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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

 ざっくりとした書き方だけど、今までいつかまとめて形にしたかったので書いてみる。まあ、かっちりとした考察というよりは雑感レベルなんだけど。10年来のネットユーザーがここ数年のネットユーザーをどう見るか、というアプローチで色々書けることはあるんじゃないかな、と思っていたので書いてみる次第。
 10年やってるからといって偉そうなことが言えるわけではないし、そういうわけではなくて、あくまでどのへんに差異があるのかということを記述してみたい。
 ただ、高校に入ったあとの2006,7年ごろはあまりネットをしていなかったので(ニコニコ動画デビューも大学入ってからだし、ついったにも乗り遅れた)正直よく分からんからそのへんは華麗にスルーする。そのときのネット環境といえば、クラスでモバゲーに高じている男子と、携帯用の日記サイトにはまる女子がいたことくらいしか覚えてない。その中で旧来型のホームページとブログを細々と運営していた俺がはじかれるのは半ば自然なことだ。ぼっちバンザイ。
 というわけで、独断と偏見を以下につづる。ただ、自分の見ただけのことはあきらかに偏見だだろうが、ネットをさまよっていて感じたことは多くの人に受け入れられてもいいんじゃないかな、とは思ってる。
 忙しい人のために結論を先に書くと、膨大なユーザーの流入と可視化が常に行われるようになったのでなかなかたいへんなよのなかだよね!ということである。

1.ネットにおけるコミュニケーションサイトの寡占化
 一概に寡占しているとは言えないとは思うものも、明らかに寡占している分野は確実にあると思っている。
 10年前はそれこそ大規模なコミュニケーション空間と言えば2ちゃんねるくらいしかなかった。ただ、mixiの登場から始まり、2010年のついったーブームやら、今年はfacebookが流行り出すかもしれないやら、少し遡るとモバゲーやグリーが一般人をネットユーザー化してしまっているという現状もある。
 2ちゃんねるしかなかったころのネットユーザーがどこで暇をつぶしていたか。俺が感じていたのは端的に、2ちゃんねるor notである。まとめブログが今ほど読まれている時代ではなく(というか10年前はそもそもブログすらなかったし)一方で個人が運営する交流サイトが華やいでいた時期でもある。
 つまり、比較的小さなコミュニティがウェブサイトという形で膨大に存在していたのだと思う。ブログやSNSの隆盛によって多くのサイトが駆逐されたのは言うまでもないだろう(とはいっても明確な統計を示せるわけではなく、自分がかつていたところの大半が閉鎖されているという現状を見てきただけではあるが)
 発信と交流の双方が可能だったホームページという形態も、前者がブログに、後者がSNSに置き換わってしまえば存在する理由があまりないのである。あるとすれば、あくまでオリジナリティにこだわるとか、大手業者の下でやるよりは自分でドメインなりサーバーとってやるほうが自由だわい!という片意地くらいかもしれない。
もしくは俺のように、膨大なデータベースを作り上げてしまっている以上、移動するコストがかかりすぎることかな。ただ、後者つまり交流メインの場合は、移動したほうが圧倒的にストックもフローも増えるので、移動するほうが費用対効果が上がる、といったところだろうか。
 個人サイトのチャットで少人数でgdgdしていた時代がなつかしい、となげくのはもはや古参ユーザーくらいだろう。


2.ブログのホームページ化
 こうしてブログを誰でも書ける時代、あるいはアカウントをとってしまえば膨大な人と交流できる時代がゼロ年代中期から後期にかけて到来する。
 俺がブログを初めて作ったのは2004年だが、その1年前に既にホームページを持ってしまっているので完全に移転するということは考えず、あくまで棲み分けをするようになった。
 たた、たとえば書評ブログであるとかグルメブログであるとか、日記を書くという以外に何かに特化したブログ、つまりブログのホームページ化というものはもはや珍しいことでもなんでもない。というか、そもそもホームページを持つ人というのは一部のクリエイティブな人の作品置き場くらいではないだろうか、とも言える。
 ブログの効用はもうひとつ、言語を知らなくてもいいことだ。カスタマイズは基本的にデフォルトに任せておけばいい、いっぽう物足りない人はソースをいじればいい、といったようにダブルスタンダードを効かせることで大量のユーザーを獲得した。書き手の年齢や職業が幅広く、コミュニケーションとして、あるいは個人メディアとして、あるいは自分の表現の場としてなどなど使い道も幅広い。

3.そして新規ネットユーザーの流入が始まる
 と、ここまではユーザーというよりは媒体の話が多かった。そろそろユーザーの話もしてみよう。
 前述したようにブログブームを実感したのは高校に入ってからだ。さすがに田舎の中学ではネットを使いこなすという人は少なくて、携帯電話を持っている人も少数だった。ただ高校で高松市という県庁所在に住むようになってからは、環境が激変した。目についたのは携帯電話をあたりまえに使いこなす様であって、この様子はよく考えると中三のときに高松の予備校に通っていた頃から感じていた頃でもある。デジタルネイティブは都市部において確実に進行していた、というべきなのかな。
 彼らや彼女らが携帯電話というおもちゃを手に入れて実際どのように使っていたか、詳しいことを知っているわけではない。ただ、前述したように個人用モバイルサイトが隆盛していた時期とも重なる。
 2003年くらいからこの傾向はあったと思うのだが(当時は前略プロフィールが大人気だった、というか前略くらいしかなかったんじゃね?)モバイルサイトの中でもいわゆる日記サイトやプロフィールサイトの隆盛はゼロ年代中期からだろう。ネットいじめというニュースもこのこのからよく聞くようになった。

 そう、このあたりから明確な変化を感じる。かつてのネットいじめは、それこそネットユーザー同士のひがみあいである。狭いコミュニティで、形としてはオープンだけどたどりつくのは少数だからほとんど閉じているに等しい。その中で交流するのだから、良い面もあるし悪い面もあるということだ(かくいう俺もネットいじめを経験している。夏厨のウザさを真に受けたアホな時代である)
 ただ、このモバイルサイトが隆盛して以降語られる(特に大手メディアで)ネットいじめはリアルの者同士がネットを使っていじめいじめられをしているのである。象徴的なのは2004年の佐世保における小学生による殺人事件だろう。これも発端はネットでのトラブルが原因ということになっている。
 ネットいじめが象徴しているのは端的に言えば、ネットがリアルの延長の場として明確に意識されてしまった、ことではないだろうか。高校時代の女子がモバイルサイトでハンドルネームではなく、自分の下の名前もしくは本名を出して交流していたことも、ネットがリアルの延長であることを象徴している。プリクラや写真もけっこうな量がアップされていたが、内輪のコミュニケーションに用いる分は便利だったのだろう。ただ、彼女たちがどこまで内輪の外の世界、つまりネットはどこにでも繋がっているということを理解していたかは知らない。
 むしろ、繋がっていようがいまいが実名ないし下の名前といった個人が特定されやすい名前でコミュニケーションをとることが当たり前になりつつあるのかもしれない。ネットはリアルの延長なのだから、同じ名前を使ったほうが何かと便利ではあるかもしれない。
 このようなことは昨今のついったやfacebook(前者はともかく、後者が本当に流行っているのかはしらない)の隆盛に見てとれるが、前段階としてモバイルサイトの隆盛があったことも見逃せないことではないだろうか。携帯電話でコミュニケーションをとるということに、抵抗を感じない世代が一定数いたということである。この前某ホテルで某有名人のお忍びデートをついったで実況しつづけた女子大生も、この世代であると思われる。

4.ゼロ年代後期、ついった、facebookが流行り出す
 ここからはもうモバイルサイトのように、年齢や職業にしばられることはない。ユーザー層としてはブログを書く層とそれほど変わらないだろうし、実際できることも動機も似ている。実際ついったを始めるとブログを書かなくなる現象はあちこちで起きているようだし。
 だが、前述したようにネットがリアルの延長であると意識された時代に生きている。また、ユーザーの数も膨大だ。ここではかつてブログやホームページがそうであったように、個人がハンドルネームを名乗るという一種の規範的観念のようなものはかなり薄い。そう、昔からのユーザーはけっこう息苦しい時代に生きているのかもしれない。
 そして便利さと危険が隣り合わせであるのは女子大生のデート実況事件に象徴的だ。個人用モバイルサイトで実況しても見るのは少数だから話題になることはないだろう。ただ、ついったーという膨大なユーザーが寡占化した媒体に集まっているのが当たり前の現状では、良くも悪くも影響力は莫大である。


 今までをまとめて端的に言うと、ゼロ年代は時代が進むにつれて、交流サイトが寡占化し、いっぽうで大量のユーザーが寡占化したサイトに集中した。
 今に比べると比較的少数のユーザーがそれぞれの趣味趣向で交流していた時代は過去のもので(今もまったくないわけではない)そもそもハンドルネームって何それおいしいの、時代の到来、かもしれない。
 ゼミ生が去年だけで9人くらいついったを始めたのだが、ほぼ全員名前とプロフィールで本人が特定できるレベルである。これはなかなか興味深いし、いっぽうで俺ひとりだけが「バーニング」という名前で彼らとネット上で連絡をとりあったりリプライを送ったりするのはなんか変な光景でもある。俺1人だけアナログテレビで、彼らはデジタルテレビで同じものを見ている、そんな違和感かもしれない。
 そういう意味でリアルの人をついったで見かけても最近はフォローするかどうか若干悩んだりする。好き嫌いではなくて、やっぱり違和感があるとややこしいよねというお話。リプライで本名飛ばされたりとかしたらたまらんで。

 その他、昔では起こらなかった変なことを以下に
・実名で暴露することによる内定取り消しを食らうアホな就活生
・はるかぜちゃん(@harukazechan)という9歳のついったユーザーに絡みまくる変な大人
・ついったにおける相互フォローは当たり前という謎の規範と、推進委員会とやらの存在
・ニコニコ動画における歌い手信仰
・よく分からないネットマナーの流行(相互じゃないとリプライとばしちゃいけないとか、RTしちゃいけないとか。謎である)

 とかいうのは色々あるけれど、せっかく面白いサービスがあるのであるていど↑に書いたようなことはスルーしつつ(時間がもったいないだけである)楽しめばいいという今までのお話から真逆の結論にたどりついたなど。
 あと、mixiに言及しなかったのは俺が一度も参入したことがないから。知らないことは書けないが、ネットとリアルの統合を決定づけたのはモバイルサイトよりもむしろmixiだろうなあ、という感じはする。
 なんにせよ、今は素晴らしい技術やサービスを利用できる環境のありがたさを、日々実感しつつ、である。ニコニコ動画は同人音楽にとってはほんとうに革命的だったと思う。耳が幸せという言葉が1枚のディスプレイと1つのヘッドフォンを通じて実感できるのだから。素晴らしい日常じゃないか。
 
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