ふと受験生ブログランキングっていまでもあんのかなーと思ってググったが、昔見ていたところはもうなかった。amebaがやっているのはヒットしたけど。あと昔見ていた受験生ブログとか同じ人が書いた大学生活のブログなんかのリンクをいくつか見つけたが多くの人が大学1年生の途中で更新が止まっているかそもそもNot Foundだった。
 ブログがそれだけ過去のものになりつつあるのか、あるいはネットサービスの日持ちがさほど長くないというありふれたことを意味するのかはよく分からない。単純に素朴に思うのは、長い間ネットをやっているとそのときそのときでしか出会えない文章やコミュニケーションがいかに貴重かということはソーシャルメディアをいくつか眺めていても実感する。ある日突然ツイートしなくなったり、アカウントが消えてしまっていたりということはまったくもって珍しいことではない。

 これはブログ以降に顕著かもしれないが、ネット上でアカウントを取得することで、あとはテキストを連ねるだけでログを残すことができるようになった。ブログが画期的だったのはHTMLだとかCSSだとかをシステムに組み込んでいるのであとは書くだけ、ということはもちろんだけど、アカウントを作る/作らないという文化を定着させたことにあると思う。ソーシャルメディア全盛の時代にブログはややかすんではいるけれども、ブログが根付いたからこそ(あるいはケータイサイトで日記サイトやプロフサイトが根付いたという現実もある)文字によるネット上のコミュニケーションの裾野は格段に広がったんじゃないか。
 とはいえ、当たり前ではあるが前述したように多くの人が長続きするわけではない。長く続けるためにサービスを使うことを想定している人はさほど多くはないだろう。流行っているから、あるいは周りの友達がやっているからといったトレンドやクチコミ性に多分に影響を受けているはずである。
 
 前置きがごちゃごちゃしてしまったが、ここで書きたいのは表題にあるように、コミュニケーション自体は長続きしないかもしれないが短期的には継続性を持っている。結果、Not Foundになってしまうと別だがログ自体は残る。そのページのリンクをたまたま踏むことで、思わぬところで過去に支えられているかもしれないと思わずにはいられない。
 支えられている、と書くとやや大げさというか感傷にも見えるかもしれないがそこまでのことがここではとりあえず考えない。素朴に、あのときあの人とこういうコミュニケーションをしていたのか、だとか。あんなことをあのときは思っていたのか、ということを振り返るきっかけを過去ログは与えてくれる。ログであるがゆえにバイアスは入らないそのままの情報だし、支えられているというよりはなつかしく思う、が適切かもしれない。

 少し話は変わるが、去年の暮れごろからハマっている四つ打ち系アイドルユニットのTomato 'n Pineの"Life is so beautiful"という曲の歌詞に次のようなフレーズがある。

素敵な日々は続いてく さらに盛ってくんだ
誰だってキャプテン
出会えたんだ!
駅のホーム いつかのガールズ
響く笑い声を
懐かしく思う ありがとう!


 「今しかできないことはない」と繰り返すサビが印象的な曲で、デビュー曲の"Life is Beautiful"のアンサーソングとして書かれたのがこの曲。この間2年の経過があり、またデビューのころとはメンバーに入れ替わりがあり、2年前といまを対称させる意味もあるのだろうと思うが元曲とはいくつかの場所で歌詞が変わっている。その変わっている部分の中で一番印象的だったのが、上に抜粋した部分だ。
 元曲だと後半の部分が「駅のホーム ベンチがもうスパーク 響け語りエンドレス おしりが冷たい 生きてるんだ!」になっていて、so〜のほうの歌詞を見ると「2年前のわたしたち」を眺める眼差しとも重なっているように思える。ベタに読み取ると元曲から2年後のいま、駅のホームにいる女の子たちの笑い声に過去の自分たちを重ねている、ととるべきかもしれないが、アンサーソングとして書かれているから、こういう推測は悪くはないだろう。
 言いたいことはこうだ。この歌詞は、過去の自分と今の自分を、時間の経過を挟んだことによって別の自分としてはっきりと線を引く一方で、時間の経過という連続性を意識させている。

 過去は過去ではある。ただ、過去は現在に繋がっている。繋がっている、とはっきり認識することができるのはひとつは人のつながりであろうし、自分のなかにある記憶かもしれない。
 自分や自分以外の人が過去に書いた日記とかブログとか、あるいは交わしたメールを最近ちょっとずつ読み返したりするんだけど、当たり前だけど忘れていることが多くてけっこう面白い。一番忘れているのは「感覚」で、変化してしまったらそれ以前のことは忘却してしまうから記録される価値はきっとある。
 感覚には明確な断絶があるように思う。たとえば子どものころ、大人を見上げていた感覚を思い起こすことは難しい。断絶があると感じるのは、明確ではないかもしれないが歳をとるにつれて漸次否応なく変化するものであるからだろう。変化しない場合は、社会から承認を得られないかも知れない。まだまだ子どもだな、と言う言葉を浴びせられることによって。
 
 なんとなく続いていたコミュニケーションはある日どこかで終わっているし、感覚は成長とともに変わっていく。そういうふうにして大人になって、成熟していくんだろうと思っている。
 すべてが刹那的だった、というわけではないが、結果として刹那的だったということが過去を振り返ることによってこんなにも発見するとは正直思わなかった。自分の人生の選択の結果そうなっている部分もあるし、確かに刹那的な生き方を自覚していた部分はある。それでも時間は進んでいく残酷さとか、いつのまにか未来にたどりついてしまっていたりだとか、刹那的であることを自覚しようがしまいが未来はやってくる、ということにはもう少し自覚的になっていいのかもしれない。

 まあそれでも未来に進むためにはせいぞんせんりゃく〜を練らなきゃいけなかったりとかめんどうくさいこととかつらぽよなことがたくさんあるので、過去に支えられているというある種の勘違いをしながら生きていくことにしようと、ここ最近は考えている。
 もひとつ、独りよがりにならないための予防線として、過去から現在、現在から未来はつながっているらしい、という自覚を内面化しながらね。あとは当たり前だが過去の経験はちゃんと生かしましょう、ちゃんちゃん。

今日の一曲
Tomato 'n Pine"Life is Beautiful"
 
元曲のほうだけは公式でようつべに上がっていたので転載。PVは素敵な百合でしたごちそうさまでした。
"Life is so Beautiful"のほうは活動再開後の最初のシングル、『旅立ちトランスファー』収録なのでそちらをどうぞ。わたしは「旅立ちトランスファー」を聴いてトマパイにゾッコン(死語)になりました。

旅立ちトランスファー
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