Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 3つほど並べて書きます。
 一番言いたかったのは最後のことなので、そちらから読んでいただいても大丈夫です。最後が一番文章としてまとまりがある気もするので。
 「Your heads only」というタイトルにしたのは、思った以上に個々人の思考や行動が現象を左右しているから。そしてこれからも左右する余地が十分にある。当然、良くも悪くも。
 といいつつ本当は円城塔の第二短編集にあったお話のタイトルから拝借したのだけれど。

■メディアの有効性と負の効用 
 2週間と少し経って大きな実感としてあったのは、ツイッターに嫌気がさしたことである。これはもうなんとなく分かっていたことなのだけれど、地震後から一週間くらいはかなり熱心にネットに張り付いて情報を得ていたせいか、主な情報源(正確には経由することのほうが多いが)はツイッターだった。
 だがこれもある意味予見すべきだったんだろうけれど、ネット上も大いに混乱していた。いつもは冷静な人でも不安に押しつぶされそうな文章を書いたり、右往左往する人がいたり、情報を小出しにしすぎて何が言いたいのか分からなかったり、拡散希望が多すぎたり、結果として善意が善意には見えなかったり。
 しばらくして情報源のチャンネルをテレビやラジオ、もしくはブログに切り換えたのだがこういう選択肢を持っていて単純に良かったと思う。ツイッターは特性上、あまりにも流れが速すぎる。しかもこれだけの大事であり最初の週末は地震関連以外の話題は皆無に近かった。このような状況で情報を適切に得られるわけではないので、何人もの人をリムーブしたし、基本的に頼らないようにした。
 もう1つ、頼らない理由は自分の普段のツイッターの使い方ではないから。あくまで「あの人からはああいう情報を得たり会話することができるだろう」と思ってフォローを増やしているので、基本的には自分の思惑というか期待があって初めてフォローしている。つまり期待とは全く違うツイートを積極的に読む気にはならない。追っかけるだけで精一杯なので勘弁してくれ、という感じだった。

 そんな中で今回威力を発揮したメディアは間違いなくNHKと一部のラジオ局だった。前者はテレビだけでもチャンネルを多く持つことから積極的に使いわけをして(とは言っても当初はBS3チャンネル分が全部同じ放送だったりしたんだけどね)いたし、ネット配信のスピードも速かった。手話配信、英語配信も他局の追随を許していない。
 そしてラジオである。災害の時はラジオを持ちだそう、とは小学校のころから教わっていることだが、まずミニコミとしてのコミュニティFMや地方のラジオ局が情報を熱心に届けたらしい。東京にいる限り伝聞でしか知ることができないが、周波数を獲得して自主的に情報を発信するコミュニティFMもあったようで、従来のコミュニティFMの理念を超えてコミュニティや地域に根ざそうとしている様は感銘を受けた。ラジオという古典的ではあるが、シンプルなメディアというのは受信者にとって利便性も良く、また情報の出し手は発信の方法をまだまだ考えることはできるのだということが改めて分かった。
 ツイッターもそうなのだけど、メディアとしての情報発信がDIYでできる時代がもう既にあるのであって、情報の受け手にはそれぞれデジタルディバイドがあることを考えると(特に災害時のディバイドは平常時のそれとは質が異なるだろう)27日放送の文化系トークラジオLife/tbsラジオで津田さんが言っていたように情報の出し手と受け手をつなぐ何らかの取り組みは必要になるだろう(*1)なあ、と感じた。チャンネルが多すぎて発信側もちゃんと届いているのかどうかが分からないし、同じように受け手もどの情報を選択すればいいのか分からない。
 ツイッターにはRTという仕組みが情報のフィルタリングを平常時では果たしてきたのだが、災害時にはRTが連発されたりデマも飛び交うなど、負の効用が目立ったのも事実。ツイッターを使っていてこんなに「疲れた」のも初めてだった。

■「素朴な恐怖心」というやっかいなもの
 これは端的に原発について、である。じゃあ果たしてどこから何故わき出るものなのか、と。
 理由自体ははっきりしていて、「解の不在」と、そのことに対する「飢餓的な渇望」だろう。みんな正しい情報や答えを求めすぎであって、今現在起こっていることは基本的にほとんどグレーもしくは辛うじて白黒ついていることが大半なのだから、一つ一つを精査するか、もしくはそうした行為からトンズラを決め込むくらいしかない。トンズラを決め込んだ人間から迷惑を被るのは嫌なんだけどね。

 また、学部の同期でもある(会ったことはないけど)なおちゃんさんが核心をつくような文章を書いていたので引用します。
 「東京に放射能がくるからこわい」という論調に対してどうしても感情的になってしまうのは、福島のひとのほうがずっとずっと危ない環境にいるのに、東京の私たちが助かることしか考えていないようにみえてしまうからだ


 と同時に、ハチさんの有名な曲「結ンデ開イテ羅刹ト骸」の歌詞の中にある「しょせんはみなさん他人事」という言葉がよぎった。
 遠いと思っていたことが近くにあると感じる一方、所詮は遠いのだという開き直りも同時に垣間見える。
 土曜の夜にある店で酒を飲んでいた。曰く「福島には住みたくないよなあ」とか「茨城や千葉の野菜も食えないね」とか。
 「だから問題なのは量やどれだけ直接影響があるかであって」などど説き伏せたところで「素直な恐怖」を断ち切るのは無理。ただ、何かこう、腫れ物に触るような感覚がしてならないのが嫌だった。買い占めも、農作物の風評被害も、福島という地名の独り歩きも。ああみんな自分が大事なんだなあ、と。でもそれ自体を否定しようとしたら、じゃあお前は自分のことが大事じゃないのか、と言い返されることだろう。んなはずがないが、でもどこかおかしいと思う。
 
 シンプルな感情としては、福島にはネットで知り合った知人が何人もいるし(東北地方の他の地域よりも知り合いに何人もいる、不思議と)南相馬が出身のゼミ生がいたりするし。当事者ではないが、だからこそ想像するという行為は自分にとってすごくナチュラルな行為。全然他人事じゃない。
 あと、俺が中学のころに地元でSARSが流行したことがきっかけで、結構手ひどい風評被害(*2)を受けた。その年の観光業は大打撃だった。観光業で食っている人が大勢いるのでやるせない思いしか残らなかった。そうしたことを身近に経験したのだから、同じように振る舞えるわけがない。
 不謹慎や自粛ムードにしても、こういった恐怖心にしても、それら自体と向き合っても個人の力では無理だ。福島原発の収束を願うしかないのだろう。もしくは、皆が全てを忘れるか、だ。だが後者の選択に大きな価値が見えるとは思わない。それでもまあ、忘却はいずれ訪れるのだろうけどね。
 
■what is changed and what is not changed, and what will be changing

 端的に、自分の持っている肌感覚としての実感はほとんど何も変わってないのが現状なのではないかと思う。
 東京のごたごたはあくまで停電と素朴な恐怖心(主に原発関連)であって、その2つに大きな差し障りを感じない限り(*3)は日常生活を東京で送ることは全然難しいことでもなんでもない。なんだかんだ今のところ電気は足りているので(節電効果は意外とあるものだ)なおさらそう思う。
 こういった状況で26日の土曜日に六本木ヒルズであったイベントにふらっと行ってきたらめちゃくちゃ楽しかった。自分と同じような感慨を持っている人があの会場には大勢いた、気がする。
 六本木アートナイトが中止になったことによる代替イベントだったのだが、前半ちょっと出遅れはしたものも後半のトークショー「災害とアート、そしてウェブを語る」というのは語ること自体が一種のアクティビズムだったようにも思う。誰もが是とすることではないだろうからね、それこそ「こういう時」において。

 最も変わったことは、誰もが考えるチャンスを得ていて、それを実行している人が少なからぬいるということである。
 ネットではツイッターやブログなどで原発にまつわるあれこれ(科学リテラシー、エネルギー政策など)について盛んに議論が行われているし、1つ前のポストがそうであるように全国規模でNPOや団体が被災地に向けて動いた。
 こうした機運が巻き起こるのは災害時には決して珍しくないのかもしれない。災害とは違うがアメリカは911をきっかけにゼロ年代以降の自国のあり方を決定づけた。

 六本木のイベントのトークショーの登壇者であった椿昇という芸術家が言っていた。
ぼくは生きる不謹慎でいい。生きるってそういうことやろ。経済のことは関係ないけど目の前のことに動いていくのはええことやと思う。

 非常時は続いている一方で、日常があるということの重み。
 変わらないでいられる、という幸福感を多くの人が感じていることだろう。病気になって健康のありがたみに気づくとはよく言うが(というか身をもってさんざん経験しているが)少なくとも東京にいる人間は病気にならずに済んでいる一方、すぐ側に危機がある。
 このバランス感覚を自分や自分たちの人生や今後にどう生かしていけばいいのか。誰もがチャンスを得ている今、ある意味今後大きくこの国のかたちが変わる可能性(*4)を秘めている。

 また他方で、今後変わるか否かはさておい、現状(もしくは過去の経過)を再認識するチャンスでもあるということだ。
 具体的には下の記事に羅列されているが、このような形ではあるとは言え焦点が当たることはポジティブに考えて良いだろう。

震災で世の中が変わったのではなく、現実に気がついただけ

 反面「他の大事なこと」にはしばらく焦点が当たりづらくなるかも知れない。
 たとえばニュースは震災に関する話題が豊富だが、4月の統一地方選挙の話がかすんでいる。
 少なくとも震災に関係しない地域にとっては地元の今後を決めかねない大事な選挙なのだが、自分が住んでいる東京ではひっそりと選挙戦が行われているにすぎない印象がある。
 これはこれでひっそりと誰かが当選しそうでこわいよね。投票率どうなるんだろう、とか。
 
 大きなことに関心が向くのは必然だとしても、日常生活を送ることの出来る限りはそれぞれが普段から持っている問題意識や目的を洗練させていったほうが、たぶん本当の意味で「日常」を続けていくことになるんじゃないか。
 そうしていった先に、自分の関心が大きな関心に結びついたら気持ちいいだろうね。はっきりとした形でなくても、繋がりや行為を生み出せるのならば。
 オバマの言っていた「we can change」が象徴的だけれど、個々人の行動の果てに、いずれ私たち自身(we)が変わる可能性を、どこかに。 

 そのためにwarm heart,cool headでいたいよね。頭まで熱くなっている人が、特に震災直後はけっこう多かったので。こういうときこそ、冷静な判断が生きるよ。たぶん。なんてね。
 

*1 津田さんは声かけが大事であると言っていた。あくまで災害時に成すべきこと、という文脈なのかもしれないが、当事者にきちんと届けるという意味ではアナログで人伝いというのも重要な役割かもしれない。

*2 たとえばこの記事→http://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/213/

*3 とはいっても西武新宿線は私鉄の中でもかなり電力に関して弱いようで、本数がまだまだ少ないし準急と各停しか走ってない。計画停電開始直後は各停が10分おきに来るという事態だったのでさすがにキツかった。あんな満員電車はもう嫌です。でも数日すれば解消されるあたり、意外と東京はタフなのかもしれない。一応震度5以上の揺れはあったのだけどね。

*4 もちろん「変わらない」という選択肢もあっていい。変わらないのを選ぶのも、一つの勇気だろう。
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