Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

anime

第1話 「自己紹介」
宮野真守
2020-01-12


 前回までで春高予選が終わり、事前の合宿や練習試合などを挟んで春高本戦に突入していくハイキュー4期。25話あるが、ほとんど一気に見てしまえるくらい今回もめちゃくちゃ面白かった。長いこと見続けているとキャラクターの成長が端々に垣間見えて面白いが、4期でもそういった要素は顕著に表れている。

 春高本戦は9話あたりから始まるので、それまでは本戦前の12月の過ごし方が焦点となる。全日本ユースの合宿に召集される影山と、白鳥沢での合宿になぜか勝手に参加する日向という対照的な時間の使い方にはさすがに笑ってしまったが、この対照的な時間の使い方が実に面白いのだ。日向は勝手に参加した(召集されてないのに突撃した)のでもちろん練習には参加させてもらえない。「ボール拾いなめんなよ」という烏野の監督からの助言を受けて徹底的にボール拾いとその他もろもろ(洗濯、掃除、モップがけ等)に取り組むのだが、この姿勢が面白かった。

 影山もそうだが、1年生でありながらレギュラーとしてチームを支えるスーパー1年生コンビの二人は、しかしながらまだ1年生なのである。才能は疑いようがないが、同じくらい粗さもある。技術的な粗さ、精神的な粗さいずれも持つ二人はそれに自覚があったりなかったり。逆に言うと、スーパーな才能を伸ばすだけの伸びしろがまだまだあるということだ。だから影山も日向も、その伸びしろにチャレンジする12月を過ごす。

 そうした12月の「学習」を経て、1月の春高本戦での「飛躍」へ。クライマックスとなる優勝候補の稲荷崎戦は非常に面白い。白鳥沢との県大会決勝は文字通りコンセプトの戦い、いわば異なる戦術のぶつかり合いだったが、稲荷崎戦はもっと具体的な才能と才能のバトルであり、組織と組織のバトルとなっている。サブメンバー含めて層の厚い稲荷崎に対いて、個々の能力を絶妙に組み合わせることで一戦一戦を乗り越えてきた烏野。実力的には明らかに劣る中、いかに稲荷崎を攻略していくのか。

 ここで先ほどの学習が生きてくる。学習は何も12月だけでない。影山も日向も、試合の中でさらに学習していくのだ。相手の出方に応じて戦術を組み合わせることで勝ってきた烏野の組織としての持ち味が、影山と日向の学習によってさらに生きていく。1-1で迎えた3セット目をとれたのは、間違いなく前の2セットの学習があったからだ。

 例によってフルセットにもつれる激戦だが、バレーボールの面白さである攻守の駆け引きは最後の最後まで息を吞む。3回戦の音駒の様子も途中で映されるようにまだまだ強い敵が出てくるはずで、まだ見ぬ5期を今から楽しみにしていたい。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ごあいさつ
村瀬歩
2016-10-09


 前回に引き続きAbemaの一挙放送を利用してハイキューの3期を視聴した。2回くらいに分けてみようと思ったが、1.3倍速で見ると3時間くらいで最後まで一気に完走できたのでこれはこれでよかったかもしれない。前回の感想はこちらからどうぞ。



 アニメ2期終了から半年後に放映というスケジュールのタイトさゆえか、春高予選決勝戦となる白鳥沢高校戦のみを10話費やして描くという、チャレンジングではあるがシンプルな構成は面白かった。1クール12話前後を費やすアニメの世界で10話に収めた事情は詳しく知らないし、フルセットにもつれた試合の中で第3セットは完全に省略されているのもやや驚いたが(原作未読のため照合ができず)、とはいえ3期の狙いである「コンセプトの戦い」が一貫した10話分だったなと感じる。良くも悪くも両チームのコンセプトの違いだけを徹底的に表現したシリーズだったからだ。

 良い点は現代バレーボールの面白さを青葉城西戦と違う形で表現したことだ。白鳥沢は分かりやすいくらいに個が強い。牛島を筆頭にしながら、かつ牛島だけではないチームを作り上げているからこそ隙がない。牛島という圧倒的な攻撃力があるからこそ、覚のような個性的な選手が生きる道がある。烏野のようなチームとしての連動性には欠けるものの、守備に大きな隙がなく、かつ攻撃では超高校級の強さを見せることによって常にリードしてゲームを進めるのが白鳥沢の強さとして描かれている。準決勝までは1セットも落とさず、決勝の烏野戦でも1セット目は余裕で制していた。

 結果的に、烏野の戦略としてはいかに組織として白鳥沢の攻撃を打開するかという発想になってくる。ディフェンスにおいては強力な牛島のスパイクをいかに防ぐか、攻撃においては覚のようなギャンブル的にジャンプしてブロックを決めてくる選手をいかに攻略するか。もちろん二人だけではないということもゲームが進むにつれて見えてくるわけで、バレーボールはベンチを含めたトータルな選手のコーディネートが重要なスポーツだということも改めて実感させられた。

 攻撃も守備も、組織でやる以上全員のスタミナが疲弊していく。準決勝までは3セットマッチだったため、未知の4セット、5セットをいかにして取っていくのかというのも見どころとなっていた。10話で1試合という、シンプルで攻めた構成だからこそ味わえる、現代スポーツアニメとしては珠玉の作品となっている。
このエントリーをはてなブックマークに追加






 Abemaで少し前からハイキュー!!シリーズを最初から順番に一挙放送していることに気づいたので、1期の曖昧な記憶を掘り起こしながら(1期だけ当時リアタイした)2週間にわたって2期25話を見た。これはなんというか、端的に言ってめちゃくちゃ面白い。その理由はいくつかあるが、バレー経験者として見る時にこのアニメの面白さを一番感じる。

 2期でのクライマックスとなる青葉城西戦が進行していく中で実際に言及されるが、戦術的に進化が進んだ(とりわけ男子の)現代バレーをアニメ(原作はマンガだが)で再現するとこういう風になるのか!! という驚きが多々ある。例えばスパイクを打つ方向や、誰が打つのか。あるいは状況に応じてフェイクとなるジャンパーが何人いるのか、その時の陣形はどうなっているのか・・・などなど、たった6人しかいないコートの中で目まぐるしく陣容が変わる様子がダイナミックに描写されている。

 そしてそれはもちろん相手のチームも同じである。将棋を指すかのように、互いに互いの手を読みあい、その先を行こうとする。レベルの高いゲームになってくればくるほど、パワーやアイデアだけではスコアを取れない。だから常に進化しなければ、戦術はすぐ相手に研究されて対策される。イタチごっこのように見えるが、それが結果としてハイレベルなバレーボールの実現につながるのが非常に面白いのだ。

 で、その超白熱する青葉城西戦に至るまでのチーム烏野が出来上がるプロセスが2期の前半の、主に東京合宿を舞台にしたエピソードで展開されていくのも面白い。アニメとして見る場合、試合が面白いのはもちろんだが、やはりその試合を構成するチームの形成されるプロセス、いわばチームビルディングの段階が2期前半で丁寧に描写されているのがよいなと感じた。(これも経験者目線かもしれない)

 白熱のゲームに至るまでの、地道な葛藤。あるいは、ゲームを続ける中での葛藤。サーブをどう打つか、レシーブをどう返すか。そういったディティールにしっかりとこだわるからこそバレーボールの醍醐味を描き出すことができ、またキャラクターそれぞれがしっかりと生きている。バレーは交代で選手が出入りすることが一般的なので、コートとベンチ併せて一つのチームとして戦う構図が本当にうまく表現できているなと感じたのだ。

 そうした様々なプロセスを経て強くなった烏野が白鳥沢にどう挑むのか。続く3期も楽しみだ。
このエントリーをはてなブックマークに追加



 4年前、まさに社会人一年目の時に『SHIROBAKO』関係の記事を書いたわけだが、個人的にもうすぐ30歳、社会人5年目で終わろうとするタイミング(最初にフルタイムワーカーになったのが2015年1月という半端だったため)で見ると発見が多くて面白かった。なので個人的に少しまとめてみたいと思い、今回のエントリーを書く。

 1クール目で書かれたのは、メインの筋は宮森あおいの奮闘の経験である。新人の制作進行(11話で短大卒であること、10話では「1年経ってないです」と他社のキャラに告白しており12話で95年に2歳ということは1993年生まれの放映開始2014年10月当時で21歳くらいと推定)として日々奮闘する。1話からそれはもうブラックな環境を匂わせながらではあるものの、やりたいことは何なのかを日々探し、社内社外のクリエイターたちとの間に日々もまれながらも同じ制作メンバーからの期待は厚く、着実に経験値を積み重ねる姿は当時同じく社会人1年目だった身からはかなり眩しく見えた。

 他方で社会人5年目、環境としては3つ目の場所になって、つまりこの『SHIROBAKO』の5人たちからはキャリアを積んだ身になってから見返してみると何が見えるだろうかと考えてみた。もう一つは、5年目になったいまだからこそまだまだ走りだした彼女たちから改めて教わることはないだろうかとも考えてみた。自分が新人だった時のことは、まあ当時の紙の日記を見れば一部は書いているかもしれないけれど、ふわっとしたこと以外はもうあまり覚えてない(思い出したくないとも言えるが)。だからフィクションを、かつて夢中になっていたコンテンツを改めて見返すことで見えてくるものがあれば面白いなと思ったのだ。実利的なことを言えば、今後の自分に何か生かせるかもしれないな、との打算も込みで。

 さて、いくつかポイントをピックアップすると、以下の通り。
・キャリアの浅さゆえに質とスピードの両立で悩む@絵麻(7,8話+12話)
・やりたいことで経験を積めない@みーちゃん(9,10話)
・初めての最終回担当を前にして原画の担当がなかなか見つからない@あおい(11,12話)


 絵麻とみーちゃんの悩みは非常に似ている。絵麻は高卒で就職したので3年目、みーちゃんは専門卒なので1年目と推定されるが、二人とも経験は浅いものの着実にキャリアを積み上げようとする過程にある。その段階ゆえの悩みだということは、誰もが仕事をする上で必ずぶち当たる悩みであり(だから絵麻は同僚の井口に相談をする)やがて越えるべき悩みであるということでもある。

 この越え方が、絵麻のように相談して解決するようなメンタルやマインドの問題であることもあれば、みーちゃんのように環境を大きく変える必要があるかに分かれているが、悩みをどう越えるかが一つの手段である以上唯一の正解はない。ただ、相談することは常に糸口を見つけるためのヒントになる。みーちゃんは同僚ではなく、かつての仲間たちに相談を持ち掛ける。

 その10話。この中で久しぶりに5人が集結し、それぞれの仕事の話で盛り上がりを見せる中(メインはみーちゃんの転職相談)であおいが発するコメントがシンプルでクリティカルだと感じた。

あおい「つまってたその絵コンテが進みだしたのは、どこにたどりつきたいかがはっきりしたからで、そのために何をやればいいのかが見えたんだって」
みーちゃん「社長にも言われました。目標があるんなら、そのために何をしたらいいのか、一度しっかり考えてみたらって」



 このやりとりのあと、みーちゃんは転職を決意する。次の場所が決まったわけでもない中転職するのはかなりリスキーではあるが、やりたいことをやるための越え方としては無難なやり方だ。経験の浅い中での転職はギャンブルになりがちだが、とはいえ同じところにずっと居続けるのも同じくらいギャンブルだ。結果的にみーちゃんは前者を選んだ。

 それと、どこにたどりつきたいのかは2クール目以降にはあおいにも直接突き刺さるテーゼである。その中であおいは過去のムサニの作品を知ったり、ビッグタイトルを完結させたあとに未来のことを想像したりもする。これはつまり、自分が「何をしたいのか」を知るために「実際どうすればいいのか」をより具体化した形になるだろうなと思う。

 少しこれまでの筋とはそれるが、11話で「トライ&エラーって言うけど日々トライ&トラブル」とあおいに向けて語る矢野さんの気持ちもいまなら少しわかる。それは4年前には全然わからなかったことでもある。自分ひとりで仕事をするのでもなければ、自分ひとりで生きているわけでもない。生きていくわけでもない。自分が何をしたいかと同じくらい、誰のために生きるのかとか、ワークライフバランスと言っていいのかはわからないけれど、プライベートな部分も含めて仕事を位置づけるということが、20代のころより30代のころの方がきっと重みを増すのだろう。

 どこにたどりつきたいのかもまた、常に一定ではない。キャリアを積む中で微修正していくものだろうと思う。経験の浅い人間と、そこそこ積んだ人間とでは、目指すべき先の視界そのものが違ってくるからだ。視界が広く、大きくなると逆に迷いや戸惑いも生まれるかもしれないが、だからこそ逆説的にゴールを見据えるのが大事なのだろう。あっちこっち行っても何も得られない。最短距離が正解かどうかは分からないが、さしあたりのゴールというかターゲット(目標)があったほうが日々の仕事の効率も上がるものだろう。

 先に見据えたターゲットに向かうためには、まだまだ目の前の現実の「越え方」を習得していく必要がある。その時その時でぶち当たるものを一つずつ越えていった先にあるものが何かは分からないが、走高跳のように一つずつ高さが上がっていくことを楽しめるような、そういう生き方でありたいなと、このアニメは、とりわけ宮森あおいはいつだって教えてくれる。


SHIROBAKO Blu-ray プレミアムBOX vol.1(初回仕様版)
木村珠莉
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2016-11-23


 4年前の記事を以下に。後編では「働く」の話をしているのがいまでは少し懐かしい。



このエントリーをはてなブックマークに追加



 春クールの作品の中でも前評判はさほどでもなかったと思うが、オリジナルでこれだけ安定した良質なものを見せられると素直に拍手を送りたい気持ちになる。feel.は俺ガイル続を担当しているし、岸誠二は『暗殺教室』シリーズで中学生たちの青春を表現してきた。『暗殺教室』はかなり特殊な空間で、努力や友情がベースにあるいかにもジャンプ的な青春という感じではあったが、『月がきれい』では川越という明確な舞台を置いたうえでのリアルな中学生活を表現しきったところに新鮮味を覚えるし、1クールそつなくやりきったのはお見事。

 主人公は小説(純文学)、ヒロインは陸上部(短距離)というこれもはっきりとした属性を付与しながら、交わるようで交わらない二人がちょっとずつ仲をつめるまでのエピソードのにやにや感が最初からかなり冴えていた。その後、修学旅行をきっかけとして二人がぎこちないまま交際をスタートさせるのが意外と早く訪れたのには少し驚かされたが、そこからがこのアニメの本当の持ち味なのだと思わされた。つまり、恋愛の成就が物語のゴールなのではなくって、恋愛とか、部活とか、あるいは進路とか、そういった中学生活にありがちなことをすべて主役の二人に経験させたとき、いったいどのような困難や挫折があって、そしてその先に喜びがあるのだろうか、というところに丁寧に向き合っているのがこのアニメだと思う。

 だから、主役二人にだけ焦点を絞るのではなく、二人が置かれた空間や人間関係への目くばせが非常に細かい。家庭環境はかなり頻繁に描写されるし、いかに中学生が無力であるかということを小太郎も茜もそれぞれに思い知っていく。あるいはクラスメイトや部活仲間たちとの人間関係ではすでに成就した恋愛関係の描写もあれば片思いの描写もあり、後者は小太郎と茜の交際がスタートしたあとにも二人の関係をややぎくしゃくさせるような影響を持たせていく。明確な悪意を持ったキャラクターは少ないが、純粋であるがゆえに不器用で、ストレートにしか気持ちを表現できない。ということは、ただでさえぎこちない関係性を傷つけることは容易で、小太郎と茜はいかに自分たちが自由でないことを思い知っていくのだ。

 たとえば二人で会うということさえ難しいということ、お互いが好きな気持ちを持っているはずなのに、その気持ちがそれぞれのとってしまう行動と結びつかないこと。付き合い始めることによって互いに独占欲が生まれ、結果として他人に対する嫉妬心も増幅されていく。こういったいかにもありがちな心理的な動きを、顔を赤らめたり逆に複雑な表情をしたりといった細かな演出と、あるいは声を冷たくしたり弱くしたりといった声優たちの演技がうまくかみあっている。また、東京ドームシティのラクーアにみんなで遊びに行くエピソードや川越まつりに二人で出かけたはずなのに結果的に別行動をとってしまたりする流れとかは、二人だけの空間を守ることが中学生のカップルにはいかに難しいかがよくわかる。

 それでも二人は、いやだからこそ二人はちょっとずつお互いを傷つけながらも前へ進もうとする。その純粋さというか健気さというものの両方が炸裂する最終回は非常に素敵な幕切れだった。エンドロールはちょっとご都合主義かなという気もするが、適当なところで妥協するのではなく、自分の気持ちと向き合いつつ、同時に大事な人のことを思えること。これらの両立はいつだって難しい。難しいからこそ、汗だくになって走ってまで気持ちを届けようとするのだろう。思えば茜はずっと競技場で「走っ」ていたが、小説を書くか勉強するかくらいしか日常の動作がない小太郎の「走る」シーンはとても新鮮で、そしてめちゃくちゃエモかった。

 とても個人的な話をすると、中学時代は陸上部に所属しながらひたすら本を読んだり文章を書いたりということをやっていたので(そして部活内に気になる異性がいたりした)茜と小太郎それぞれのささいな言動がグサッと刺さって泣きたくなりました、はい。自分が中三だった当時の2004年はまわりがやっと携帯(もちろんフィーチャーフォン)を持ち始め、メールをしたり電話したりという営みを新鮮に楽しんでいた時代だった。俺はというとクラスの女子たち何人かとメールをしつつも主戦場はネットの掲示板やチャットだったなとなつかしく思う。

 あとネットで知り合った人とのメールやメッセンジャーのやりとりもよく繰り返した。ほんの数人ではあるが、その後大学生になり上京してから会うことのできた人たちもいる。もちろん茜と小太郎のように俺も不器用だったし、傷つけたり傷つけられたり、ということはよくあった。テキストだけのやりとりはなかなかに難しいが、テキストをどこへでも誰へでも届けられる、という面白さに興奮していた時代でもあった。

 しかし自分の経験を小説に書いて間接的に思いを伝えるというアプローチ、それも明らかに「なろう」でそれをやるか、っていうのはLINEやSNOWなどがバンバン出てくるこの作品の中でも一つ際立っている演出だった。でもそれは、いまどきの小説を書く中学生だからできるアプローチであるのが間違いないし、ろまん君はほんといいやつだな、という思いを強くしました、はい。あと東山奈央の主題歌と挿入歌めっちょよい・・・川嶋あいが関わっているのもなんかずるい。挿入歌のタイミング的には「fragile」が流れるところが一番いいなと思いました。あと東山さん演じる涼子先生もとても最高でした。美人であるがゆえに男子生徒から好かれ女子生徒から微妙な距離を、というところもとてもリアルでとてもよかったと思う。




TVアニメ「月がきれい」サウンドコレクション
伊賀拓郎/東山奈央
フライングドッグ
2017-07-05

このエントリーをはてなブックマークに追加



 古くからのネット(最初はボカロ界隈)の友人でもあるすすなんさん(@susu_nan)による「大スター宮いちごまつりに学ぶ組織論」をざっと読んで面白かったので簡単に感想を書いていきたい。そういえば去年のいまごろは『PRANK!』vol.3用にアイカツ論を書いていたなあとか思い出しつつ。
 自分の文章はどちらかというと長いエッセイみたいなもので、特定の理論的枠組みから論じるということは外した。「SHINING LINE*」からイメージできるアイカツ!に登場する様々なアイドルたちを考えたときに、彼女らの独立性と連続性、あるいは役割だったりイメージの差異というところに着目して書いたのが去年書いた文章かなと、いま振り返って思える。
 まあウェブ上では読めないので、興味のある人はぜひ本を買ってくださいという気分です。

 まずアイカツ!で組織論という観点は意外でもなんでもなく、元々は現代のグループアイドル(とりわけ48グループ)を一つのモデルとしている以上、妥当な着眼点だと思う。
 48グループの場合は秋元康という分かりやすい頂点がありながら、グループごとの差異やアイドル個人としての差異が強調されたり、彼女たちが競争したり時には協調することによって、AKBならAKBの、SKEならSKEのブランドイメージを構築している。
 すすなんさんのスライドではトップダウン型と自立分散型という二つのモデルが提示されていて、スターライトとドリームアカデミーは基本的に後者のモデルに沿って運営されている、と指摘している。これはつまり、基本的には自由に振る舞えるということであって、逆に言えばアイドルたちはそうした自由をもてあますことなくうまく自分のものにすることで(主に学校という物的・人的資源を活用することによって)より個性的なアイドルに成長していく、という見立てだろう。
 去年自分が書いたエッセイでは、いちご世代とあかり世代に分けて考えたときにゲームのルールが変わったと書いた。これは学校の運営方法が変わったのではなく、あかりたちはいちごたちが作り上げた舞台に挑まなければならない、という所与の条件が変化した、という意味だ。
 ではだからあかりたちは不利になったのかというと、それもまた違う。

 すななんさんがもう一つ指摘している食堂でのコミュニケーションという着眼点は面白い。食堂と場所が一種のサロンのようなものになっていて、そこで行われるコミュニケーションの幅はかなり広い。
 こうした「学年を超えたフラットなコミュニケーション」は「効率的な学習」へとつながるとスライドのp.30には書いてあるが、これはまさにあかり世代のアイドルから考えると、社会関係資本の活用による後発の利益、と言ったところだろう。
 ゲームのルールが変わるとこれまでに培った経験は古びてしまう。だからこそ「学習」が重要になるし、一人で挑むのではなく誰かと協力することが必要になる。「SHINING LINE*」の歌詞にあるバトンというワードは、その協力の形が一つの線になってつながっているようだ、ともとらえられる。
 



 いちごにとってはあおいがいなければそもそもアイドルになっていなかったかもしれないし、大スター宮いちご祭りでも、あおいたちみんなの協力なくしては成功させられなかった。
 そしてあかりは、そのいちごに協力する一人であるとともに、いちご(たち)の成し遂げた成功を間近で見ている。だからあかりは、3rdシーズン以降で次は自分たちが輝く番であることを自覚するし、最初は越えられないと思ったいちごの壁を越えてみたいと思うようになっていくのだ。

 スライドのp.39には「役割に徹する難しさ」についての記述があるが、確かに容易ではないだろう。大スター宮いちご祭りという大がかりなプロジェクトを成功に導くのは、劇場版で描かれなかった苦労や苦悩がしのばれる。
 でもそこは、あるときは個人として、あるときはユニットとして、あるいはSTAR☆ANISの一員としてアイドル活動してきた彼女たちには、「一つのプロジェクトを成功させるために自分にできることをがんばる」ということは、もうすでに身についていたのかもしれない。
 もちろん、霧矢あおいというプロデューサーへの絶大な信頼が、彼女たちにとってなにより大きな資源だったはずである。
このエントリーをはてなブックマークに追加



 『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』がついに最終回を迎えた。ギリギリの中で追ってくる敵を追い払いつつ、ビスケット以外は目立った死を出さなかった一期は最終話において地球で無事目的を果たす、という分かりやすいカタルシスに包まれていた。だが二期に入ってみるとどうだ。地球と火星のディスコミュニケーションによって無駄な戦争に参加させられたり、身内から裏切りが出たり、あるいはどこまでそもそも身内と呼べるのかというほど組織が大きくなってしまったり。急速に大きくなりすぎた組織は瓦解するのも早いが、二期の場合大きくなりすぎた鉄華団は、戦う相手もまた大きすぎる、という現状に向き合うしかなくなっていく。その最たる敵が、ラスタル率いるアリアンロッド艦隊だった、と見るべきだろう。

 本当に鉄華団が滅ぶしかなかったかは分からない。シノがあのときラスタルを仕留めていれば展開は違っただろう。逆に言うとあのときにラスタルを討てなかった時点で、圧倒的な戦力差の前には滅びの道しかない。シノとラスタルとの、あの一瞬の攻防が終わりの始まりだった。 そしてなにより、監督の長井とシリーズ構成の岡田が組んでいる以上、生やさしい展開など待ってはいない。待っているのは演繹的に導かれる残酷な現実だけだ。その意味では、ラスタルを敵に回してマクギリスと組んだ鉄華団に勝ち目など残っていない。イチかゼロかで言えば、ゼロなのだ。

 さらに言うと、二期は結局のところ政治的な内ゲバでしかなかった。革命は成らずとも、ギャラルホルンをはじめとする火星を統治する政治的な体制は変わっていく。50話のAパートとBパートの間でなにがあったか分からない。敵だったはずのクーデリアと相まみえるラスタルの笑みが意味するところは、平和的な政治闘争の一部分だろう。マクギリスによって艦隊が襲撃されたときも動かなかったラスタルの静の姿勢は、一人の政治家としての強みだと言える。個人的な野心に最後は迷走したマクギリスは、小物でしかなかった。そしてさっきも書いたように、小物と組むことを決めたオルガが舞台を去っていくのも、必然的な流れである。

 では二期にはそうした絶望しか見出せないのだろうか。新しいガンダムは多数登場するが、三日月の操るバルバトスの才能を超えるほどではなかった。その三日月も負傷してからは本領を発揮できないまま、最期を迎えてしまう。であるならば、二期のカタルシスはどこに見出せばいいのだろう。

 という感じでここまでが長い前置きで、ここからが本題。鉄華団もギャラルホルンもつまるところホモソーシャルだよなーと思っていたが、最後の最後にクーデリアとアトラの百合が完成して「二人の母」に見守られるアカツキ、という構図にホモソーシャル解体後の新しい世界観を見せてくれたなって思った。ホモソーシャル自体がどうこうではなく、その意味についてはたとえば岩川ありささんがブログでつづっているように、ホモソーシャルが生み出す希望を見出すこともできる。

婚ひ星(よばひぼし)― 地下室のアーカイブス(岩川ありさBLOG) 

 とはいえクーデリアやアトラ、そしてラフタやジュリエッタといった数々のヒロインたちは、その中では霞んでしまう存在だ。唯一ラフタだけはちょっと立ち位置が違っていて、彼女の場合はむしろ名瀬の作り出した女性のホモソーシャルコミュニティを象徴する存在でもある。だからこれらのヒロインの中で、彼女だけは性別役割分業を果たしてはいない。アキヒロに恋心を抱き、ちょっとした誘惑を繰り返しこそすれ、彼女は最期まで一個人として戦い、死んでいく。銃後ではなく、最前線で戦うラフタのその美貌と勇気に、多くの視聴者は目を奪われたことだろう。(とてもよかったです、はい)

 そう考えるとジュリエッタの立場もまた面白いものとして見えてくる。最前線に立つのは彼女も一緒だ。しかし、ラフタのナゼに対するそれと比較にならないほど、ラスタルに忠誠を誓うジュリエッタの場合は、むしろ個人を殺している。個人としてではなく、ラスタルの従者として、最前線に立つのだ。情けないお坊ちゃまであるイオクに対しては上から目線で退けつつ、自分がラスタルの最たる従者として、力を証明しようとする。言わば自己実現として、モビルスーツに乗るわけだ。

 50話で三日月とモビルスーツ越しで交わす会話のやりとりが印象的だ。合理的なジュリエッタは、負けるのが分かっていてもなお最期まで戦う三日月の心境が分からない。三日月もまた、頭ではなく体で動いていることをジュリエッタに理解されるとは思っていないだろう。二人ともそれぞれ、ラスタルのため、オルガのため、というところは共通している。ただ、生きているラスタルのために戦うジュリエッタと、死んでしまったオルガのために戦う三日月の間には、決定的な溝がある。三日月の忠誠は、この時点では個人的な欲望でしかない。ジュリエッタの持つ公共的な忠誠とは、次元が異なるのだ。

 反体制的でしかないテロリスト集団のような鉄華団は滅ぼされる敵であり、ラスタルをはじめとする側に理がある。マクギリスのやろうとしたことはある意味では正論だが、しかし政治学的に考えれば、統治の正統性を確保するための手段としてバエルを利用することが妥当かと問われると、やはりラスタルのほうに分がある。歴史は歴史でしかない。そして歴史には異なる「解釈」が存在する。歴史的産物には一定の客観的意味があるかもしれないが、ではそこに統治の正統性を見ていいかとなるとラスタルが語ったようにまた別の話になるだろう。時間を巻き戻せるのならば、マクギリスくんには正統性をめぐる政治学の議論であるとか、あるいは社会学の社会運動論やカルチュラル・スタディーズを勉強してほしいところだろう。(学んだところでラスタルの前には屈してしまうかもしれないが,もう少し善戦できたかもしれない)



社会学 (New Liberal Arts Selection)
長谷川 公一
有斐閣
2007-11-21




 まあそれはそれとして、どれだけ物語的に悲しい結末であったとしても、無謀すぎる戦いが実ることを長井も岡田も望んではいないだろう。岡田には『シムーン』という前例もあるし、なにより個人の欲望よりも組織・集団としての目的を最後にもう一度重視したことに意味がある。これはある意味、オルガの不在によって再び強化されたものだ。オルガが死ぬ前にみんなを集めて伝えたメッセージが、オルガが死んだことによってより大きな意味を持つ。一度は組織を去ろうとしたザックがなぜ帰ってきたのかと考えると、組織に対する愛着を完全に失ったわけではなかったからだろう。ハーシュマンの三要素を借りるとザックは二期の間で組織に対する不満の発現、いったんの離脱、そして忠誠からの復帰までを全て見せてくれた。みんなのことを考えられる公共的な精神が、最後に彼ら彼女らを救うことになる。これは自分を殺してラスタルとアリアンロッドのために生きることを選択した、ジュリエッタとも重なる精神であり、思想である。

EMOTION the Best Simoun(シムーン) DVD-BOX
新野美知
バンダイビジュアル
2011-01-28




 最後にクーデリアとアトラについても触れよう。クーデリアも元々の野心だった(と思われる)政治家への転身を果たして、理想の実現に近づいている。自分のためじゃない、誰かのために生きることの尊さみたいなものを追求しようとしている。アトラは自らに宿った三日月の子どもを、育てている。これも誰かのために生きることの、一つの表れだ。そしてそばにはクーデリアがいる。最後の最後に、クーデリアとアトラの「百合」は完成するのだ。

 百合とは離して考えても、二人の母と一人の息子という家族像は、セブンスターズによる合議という貴族制(あるいは寡頭制)を廃止してラスタル閣下のもとで新しい世界へと(より民主的な形で)踏み出した世界に生きる一市民として、新しいイメージを提供しているように見える。とはいえラスタルは軍人出身だから文民統制ではないし、クーデリアとアトラも子育てを始めたばかりだ。この世界には今後再び様々なことが起こるだろう。そこを乗り越えられるかどうかは分からないが、次の世界へとステップを踏んでいることは確かだ。

 最終回を経てもなおプロセスの中にあるというのは政治闘争を描いたロボットものではある意味おなじみの展開ではある。だからこそ、クーデリアとアトラと彼女たちの息子や、もっとも悲しい結末を迎えたラフタ、あるいは最後まで自身の精神を貫徹したジュリエッタといった、全体から見るとマイノリティであったヒロインたちのことを静かに思いながら、この文章も幕を下ろしたいと思う。

 公共的な精神と新しい親密圏。死んでいった者たちのことを悼みつつ、それでもたどりついたこの結末を、肯定的にとらえられるように。

公共性 (思考のフロンティア)
齋藤 純一
岩波書店
2000-05-19



このエントリーをはてなブックマークに追加

 コラム的にちょっと書いてみる。いつもよりは長くなくするつもりでどうぞ。
 アニメを見るのは今も昔も好きだし、最近は深夜アニメからニチアサと呼ばれる少年少女向けのアニメまでわりといろいろと見るようになったが、かつては熱心に見てたかというといまよりももっと限定的だ。それはいろんな理由があるだろうけどまたあとで。
 
 あえて留保する必要もないかもだが、ここでいうアニメはたとえばポケモンとかコナンとか、最近だとワンピースとかそういう多くの人に見られているようないわばマスカルチャーや子ども向けとしてのアニメは省く。サブカルチャーというのもあれだけれど、多くの人がふつうに見ているわけではないものを扱っていく。
 で、いちばん最初に見たのはなんだったかなんだが、正確に最初かどうかは別としていまおもうと入り口だったんだなあと思うアニメがひとつある。
 カードキャプターさくら。NHKで99年から放映されていたCCさくらを、たしか土曜日の夕方に毎週見るのが当時の楽しみだった。NHKという意味でもオタク向けなのかどうかの線引きは結構難しい(ふつうの人が見ようと思えば見られる時間帯だし)けど、受容されているのはオタクが多いだろうという意味で入り口はここかな、というところ。
 もう一つ候補をあげるならおジャ魔女どれみ。これも99年から放映されていたが、リアルタイムで見てた時期とレンタルビデオで見てた時期があるので正確には覚えていない。あと、これは自分で見ようと思って見たのではなくて妹が見ていたのを後ろから眺めていただけである(という言い訳 とりあえず、当時も今もおんぷちゃんはかわいいと思っているよ。

 入り方はこうだったけど、のめりこんだのは中学3年のころかな。部活を引退したころくらいだと思う。夕方にちょうどスクールランブルが放送されていた時期で、卒業直前からはネギま!や舞-Himeが放送されていた。いま思うとなつかしいね、このころの感覚。萌えという言葉が一般流通するちょっと前、ってとこかな。
 地方民にしてはアニメを見ているほうだとたぶん思う。香川は民放5局がぜんぶ見られて、そのなかでもテレ東系列のテレビせとうちが見られたのでほんとうにお世話になった。いまだとニコニコがネット配信したりしているが、当時ネットでアニメを見る方法はGyaoくらいしかなかったんじゃないかなあ。ようつべの登場が2005年で、そのころはちょっとずつアニメの動画が違法アップされてたりはしたけど。
 高校のころにぐっと見るアニメが増えたのはそういう話題をできる相手がいたから。というかやたらオタクが固まってたので(腐女子の友達もいたし)あのクラスでよかったとわりと真面目に思っている。このころは中学時代よりもネットをしてなくて、ネットでなにが流行ってたのかについては高校時代の記憶がごっそりぬけてたりする。ニコニコを最初に見たのも大学入ってからだしね。

 話が飛んだが、まあ俺の場合はたまたまそういう環境があったから、ってのが大きい。なににしてもそうだろうなとは思う。スポーツであれ音楽であれ、友達がやっていたからだとか、親の薦めだとか、子どものころは自分の半径いくばくかの距離の影響がなんだかんだ大きい。
 ネットもやってたけど、ネットで興味を得るというよりは興味があるからネットをしたり、その手の人たちと交流するという感じだった。いまのようにソーシャルメディアが盛んだと傾向が前者になるのかもしれない。
 中学や高校時代はアニメを見るのは純粋に楽しかったから。大学時代以降は批評っぽい見方だとか、誰が監督や脚本をしているかだとか、それ以前よりはコンテンツのひとつとして見るようになったかも。
 あとは、息抜き。高3の一番受験でめんどうくさい時期にグレンラガンの再放送を深夜にやっていて、かじりつくように見ていた。寝る時間を惜しんでもそれでも見たいと思わせる魅力がアニメにはある。もちろん録画はするんだけど、それでも生でちゃんと見たい。布団にくるまって、目をこすりながら。ARIAとの出会いもそんな感じだったかな。
 コンテンツとして見る見方と息抜きとして見る見方の両方がいまはあって、だんだん忙しくなる中でも後者だけに寄ったりはしたくないなあとは思っている。

*******

 という感じで、新しいかどうかはわからんがちょっと違う試みの文章を届けてみました。
 最後にせっかく新クールなので、いま見ている新アニメの雑感などを書いておきます。全部で7本。
 
◆宇宙兄弟
 原作漫画の映像化には定評のある日テレ、ってところだろうか。安定した滑り出しで、音楽も悪くないなあと思いながら見ている。
 何話やるのかわからないが展開もまっすぐ進んでいるので、こんごの起伏がどうなるのかなというところ。原作は読んでないが有名なので知っていてとりあえず見ようか、という感じではあるが日曜朝という安定感も相まって良作にはなりそう。

◆坂道のアポロン
 これも原作は漫画みたいだが、ノイタミナらしいラインナップという感じ。いわゆるオタク向けではなく、幅広く受け入れられるような良質なコンテンツを届けようという意志は伝わってくる。
 音楽は菅野よう子が担当しているのだがOPを歌うYUKIが抜群にいい。これを聴いてこのアニメはちゃんと見よう、と思った。ジュディマリ時代もアニソンは歌っているが、YUKIの伸びのある幅広い音域は菅野音楽とよく似あう。
 内容はノイタミナにしては展開がまっすぐ進んでいるなあという感じ。どれだけ主要な登場人物がでてくるか原作読んでないのでまだよくわからんが、うまくまとまりそうではある。演奏シーンはすごくきれいで丁寧。

◆エウレカセブンAO
 大化けするかどうかはわからないがワクワクする1話ではあった。どこが鬱屈したというか、もどかしさのなかを疾走するのはベルフォレストにおけるレントンをほうふつとさせる。
 あとはあえて政治ネタを放り込んでいるなかで沖縄をどう扱うか、ってとこかな。まあ、あくまでフィクションなのでネットの反応がちょっと過敏な気はしている。

◆夏色キセキ
 まだ1話だけしか見ていないし先行きはよくわからんが、スフィアの歌う音楽はよい。よい。スフィアはよい。それだけでも見続ける。

◆ふしぎの海のナディア
 これもまだ1話だけだが90年代のNHKっぽさ(少年少女向けファンタジーをにおわせつつ、SF的ガジェットに手を抜かない)を感じさせるので純粋に楽しみ。夕方に見るアニメだな。

◆モーレツパイレーツ(2クール目)
 最近ニコ生の一挙放送を見て2クールからちゃんと追っかけることにした。笹本祐一がかかわっているのにチェックしてなかった俺乙、というところかな。ふつうにギャグありだが、線のしっかりしているアニメなので下手に崩れることはないだろう。茉莉香がだんだんそれっぽくなっていく様は、ARIAにおける成長していくウンディーネをみているような感じがしている。

◆氷菓
 来週からなので予告編を見た印象だけだが、千反田えるのビジュアルがちょっと意外。あんなにかわいくしていいんだろうか、いやまあわるくはないが。
 ホータローが中村悠一ってのはどうかなあと思う気はするが、あとは原作を京アニがどう料理するかね、というところだろうな。

 あ、あとかんなぎの再放送を見ているのと、ヨルムンガンドを追っかけるかも。EDなぎさんだし。fate/zeroは気になるけどいつかstay nightからあらためて見るということでどうかひとつ。ちらっと見たところ背景の書き込みはさすがufotableだなあと思った。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 評判の「輪るピングドラム」は最初からしっかり見ているが終わりに向け最近一気に加速を始めたので終わってしまう前に改めて何かしら書いておこうと思う。そんなに暇でもないので厳密な批評はやらないし、そのうち誰かがやるだろうので、今気になっていることを書いていく、という感じで。話ごとの感想はネット上に膨大にあるので、春休みにでもじっくり読み返したいとは思っている。
 このアニメはあの事件に明確に言及していることもあって、また主人公3人の子どもと大人という意味でも社会派アニメと言えるだろうし、良い意味で90年代っぽさ(音楽は80年代だったりするし、面白い)を醸し出していたり、意外とベタなんじゃないかと思われる展開もあるような気がする。EDにARBの曲を用いたり、14話では某有名漫画を思うシーンがあったり、二次創作的にはめ込んで展開される様はベタさとも繋がっているように思う。そしてそれは決定的なところで差異という意味でオリジナリティを作り出すことができれば、より意味のあるベタさになるだろう。
 さあ、どうなるかね、というのは文章の後半で書いてみたい。

 まず最初に気づくのは、1クール目の日常を描く描写と2クール目で核心に近づいていく様を描く描写のトーンの違いは際だっている。ある意味これはKey作品のような泣きゲーが得意としてきた、平和な日常を提示してどん底に突き落とす展開、とダブって見えなくもない。ただこれは終わってみないとなんとも言えないのだが、ベタに類推するとそうなってもおかしくはないと思っている。(*1)
 21話である程度示されてしまったが、重要なのは陽毬がどのような役割を担うか、あるいは演じるかだろう。日本のアニメは往々にして少女という表象に物語の運命を託してきたし、ゼロ年代にはセカイ系という形で広く受容された。ピングドラムはセカイ系ではなくその真逆の社会系、つまり社会との接点を丁寧に(時には必要以上に)描写することで物語を押し進めようとしている。
 気づいたときには脳天気とも言える「せいぞんせんりゃくううううう」の一コマがなくなってしまっていることも、展開の変容を表していると言える。もっとも、日記帳を手に入れるという当初の目的が達成されてしまったことも要因ではあろうが。

 登場人物は限られているが、限られた中で密度の濃い人間関係を描いているし、それが物語の核心に直結するだろうことを考えると、社会系という大きな風呂敷でもある程度うまくたたんで軟着陸させることはできるはずだ。アクロバティックな展開があってもいいとは思うけど、伏線の回収を意識するとある程度無難に落ち着く可能性は高い。これもどっちに転ぶかはまだ少し分からないが。
 21話まで見てきてはっきりしたのはあくまで中心は3人であって、徹底して彼らと彼女のための物語だと受け取るほうがより話の筋を理解しやすいと思う。両親だったり眞俐先生、多蕗さんや時籠ゆり、などなど大人の登場人物は深夜アニメにしてはかなり多いと思うが、ある意味アニメだからこそ中心にいるのは高倉家の3人の子どもたちであろうし、3人以外はある意味脇役と言ってもいいだろう。もうひとりの子どもであるりんごちゃんがどう絡むかはちょっとよく分からないし、どちらかというとストーリーの誘導役、特にあの事件に結びつける存在としての役割が大きかったように思う。

 そしてこの3人のみに注目してくると見えてくるのは、これは加害者の物語なのか被害者の物語なのか、その両方なのかそのどちらでもないのか、という象限だ。1995年の”あの事件”(*2)を想起させるテロが物語の中で起こっていて、高倉夫婦は主犯格として関わっている。その子どもである3人は加害者、被害者のどちらに属すのだろうか。
 社会的な見方をするともちろん加害者ということになるだろう。多蕗の復讐は高倉「夫妻」ではなく高倉「家」に向けられているのが印象的なように、また95年の”あの事件”後にオウムの子どもたちがバッシングや入学拒否を受けたように、子どもは当然のように家族の一部と見なされるのが宿命である。
 とはいえ、子どもたちのみに注目すると両親を失った時点で社会的な弱者である。オウムと違うのはその点で、大人の世界の中で子どもが生きるのではなく、子どもの世界と大人の世界が完全に断絶している。1話の始まりは一見すると幸福な食卓を描いていたが、そこに子ども3人しかいないのはいびつだと言えるだろう。(*3)
 フェミニズム的には怒られるかもしれないが、その中でも陽毬はもっとも弱い存在だ。しかも彼女は不治(とされている)の病を背負っていて、薬を飲み続けなければ余命いくばくもない状況に立たされている。この点に関してはなぜどのように病気を背負っているのかが明言されていないし、彼女の生存戦略の道筋はいまのところ立っていないから、残り3話の焦点のひとつにされてくるだろう。
 
 21話が明らかにしたのはもうひとつ、逃げる冠葉と、追う陽毬、待つ晶馬という構図だ。冠馬は陽毬を想い、陽毬は晶馬が運命の人であり、晶馬と冠馬は決定的に対立した。(*4)
 そしてこれは19話から顕著だと思われるが、「運命」と「愛」という何度も繰り返されてきたふたつの言葉が直結した。この言葉のチョイスも非常にベタではあるし、3兄弟の三角関係という構図もベタではある。3兄弟の生存戦略に向けたキー概念であろうことは今までのサブタイトルを見ても想像できたが、運命と愛を振りかざすと逆に悲劇的な結末すら予測してしまう。それこそ泣きゲーのバッドエンドがそうであるように、バッドエンドではあるが非常にきれいな終わり方をするのは、AIRの名ゼリフを引くまでもない。
 セリフと言えばこのアニメも言葉に関しては強いこだわりを持っているように思う。登場人物の発する言葉はともすれば命がけでもある。そうした必死さが物語を前進させもするし、かき乱しもする。混沌に陥ってないのは革新的な謎を1話ずつほぐすように解いているからだろう。
 
 最初に少し書いたように、もっとも重要な存在は陽毬だと思っている。彼女に救いが与えられるとすればどのような結末になるのだろうか。ハッピーエンドと引き替えに姿を消す、というのはエウレカセブンやグレンラガンや、Seraphic Blueだって社会的な文脈からすると消失にほぼ近い。
 ただ、大人の都合の前に子どもが敗北してしまうという、それこそ現実的にありふれている結末をこのアニメが描くとも思えない。あまり根拠はないけど、もっと挑戦的な作品だろうと思っている。軟着陸かアクロバティックかは別として、陽毬の双肩に形勢逆転が託されたのは21話のCパートが示したとおりだ。
 
 そのCパートで冠葉の思い出の中に生きる陽毬に救われたのは俺だけじゃあるまい。ひとりの少女に期待を託すことの重みがどれだけあるとしても、託さざるをえないし救いがあるといいな、と思ってしまう。
 そうでない結末はそれはそれで見てみたいが、はてさて。最終話はチケットが確保できればパブリックビューイングイベントに行く予定でございます。楽しみだね、本当に。


*1 区別するならKeyが得意としてきた泣きゲーは内面や精神面のコミュニケーションが物語を醸成するが、ピングドラムは主人公たちの外にある大きな社会に巻き込まれていくことで平和な日常が揺らいでいく、という点で決定的に違うだろう。このアプローチは魔法少女まどか☆マギカに近いとも言える。ただそれほど新しい手法という実感はないし(すぐに例を出せないけど)単純に空気系への反動かもしれない。

*2 あの事件です。そしてあの年には阪神大震災があったことを考えると、今年このアニメを企画したのはすごいタイミングだな・・・。今だって災後を生きているわけだ。冠葉と晶馬が95年3月20日生まれというのは設定しすぎな感じもするけれど。

*3 ただし日常系アニメでは大人が登場するほうがむしろレアだったりするけどね。

*4 とはいえ白山神社で殴り合うシーンはめちゃくちゃベタな気はした。いい意味で。あと、OPの映像や歌詞が示唆的なのはなんとなく気づいていたが、2期OPで3兄弟が別々な方向に走っていくシーンがあって印象的だ。追いかけているのか、逃げているのかは分からないが、ばらばらになってしまった彼らをイメージするシーンになっている。現在進行形で走っているという意味では最後までばらばらかどうかは分からないが。

今日の一曲  蜻蛉"MUG SHOT"

 蜻蛉さんの新曲をチョイス。ちょうど21話に重ねて聴くと切なくしみてくる。
このエントリーをはてなブックマークに追加

 秋の新作アニメで「ヨスガノソラ」というのがあるのだが、これが思ったよりは面白いのかも知れない。
 下着をふつうに描いたりだとか、兄妹の間にいかにも何かありそうだったりだとか、わりと際どいシーンが(物理的にも精神的にも)早くからあったんだけど、4話がなかなか衝撃的だった。
 ああ、あそこまでアニメでやっちゃうんだ、と。実写の映画なら、特に洋画ならわりとありふれているとも言えるけれど、アニメではなかなか、少なくとも全年齢対象のアニメならない。原作がエロゲだと言ってもアニメ化する場合はいわゆる18禁のシーンは取り除くからね。AT-Xでの放送では全部描いたのかな?

 ただまあそれ自体は本稿の主旨ではない。
 簡単に言うと、断絶って物語化しやすいよね、ということだ。むしろ、断絶それ自体が物語であると言ってもいいかもしれない。日常的にも。
 物理的な断絶、たとえば母を訪ねて三千里じゃないが、それはもう断絶自体を物語としていると言っても過言じゃないだろう。もしくは遠距離恋愛なら断絶があるが故の普通の恋愛とは違った物語が生まれるはずである。幸か不幸か、それは分からないけれど。
 
 翻って、ヨスガノソラの場合は精神的な断絶がテーマになっているように思う。2話〜4話は主人公の春日野悠、神社の娘で巫女でもある瑛、地元代議士の娘で才色兼備の一葉との3人の関係(三角関係もどき)と、瑛と一葉の過去をめぐる物語である。過去というのも物語創作における断絶にはよく出てくる文法かもしれない。
 精神的な断絶、しかも10代の若い彼女たちの断絶を描こうとすると感情の吐露が避けられないし、その描写を惜しみなくヨスガノソラで演出することによって、3話と4話では言いようもない暗さが表れていた。物理的な描写における際どさを最終的に回避しなかったのも、それまでの重たすぎる暗さと対比する意味でもあったのかもしれない。
 あのふたりなら、あそこまで描かないのはむしろもったいないんじゃないか、というくらいにね。

 数年前のアニメで、これもeufoniusが主題歌を歌っている「true tears」というアニメがある。これも精神的な断絶(人間関係におけるもの、地縁的なものからくるものなど)を中心に据える部分があったし、それでいてタイトルにもなっている涙というのが核心になっていたわけだが、ヨスガノソラはtrue tearsにおける涙のように、何を核心に据えているのかがまだ少し分からない。まだ少し、どこかで見たような物語の域を抜けてない。まあ、今後の期待もこめて、だけど。
 true tearsとヨスガノソラの共通点はロケハンを熱心に行っていることによる風景の鮮やかさだろう。true tearsの街並みの描写や雪の描写、ヨスガノソラにおける田園や神社の描写、特に神社に至るまでの階段の長さと周りを囲む木々の静けさは妙にリアルに感じられた。
 エロゲ原作にありがちな、どっかにありそうな町におけるありえなさそうな学校生活というのではなく、確実に春日野兄妹や瑛、一葉の生活は近くて遠いどこかにありそうだな、と思わせるには十分なロケハンであるなあ、と見ていて思った。手違いで1話の録画を消去したのを若干後悔している。

 ヨスガノソラの原作をやっているわけではないので今後の展開は分からないが、2話から4話の流れはちょっと早すぎたかなあと思う。
 オチがついてしまうとあっけらかんだけど、それまでの過程であるとか、一葉や瑛の心情の内面をもっと掘り下げてもよかったんじゃないかな、と思う。ビオラの話であるとか、瑛の本音であるとかね。
 
 色々書いてきたけど、断絶とは別に濃密さも物語においては重要だ。「けいおん!」は濃密さそれ自体で勝負して成功したアニメと言えるだろう。
 Keyのアニメも「CLANNAD」における智代の家族や朋也と父親の断絶というのは、あくまで断絶をスパイスとしながら濃密な物語を描こうとしている。
 true tearsは断絶を描きつつ、濃密さにはこだわらなかったのが面白いと思っている。最後は大団円、とかいう形ではなかったし。事はそう単純じゃないよね、ということかもしれない。もちろんCLANNADは人生だと思うし、あくまで物語の方向性の違いの問題であったり、ひいては人生のとらえ方の違いに帰結するだけだろう。

 ヨスガノソラはどっちを向くのか、5話以降を楽しみにしていようと思う。そんな花金の夜。
 物語における断絶と濃密についてはもう少し広げられる気はするので、機会があればまたいつかにでも。

ヨスガノソラ(PCソフト/R-18)
ヨスガノソラ 通常版
ヨスガノソラ 通常版
クチコミを見る


eufonius「比翼の羽根」(アニメ版OP)
比翼の羽根
比翼の羽根
クチコミを見る


true tears vol.1(DVD)
true tears vol.1 [DVD]
true tears vol.1 [DVD]
クチコミを見る
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ