Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 ごぶさたしてます。
 このあいだに4本くらいの文章が書きかけのまま完成できずという謎の状態になっているので、せっかくなので予告編を書いてみた。いや予告編書くくらいなら本編さっさと書けという話ではあるのだが。というかもっと別の重要な文章を書けとも言いたいわけだが・・・
 という感じですが、ひとまず予告編を4本お送りします。予告編なのであくまでまだ仮題。

「とらえきれないということ、そして過去を体感すること」
 この一年間に4回ほど東北地方に行った、というお話。いずれも被災地域を若干ながら訪れていることから、感じたことをつらつらと書いている。
 とらえきれない、ということを実感するとともに、重要なのはそこに過去があった、と感じることだ。もちろん膨大な過去はとらえきれない。けれども、そこには確かに過去があったはずだ、と感じることはできるはず。目の前に広がる現実と同時に、想像力の地平で試されているのかもしれないと思った。
→掲載エントリー:とらえきれないということの先に道標を探す

「ほんの少しの休息を経たあとに」
 予告編と言いつつこれだけ完成しないかも。結果的にめまぐるしかった9月に入る前の8月をふりかえってみよう、といまは考えている。

「青き時代に感じた切なさを思い出しながら―『さよなら妖精』再訪」
 アニメ「氷菓」はすこしまえに全22話の放映を終えたが、並行するように古典部シリーズを読み返したり、さらについでに『さよなら妖精』も読んだり、ということをしていた。
 で、その古典部シリーズを概観したうえで『さよなら妖精』を読んだらいままでとはすこしちがった面白さと切なさがあった、みたいなことを書こうと思っています。元々同じものとして構想されていたらしいので(*1)近いっちゃ近いんだが、違うところは確実にある。そこに痛みや切なさがこもっている、ということがノンシリーズで一冊だけど秀作たらしめているところかもしれない、と思っているよ。
→掲載エントリー:あのころに感じた切なさを思い出しながら―『さよなら妖精』再訪
 
「ヴェーネ論序説」
 一部の人には近々書きます、と言いながら執筆そのものが遅れていたヴェーネ論ですが、ようやく4000字ほどの序説を公開できそうな段取りなのでたぶん公開します。
 せっかくなのでどこかに寄稿したいなあとかほざいてましたが寄稿できるような代物ではいまのところないし、あまり本格的な分析には入ってないのでここで公開することにします。
 序説で試みたのは「なぜヴェーネ論を書くのか」というそもそも論的な動機の部分や意義の部分と、「なぜヴェーネは世界を救ってしまったのか」というセラブルのストーリーの本質的な部分。もちろん、本質的とはいってもひとつの見方でしかないとは思っているけどね。
 なんとなく書き上げて思ったけどああなんという偏愛なのか、という感じなので
 いまさらだけどそもそもヴェーネってなんぞ、セラブルってなにそれというかたは右カラムのカテゴリのなかから、Seraphic Blueのところをクリックしてください。過去に書いた3本のセラブル関連記事を閲覧できます。もしくはこちらをクリック。
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