Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 書きたいことがないわけではないは、それらをまとめる時間とか労力とか、そういったものがいつのまにか失われているのではないかということに気づいて思い立って文章を打っている。
 とはいえ、小さなことはいっぱい書いているし(各種ソーシャルメディアにおいて)、この前は東京まで行って文フリに久しぶりに参加(2012年の文フリ15以来約2年半ぶり)してきたりと、書くことに縁がなくなったわけではない。けれども何かが失われている、ような気がする。だからよく分からない、抽象的な不安だけが手元にある。

 読むことに関しては意地でも続けている。というか、これがなくなってしまうということは、呼吸をしないことや食事をとらないこととほぼ同義であって、つまり生きること、健康に生き続けるための要件を失うことになる。もちろん生命活動は維持されるだろうが、確実に自分の中で何かが死に絶えるだろう。死に抗うのは、生き物にとってはごくごくあたり前のことだ。
 でもまあ、これはなかなかめんどうなことだとは思うのだけれど、読んでばかりいてはまた窒息してしまうのだ。いくらでも読むべき本は積み上がっていくけれど、それらをひたすら消化していくのは、それはそれで単調に過ぎる。
 だから書くことで何かを残そうとして、2003年、当時まだ中学二年生だった俺は『Daily Feeling』という書評サイトを始めたのだろうと思う。かつての13歳が干支を一回りして25歳になっても同じことをやっているなんて、ばかげているというか三つ子の魂なんとやらというか。いや、結局のところ、自分の根っこは全然変わっていないんだなと安心するんだけどね。

 久しぶりに「書く人」たちと交流できたのは素直に楽しかった。いろいろあってかつて所属していた早稲田大学詩人会のサークル入場を手伝うことになり、朝10時過ぎから流通センター入りしたわけだけど、いつもなじみのある2階とは違い1階というところの新鮮さをまず味わう。とはいえ人はそれなりに入っていて、意外と1階と2階も同じくらいにぎわっているのかもしれない(GW最中というよさもあったのかもしれない)と感じた。
 詩人会のブース近くは詩歌の島だったせいか、両隣は現代詩だったがすぐ裏手には「ネヲ」や「北海道短歌会」といった短歌界隈が構えており、詩と短歌の距離が微妙に遠いような、それでも近いような、よく分からない感覚を覚える。
 少しだけ離れたところに雑司が谷のみちくさ市で出会ったなつこさんが初の新刊を携えていたので、購入しつつあいさつをした。こういう、「書く人」との再会はとても嬉しい。

 まあその他いろいろあったのだけれど、それはまた別の機会に書くとしよう。
 本業としてではなくあくまで趣味という限られた時間や余力の中で、それでも趣味だから基本的に好きなことを好きなようにできるということ。あらかじめ定まった限界を見据えながら、可能な限り余白を最大化すればいい。
 何かを続けるということは、他にやらねばならないこととの折り合いの連続だ。かつては勉強で、いまは仕事で、でも結局はそれくらいの差しかない。その間の中で、自分が自分らしく、なんてのはまあさておいても、書きたいように書いて、生きたいように生きる。それだけのことなんじゃないか。

 文フリでかつての友人たちが出していた同人誌『ZOO』創刊号を買ってすぐに読んだ。当日たまたま声をかけられてなければ、完全に視界の外だった。なんだかんだ、足を運ぶのは大事だ。
 この創刊号は各種エッセイで編まれているが、これから引用する次の文章には心の底から同意したことをここに記しておく。もうほんとに、ここ最近もやもやと感じていたことはまさにその通りなんだよって、なんであのとき直接伝えなかったのかと、少しだけ後悔しつつ。
 
 
ブログや書評をほめられるとうれしい。生活を浸食しない限りで悪あがきし続けて、どこにもたどり着かないけど、もうやりたくなくなるまで文章を書いてどこかに出すという妥協点しか見えない。こういうのを趣味っていうのかな。
内山菜生子「文化系どこで上がるか」 『Zoo』p.9
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