カヤとエミリエ、二人の感情の尊さ ――『ウトヤ島、7月22日』(ノルウェー、2018年)音楽やってて後悔なんてしたことない ――『さよならくちびる』(2019年)

2019年06月08日

海外での合法的安楽死という他力本願な自死への違和感と、ヴェーネ・アンスバッハが死ねなかった理由

NHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」

 NHKスペシャルで50代の日本人難病女性がスイスでの安楽死をした際の経緯に密着した番組が放映された。リアタイではなくてNHKオンデマンドで見たので、リアタイの反応が見られなかったのだけれど、『障害者の傷、介助者の痛み』などの著者がある渡邊琢がかなり批判的なツイートをしていた。なるほどこれは見ないとな、と思ってオンデマンドで見た次第。
 

 このツイートの中で言うと、「今の社会状況」というのがポイントとなる。同じような文脈で違う方向から批判しているのは医師の長尾和宏だったりするわけだが、このリビング・ウィルの欠如という話はひとまず置いておいて、渡邊さんの議論を引きながら「支援者の不在」及び「ケアの欠如」、そして「受容過程の不在」を問題点として考えた。つまり、難病患者である本人や家族の困難を指摘した上で、ケアの側で解決可能な要素を指摘している。
 また、いくつかの恣意的な編集による誤ったアジェンダセッティングの可能性の指摘を考えると、この特集のヤバみを感じた。おそらく番組の女性を通じて安楽死の是非について議論をしてほしいというアジェンダセッティングの意味もあったのだろう。でもそれはこれまで書いたような事情で誤ったアジェンダセッティングである。議論するには視野があまりにも浅い。
 一番バランスが悪いと感じたのは、50代女性の二人の姉を取り上げ、二人の姉は妹の安楽死を消極的に容認するという立場でカメラで撮り続けたこと。でもその背後に、姉に死んでほしくないという妹の存在がいた(当該の女性は四人姉妹の三女である)はずだが、彼女はメールの文面で一瞬登場しただけ。ここにも編集の恣意を感じる。
 渡邊さんも書いていたが、安楽死という問題を家族という枠組みに閉じ込めたこと。病院のシーンはあるのに主治医もナースも出てこない。福祉スタッフももちろん出てこない。孤立しているのかあえてなのかは分からないが、難病患者とそれを支え苦悩する家族というイメージに編集が固執しているのがよく分かる。つまり、この時点でかなり誤ったイメージを発信している。

 最後にもう一つ、ヴェーネ・アンスバッハの名前を出したい。彼女も番組の女性のように、何度も自死を試みたがそれができなかったという(フィクショナルではあるけれど)キャラクターだ。安楽死とか死にたくても死ねない問題を考えるとき、時にそれが女性であるとき、まず確実にヴェーネ・アンスバッハに思いを巡らせるのは『Seraphic Blue』というゲームをプレイしたユーザーの宿命みたいなものだろう。

 以上を踏まえてある程度のことは自分のツイッターに書いた。ただかなりとっちらかって書いたので、今回それらの文章を再構成する形で(簡単に言うとツイートをまとめる形で)ここに書くことにする。
 また、多間環さんとの議論も今回のエントリーに少し反映させているが、彼女はいまアカウントを非公開状態にしている。そのため、彼女の当該ツイートは引用しない。

●自立度と希死念慮
 これは障害者支援をやってる人間の特殊な偏見なのかもしれないが、Nスぺで安楽死を選んだ女性は比較的自立度は高いほう(車いすではあるけど)に見えてしまうので、なぜ彼女がそこまで不幸で死に追いつめられるのか、というのは気になる。
 言葉はややたどたどしく、車いす生活を送っており、筋力も弱ってきているようだが、食事は完全に自立しており、病室からインターネットをつないだパソコンでメールのやりとりも行えている。そういう見た目だけを見ると、珍しくない身体障害者に見える。
 ただその上で、あなたはまだマシ、もっとしんどい人がいるという気は全然ないし、それぞれの人の抱える痛みは安易に相対化すべきではない。それは原則的に守るべき。ただ、障害や難病の度合いと希死念慮は別の所にあるのではないか。

 例えば重度身障者が皆希死念慮があるかというとそういうわけではない。番組の女性のような中途障害者や難病患者が同じようにそうではない。どちらかというと、その過程でメンタルを病んだり精神障害を発症するという二次的な作用が希死念慮を引き起こすというイメージだ。
 つまりある人の順調な人生が難病の罹患によって完全に折られてしまい、精神的にも立ち直れなくなった過程で希死念慮を持ってしまったのだろうと仮定する(あくまで仮定として)。障害の受容段階論で言うところのショック期を超えられるか分かれ目なのだろう。

●難病を受容する過程

 当人の受容過程が希死念慮を考える上で大事なのだが、番組においては「私らしいうちに死にたい」という彼女のショック度を表現しているにとどまった。この彼女が安楽死を不可逆的に選択したとなると、あまりにも多くの人が安楽死を選んでもおかしくはない、となりそうだ(番組の編集の問題として)。
 それがいいのか悪いのかは正直分からないし、安楽死という選択それ自体を批判するつもりはない。ただ、進行性の神経難病の場合、あれは確かに希死念慮を持ってもおかしくないということは、かつて神経系の難病患者だった人間としては否定できないということは理解できる。
 一番病気がつらかった10歳の時、周りの大人に死にたいって言ったら相当怒られた記憶がある。言った相手が同じ難病患者の子どもを持つ親だったと記憶しているので、怒られるのは当然だ。つまりそれはそれで一つの正しい反応だろう(命を粗末にするなという意味で)なと思うし、結果的に私自身は29歳になるまで生き延びているので、希死念慮それ自体への対処法ってのはあるはずだ。希死念慮を尊重しすぎると、それはそれでロクな結果につながらない。

 番組の女性については韓国の大学を卒業し、翻訳や通訳などのキャリアを持ち、その後児童養護施設での勤務を考えていたらしい。仕事一本で生きてきたような、タフな女性だったのだろう。ただ、タフであるがゆえに進行的に身体の自由を失っていく難病生活が耐え難かったのは容易に想像できる。
 しかし、言ってはなんだが歳を重ねると様々な事情でキャリアを中断するということはあまりにもありふれている。あるいは、若くしてがん患者になり、容赦なく余命を宣告される人も珍しくない。自身は健康でも親の介護で離職するというケースも、40代以降に差し掛かったなら本当に珍しいことではない(それを支える制度もまだ貧弱であるし)。
 彼女に似た人は大勢いる。だから彼女が安楽死を選んだことを容易に正当化するのは危ういが、番組はあまりにも彼女の主張を尊重しすぎてはいないか、というのが最大の違和感と言ってもよい。

●制度・政策的観点
 海外と比べて日本は安楽死の議論が少ないと番組では語られていたが、日本は高度な医療技術と世界的にも稀な医療制度を持っている。遅ればせながら障害者支援の枠組みに難病患者も取りこまれるようになっている。このような難病患者が生き続けるための環境について、番組では触れられることがなかった。
 だから渡邊琢さんのようなケア職の立場の人が番組の構成に疑義を唱えるのは当然だ。日本の医療制度にほとんど言及せず、尊厳死は認められてきたが安楽死は認められないという単純な二項対立でしかこの議論を行わない番組の構成は、あまりにも雑だと感じる。その雑さが誤ったイメージを発信しているとすれば、マスメディアとしての姿勢として大きな疑義がある。

 さらに福祉政策の観点から考えると、重度身障者は訪問、通所、施設系の障害者支援サービスを豊富に受けることはできるし、事業者にはそれなりに加算もつくけれど、難病患者への福祉サービスの受け入れの実態としてはまだまだといったところだ。そして番組の女性が入院していた新潟にその資源があったかというと……という印象は拭えない。
 例えば高齢者は社会的入院が問題になった80年代以降、どんどん病院から出ていける(出て行かざるをえない)ようになったけど、難病患者は病院で社会的入院を続けざるをえない、となるとつらいものがある。可能ならば在宅で、地域で訪問看護や訪問介護などのサービスを使って生きていける選択がもっと広まっても良い。というか、実際にはそういう例は豊富にあるはずだ。なのになぜか番組ではそういった施設外のケアについては触れない。
 故小山剛の先進的な在宅介護の取り組みで知られるこぶし園は新潟(長岡市)だし、地方だから何もないとは思わない。このあたりの掘り下げは、それこそ地域に密着するマスメディアであるNHKならあってもよかったのではないか。

●死ぬことと生きること
 高齢者福祉の世界では死が本当に目の前にあるけど、障害者福祉の世界だとすごいやり方で生きている人と、死にたいが口癖だけどやっぱり生きてる人と、いろいろな人がいる。生と死は単純な二元論ないなと日々この領域で仕事をしていて思うところだ。
 渡邊さんが今回の番組の編集を相模原障害者施設殺傷事件になぞらえてていたように、生きることのグラデーションが窮屈な社会というのは、役割を終えた人や役割を失った人から、生きることを容易に奪ってしまう。生産性がなくなったから死ぬことを目指し、それを容易に容認するような社会なのであれば、そもそも医療も福祉も最低限にしか必要がない。
 もちろん先天的な障害と中途で罹患する難病や確かに状況が異なるものであろうが健常ではない存在を否定し、それを容認してしまうということは、実際に健常な身体や精神を持たずに生きている人たちを見殺しにしてしまうのではないか。彼ら彼女らの尊厳への目配せがあまりにもないのではないか
 治療の見込みが、身体の機能の改善の見込みがないならば不要になるということだ。しかしそれは正にディストピアだし、ナチズムに通じる。このあたりの視野がNHKに欠けていたことも、あまりにも危険だと感じた。

●ヴェーネ・アンスバッハのこと
 番組の女性がやったことは積極的安楽死でもなんでもなく、現代日本社会の中で生きられなかった人の自殺の手段が電車への飛び込みではなくて投薬だった、という風にも理解できるだろう
 難病の進行と希死念慮を経ての安楽死は安楽死というより単なる自殺だと考える。それは、セラブルのエピローグパートにおいて、天使としての役割を終えて、何もない、無の存在となったヴェーネ・アンスバッハの言動とダブる。
 でもヴェーネは二年かけても死ななかったし死ねなかった。ある意味飼い殺しとも解釈できるアフターエピソードはかなり残酷だし、他方で役割がなくなって無になったとしても死ぬ必要はないし生きて良い、という天ぷらのイデオロギーかなとも感じた(なので女性にも安楽死する前にぜひセラブルをやってほしかったな、その上で結論を出してほしかったかなというのが強引な感想)。
 ヴェーネもそうかもしれないが、安楽死した人にも「尊厳」の呪いのようなものがあるかなと思う。結局のところ完全に病気を受容すると尊厳が失われるかのような錯誤をしたまま死んでいったような気がするし、それは本当に幸福な決断なんですかね、と問いかけたい。
 受容した上で自死するならともかく、受容の過程を経ずに病気によって変わってしまった自分自身をただただ否定して自分を殺してしまうというのは、簡単に言ってしまえばエゴだろう。別にエゴであってもよい。
 ただ、そのエゴをさも正しいものかのように振る舞うことについては留保が必要だ。あなたにとって正しいことが、他人にとっても正しいとは限らない。この意味では、同じ病気の別の重度身障者の女性を番組で取り上げていて、ここは数少ないバランスに配慮した部分かなと感じた。

 「ヴェーネ論」の結論で書いたことは、ヴェーネにいかに生き方の幅をもたらすかであった。安楽死を選んだ女性にとっても、これまでの生き方を失ったからと言って、今後の人生の生き方の幅を全否定しなければならなかったのだろうか。ここには留保が必要である。
 また、生き方の幅を失った、あるいはそもそも持たない人間が一つの役割を終えたから死んでしまうというのであれば、この世界には死者だらけになってしまう。そうではなくて、何か大きなことを終えたあとでも死ななくて良いという話をしたかった。あるいは、何か大きなことが難病等でできなくなったとしても、それでも何か別のことはできたのではないだろうか。
 もっとも、ヴェーネの場合は希死念慮が容認されたわけではない。番組の女性は二人の姉に容認され(一人の妹には否定されていたが)ここは大きい違いだろう。そして自殺未遂を繰り返すものの、彼女は死ねなかった。ここには迷いもあるのかなと感じました。生きること、死ぬことのいずれのが出来ない戸惑いのようなものがある。
 番組の女性はあまりにも死にとりつかれていて、そして姉もそれを容認する、死以外の外部性を失わせるという、「ヴェーネ論」で出した結論と対のアプローチをしていた。死による救済を掲げるキャラがセラブルには複数出てくるが、ヴェーネはその敵に抗した。ヴェーネが死ねなかったのも、もしかしたらここに理由があるのかもしれない。

*******

 以上、かなり番組に批判的なコメントを書いてきたが、ケア職の立場として言いたいことはすでに渡邊さんが詳細に論点を提示しながら批判していたので、分厚く書くことはなかった。
 その代わり、ヴェーネ・アンスバッハのことを考えずにはいられない自分の性分をしたためたつもりだ。当初番組の女性がヴェーネっぽいのではと思っていた部分はむしろそうではなく、ヴェーネとは遠いところに番組の女性はいた、という風に結論付けたい。
 そういうわけで、来るべき「ミネルヴァ論」のための布石としては、いい思考のトレーニングになりました。







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burningday at 21:48│Comments(0)documentary | healthcare

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