以前から気になっていたし、各種書評でますます気になっていたこの本を図書館で借りられたので読んでみた。ほとんど一気読み。3.11の震災後の文学(小説を中心としつつ、小説に限らないあらゆる作品を対象としている)をスケッチしながら、作り手たちが直面してきた「困難さ」(とりわけ、書くことにたいする困難さ)のありかを探る。
筆者は著書の前半で、かつての災い(戦争など)に対しどのような作品が残されてきたのか。また、かつての原子力や核エネルギーに対する想像力はどのようなものだったのかも簡単に振り返っている。3.11以前以後をとりまく議論は多いが、戦後から議論を出発させる視角は良い試みだと思う。まずは振り返らなくてはならないのだ、一つ一つの経験を。
もう一つ、9.11に対する想像力との比較もなされる。なかでも、映画化もされたサフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』がとった9.11という事象との距離感についての考察が印象に残った。直接的に9.11を描写するのではなく、やや迂回する形で9.11に対する想像力を端々に織り込み、かつ主人公の少年オスカーの目線で追体験させるという形式は小説的にも(そして映画的にも)非常に魅力的だったのだろうし、9.11とは「そういうものだったのではないか」と時間の経過を織り込んだ上で改めてつきつけてくるのがクリティカルだ。
小説を中心に、多くの作品が登場する。小説は具体的に挙げるとキリがないが、2011年に書かれたものとしては川上弘美『神様 2011』や高橋源一郎『恋する原発』が俎上に乗り、他方である程度の時間を経て生まれた想像力としていとうせいこう『想像ラジオ』をとりあげる。高橋源一郎にしてもいとうせいこうにしても、このような書き方で3.11を描写したことについて多くの批判があったことだろう。
その上で木村は、高樹のぶ子が第149回芥川賞の選評で挙げた「蛮勇には蛮勇を」という言葉をとりあげる。『想像ラジオ』はなぜこのような形式で書かれなければならなかったのかを考え、また一定の肯定的な評価を加えるために「蛮勇」という言葉は非常に面白い。
似たような議論を佐々木敦が昨年末に出した『シチュエーションズ』の中でも行っている。佐々木は和合亮一の「野蛮な詩」が必要とされているという主張を肯定し、さらに詩に限らず求められると言う。
その「野蛮さ」とは、単純な意味で「国民感情」と逆立すれば、そう見えていればいいわけではないだろう。「短慮」や「後ろめたさ」や「みっともなさ」だけでないのはもちろんのことだが、「俺だって考えてる」に陥らず、「失語」をも回避するためには、一見「野蛮」とは思えないような、新しい「野蛮」が要請されているのではないか。
佐々木敦(2013)『シチュエーションズ』文藝春秋、p.24
さて、書くことの困難さについての話に移ろう。本書の中で中心的に議論されていることはいくつがあるが、書くことの倫理からくる困難さについての議論が全体に通底している。その中だと、とりわけ佐藤友哉の主張がつきささる。彼ほどこの事態に対して、作家として、文学を担うものとして痛烈な言葉を発した人を俺は他に知らない。孫引きになるので直接の引用は避けるが、pp.57-58にかけての言葉は非常に力強い。
木村は「書くことの困難さ」について、本の最後で「どうやら戦後に長い時間をかけて築かれた言論の壁のせいであった」と(暫定的に)結論づける。これはとりわけ第二章で映画『ゴジラ』や『太陽を盗んだ男』、あるいは田原総一朗『原子力戦争』といった原子力文学を一覧した上で得られる結論と考えればよいだろう。
そしてこれはフランスの書き手たちが3.11について言及した態度と比較した第六章を読めば、非常に分かりやすい。あるいは、木村自身の経験をつづったあとがきを読めばよい。本書のあとがきは「日本人がほとほと嫌になった」と語るカナダ人研究者(木村の友人でもある)の言葉から始まる。本書はこの言葉に対応するために書かれたものでもあると木村はあとがきに記している。大学で講義をする際、積極的に意見を交わす留学生たちと、口を閉ざす日本人学生の差異を気にしたとのことだ。
こうしたやりとりを読むと、先ほどの「書くことの困難さ」と同じくらい、「語ることの困難さ」が多くの日本人の周りにあったことを思い出させる。いずれも日本の政治文化に由来するものであろう。政治的に語ることは、常日頃わたしたちが忌避していることであって、震災後もそれが維持されている。であるがゆえに、なぜ日本に住むわたしたちはある時期あまりにも身近だった事象について未だ多くの言葉を持つことができないのだろうか、といった現在もなお薄れない問いが立ち上がってくる。
言論の壁が立ちはだかっている現状とはどのようなものだろう。日本人が日頃から政治的でないという状況もその一つではないか。政治的に振る舞おうとすると周囲に忌避されることも一因だろう。政治は遠く、政治から遠いことがナチュラルであるかのように思っている。
しかし、杉田敦が『政治的思考』でも触れているように、人が政治から遠ざかっても、政治は人を離しはしない。社会契約に基づく共通のルールの下で日々を生きる以上、政治からは逃げることができないのだ。無視すれば、あるいは遠ざければなおのこと政治は権力を自由に用いることができる。それはめぐりめぐって、少なくとも民主主義社会においては人々にとって大きな損失となりかねない。
その「語ることの困難さ」を受け入れてしまえば、「失語」に陥りかねない。どうやればこの負のスパイラルから抜け出すのかについては難しく、たった一つの優れたアイデアも容易には期待できない。その上でできることは、どうにかして(倫理的に不当でなければどういった方法でもいいから)「困難さ」に対抗しようと努めること、なのかもしれない。
小説の言葉は、そうした「困難さ」に立ち向かったり、抗ったりするための力を与えてくれるかもしれない。ヒントを与えてくれるかもしれない。ドキュメンタリーには現実を切り取る力がある一方、小説なら現実以外からも想像力を動員することができる。
たとえば木村朗子は本書の終わり近くで、次のように述べている。
文学が強度を持つというのは、簡単には単純化されない構造を持つところにある。物語のなかには、作家の意見を代弁する人ばかりが出てくるわけでもないし、いつも複数の価値観やいろんな立場の人間がせめぐように存在しているのであって、ある考えに反した人物が排除されるということはない。だからこそ、清濁のすべてを見渡せる智者として有事のときには作家の発言に人々は期待をするのではないか。
本書 p.237
あの日からもう少しで3年が経過する。木村が言うように、まだまだ読むべきものはたくさんあるし、まだまだできることはたくさんあると思いたい。少なくとも「失語」に陥らないために、もっと多くの言葉を求めてよいはずだ。
これは佐々木の『シチュエーションズ』刊行を記念したトークイベントの映像で、震災直後に『311』を撮影した映画監督の一人でもある森達也が応じている。こちらも一覧あれ。