家に転がり込むことになった。ふたりで素朴ながらも平穏な生活を始めたが、ある日入江と名乗る秋庭の知り合いが現れてから、事態が動き出す。

 『空の中』『海の底』を先に読んで思う本作の特徴は、起承転結がはっきりしていて、そのバランスがいい。おそらく公募を狙ったために限られた枚数の中で何ができるか、を考えた上での構成なのだと思う。逆に言えば、物足りないと感じる部分はあるものも、『空の中』や『海の底』に比べれば登場人物を限定的にしていることで補っている。
 秋庭と入江のキャラクターがかなり立っているので(このあたりはいかにもライトノベル的なノリであるし)2人がストーリーを勝手に引っ張ってくれているという印象もあって、後半の展開は細かいところ以外は作家も非常に書きやすかったのではないかと思ってしまうほどだ。

 本作の核心は、一見セカイ系ととられてもおかしくないのかもしれないが、セカイ系ほどエモーショナルで深い(かつ脆い)二者の繋がりがあるわけではなく、ストーリー構成は映画のアルマゲドンのイメージに近い。男が女の前で、命を賭して世界を救ってみせる、そういう映画の予告編でいかにも誇大広告を打たれそうなテーマを持ってきてはいるが、そこが重点かと言えばそうではない。本作のストーリーはあくまで本作の要素の一つでしかない。
 自衛隊三部作に共通する特徴でもあるが、非現実な事態はあくまで設定で、その中で人間のどろどろした部分(本作では序盤部分で顕著)や逆に追い込まれたときの人間の底力や優しさというものを書こう、という意志が伝わってくる。

 本作では主人公である高校生の真奈が思わぬことで大人の事情に遭遇し、もがき苦しみながらもまっすぐな気持ちで様々な事情に抵抗していく。純真さだけではだめ、だからと言って自分を偽りたくない、それでも絶対にどうにかしないと世界は救えないかも知れない。
 複雑に揺れ動く気持ち、そこで芽生えるもの、気づくもの、世界の危機はひとりの女子高生から何を奪い、何を与えるのか。失って、絶望して、安心して、また失って。速い展開で進む事態に対して、真奈というひとりの少女の心の動き、その過程は等身大で、丁寧に書かれている。
 ストーリーそのもののリアルさや切実さは詳しく語られないものも、一少女の目線は限りなくリアルだ。

 ひとりの人間が観測できる世界は当然ながら実際の世界に比べればはるかに小さく、だけど日常というものは誰にとってもかけがえのないものである。秋庭にしても、入江にしてもそれは同じ。
 大人は大人の立場で動かなければならないが、志が空っぽなわけでもない。誰だって、悩みもがきながら生きている。それは現実でもそうたいして変わらなくて、事態が事態だからこそ表面化しているだけのことなのだろう。読んでいて手触りで得られる感覚が身近なものであり、だけど平穏な日常で生きる限りでは気づかないことでもあったりする。
 小説だけでなく音楽でも絵でも何にでも共通することのようにも思うが、創作によって非日常性を表現することは、それだけで受け手に何かをもたらしている。それが薄っぺらいかそうじゃないかは、表現者の技量によるだろうけどね。

 2007年にハードカバー版で追加された四つの掌編も味わい深い。
 ここ最近ライトノベル原作のアニメが増え、一方でライトノベルレーベル以外でも出版するライトノベル作家も増えてきた。有川浩はその両方に当たる存在である。彼女がこれから表現の手段でどういう方向を目指すのか、また中身を、有川浩らしさというものをどう位置づけていくのか、その原点がここにあるのは間違いない。
 ここ最近は驚異的なペースで小説を発表していて、それらを読むのが楽しみである。
 が、個人的な事情として大体は財布と相談して文庫化されるまで待つことになるわけだが。
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 年末本「アヒルと鴨のコインロッカー」読了。俺の初読時のレビューを見るとさらっとしか書いていないが、結構これはこたえるぞ。中身も中身で、なかなかさらっと書き上げているのがまた恐ろしい。

 重力ピエロのなごりのようなところがいくつか。遺伝子にしても、因果応報もピエロにも通じてくるんじゃねーかな。河崎はピエロの春君とは対称な人間だしな。そしてピエロ以上に切ない系の物語。
 ジェットコースターではないんだけど、いい意味で映画を見ているような感じ。会話も面白いし、テンポがいい。何より惹きつけてやまない展開がたまらなくて、読後はしばし二の句が継げなくなる。文字通りディープインパクト。

 なんだろうね、言うとすれば大いなる想い出の物語。それの最後のほうに、椎名がひょっこり現れただけ。だけど、椎名がいないとこの物語は完成しない。そこがまた大きなポイントになっている。
 人と人との出会いや過ごした時間がどれだけ大きいのか。出会ったらいつかは分かれてしまうのが宿命。本作の人たちの生き方はあまりにも個性的で、訴えるものがあって、残したものがある。誰だって、人生に達観できるほど強くない。強がっているようでも、完璧な人間なんていない。だからこそ、人と人との出会いがもたらすもの、時間が経つことによって得られるものは、かけがえのないものだ、と。
 解説の言葉を借りるなら、それぞれの人生が交差することでもたらせらた奇跡か。あと、ドルジがブータン人だからこそなし得た物語だ。宗教や文化、言葉の違い。影響を受けやすいという彼が河崎や琴美と過ごした日々。だから、日本人が受け取るものとドルジが受け取るものは全く違う。

 本作が何故爽快な読後感を残すかというのも、ドルジが関与しているのが大きいのだろう。ドルジだから、としか言えない。ブータン人だから、としか。
 まあ、大事なことをさらっと言ってしまうスタンスはピエロの春君に通じてくることでもあるんだけどね。春君と河崎は馬が合わないが、ドルジとはものすごく合いそうな気がする。
 全体的に、どの伊坂作品よりも優しさを感じる。文体のせいもあるだろうが、登場人物達のおかげでもあるだろう。彼らとの出会いに、読者も思わず感謝したくなる。素敵な物語をありがとう、ってね。

 宗教という面では、この結末には無常感も漂う。まあ、だからこそ、生きる事って素晴らしいよね。細かいことを気にしないで、どうせならポジティヴに生きてやろうじゃん。そうじゃなきゃ、前には進めない。
 年末に本当にいいものを読めた。伊坂幸太郎にあふれんばかりの感謝をしたい。伊坂のベストだよな、これは。
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