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2021年10月18日

学習と飛躍 ――『ハイキュー!! TO THE TOP』(2020年)

第1話 「自己紹介」
宮野真守
2020-01-12


 前回までで春高予選が終わり、事前の合宿や練習試合などを挟んで春高本戦に突入していくハイキュー4期。25話あるが、ほとんど一気に見てしまえるくらい今回もめちゃくちゃ面白かった。長いこと見続けているとキャラクターの成長が端々に垣間見えて面白いが、4期でもそういった要素は顕著に表れている。

 春高本戦は9話あたりから始まるので、それまでは本戦前の12月の過ごし方が焦点となる。全日本ユースの合宿に召集される影山と、白鳥沢での合宿になぜか勝手に参加する日向という対照的な時間の使い方にはさすがに笑ってしまったが、この対照的な時間の使い方が実に面白いのだ。日向は勝手に参加した(召集されてないのに突撃した)のでもちろん練習には参加させてもらえない。「ボール拾いなめんなよ」という烏野の監督からの助言を受けて徹底的にボール拾いとその他もろもろ(洗濯、掃除、モップがけ等)に取り組むのだが、この姿勢が面白かった。

 影山もそうだが、1年生でありながらレギュラーとしてチームを支えるスーパー1年生コンビの二人は、しかしながらまだ1年生なのである。才能は疑いようがないが、同じくらい粗さもある。技術的な粗さ、精神的な粗さいずれも持つ二人はそれに自覚があったりなかったり。逆に言うと、スーパーな才能を伸ばすだけの伸びしろがまだまだあるということだ。だから影山も日向も、その伸びしろにチャレンジする12月を過ごす。

 そうした12月の「学習」を経て、1月の春高本戦での「飛躍」へ。クライマックスとなる優勝候補の稲荷崎戦は非常に面白い。白鳥沢との県大会決勝は文字通りコンセプトの戦い、いわば異なる戦術のぶつかり合いだったが、稲荷崎戦はもっと具体的な才能と才能のバトルであり、組織と組織のバトルとなっている。サブメンバー含めて層の厚い稲荷崎に対いて、個々の能力を絶妙に組み合わせることで一戦一戦を乗り越えてきた烏野。実力的には明らかに劣る中、いかに稲荷崎を攻略していくのか。

 ここで先ほどの学習が生きてくる。学習は何も12月だけでない。影山も日向も、試合の中でさらに学習していくのだ。相手の出方に応じて戦術を組み合わせることで勝ってきた烏野の組織としての持ち味が、影山と日向の学習によってさらに生きていく。1-1で迎えた3セット目をとれたのは、間違いなく前の2セットの学習があったからだ。

 例によってフルセットにもつれる激戦だが、バレーボールの面白さである攻守の駆け引きは最後の最後まで息を吞む。3回戦の音駒の様子も途中で映されるようにまだまだ強い敵が出てくるはずで、まだ見ぬ5期を今から楽しみにしていたい。

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2021年09月29日

圧倒的な個の力に抗する組織の連動性とその魅力 ――『ハイキュー!! 烏野高校 VS 白鳥沢学園高校』(2016年)

ごあいさつ
村瀬歩
2016-10-09


 前回に引き続きAbemaの一挙放送を利用してハイキューの3期を視聴した。2回くらいに分けてみようと思ったが、1.3倍速で見ると3時間くらいで最後まで一気に完走できたのでこれはこれでよかったかもしれない。前回の感想はこちらからどうぞ。



 アニメ2期終了から半年後に放映というスケジュールのタイトさゆえか、春高予選決勝戦となる白鳥沢高校戦のみを10話費やして描くという、チャレンジングではあるがシンプルな構成は面白かった。1クール12話前後を費やすアニメの世界で10話に収めた事情は詳しく知らないし、フルセットにもつれた試合の中で第3セットは完全に省略されているのもやや驚いたが(原作未読のため照合ができず)、とはいえ3期の狙いである「コンセプトの戦い」が一貫した10話分だったなと感じる。良くも悪くも両チームのコンセプトの違いだけを徹底的に表現したシリーズだったからだ。

 良い点は現代バレーボールの面白さを青葉城西戦と違う形で表現したことだ。白鳥沢は分かりやすいくらいに個が強い。牛島を筆頭にしながら、かつ牛島だけではないチームを作り上げているからこそ隙がない。牛島という圧倒的な攻撃力があるからこそ、覚のような個性的な選手が生きる道がある。烏野のようなチームとしての連動性には欠けるものの、守備に大きな隙がなく、かつ攻撃では超高校級の強さを見せることによって常にリードしてゲームを進めるのが白鳥沢の強さとして描かれている。準決勝までは1セットも落とさず、決勝の烏野戦でも1セット目は余裕で制していた。

 結果的に、烏野の戦略としてはいかに組織として白鳥沢の攻撃を打開するかという発想になってくる。ディフェンスにおいては強力な牛島のスパイクをいかに防ぐか、攻撃においては覚のようなギャンブル的にジャンプしてブロックを決めてくる選手をいかに攻略するか。もちろん二人だけではないということもゲームが進むにつれて見えてくるわけで、バレーボールはベンチを含めたトータルな選手のコーディネートが重要なスポーツだということも改めて実感させられた。

 攻撃も守備も、組織でやる以上全員のスタミナが疲弊していく。準決勝までは3セットマッチだったため、未知の4セット、5セットをいかにして取っていくのかというのも見どころとなっていた。10話で1試合という、シンプルで攻めた構成だからこそ味わえる、現代スポーツアニメとしては珠玉の作品となっている。

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2021年09月20日

チームとして強くなる、そのためになすべきことは ――『ハイキュー!! セカンドシーズン』(2015年)






 Abemaで少し前からハイキュー!!シリーズを最初から順番に一挙放送していることに気づいたので、1期の曖昧な記憶を掘り起こしながら(1期だけ当時リアタイした)2週間にわたって2期25話を見た。これはなんというか、端的に言ってめちゃくちゃ面白い。その理由はいくつかあるが、バレー経験者として見る時にこのアニメの面白さを一番感じる。

 2期でのクライマックスとなる青葉城西戦が進行していく中で実際に言及されるが、戦術的に進化が進んだ(とりわけ男子の)現代バレーをアニメ(原作はマンガだが)で再現するとこういう風になるのか!! という驚きが多々ある。例えばスパイクを打つ方向や、誰が打つのか。あるいは状況に応じてフェイクとなるジャンパーが何人いるのか、その時の陣形はどうなっているのか・・・などなど、たった6人しかいないコートの中で目まぐるしく陣容が変わる様子がダイナミックに描写されている。

 そしてそれはもちろん相手のチームも同じである。将棋を指すかのように、互いに互いの手を読みあい、その先を行こうとする。レベルの高いゲームになってくればくるほど、パワーやアイデアだけではスコアを取れない。だから常に進化しなければ、戦術はすぐ相手に研究されて対策される。イタチごっこのように見えるが、それが結果としてハイレベルなバレーボールの実現につながるのが非常に面白いのだ。

 で、その超白熱する青葉城西戦に至るまでのチーム烏野が出来上がるプロセスが2期の前半の、主に東京合宿を舞台にしたエピソードで展開されていくのも面白い。アニメとして見る場合、試合が面白いのはもちろんだが、やはりその試合を構成するチームの形成されるプロセス、いわばチームビルディングの段階が2期前半で丁寧に描写されているのがよいなと感じた。(これも経験者目線かもしれない)

 白熱のゲームに至るまでの、地道な葛藤。あるいは、ゲームを続ける中での葛藤。サーブをどう打つか、レシーブをどう返すか。そういったディティールにしっかりとこだわるからこそバレーボールの醍醐味を描き出すことができ、またキャラクターそれぞれがしっかりと生きている。バレーは交代で選手が出入りすることが一般的なので、コートとベンチ併せて一つのチームとして戦う構図が本当にうまく表現できているなと感じたのだ。

 そうした様々なプロセスを経て強くなった烏野が白鳥沢にどう挑むのか。続く3期も楽しみだ。


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2019年11月07日

キャリアの浅さから生まれる悩みや挫折と、その越え方 ――社会人5年目の視点で『SHIROBAKO』1クール12話を振り返る



 4年前、まさに社会人一年目の時に『SHIROBAKO』関係の記事を書いたわけだが、個人的にもうすぐ30歳、社会人5年目で終わろうとするタイミング(最初にフルタイムワーカーになったのが2015年1月という半端だったため)で見ると発見が多くて面白かった。なので個人的に少しまとめてみたいと思い、今回のエントリーを書く。

 1クール目で書かれたのは、メインの筋は宮森あおいの奮闘の経験である。新人の制作進行(11話で短大卒であること、10話では「1年経ってないです」と他社のキャラに告白しており12話で95年に2歳ということは1993年生まれの放映開始2014年10月当時で21歳くらいと推定)として日々奮闘する。1話からそれはもうブラックな環境を匂わせながらではあるものの、やりたいことは何なのかを日々探し、社内社外のクリエイターたちとの間に日々もまれながらも同じ制作メンバーからの期待は厚く、着実に経験値を積み重ねる姿は当時同じく社会人1年目だった身からはかなり眩しく見えた。

 他方で社会人5年目、環境としては3つ目の場所になって、つまりこの『SHIROBAKO』の5人たちからはキャリアを積んだ身になってから見返してみると何が見えるだろうかと考えてみた。もう一つは、5年目になったいまだからこそまだまだ走りだした彼女たちから改めて教わることはないだろうかとも考えてみた。自分が新人だった時のことは、まあ当時の紙の日記を見れば一部は書いているかもしれないけれど、ふわっとしたこと以外はもうあまり覚えてない(思い出したくないとも言えるが)。だからフィクションを、かつて夢中になっていたコンテンツを改めて見返すことで見えてくるものがあれば面白いなと思ったのだ。実利的なことを言えば、今後の自分に何か生かせるかもしれないな、との打算も込みで。

 さて、いくつかポイントをピックアップすると、以下の通り。
・キャリアの浅さゆえに質とスピードの両立で悩む@絵麻(7,8話+12話)
・やりたいことで経験を積めない@みーちゃん(9,10話)
・初めての最終回担当を前にして原画の担当がなかなか見つからない@あおい(11,12話)


 絵麻とみーちゃんの悩みは非常に似ている。絵麻は高卒で就職したので3年目、みーちゃんは専門卒なので1年目と推定されるが、二人とも経験は浅いものの着実にキャリアを積み上げようとする過程にある。その段階ゆえの悩みだということは、誰もが仕事をする上で必ずぶち当たる悩みであり(だから絵麻は同僚の井口に相談をする)やがて越えるべき悩みであるということでもある。

 この越え方が、絵麻のように相談して解決するようなメンタルやマインドの問題であることもあれば、みーちゃんのように環境を大きく変える必要があるかに分かれているが、悩みをどう越えるかが一つの手段である以上唯一の正解はない。ただ、相談することは常に糸口を見つけるためのヒントになる。みーちゃんは同僚ではなく、かつての仲間たちに相談を持ち掛ける。

 その10話。この中で久しぶりに5人が集結し、それぞれの仕事の話で盛り上がりを見せる中(メインはみーちゃんの転職相談)であおいが発するコメントがシンプルでクリティカルだと感じた。

あおい「つまってたその絵コンテが進みだしたのは、どこにたどりつきたいかがはっきりしたからで、そのために何をやればいいのかが見えたんだって」
みーちゃん「社長にも言われました。目標があるんなら、そのために何をしたらいいのか、一度しっかり考えてみたらって」



 このやりとりのあと、みーちゃんは転職を決意する。次の場所が決まったわけでもない中転職するのはかなりリスキーではあるが、やりたいことをやるための越え方としては無難なやり方だ。経験の浅い中での転職はギャンブルになりがちだが、とはいえ同じところにずっと居続けるのも同じくらいギャンブルだ。結果的にみーちゃんは前者を選んだ。

 それと、どこにたどりつきたいのかは2クール目以降にはあおいにも直接突き刺さるテーゼである。その中であおいは過去のムサニの作品を知ったり、ビッグタイトルを完結させたあとに未来のことを想像したりもする。これはつまり、自分が「何をしたいのか」を知るために「実際どうすればいいのか」をより具体化した形になるだろうなと思う。

 少しこれまでの筋とはそれるが、11話で「トライ&エラーって言うけど日々トライ&トラブル」とあおいに向けて語る矢野さんの気持ちもいまなら少しわかる。それは4年前には全然わからなかったことでもある。自分ひとりで仕事をするのでもなければ、自分ひとりで生きているわけでもない。生きていくわけでもない。自分が何をしたいかと同じくらい、誰のために生きるのかとか、ワークライフバランスと言っていいのかはわからないけれど、プライベートな部分も含めて仕事を位置づけるということが、20代のころより30代のころの方がきっと重みを増すのだろう。

 どこにたどりつきたいのかもまた、常に一定ではない。キャリアを積む中で微修正していくものだろうと思う。経験の浅い人間と、そこそこ積んだ人間とでは、目指すべき先の視界そのものが違ってくるからだ。視界が広く、大きくなると逆に迷いや戸惑いも生まれるかもしれないが、だからこそ逆説的にゴールを見据えるのが大事なのだろう。あっちこっち行っても何も得られない。最短距離が正解かどうかは分からないが、さしあたりのゴールというかターゲット(目標)があったほうが日々の仕事の効率も上がるものだろう。

 先に見据えたターゲットに向かうためには、まだまだ目の前の現実の「越え方」を習得していく必要がある。その時その時でぶち当たるものを一つずつ越えていった先にあるものが何かは分からないが、走高跳のように一つずつ高さが上がっていくことを楽しめるような、そういう生き方でありたいなと、このアニメは、とりわけ宮森あおいはいつだって教えてくれる。


SHIROBAKO Blu-ray プレミアムBOX vol.1(初回仕様版)
木村珠莉
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-11-23


 4年前の記事を以下に。後編では「働く」の話をしているのがいまでは少し懐かしい。





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2017年12月14日

もがき苦しむ青春の輝き ――『月がきれい』(feel.制作、2017年)



 春クールの作品の中でも前評判はさほどでもなかったと思うが、オリジナルでこれだけ安定した良質なものを見せられると素直に拍手を送りたい気持ちになる。feel.は俺ガイル続を担当しているし、岸誠二は『暗殺教室』シリーズで中学生たちの青春を表現してきた。『暗殺教室』はかなり特殊な空間で、努力や友情がベースにあるいかにもジャンプ的な青春という感じではあったが、『月がきれい』では川越という明確な舞台を置いたうえでのリアルな中学生活を表現しきったところに新鮮味を覚えるし、1クールそつなくやりきったのはお見事。

 主人公は小説(純文学)、ヒロインは陸上部(短距離)というこれもはっきりとした属性を付与しながら、交わるようで交わらない二人がちょっとずつ仲をつめるまでのエピソードのにやにや感が最初からかなり冴えていた。その後、修学旅行をきっかけとして二人がぎこちないまま交際をスタートさせるのが意外と早く訪れたのには少し驚かされたが、そこからがこのアニメの本当の持ち味なのだと思わされた。つまり、恋愛の成就が物語のゴールなのではなくって、恋愛とか、部活とか、あるいは進路とか、そういった中学生活にありがちなことをすべて主役の二人に経験させたとき、いったいどのような困難や挫折があって、そしてその先に喜びがあるのだろうか、というところに丁寧に向き合っているのがこのアニメだと思う。

 だから、主役二人にだけ焦点を絞るのではなく、二人が置かれた空間や人間関係への目くばせが非常に細かい。家庭環境はかなり頻繁に描写されるし、いかに中学生が無力であるかということを小太郎も茜もそれぞれに思い知っていく。あるいはクラスメイトや部活仲間たちとの人間関係ではすでに成就した恋愛関係の描写もあれば片思いの描写もあり、後者は小太郎と茜の交際がスタートしたあとにも二人の関係をややぎくしゃくさせるような影響を持たせていく。明確な悪意を持ったキャラクターは少ないが、純粋であるがゆえに不器用で、ストレートにしか気持ちを表現できない。ということは、ただでさえぎこちない関係性を傷つけることは容易で、小太郎と茜はいかに自分たちが自由でないことを思い知っていくのだ。

 たとえば二人で会うということさえ難しいということ、お互いが好きな気持ちを持っているはずなのに、その気持ちがそれぞれのとってしまう行動と結びつかないこと。付き合い始めることによって互いに独占欲が生まれ、結果として他人に対する嫉妬心も増幅されていく。こういったいかにもありがちな心理的な動きを、顔を赤らめたり逆に複雑な表情をしたりといった細かな演出と、あるいは声を冷たくしたり弱くしたりといった声優たちの演技がうまくかみあっている。また、東京ドームシティのラクーアにみんなで遊びに行くエピソードや川越まつりに二人で出かけたはずなのに結果的に別行動をとってしまたりする流れとかは、二人だけの空間を守ることが中学生のカップルにはいかに難しいかがよくわかる。

 それでも二人は、いやだからこそ二人はちょっとずつお互いを傷つけながらも前へ進もうとする。その純粋さというか健気さというものの両方が炸裂する最終回は非常に素敵な幕切れだった。エンドロールはちょっとご都合主義かなという気もするが、適当なところで妥協するのではなく、自分の気持ちと向き合いつつ、同時に大事な人のことを思えること。これらの両立はいつだって難しい。難しいからこそ、汗だくになって走ってまで気持ちを届けようとするのだろう。思えば茜はずっと競技場で「走っ」ていたが、小説を書くか勉強するかくらいしか日常の動作がない小太郎の「走る」シーンはとても新鮮で、そしてめちゃくちゃエモかった。

 とても個人的な話をすると、中学時代は陸上部に所属しながらひたすら本を読んだり文章を書いたりということをやっていたので(そして部活内に気になる異性がいたりした)茜と小太郎それぞれのささいな言動がグサッと刺さって泣きたくなりました、はい。自分が中三だった当時の2004年はまわりがやっと携帯(もちろんフィーチャーフォン)を持ち始め、メールをしたり電話したりという営みを新鮮に楽しんでいた時代だった。俺はというとクラスの女子たち何人かとメールをしつつも主戦場はネットの掲示板やチャットだったなとなつかしく思う。

 あとネットで知り合った人とのメールやメッセンジャーのやりとりもよく繰り返した。ほんの数人ではあるが、その後大学生になり上京してから会うことのできた人たちもいる。もちろん茜と小太郎のように俺も不器用だったし、傷つけたり傷つけられたり、ということはよくあった。テキストだけのやりとりはなかなかに難しいが、テキストをどこへでも誰へでも届けられる、という面白さに興奮していた時代でもあった。

 しかし自分の経験を小説に書いて間接的に思いを伝えるというアプローチ、それも明らかに「なろう」でそれをやるか、っていうのはLINEやSNOWなどがバンバン出てくるこの作品の中でも一つ際立っている演出だった。でもそれは、いまどきの小説を書く中学生だからできるアプローチであるのが間違いないし、ろまん君はほんといいやつだな、という思いを強くしました、はい。あと東山奈央の主題歌と挿入歌めっちょよい・・・川嶋あいが関わっているのもなんかずるい。挿入歌のタイミング的には「fragile」が流れるところが一番いいなと思いました。あと東山さん演じる涼子先生もとても最高でした。美人であるがゆえに男子生徒から好かれ女子生徒から微妙な距離を、というところもとてもリアルでとてもよかったと思う。




TVアニメ「月がきれい」サウンドコレクション
伊賀拓郎/東山奈央
フライングドッグ
2017-07-05



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2017年04月03日

クーデリアとアトラと、そしてラフタとジュリエッタのために #g_tekketsu



 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』がついに最終回を迎えた。ギリギリの中で追ってくる敵を追い払いつつ、ビスケット以外は目立った死を出さなかった一期は最終話において地球で無事目的を果たす、という分かりやすいカタルシスに包まれていた。だが二期に入ってみるとどうだ。地球と火星のディスコミュニケーションによって無駄な戦争に参加させられたり、身内から裏切りが出たり、あるいはどこまでそもそも身内と呼べるのかというほど組織が大きくなってしまったり。急速に大きくなりすぎた組織は瓦解するのも早いが、二期の場合大きくなりすぎた鉄華団は、戦う相手もまた大きすぎる、という現状に向き合うしかなくなっていく。その最たる敵が、ラスタル率いるアリアンロッド艦隊だった、と見るべきだろう。

 本当に鉄華団が滅ぶしかなかったかは分からない。シノがあのときラスタルを仕留めていれば展開は違っただろう。逆に言うとあのときにラスタルを討てなかった時点で、圧倒的な戦力差の前には滅びの道しかない。シノとラスタルとの、あの一瞬の攻防が終わりの始まりだった。 そしてなにより、監督の長井とシリーズ構成の岡田が組んでいる以上、生やさしい展開など待ってはいない。待っているのは演繹的に導かれる残酷な現実だけだ。その意味では、ラスタルを敵に回してマクギリスと組んだ鉄華団に勝ち目など残っていない。イチかゼロかで言えば、ゼロなのだ。

 さらに言うと、二期は結局のところ政治的な内ゲバでしかなかった。革命は成らずとも、ギャラルホルンをはじめとする火星を統治する政治的な体制は変わっていく。50話のAパートとBパートの間でなにがあったか分からない。敵だったはずのクーデリアと相まみえるラスタルの笑みが意味するところは、平和的な政治闘争の一部分だろう。マクギリスによって艦隊が襲撃されたときも動かなかったラスタルの静の姿勢は、一人の政治家としての強みだと言える。個人的な野心に最後は迷走したマクギリスは、小物でしかなかった。そしてさっきも書いたように、小物と組むことを決めたオルガが舞台を去っていくのも、必然的な流れである。

 では二期にはそうした絶望しか見出せないのだろうか。新しいガンダムは多数登場するが、三日月の操るバルバトスの才能を超えるほどではなかった。その三日月も負傷してからは本領を発揮できないまま、最期を迎えてしまう。であるならば、二期のカタルシスはどこに見出せばいいのだろう。

 という感じでここまでが長い前置きで、ここからが本題。鉄華団もギャラルホルンもつまるところホモソーシャルだよなーと思っていたが、最後の最後にクーデリアとアトラの百合が完成して「二人の母」に見守られるアカツキ、という構図にホモソーシャル解体後の新しい世界観を見せてくれたなって思った。ホモソーシャル自体がどうこうではなく、その意味についてはたとえば岩川ありささんがブログでつづっているように、ホモソーシャルが生み出す希望を見出すこともできる。

婚ひ星(よばひぼし)― 地下室のアーカイブス(岩川ありさBLOG) 

 とはいえクーデリアやアトラ、そしてラフタやジュリエッタといった数々のヒロインたちは、その中では霞んでしまう存在だ。唯一ラフタだけはちょっと立ち位置が違っていて、彼女の場合はむしろ名瀬の作り出した女性のホモソーシャルコミュニティを象徴する存在でもある。だからこれらのヒロインの中で、彼女だけは性別役割分業を果たしてはいない。アキヒロに恋心を抱き、ちょっとした誘惑を繰り返しこそすれ、彼女は最期まで一個人として戦い、死んでいく。銃後ではなく、最前線で戦うラフタのその美貌と勇気に、多くの視聴者は目を奪われたことだろう。(とてもよかったです、はい)

 そう考えるとジュリエッタの立場もまた面白いものとして見えてくる。最前線に立つのは彼女も一緒だ。しかし、ラフタのナゼに対するそれと比較にならないほど、ラスタルに忠誠を誓うジュリエッタの場合は、むしろ個人を殺している。個人としてではなく、ラスタルの従者として、最前線に立つのだ。情けないお坊ちゃまであるイオクに対しては上から目線で退けつつ、自分がラスタルの最たる従者として、力を証明しようとする。言わば自己実現として、モビルスーツに乗るわけだ。

 50話で三日月とモビルスーツ越しで交わす会話のやりとりが印象的だ。合理的なジュリエッタは、負けるのが分かっていてもなお最期まで戦う三日月の心境が分からない。三日月もまた、頭ではなく体で動いていることをジュリエッタに理解されるとは思っていないだろう。二人ともそれぞれ、ラスタルのため、オルガのため、というところは共通している。ただ、生きているラスタルのために戦うジュリエッタと、死んでしまったオルガのために戦う三日月の間には、決定的な溝がある。三日月の忠誠は、この時点では個人的な欲望でしかない。ジュリエッタの持つ公共的な忠誠とは、次元が異なるのだ。

 反体制的でしかないテロリスト集団のような鉄華団は滅ぼされる敵であり、ラスタルをはじめとする側に理がある。マクギリスのやろうとしたことはある意味では正論だが、しかし政治学的に考えれば、統治の正統性を確保するための手段としてバエルを利用することが妥当かと問われると、やはりラスタルのほうに分がある。歴史は歴史でしかない。そして歴史には異なる「解釈」が存在する。歴史的産物には一定の客観的意味があるかもしれないが、ではそこに統治の正統性を見ていいかとなるとラスタルが語ったようにまた別の話になるだろう。時間を巻き戻せるのならば、マクギリスくんには正統性をめぐる政治学の議論であるとか、あるいは社会学の社会運動論やカルチュラル・スタディーズを勉強してほしいところだろう。(学んだところでラスタルの前には屈してしまうかもしれないが,もう少し善戦できたかもしれない)



社会学 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一
有斐閣
2007-11-21




 まあそれはそれとして、どれだけ物語的に悲しい結末であったとしても、無謀すぎる戦いが実ることを長井も岡田も望んではいないだろう。岡田には『シムーン』という前例もあるし、なにより個人の欲望よりも組織・集団としての目的を最後にもう一度重視したことに意味がある。これはある意味、オルガの不在によって再び強化されたものだ。オルガが死ぬ前にみんなを集めて伝えたメッセージが、オルガが死んだことによってより大きな意味を持つ。一度は組織を去ろうとしたザックがなぜ帰ってきたのかと考えると、組織に対する愛着を完全に失ったわけではなかったからだろう。ハーシュマンの三要素を借りるとザックは二期の間で組織に対する不満の発現、いったんの離脱、そして忠誠からの復帰までを全て見せてくれた。みんなのことを考えられる公共的な精神が、最後に彼ら彼女らを救うことになる。これは自分を殺してラスタルとアリアンロッドのために生きることを選択した、ジュリエッタとも重なる精神であり、思想である。

EMOTION the Best Simoun(シムーン) DVD-BOX
新野美知
バンダイビジュアル
2011-01-28




 最後にクーデリアとアトラについても触れよう。クーデリアも元々の野心だった(と思われる)政治家への転身を果たして、理想の実現に近づいている。自分のためじゃない、誰かのために生きることの尊さみたいなものを追求しようとしている。アトラは自らに宿った三日月の子どもを、育てている。これも誰かのために生きることの、一つの表れだ。そしてそばにはクーデリアがいる。最後の最後に、クーデリアとアトラの「百合」は完成するのだ。

 百合とは離して考えても、二人の母と一人の息子という家族像は、セブンスターズによる合議という貴族制(あるいは寡頭制)を廃止してラスタル閣下のもとで新しい世界へと(より民主的な形で)踏み出した世界に生きる一市民として、新しいイメージを提供しているように見える。とはいえラスタルは軍人出身だから文民統制ではないし、クーデリアとアトラも子育てを始めたばかりだ。この世界には今後再び様々なことが起こるだろう。そこを乗り越えられるかどうかは分からないが、次の世界へとステップを踏んでいることは確かだ。

 最終回を経てもなおプロセスの中にあるというのは政治闘争を描いたロボットものではある意味おなじみの展開ではある。だからこそ、クーデリアとアトラと彼女たちの息子や、もっとも悲しい結末を迎えたラフタ、あるいは最後まで自身の精神を貫徹したジュリエッタといった、全体から見るとマイノリティであったヒロインたちのことを静かに思いながら、この文章も幕を下ろしたいと思う。

 公共的な精神と新しい親密圏。死んでいった者たちのことを悼みつつ、それでもたどりついたこの結末を、肯定的にとらえられるように。

公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一
岩波書店
2000-05-19





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