Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか
災害ユートピア―なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか


■1.読み始めたきっかけとか
 地震が起きる前に読み始めた『災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』を3月15日に読了した。最近話題になっていて4刷も決まったという話を聞いて、多くの人に読まれるということは興味深いし、いい傾向だと思う。
 ネット上の知り合いに「バーニングさん、って地震前から読んでましたよね。預言者ですか?」と半ば冗談めかしく言われたがそんなことはなく、読み始めた伏線は色々あった、ということがまず一つ。
 具体的に言えば1年間のゼミの中で災害とボランティアのことや、災害とコミュニティということを指導教員が何度も話題に出していたので(ゼミの中で大きく扱うことはなかったものも)気になっていた。
 あとは、1月に阪神大震災から16年が経過し、そのことを映画化した「その街のこども」(感想を書くつもりが遅れている。どこかで改めて書きたい)を見たという経験が大きい。

 想定外という文面が3.11以降散見されたが、結局のところ日本は台風や地震、津波といった自然災害から不可避なのだということが改めて確認できた、ということにすぎない。今まで何千年も起こってきたことだし、この先何千年も経験することだろう。
 だからこの機会に、大学3年生のしめくくりとして読んでおきたい、と思った。しかも海外の人が書いた文章というのは日本だけをテーマにしていない、という意味でも興味深かったし、読み物として単純に面白そうだ、と思ったのも動機のひとつ。

 とはいえ、だ。もっとダイレクトなきっかけは柄谷行人の書評である。言うなれば、彼こそが預言者だろう→http://book.asahi.com/review/TKY201102080172.html
 本書にはそれこそ今後私たちがどうすべきか、グラウンドゼロから遠いところにいる人が被災地のことをどう見守れば良いのかについて示唆的(あくまで示唆、であることがポイントかな)なことがいくつも書かれている。


■2.本書の内容と着目点
一時的に見いだされる「災害ユートピア」を永続化するにはどうすればよいか、という問題は残る。しかし、先ず、人間性についての通念を見直すことが大切である


 先ほど挙げた書評を、この一文で柄谷行人は締めている。今回も地震直後に人間性を疑うようなデマが多発したが、そうした観念の修正は難しい。
 この本にある事例では1906年のサンフランシスコ地震と2005年のニューオーリンズのハリケーンカトリーナ被害が象徴的で、権力を持つものの「思いこみ」によって無節操な秩序維持が行われた。秩序維持という文脈でなんでもない人が何人も亡くなったという。

 確かに一部では火事場泥棒のような犯罪行為はあっただろう。ただ、ニューオーリンズでは地元のギャングが高齢者や女性を警護し、また略奪行為によって必要な物資や薬品を送り届けた(行為は必ずしも正当化できないが)という。
 「災害ユートピア」とは以前も記事に書いたが市民レベルで巻き起こった利他的で非排他的な交流であり、本書では「地獄の中のパラダイス」とも表現されている。その市民の中にギャングが含まれていることも象徴的であるが、違和感という言葉は通用しない。現場ではそれが最もナチュラルだったのだろう。

 たとえば
「危機的な状況が続く中で、人々は互いを愛していた」(第1章,p94)という言葉も印象的だ。
 岩手や、宮城の沿岸部。それに停電が続く福島や茨城といった地域は仙台より事態はもっと深刻だろう(*1)。テレビで映像を見るだけで想像を絶する。ただ、すでにネット上で多くのムーブメントが立ち上がっていて、2005年のニューオーリンズでもボランティアがネット経由で多く駆けつけたという。
 東京で似たような現象があったが、ハリケーンで家をなくした人々のために20万人の人が自宅に迎え入れたいと申し出た(p381)現象や、「数年間にわたり、延べ数千人の大学生が春休みを利用して(中略)再建を手伝った」(p393)ようだ。おそらく95年以降の神戸でも同じ現象はあっただろう。
 こうした膨大な事例について筆者は「何が可能であるかを、いや、もっと正確に言えば、何が潜在してるかを明白に示してくれている。それは、わたしたちのまわりの人々の立ち直りの速さや気前の良さ、そして別の種類の社会を即席に作る能力だ」(p428)

 「第二に、人々と繋がりたい、何かに参加したい、人々の役に立ち、目的のために邁進したいというわたしたちの欲求がいかに深いものであるかを見せつけてくれる」と述べる。これこそが愛である、とも筆者は述べる。
 さらに従来の社会ではこうした現象は埋没してしまうこと(冬眠という表現が言い得て妙だ)にも触れ、「災害は、世の中がどんな風に変われるかを浮き彫りにする。相互扶助がもともとわたしたちの中にある主義であり、市民社会が舞台の袖で出番を待つ何かであることを教えてくれる」と述べる(p439)
 「世の中はそういったものを土台に築ける」と触れ、前述した”地獄の中のパラダイス”は、「わたしたちが何ものになれるかを教えてくれる」と述べ、「わたしたちがすべきことは、門扉の向こうに見える可能性を認知し、それらを日々の領域に引き込むよう努力することである」と、本書を締めている。

■3.非日常で得た経験を日常へ生かせるのか
 最後に関しては今までとこれからの社会のありかたについて書いているのは興味深いが、少し抽象的で詳細な分析とは言えないしし、それこそ地震を実際に体験した私たちが「今、何が出来るか」については触れていないに等しい。
 ただ、これからの長い道のりを考えた上で参考になる部分は多いし、可能な限り参考にしていくべきだろう。
 自分自身の問題意識に繋げて言うならば、日本はこれから人口減少社会に入るし、地方では過疎がより深刻になるだろう。いずれ自分たちでどうにかするしかない、という局面が訪れても不思議ではない。
 もちろん回避できるならそのほうが幸福かもしれないが、明るい視点を描くより一方でネガティブなことをどうやって持続的な社会設計に織り込んでいくか、ということのほうが現実的に思える。両輪が必要だ。

 3.11の復興に目を向けても同じようなことが言えるんじゃないか。政府や東電による補償や政策展開はこれからなされていくだろうが、一方で政府不信も根深いし東電は信用されてないに等しい。たとえ東電だけが悪ではないにせよ、一度焼き付いた意識は根深いだろうから。
 東北地方は経済的に豊かではないが、愛郷心は豊富な地域だろう。それらを元にソルニットのいうような「土台」を築くことは不可能ではないはずだ。
 特に国や各県の努力により、街並みや施設の復興は時間がかかったらなんとかなるだろう。それと呼応して雇用も回復されるかもしれない。ただ、人々の生活が本当に回復するだろうか?衝撃的な光景や亡くなった人たちを前にして傷ついた心、それに伴うトラウマや残っていく記憶、肉体的にも精神的にも膨大な疲労感。
 これらは見えないし、人によって抱えているものは違う。「復興」という言葉は物理的な意味では可能だが、精神的な意味では終わりのないことだ(*2)

 前述したように、これからどうすべきか、について具体的なことは書かれておらずエピローグにおける希望的な文章も、概念的な記述でしかない。さらに言えば、本書の内容は災害時における一つの側面でもあり、違った側面から見ることも可能だろう(*3)
 ただ、実際行動するにあたって指針を立てたり、政策を考えるときに、支えるべき、助けるべき人たちの人間性や情感に触れるという視点もあっていいのではないか、とは感じた。それは復興という言葉が示すものが現実をとらえきれない言葉であることや、人々が本当に生活や日常を取り戻していくためには、多かれ少なかれ彼らに寄り添うことも必要になってくるだろう。

 さらに、ユートピアという言葉が使われるのも、災害が非日常空間であるからだろう。少しずつではあるが仮設住宅の建設が進んでいたり、政府や東電の支援策が徐々に明らかになってくるというニュースを聞くと、今後日常へシフトしていくフェーズが進んでいくのだろうなと思う。
 だからこそ、これはソルニットの主張でもあるが、ユートピアで学んだこと、実際に築いたものを、どうやれば日常の風景に少しでも生かすことができるのか。その答えについては具体的ではないが、だからこそ考えていくべきなのだろうな、ということは感じた。
 それはパットナムのソーシャルキャピタル論や、コミュニティ行政という文脈で考えることもできるだろうし、また全然別の視点から考えることもできる。今はこうした潮流があるということも本書の最後に触れていて(p429)日常に置き換えて考えるなら、被災地支援だけに留まらず、自分たちの生活や日常をどうやって組み立てるか、にも繋がる。
 その意味でも、本作はもっと読まれて欲しいと思う。あとはこれもさっき書いたけど、日本において災害は常に他人事でもなんでもないという、歴史的な事実をもう一回認識するためにもね。

*0 本稿は3月15日に自分がTwitter上で投稿した一連のツイートを再編集する形で書いた。

*1 一方で、そして既に被災地の1つである仙台ではソルニットが本作で書いているように、人々の利他精神が行為として体現されているようだ→仙台のやさしさに触れた3日間

*2 NHK大阪が2009年に作成した「未来は今 10years old,14 years after」というドラマ風ドキュメンタリーがあって、実際に95年に被災した俳優の森山未來が主演兼ナレーションをつとめている。番組の中で「何が復興なんか分からん」という言葉は本当にその通りなのだろうな、ということを番組を通じて、また今回3.11後の様々な報道を通じて実感した。言葉にしないということは無理だが、複雑な感情を反映するにはあまりにも短すぎる2文字だろう、とは思う。
 ちなみにこのドキュメンタリーの1年後に「その街のこども」がドラマとして作成され、そのまた1年後の今年に映画として公開されている。これもまたNHKが預言したことではないだろうが、16年間が1本の筋をたどっているような気もした。実際現場レベルでは阪神のときの経験が今回に生きていることも多いだろうからね。

*3 たとえば荻上チキはTBSラジオdig(2011年4月21日放送)で本書に書かれてあるユートピア概念や「エリート・パニック」と呼ばれる現象について、コミュニティの儚さ(持続不可能性)やコミュニティが持つプラスの面である「協調性」とマイナスの面である「排除性」について着目することの必要性を語るし、かつ内容の検証の必要性も語っている。参考までにポッドキャストを(一週間限定のよう)→http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/ogiue20110421.mp3
 
このエントリーをはてなブックマークに追加

コメント

コメントフォーム
評価する
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • リセット

トラックバック