『さよなら妖精』から10年後の太刀洗万智の物語・・・・・・こう聞いてまず胸が躍らずにはいられないことと、短編として続編のようなものがいくつかあることは知っていたが10年という時を超えて、しかも守屋ではなく太刀洗を書くのかという驚きと期待を半分ずつくらい持って本書を手に取った。当初キンドルで買おうと思ったが、装丁が思いの外美しかったので、書店で立ち読みしたあとそのままレジに持っていった。単行本は図書館ガチ勢な自分にとって、こんなことはそう易々とはない。
というのはさておき、10年後、である。『さよなら妖精』を最初に読んだのは2006年のこと(文庫化されたタイミング)だったので、最初に読んでから自分自身が重ねてきた年数とほぼダブる。10代の半ばで触れた作品の続きを20代の半ばで触れるということ、しかもキャラクターもほぼ同じ数だけ歳を重ね、その歳もそう遠くはないということ。なので否が応でもこの二つの小説は、自分自身と結びつけてしまう。それはもうどうしようもないバイアスだけれど、そうやって物語に触れることがとても貴重だということも事実で、個人的に読むという前提の上で本作を読み解いていきたい。
簡潔に言えば、『さよなら妖精』が群像劇に見せかけた守屋の私的な冒険だったとするならば、本作は太刀洗の冒険だ。そこには二つの意味で個人的である。一つは10年前にマーヤとの別れを経験した太刀洗として、もう一つは新聞記者を辞めライターとして独立した、職業物書きとしての太刀洗として、である。ライター仕事で2001年のネパールを訪れるという設定から始まるし、ネパールでいくつかの事件に巻き込まれていく中で発揮されるのは後者としての太刀洗がほとんどだ。たとえば次のような問いかけが挿入される。
元々は観光の記事を書くためにネパール入りしていた太刀洗だったが、王室で起きたある事件(動乱、クーデターと言ってもいい)とその余波に巻き込まれることによって観光に関するライティングどころではなくなる。そして、「いま、ここ」に「わたし」が存在する意味を、自分自身の背負った職業と相まって自問していくことになるのだ。これは『さよなら妖精』において守屋がマーヤに抱いた私的な感情とは明確に一線を画した、気高い思いだと言えるだろう。使命感とも言っていい。そうとらえるならば、マーヤが旧ユーゴから日本に来た理由――自分の国の政治をよりよくするために――のほうを思い起こすことだってできる。
太刀洗は王室の事件のあとにある重要な取材対象者に接近する。そこで彼女は自分自身のペンの大きさと小ささを実感させられることになる。BBCやNHKとは違い、新聞記者でなくなった自分がペンを振るうことはちっぽけなことではある。しかし、そのちっぽけなことが与える影響は実は計り知れないかもしれない。使命感があるからこそ、同時に迷いも背負わねばならないという苦悩が、太刀洗を追い詰める。ただ、その上で太刀洗がペンを振るおうとするのは、やはり10年前の別れ――という意味での私的な理由――が介在するからなのだ。
エゴイズムによって未知のものに手を伸ばそうとするのは、守屋によく似ている。ただ、決定的に違うのは備えている能力と経験値だろう。一介の高校生だった守屋は自らのエゴイズムを断念せざるをえなかった。しかし本作での太刀洗は違う。うまくやれば、誰もなしえないことができるかもしれない。死を含め、多くのリスクが存在するという前提の上でではあるが、10年経って守屋にたどりついたのではなく、10年経って確実にかつての守屋を超えようとしていることがよく分かる。それはかつて守屋を突き放した自分自身に対する思いからくるものかもしれない。守屋のやり方を否定はしたものの、守屋の思いまでは否定しなかった、かつての太刀洗自身の方法に向き合うために。
本作はミステリーとしては大きな新鮮味があるわけではない。読み終えてみれば明らかに怪しい奴らが怪しかったというオチではあるものの、読み進めていくうちに当初覚えた怪しさが薄らいでいくのはなかなか見事だとは思った。新鮮味こそはないものの、太刀洗と同じ宿に滞在する各部屋の住人たちとの攻防戦が、宿の外で起きる太刀洗の冒険と相まって謎解きの魅力を増している。そこにはやはり、仕事に対する思いとそのすれ違いがヒントになって現れる。そして、たった一人の仕事ぶりが、思わぬところで波及するかもしれないとき、それでも自らのエゴイズムを貫くことはいかにして正当化されるのかという問いも。
最後まで徹底的にエゴイズムを隠さないでおきながら、職業人としての真っ当さの所在を考える太刀洗の存在は、やはり他のキャラクターにもいささか奇異なものに映るらしい。しかし、その迷い、動揺こそが太刀洗の魅力なのだとやはり強く思う。彼女は元々冷たいキャラだったわけじゃなく、『さよなら妖精』のエピローグにける彼女の台詞を借りれば、冷たく見積もりすぎていただけなのではないか、ということだ。本作ではもうその冷たさ自体も武器に変えてしまっているところがあるが、冷たさの裏にある熱を感じ取らなければ、太刀洗万智というキャラクターについて適切な説明を与えるのは難しい。
10年の時を経て、確かに成長した。そうしたことが実感できると同時に、10年前の青さや痛々しさに思いを馳せることもできる。内容としては別物なので続編として読まなくてもいいですよと米澤は語っていたが、個人的には逆で、徹底的に地続きのものとして読んだ方がいい。個人的に、強く個人的にではあるが、そう確かに思う。10年後の太刀洗万智が確かにいた、と思えるように。
関連エントリー:あのころに感じた切なさを思い返しながら ――『さよなら妖精』再訪(2012年10月12日)
というのはさておき、10年後、である。『さよなら妖精』を最初に読んだのは2006年のこと(文庫化されたタイミング)だったので、最初に読んでから自分自身が重ねてきた年数とほぼダブる。10代の半ばで触れた作品の続きを20代の半ばで触れるということ、しかもキャラクターもほぼ同じ数だけ歳を重ね、その歳もそう遠くはないということ。なので否が応でもこの二つの小説は、自分自身と結びつけてしまう。それはもうどうしようもないバイアスだけれど、そうやって物語に触れることがとても貴重だということも事実で、個人的に読むという前提の上で本作を読み解いていきたい。
簡潔に言えば、『さよなら妖精』が群像劇に見せかけた守屋の私的な冒険だったとするならば、本作は太刀洗の冒険だ。そこには二つの意味で個人的である。一つは10年前にマーヤとの別れを経験した太刀洗として、もう一つは新聞記者を辞めライターとして独立した、職業物書きとしての太刀洗として、である。ライター仕事で2001年のネパールを訪れるという設定から始まるし、ネパールでいくつかの事件に巻き込まれていく中で発揮されるのは後者としての太刀洗がほとんどだ。たとえば次のような問いかけが挿入される。
なんのために階段を下りるのか?
なぜ他の誰かではなく太刀洗万智が、ここを下りていかなければならないのか?
「・・・・・・それがわたしの仕事だから」
そう呟く。
知は尊く、それを広く知らせることにも気高さは宿る。そう信じているからこそ、退職してかららも記者として生きていこうと決めたのだ。いまこの場にいるのはわたしなのだから、わたしがやらなくてはならない。(p.163)
元々は観光の記事を書くためにネパール入りしていた太刀洗だったが、王室で起きたある事件(動乱、クーデターと言ってもいい)とその余波に巻き込まれることによって観光に関するライティングどころではなくなる。そして、「いま、ここ」に「わたし」が存在する意味を、自分自身の背負った職業と相まって自問していくことになるのだ。これは『さよなら妖精』において守屋がマーヤに抱いた私的な感情とは明確に一線を画した、気高い思いだと言えるだろう。使命感とも言っていい。そうとらえるならば、マーヤが旧ユーゴから日本に来た理由――自分の国の政治をよりよくするために――のほうを思い起こすことだってできる。
太刀洗は王室の事件のあとにある重要な取材対象者に接近する。そこで彼女は自分自身のペンの大きさと小ささを実感させられることになる。BBCやNHKとは違い、新聞記者でなくなった自分がペンを振るうことはちっぽけなことではある。しかし、そのちっぽけなことが与える影響は実は計り知れないかもしれない。使命感があるからこそ、同時に迷いも背負わねばならないという苦悩が、太刀洗を追い詰める。ただ、その上で太刀洗がペンを振るおうとするのは、やはり10年前の別れ――という意味での私的な理由――が介在するからなのだ。
わたしの大切なユーゴスラヴィア人の友人は、なぜ死ななければならなかったのか?
なぜ、誰も彼女を助けることができなかったのか?
わたしが、知りたい。知らずにはいられない。だからわたしはここにいる。目の前の死に怯えながら、危険を見極めて留まろうとしている。なぜ訊くのかと自らに問えば、答えはエゴイズムに行き着いてしまうのだ。知りたいという衝動がわたしを突き動かし、わたしに問いを発させている。それが覗き屋根性だというのなら違うとは言えない。どう罵られても、やはり知りたい。知らねばならないとさえ思っている。(p.198)
エゴイズムによって未知のものに手を伸ばそうとするのは、守屋によく似ている。ただ、決定的に違うのは備えている能力と経験値だろう。一介の高校生だった守屋は自らのエゴイズムを断念せざるをえなかった。しかし本作での太刀洗は違う。うまくやれば、誰もなしえないことができるかもしれない。死を含め、多くのリスクが存在するという前提の上でではあるが、10年経って守屋にたどりついたのではなく、10年経って確実にかつての守屋を超えようとしていることがよく分かる。それはかつて守屋を突き放した自分自身に対する思いからくるものかもしれない。守屋のやり方を否定はしたものの、守屋の思いまでは否定しなかった、かつての太刀洗自身の方法に向き合うために。
本作はミステリーとしては大きな新鮮味があるわけではない。読み終えてみれば明らかに怪しい奴らが怪しかったというオチではあるものの、読み進めていくうちに当初覚えた怪しさが薄らいでいくのはなかなか見事だとは思った。新鮮味こそはないものの、太刀洗と同じ宿に滞在する各部屋の住人たちとの攻防戦が、宿の外で起きる太刀洗の冒険と相まって謎解きの魅力を増している。そこにはやはり、仕事に対する思いとそのすれ違いがヒントになって現れる。そして、たった一人の仕事ぶりが、思わぬところで波及するかもしれないとき、それでも自らのエゴイズムを貫くことはいかにして正当化されるのかという問いも。
最後まで徹底的にエゴイズムを隠さないでおきながら、職業人としての真っ当さの所在を考える太刀洗の存在は、やはり他のキャラクターにもいささか奇異なものに映るらしい。しかし、その迷い、動揺こそが太刀洗の魅力なのだとやはり強く思う。彼女は元々冷たいキャラだったわけじゃなく、『さよなら妖精』のエピローグにける彼女の台詞を借りれば、冷たく見積もりすぎていただけなのではないか、ということだ。本作ではもうその冷たさ自体も武器に変えてしまっているところがあるが、冷たさの裏にある熱を感じ取らなければ、太刀洗万智というキャラクターについて適切な説明を与えるのは難しい。
10年の時を経て、確かに成長した。そうしたことが実感できると同時に、10年前の青さや痛々しさに思いを馳せることもできる。内容としては別物なので続編として読まなくてもいいですよと米澤は語っていたが、個人的には逆で、徹底的に地続きのものとして読んだ方がいい。個人的に、強く個人的にではあるが、そう確かに思う。10年後の太刀洗万智が確かにいた、と思えるように。
関連エントリー:あのころに感じた切なさを思い返しながら ――『さよなら妖精』再訪(2012年10月12日)
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