Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 「いま、ここに立つ」ということの意味をぐるぐると考え続けている。これは去年の秋口に就活なるものを始めてから少しずつ意識してきたことで、今はもっと強く意識している。
 ふたつのベクトルがある。過去に対してか、未来に対してだ。
 過去から考えて「いま、ここに立つ」意味とはなんなのか。就活では自己分析という言葉に象徴されるように、経験的な蓄積を棚卸しすることで、演繹的に自分とはなんなのかを考える行為であると思っている。帰納的に考えるのもアリだとは思うが、演繹的な解釈のほうが就活では相手にとって分かりやすいだろうし、しっくりくるだろう。「なぜ?」という質問の答えのひとつとしては、ふさわしいだろうからね。
 じゃあ、未来を見据えたときに「いま、ここに立つ」意味とはなんなのか。そもそも未来とは誰のための未来なのだろうか。自分にとって、自分の家族にとって、社会全体にとって・・・?
 
 過去を振り返ることによる経験的で演繹的な解釈はわりとスッキリしたものが得られるようになったと思う。あるいは、ラカトシュ流に言うならば自分という原理における堅い核がなんなのかが掴め始めた(*1)、というところだろう。
 自分はこのブログでもそうだしツイッターをフォローしている方は重々お気づきだと思うが、基本的に興味拡散型の人間である。そのときどきに面白いと思ったものを、歳を取るごとに増やしている。もちろん歳をとってから興味をなくすから総体がどんどんふくれあがっているわけではないが、時々自分でも手に負えなくなる。部屋の中やパソコンのハードディスクは余裕がないのがデフォである。まあ、このへんは最近「Where are you now」でも書いたのでそっちを読んでもらいたい。

 話は少しそれるが、最近フジテレビのノイタミナというアニメ枠(*2)で「あの日見た花の名前を、僕達はまだ知らない」(以下、あの花と表記する)というアニメを春からのクールでやっているのだが、これがなかなかに面白い。非常にベタな入り方をしつつ、見入ってしまう不思議さがある。じんたん(宿海仁太)、めんま(本間芽以子)というふたりの少年少女を基軸としつつ、あなる(安城鳴子)、つるこ(鶴見知利子)、ゆきあつ(松雪集)、ぽっぽ(久川鉄道)という6人の物語である。見てないので何とも言えないが「男女六人夏物語」とはこういうお話だったのだろうか。
 あの花には固有の、いくつかの特徴がある。まず、アニメとしては珍しく(特にここ最近はやりの空気系アニメと比べると分かりやすい)明確にグループ内の恋愛構造を前面に押し出していて、男女比も等しいということ。どちらかというとアニメというよりは90年代のトレンディドラマの得意とした文法だが、語られるネットスラングや若者言葉は、明確にゼロ年代のノスタルジアだ。セリフや言葉で言えば「シュタインズゲート」も近い意図を持ってはいるが、恋愛をここまで前面に押し出す少女漫画やエロゲーが原作でないアニメは久し振りに見たなあ、と思った。
 そして、主題歌が「secret base〜君がくれたもの〜」というZONEの曲のリメイクであるということ。今年は原曲の発売日から換算して、歌詞にある「10年後の8月」の10年後の時期にあたる。ちなみにZONEは期間限定で復活することにしたようだ。これはかつてファンだった自分としても非常にめでたい。これこそノスタルジアが現実になるということだろう。
 
 あの花のキャラクターは想い出の中の回想シーンにおいても、そして本筋である今を描くシーンにおいても、非常にリアルな行動様式を見せる。「あの花」という物語が始めからあるのではなく、彼らが生々しくも生き生きと動くことで物語を紡ごうとしている。たとえそれが小さな物語であっても、15,6歳の体で引き受けるにはあまりにも大きい。群像劇といってしまうのがはばかられるほどに。
 大きい理由は「めんま」というヒロインが死んでいるという設定があるからである。恋愛感情という今を刹那的に生きる生々しさを醸し出しながら、同時に常に隣にある死と向き合わねばならない。これは15,6歳の子どもが背負うものとしては大きすぎる。ふたつの間を行き来できるほど、誰もが器用なわけではないだろうし、まだまだ未成熟だろう。あなるは何度もじんたんに感情をぶちまける(*2)し、ゆきあつは変態的精神を開花させてしまうし、9話では「俺もびっくりした」と言うような行動をとる。彼らは自分自身にも既定されないし、めんまのみにも規定されていない。6人がそれぞれのことを相対化しているからこそ、思いのつかないような行動をとっているのだろう。
 だからこのアニメは物語を作る神なるものが不在であるように思う。制作者は「secret base」の歌詞ではないが、誰かがどこかで経験してきたような体験をベースにしつつ、視聴者の目の前で新しい体験を生み出し、それをアニメの消費という意味で共有化しようとしているにすぎない。

 だからZONEを知っている世代であるということも相まって、常に「あの花」の前にいる視聴者のひとりとして、自分で自分を問い直しているように思う。
 自分は自分の物語をこれから作っていけるだろうか。一緒に悩んだり笑ったりケンカしたりできる相手がいるだろうか。そして何より、自分はどの程度「生と死」と向き合っていくべきなのだろうか。
 こうした未来を前提とした今という刹那性、そしてかつ根源と最果てを見据える。つまり、過去、現在、未来が全てこのアニメには含まれているように思えてならないし、その描き方が非常に感情的で等身大なのだ。だから妙にリアルに感じるのだ(少なくとも俺は

 話を現実に戻す。「いま、ここに立つ」ということは過去を引き受け、今を見据え、未来を手にしようとするという、総合的な枠組みから見ることができたらベストだろう。むろん、そんなことをできるくらいなら始めから誰も苦労しない。特に将来の不確実性は満ち満ちているのだから、未来とは何ぞやである。
 「あの花」がつきつけようとするのは、過去・現在・未来の中で自分をとらえることの限界だろう。今のところ明確に表しているのはゆきあつとあなるかなあ、と思うが最新9話をみると主人公のじんたんも意識せざるをえなくなっているようだ。
 ただ、彼ら6人にはある目的がある。「めんまのために花火を打ち上げよう」という、不可能ではないけれど困難な目標だ。そして花火の打ち上げという行為は、「いま、ここから」始まってあてのない未来へと向かう行為への比喩にも思える。
 もうひとつ、あえて彼らは同じ目的を掲げて「今」を生きようとする。「いま、ここから」何かを始めること、過去を再定義して未来へと向かうこと。その際には何かを失うかもしれないし、誰かを傷つけるかもしれないが、前へ進む痛みを共有することで逆に前に進むエネルギーにもなっているのかもしれない。

 ここまで積極的な刹那主義とも言えるエネルギーを、愛することができるだろうか。
 就活もある意味非常に刹那主義の戦いだ。スタートがほぼ一定に設定され、ゴールへの道筋がいくらか示される。その先の未来よりもまず、「いま、ここから」始めることを積極的にも消極的にも強いられる。それ自体を俺は否定的にとらえるつもりはない。ただ、自分がそれを愛せなかっただけだ。
 愛することができたら楽だろうと思う。自他的に委ねてしまえばいい。誰かが決めてくれるというのは本当に楽だ。やるべきこともなんとなく分かっているのだから。

 3月で就活からいったん足を洗って(またもしかしたら復帰する可能性もあるので先のことはなんとも言えない)いて、自分なりの刹那主義をどうやって構築しようかとずっと悩んで考えていた。色んな人と会ったり、自分の過去を再定義したり、未来を構想したり。
 たぶん、いくらそうした作業を積み重ねても完全な設計などできるはずがない。自分自身が不完全だし、未来も不確実だから。ただ、そうしたインパーフェクトなものだからこそ、愛することはもしかしたらできるのかもしれない。足りないものを補うことの出来る何かを、見いだすことができるかもしれない。
 
 「いま、ここに立つ」という意味をずっと考えていて、社会の残酷さも頭の中ではなんとなく分かっていて、でも生きていかなきゃならないし生きていきたいという身体的な意志は失いたくない。
 ここ最近何度か口にする「サヴァイブしたい」という意志は過去の再定義で確認できたことである。意外と自己分析は悪くないじゃないか、とちょっと笑ってしまった。まあたぶん自己分析というワードが諸々のバイアスを受けてねじまげられてるんだろうけれど。
 中3のときの自分、高3のときの自分も悩んで悩んでそのときを生きていた。そうした記憶と経験にもいくぶんか支えられているし、周りにいてくれた何人かの旧友にも感謝している。ひとりでは無理無理、絶対。分かってはいたけれど、そこまで自分はタフじゃなかった。それを認めないとたぶん前には進めない。
 逆に、まだまだ自分は弱いからくじけないためにサヴァィブする、強くなるという気持ちを持ちたい。もちろん、強さこそが正義ではないと思うから、強くはない/なれない人への視野は失いたくない。昔の俺自身は本当に弱かったしね。希望のかけらは確保されてもいい。「ワイルドアームズ」はそういう物語だったし、今なるけみちこの音楽を聞き返すとまた実感が変わってくるだろうと思う。

 最後に、Seraphic Blueのep.34で上司であるハイディ姐さんが逃げまどうジュブナイルのフョードルくんにぶちまけるセリフを引用して締めくくりたい。
 ついったーに投げたら複数のfavとRTをもらってけっこうびっくりした。長いけどフリゲだからみんなプレーすればいいと思うよ!w

見ていれば、そんな事は分かるわよ。
追い立てられる事でしか歩く事の出来ない足。
己の道を騙ったかりそめの幻像。
自分の意志で歩いている様に見せ掛けて、
その実、レールの上を“歩かされている”だけ。
好い加減、そのレールを放棄して、
自分の道を踏み出して御覧なさい。
エリート意識と表裏一体に存在する、“劣等で在る事”への怖れ。
優等を目指して歩くのではなく、劣等から逃げ惑う行為。
そんな自らの影にレールを敷いて貰っていても、
生きているとは呼び難い。
恐らくは過程に旅情も無く、
薄暗く乾いた終着駅が待っているだけ。
改札の変わりに、嘆きと孤独の棺桶を用意して。
 


 興味深いのは、このあとハイディがフョードルに「あなたは恵まれている」と言っていることだ。
 それはなぜなのか、そしてこのあとふたりはどうなるか、はネタバレになるのでぜひプレーしていただきたい(逃げる


*******
今日の1曲
ZONE「secret base 〜君がくれたもの〜」(武道館Live ver.)

 今回はこの曲以外にあるまい。
 そして端的に言おう。MIYUが若すぎる。


*0 ちなみに「secret base」はあの花のEDの他に「今日の5の2」というアニメのEDにも声優が歌ったバージョンがあったり、ガールズバンドであるSCANDALがZONEをリスペクトしてカバーしたバージョンもある。せっかく今年は歌詞通り10年後なので、それぞれ聞き分けて見るのも面白いかもしれない。youtubeで検索すると複数ひっかかってくるはずである。

*1 「Where are you now」で書いたふたつめの立ち位置の難しさ、に対するひとつの回答が自分の中で出そろってきた気がしている。それについて書く機会があるかどうかは分からないが、この前人とあって話をするときにすんなり整理して話すことができたので、たぶんそう間違ってはないだろうと思う。もちろん、「ひとつ」の回答に過ぎないけどね。あえて相対化させる。

*2 ノイタミナという聞き慣れない語だが、noitaminaと表記すると・・・ということである。ここ何年かだと「ハチミツとクローバー」「図書館戦争」「東のエデン」が代表的なアニメ。

*3 後ろから抱きついて涙した8話がひとつの山だったかな、と思う。そこまでしてもなお振り返らないじんたんを目の前に、あなるは立ちつくすしかなかった。こうした山の作り方もドラマらしいなあ、と思った。CM前の入りとか、次回への続くシーンの切れ方とかね。
 

 
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