Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 去年の11月に卒論研究のインタビューとちょっとしたフィールドワークのために岩手県の一関を訪れた。
 今年の1月に青春18きっぷ2枚分を使って、福島市内や郡山に会津、ほんのちょっとだけ磐越東線に乗っていわきにも足を運んだ。ずっと会いたかった、某巨大動画サイトで出会って以来2年半の付き合いになる某氏に会うこともできた。一緒に食べたラーメンはしみるようにおいしかった。磐越東線のなかでいわきの近くに住むおばあちゃんと話したことは、旅の一幕としてなつかしい思い出だ。
 8月の終わりに、松島町から東松島市へ、そして石巻市をめぐる機会を得た。

 四国出身の俺は東北に対するリアリティをほとんど持っていない。ゼミ生のなかに東北出身者がたまたま3人もいていろんな話はしたし、教科書で地理的なことや歴史的なことは知ってはいるが、せいぜいその程度でしかない。
 3.11以降、何かをしたい、とはずっと思っていた。所詮学生かもしれないが、「何か」はできるのではないかと。
 しかしながらどこか遠くで「何か」をする前に、まずは何より身近な場所である東京で、他でもない自分の身の振り方を考えなければならなかった。両立させることは不可能ではないだろう。ただ、そんな余裕は2011年の俺にはあまりなかったし、言い訳のようにして遠くに行くことはしたくなかった。

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 手の届く範囲は限られている。そんななか、東京でやってきたことは膨大な映像を見ることだ。
 NHKを中心に、3.11に関するドキュメンタリーをかなりの数録画した。いくつかはDVDに焼いたので総量は分からないが、いまでもHDDには100本以上の数がある。
 ほかにも、たとえばNHKは毎日平日の2時から「お元気ですか 震災に負けない」という各地域をつなぐ番組で確実に意識しているが、民放が震災のことを伝えるということはほとんどなくなった。良い悪いではなく、もうすぐあれから1年半経つということはそういうことなのだろう。

 以前、「その街の子ども」についてのエントリーを書いたとき、宇野常寛の「巨大なものをどうとらえるか」という言葉を引用した。
 今回、あらためて思うのはあまりにも3.11という現象は巨大すぎるということだ。全体像をとらえるなんて一人の人間にはおそらく不可能だろう。過去ないくらいの死者の数、史上に残ってしまう悲惨さが今でも尾を引く原発事故、いまだ断続的だがやむことのない余震、そして残されて生活している数十万の人々・・・集計的にとらえることでも十分人の無力さを伝えているように見える。そして実際”その場”に立つと、なおさらだ。

 映像を見て何度もシミュレーションはできていた、という部分はある。それに、手元のタブレットはオフラインでもなんとか動いてくれるグーグルマップ先生がある。あの地名の場所にいくと、ああいう景色が見えるのだろう、というある程度のイメージはあった。
 実際、映像で繰り返し見た光景は何度も見た。積み上がったがれきの山、壊れている家、地盤沈下して水がたまっている土壌、所狭しと敷設されている仮設住宅の数々。名詞で語ることは簡単だ。見たことがあったものを、その場にいって確かめた、ということにすぎないのだから。

 こらえられない、と思ったのは、あらかじめ見ていたもののがあまりにも膨大なことだ。
 「巨大なものをどうとらえるか」というのは3.11という事象にこめられた観念的な意味合いでもあるし、何より実際の現場が膨大なことによるのだと、それだって分かってはいたが改めて感じた。映像はあくまでも全体を切り取ったものにすぎない。その、途方もないスケールを伝えるには限界がある。
 いや、限界があるにせよ伝えようと様々な映像を届けてくれたことにまずは敬意を表すべきかも知れない。

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「帰ってきたら誰かに伝えよう」という気持ちが消えていったのは、そのあたりだった。「もしもこれが自分の地元で起きたことだったら」という考えが頭をもたげた。そうしたら、もう冷静に事態を眺めることができなくなった。そこに住む人の気持ちを想像することはできなかった。その事実がよけい私を動揺させた。
「伝えられない、ということ」(これ以上のばかにならないために)

 東松島の沿岸部、正確には浜がある入り組んだ地形の場所に降り立ったとき、なおちゃんさんのこの言葉の意味を理解した。いや、それ以前に体感的に、浜のある場所で生まれ育った自分の15年を思い、こみあげてくる何かをこらえた。ひとりだったらこらえられず、吹きだしていたのかもしれない。
 東松島はちょうど海岸沿いに仙石線が通っている。岸壁もさほど高くなかったので、おそらくオーシャンビューの路線として旅行者や地元の人たちに親しまれていたのだと思う。あれ以来、駅が破壊され、脱線という言葉が似合わないほどレールが壊れた結果、いくつかの区間が動いていない。将来的により陸地のほうにレールを引き直すことで新しい仙石線のルートを作るらしい。何年後のことかはよく分からない。当然だが、それまで地元の人の足は(代行バスがでているようだが)制限される。
 浜で育った15年間を振り返る機会は東京にいるとさほどあるわけではない。ただ、地元を離れたことでより相対化できるようになったし、相対化できるだけの年月も流れた。地元を離れて今年で8年目(うち3年間は高松での生活。県内ではあるが「地元」とは別次元)になるから、この倍の年月を地元の外で重ねると最初の15年間はより過去になる。

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 話は少しそれるが、『さよなら妖精』のなかで、登場人物のひとり太刀洗万智は市内にある墓地を訪れるシーンでこうつぶやく。「没年が読めるわ。・・・・・・過去って、本当にあったのね」と。この短い言葉にも独特の重みがあるが、この言葉を聞いたあとの主人公守屋路行の独白が興味深い。
おれはこういう場所に来ると、じりじりとした焦りのようなものがこみあげるのを抑えられなくなる。おれ自身は決して名誉欲の強い人間ではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかしそれでいながら、ここに葬られた幾千のひとびとを思うと、ただ生きてただ死んでいくことは望ましいことではない、という気になってしまうのだ。(中略)俺は、高度な手法を手にしていながらなにも把握していない。周囲が複雑すぎて、なにから手をつけていいかわからない。ならせめて道標が欲しい。道標が。
米澤穂信『さよなら妖精』(2006年、創元推理文庫、p174)
 
 ストーリーの都合上、守屋の焦りはマーヤというヒロインへと向けられたものでもある。しかし、膨大な数の死の余韻を目の前にしてどう受け止めていいか分からない、という感覚は、今回東松島を訪れて感じたことと非常に似ている。
 津波が残酷なのは、行方不明として処理されている人たちが、埋葬すらされぬまま、つまり死の余韻すら残さないまま消えてしまったことでもある。そのリアリティは数字でしか分からない。
 それでも、土壌や建物にははっきりと余韻が残る。多くの人が流されたのだろうという意味で過去が本当にあったことをいやおうなく実感させられる。

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 この週末に、園子温監督の最新作「希望の国」が公開された。南相馬でロケを行い、もう一度原発事故が起きた時の日本を仮想したフィクションに仕立てている。
 他方、現在進行形で避難している双葉町民を追ったドキュメント「フタバから遠く離れて」という映画がひっそりと公開されていることも最近知った。
 わたしたちはまだ、語り足りていないし表現し足りていないのだろう。Too big to failという表現がビジネスの世界にはあるが、3.11はToo big to captureとでも言えばいいのだろうか。

 それでも。それでも、何かを語ること、あるいは表現することによって、それぞれのコンテクストに沿った道標は見えてくるんじゃないか。
 自分なりにcaptureしていくためにまだまだみつめ続けていこうということを、あらためていまは感じている。
 

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