新展開における空白への不安と期待感 ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年)豊かで穏やかな雑司ヶ谷ライフ

2012年12月08日

文学フリマ15に行ってきました

 少し前だけどTRCで行われた文学フリマ15に行ってきたので軽く雑感を。数週間前に同じ会場で行われたM3にも行ってきたが、最近はイベント関連だとここにいくか池袋のサンシャインにいくかの2択になりつつある。
 文学フリマと同日開催になってしまっていたコミティアにも行きたかったけどそんなにお金に余裕がないのでパス。また次回。

■イベントそのもの感想
 
 半年前の5月6日に行われたときと同じ会場配置だったし、今回は開場後ほぼすぐに行ったこともあってか人の動きをじっくり見ることができた。
 買いたい物は最初の30分くらいで全部買えたので、そのあとは現地で人に落ち合ったりブースの人とお話したりわりとのんびり。だいたいイベントにはいつも遅刻する感じで午後から行くことが多いが開場してすぐだと人の入りもまばらなのでのんびり買い物できるし、ブースで多少話し込んでも他の人の失礼にもならないのでいいなーと思った。
 とはいえ2Fを中心にまわってたので(1Fではひとつくらいしか買い物してない気がする)あくまで2Fの印象だけにはなるが、面白かったのは14時〜15時あたりか、それ以降に少しずつ人が増えてきたことである。コミティア組がもしかしたら来ていたのかも知れない。大体この時間になるとどのイベントでも人が引いていくので、こういう光景を見られたこと自体はレアだった。

 次回開催は4月上旬に大阪のなかもず、下旬に幕張メッセ(ニコニコ超会議内の開催)ということでいろんな意味で無理をしているので大丈夫か、という思いが強い。大阪の人と話していても感じたが大阪開催だとまた違う客層が多いだろうし、実際東京からわざわざ遠征していく人がどれだけいるのか。
 同じ月に超会議での開催が決まってしまっただけに、よほどでないと遠征するインセンティブがないような気がするし、そのことが結果的により東京ローカルを強めてしまうんじゃないかという懸念はある。

■買った本について
 


 ざっと数えたところフリー配布も含めて27種類ほど。ざっと全部には目を通し、読みたいところだけを読む方式を採用しているので通読したものはわずかしかない、という前提でいくつか雑感を書いていく。

『Project AMNIS』vol.01
『RE:AMNIS』
http://lamer-e.tv/amnis/
 ちゃんと確かめたわけではないがたぶん東大とかその周辺の学部生の人たちが作ったっぽい一冊。ニコニコ動画でもいくつか投稿して名前を知っている茶ころさんの印象的な表紙と、オフ会で一度お会いしたことのある透明ランナーさんが論考を載せている、ということで購入を決めた。
 本誌の付属のような形で無料配布されたREのほうでは刊行に至った経緯などを読めて面白かった。どのようにして作られたのか、っていうのは同人誌を読むときのひとつの楽しみでもある。
 本誌のほうでは仮想vs.現実というふうに名を打っているが、そうした境界性というよりはインターネットを使うという体験だとか、それによってもたらされるものという形の論考が多かった。PAST、NOW、FUTUREの3部立てになっていて、特にPASTと、NOWの仲山ひふみさんの論考はその色が強い。

 Pasta-KさんやShinさんの論考を読んでいて思ったのは、パーソナルなインターネット利用について考えるとするとSNSの利用という見方が中心に据えられるということ。今後もその傾向が続くかどうかは分からないが、SNS的なものは昔からあったし、SNS的なものはこれからも生まれるのだろうということが、Web2.0から3.0への架橋、もしくはポストWeb3.0を見据えたときの視点の置き方になるんだろうなと感じた。
 架橋がうまくいったのはスマートフォンの発明といったテクノロジーの影響はあまりにも大きすぎるので、ハード部分のテクノロジーがどのように変容していくか、みたいな論考があれば面白かったかもしれないな、と感じてもいる。逆に、テクノロジーによってどのような表現が現れてきたかという趣旨の論考を書いた透明ランナーさんの「インターネットとアートの諸相」は読んでいて面白かった。

『辺境私論』平成24年春号、秋号 http://our-age.jugem.jp/
 新刊は秋号。前回の文フリが初出展らしいこのサークルは高校1,2年生集団というだけあってびっくり。中心メンバーは麻布高校生と聞いてやや納得。事前チェックはしてなかったけど売り子の女の子がかわいかったのと(不純な動機でごめんなさい)辺境私論、というタイトルネーミングが面白かったのもあり立ち読みした後購入。
 評論を中心に秋号では小説の創作もあるなど、等身大ながら意欲的なことをやっているのはよく分かる。明らかに自作だと思われる冊子は文集的なそれに近くもあるが(そのせいか価格設定が低めで少し得した)内容的には年齢的なフィルターを外しても十分読むことはできる。

 とはいえ文学フリマという、最低でも大学生以上だと思われる空間に高校生が出典しているのはレアなので書き手の一人である大熊美優さんと少し立ち話をした。今の高校2年生は95,96年生まれで、オウムや阪神大震災は知らないというよりもそもそも通過すらしていない可能性もあるし、2001年の9.11の記憶はあるかと聞いてもない、という返答が返ってきた。
 秋号の巻頭言には「巨大なるもの」というフレーズがいくつかでてくるが。これはまだ10代であるということと、90年代の空気感を知らない/通過していないことから来る経験していないものに対する畏れ、のようなものがあるのかもしれない。いやほんとはどうなのかわかんないし俺自身も90年代前半はほとんど覚えていないが、90年代後半の空気感、とりわけ1999年の終末論への恐怖みたいなものは小学校低学年のときには共有されていただけに、ゼロ年代以降しかリアルタイムに体感していない彼ら/彼女らの世代はいったいどのような感覚を共有しているんだろうか、というのは気になった。
 大半のメンバーが2年生であることから今後は受験勉強に専念するためサークルとしての活動は休止する模様。残念だが仕方ない。読んだなかだと秋号にある大熊美優さんの論考『「自由、平等、友愛」から愛と自由の関係性を見る』が面白かった。政治学やってる身というのと、最近夏目漱石をいくつか読んだというのも影響しているだろうな。

『フミカレコーズ』 http://fumikarecords.com/
『VOCALOID CRITIQUE』vol.03,05
『UTAU CRITIQUE』
http://www.vocalo-critique.net/
 ボカロクリティークは最初に刊行されたPilot版にまつともくんが論考を載せてたり、ボカロ批評っていういままでほとんどなかったようなものが出てきたこともあって気になっていたので持っていなかった巻を購入。いまのところvol.04は持ってないのでどこかで手に入れたいところ。
 vol.05とウタクリのほうに座談会が載っていたのが新鮮。非女性向けコンテンツでありながら下手すればリスナーの半分以上が女性かもしれない、という特異な空間において、当事者である女性がボカロについて語ることは聴き専ラジオのNezMozzさん以外にそれほど思いつかない。その点でも座談会は批評的な意味でも入っていてよかったコンテンツだと思う。
 こうしたボカクリの経験を下敷きにしつつ、『フミカレコーズ』では同人/インディー音楽全般の批評を目指している模様。前回の文フリに出された音楽系の批評詩をレビューする、という試みも面白くて、音楽について語ることについて語る、というメタ的な読み方ができるようになっている。まだまだ音楽について語る、ということは開けておらず可能性はあると思うし、今後の展開にも期待したいところ。どのように言葉を、語ることを届けるかへの意識がかなり強いのを読みながら感じた。

 ボカクリにはどこかで一回書いてみたいなあ、ともぼんやり思っていたがこの冬のコミケでボカクリの刊行は休止する模様なので乗り遅れたわたくしでした。
 あ、あとボカロ、UTAU曲のクロスレビュー企画(5人の寄稿者が曲を持ち寄り、全員でレビューする)はまだちゃんと読んでないが(個人的にはyplさんや沙野カモメさんが選曲されていてひゃっほー、という気分)まとめがあったのでこれを眺めながら冊子のほうも読んでみようと思う。

『セカンドアフター』EX2012 http://d.hatena.ne.jp/second_after/
 震災後の想像力という文脈で刊行がはじまったセカンドアフター。これで3冊目だが、EX2012とあるように2012年を総括する一冊。あとジョジョ特集があるのだけどジョジョはほとんどわからないので未読。
 そのなかで面白かったのは主宰の志津Aさんとてらまっとさんの対談。「雲の向こう、約束の場所」やアニメ「じょしらく」を引きながら、日常系とセカイ系のふたつの想像力の境界をあやふやにする表現について語る。そもそも日常系、セカイ系という言葉は後付けとして生まれたカテゴリなので、境界も後付けで作られたものでしかない。その上でいつどのような条件で「奇跡」は生まれるのか。映画版「けいおん!」を引きながら「目覚めながらにして夢を見る」という表現で奇跡の可能性を語ることは、境界が曖昧な世界を生き抜くためのひとつの生存戦略としてはありうるのかもしれない。

 3.11を経て、「いかにして退却するか」を改めて突きつけられる今(真っ最中の選挙戦にそうした観点があるのかどうかはあやしいが)どのような死生観と追悼の形を構想しうるのかを、柳田の『遠野物語』を引きながら論じた兎男さんの論考は今回も歯切れがよく読み応えがある。文フリでげっとしたものから読んだ文章としてはいまのところ一番のお気に入り。
 締めくくりとして次のような言葉で語っているのが印象的なので引用する。

この「モーニング・エイジ」にあって、社会はまさしく人間社会として、人と人とが「挽歌」をともに歌ってゆくようなあり方は模索できないだろうか。戦争体験を持つ世代がいよいよ少なくなってゆくとともに戦後社会は彼方へ過ぎ去り、二万人の鎮めるべき死者の魂を持った「災後社会」において、時代は今、「レクイエム」を歌い始めるのだ。かつて私のそばに居たあなたのために。そしてまた、これから生き、死んでゆく私のために。
兎男「『モーニング・エイジ』に生きる」―ポスト3・11の幽霊<ゴースト>たち 『セカンドアフター』EX2012、pp112-113


 65歳以上人口が3.000万人を越えている今、大きな災害がなくても向こう10〜20年近くあるいはそれ以上は多死(そしてかつ、少産)社会に突入していかざるをえない。だからこそ、社会保障という制度的な試みとは別に、個々人が身近な死と向き合うというミニマムな模索も同時に必要となってくる。

『Kulturtrieb-G(KTG)』vol.4 http://ktg.ria10.com/
 ついったーで交流のある鈴木真吾さんや、まりえってぃこと関根麻里恵嬢が所属する学習院の表象文化研究会という、院生を中心としたサークルの冊子。文フリでは常連組のポジション。
 90年代を旧ゼロ年代と呼称し、オウム、阪神大震災、酒鬼原聖斗、エヴァンゲリオンなどなど、90年代を席巻したイベントについて振り返っていく。
 辺境私論のところでも書いたが、90年代前半の記憶があまりないので、オウムのことはほとんど俺の中では地下鉄サリン事件とイコールで結ばれる。坂本弁護士一家殺人事件のこともイメージとしてはあるが、これは後追いの報道などによって植え付けられたもので、事件当時のことはほとんど知らない。震災に関しても、大きな地震があったという事実は記憶にあるだけで、当時5歳になる直前だった俺の記憶には地震のときは早朝だったので寝たまま起きなかったらしい、ということが親によって伝えられるくらいのことしか覚えていない。

 そういったことを踏まえると、辺境私論のところでごちゃごちゃ書いているわりには90年代のことをまだまだ知らない。エヴァもかなり後追いだし。
 ちょうどヱヴァQ公開があったりもしたし、3.11は阪神大震災を引き合いに出されることも多かった。そういえば今年は長らく指名手配したオウムの3人が全員捕まるという、非常にレアな自体が起きた。90年代、とりわけ95年から2012年を架橋する意味でも読む価値はあったなと感じている。

『Rhetorica』#01 http://web.sfc.keio.ac.jp/~t10170to/rhetorica/special/
 慶應の学部生(特に慶應SFC)が中心となって発足したTEAM:RHETORICAによる一冊。当日まで製本作業をやっていたらしく、TRC到着が14時台という怒濤の展開になりながらも、前評判の高さもあってか速攻完売。俺も含め何人かがレトリカまだかなー、とつぶやきながら待っていたのが面白かった。さっきも名前を出したまつともくんやせしもさんが関わっていることもあり、購入。
 巻頭言「つくり続ける生き方をつくる」に「ものづくりの民主化」という言葉を出しているように(この文脈で政治的な用語である民主化という言葉を出すのはちょっとよくわからないところではあるが)個人がものをつくる、ということが時代を進めて容易になりつつあるなか、ものを作り続けることを可能にするための構想を模索する、というところが趣旨らしい。
 瀬下、太田による「フラット化するデザインについて」では、つくることのハードルの高さを超えていくために、まずは楽しむ、求めることが重要だと指摘する。ただ、それだけではつくり「続ける」ことを可能にはしない。だからこそ、まつともくんの「祭りの後には何が残るのか」と題された通称文化祭論が生きてくる。この瀬下、太田の文章に始まり、まつともくんの文化祭論、つまり終わらない祭についての議論で終わるこの一冊は、読書体験として非常に気持ちいい。

 あえて批判的に検討すると、何もかもがフラットになったとしても内容としての質はきっと求められるし、続けていくことを考えると何かを糧にしないといけない。つまり、続けるということに対しての反省と回顧や、つづけていくためのインセンティブの設計が必要になる。「可謬主義」や「探求」という概念は創作のハードルを下げることには寄与していると思われるが、インセンティブの設計につながるかどうかと言えばやや弱いように思える。
 ただ、おそらくそうした持続可能性という危惧も考慮に入れた上で、村上裕一が『ゴーストの条件』で中心的に記述した「ゴースト」という概念を援用し、論考は終わりへと向かう。要は、文化祭という祭が終わったとしても生きながらえるものを祭の中に設計することができれば、終わらない祭の永遠の対象として「ゴースト」がよみがえる。やる夫も初音ミクも、終わらないどころか日を追うごとに「成長」していることようにも思える。
 しかし今度は、永遠に続いてしまうものを続けたくないと思ったときに、どのようにしてやめればよいのか、という問いも新たに立ち上がってくるとも言えるのではないか。と、軽くツッコミを入れてみる。

 長くなったのでつづき。てかまだ10/27しか紹介してないのか。。
 特に創作関連については全然書けてないのでまた後日あらためて書けたら書く。書けたら(大事なことなので2回)
 

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