Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2023年09月

 前回の続き。前回はこちらです。
 気づいたら前回から5カ月以上近く空いてしまったが、気を取り直していきましょう。




■深層NEWS(BS日テレ)「【ウクライナ“反転攻勢”シナリオ】プーチン氏「3月東部制圧」失敗“第2のバフムト”空爆が1日20回…欧米主力戦車をどう使う?」(2023年4月4日)



 バフムトより南方にあるアウディーウカの戦況をレビュー。面積はバフムトに比べるとかなり小さいが、鉄道網の上にある地域であるため、兵站に苦労しているロシアとしてはここを取ることに魅力があるようだ(だがうまくいってはいない)。


■文藝春秋電子版「ワグネルとはクレムリンにとって〈軍閥マフィア〉か〈民間軍事会社〉か?」(2023年4月10日)



 小泉悠と高橋杉雄が改めてワグネルについて語り合う動画。この時点ではプリコジンの乱がまだ起きていないため、「プリコジンは大統領選に立候補するのか?(そもそも立候補要件を満たすのか?)」と言った話がされている。ご存じのようにいまはもう彼は現世にはいないため、5カ月前に隔世の感を覚える動画だ。


■広島テレビ「【インタビュー】「核の威嚇とG7広島サミット」小泉悠氏に聞く」(2023年4月21日)



 広島サミットを控えての、広島のローカル局が小泉悠にインタビューした動画。小泉のフットワークと軽さを実感しつつ、広島のメディアゆえか核に関する関心が中心的に聞かれているインタビュー。小泉が核について語り続ける機会は、よく考えると珍しいかもしれない。


■テレビ東京「ゼレンスキー大統領が記者会見“ニッポンに一番期待すること」(2023年5月21日)



 今あらためて言及することは少ないが、G7広島サミットにゼレンスキーを呼ぶことができたのは岸田「外務大臣」と外務省にとって、ロシアに対する大勝利だと言えるだろう。「この世に戦争が存在するべきでない」と語る言葉を、改めて重く受け止めたい。


■文藝春秋電子版「東野篤子×廣瀬陽子「ウクライナ反転攻勢で戦争は終わるか」」(2023年6月24日)



 まず二人の仲の良さが存分に伝わってくる対談。そもそも二人はいつから仲いいんですか?というなれそめの話もあり、面白い。
 フルバージョンは有料会員向けで無料で見られるのは26分だけだが、これまでの研究活動と現実の戦争で起きている現象の素朴なギャップなど(ワグネルの正体とか、ワグネルとロシア政府の関係とか)が聞けるのは純粋に面白い。とりわけ「未承認国家」や「凍結された紛争」の専門家である廣瀬がこの6月の時点でどのように戦争をとらえているのかについては、(局地的な分析に終始しがちな)地上波の解説では聞けない要素だと感じた。


■荻上チキ・session(TBSラジオ)「【専門家解説】ロシアのウクライナ侵攻〜クラスター爆弾の供与めぐる是非は」(2023年7月10日)



 クラスター弾を禁止するオスロ条約にはウクライナもロシアも、そして供与側のアメリカも加盟していないということ。とはいえ、世界的にはやめましょうというムードの中であえて供与することを決めた判断に対しての解説。弾薬が足りていない中で戦争を終わらせるキーとしての今回の供与。ゆえに「難しい」という廣瀬の言葉が正直なところだろうか。


■笹川平和財団安全保障研究グループ「ロシア・ウクライナ戦争における核エスカレーション・リスク 」(2023年7月27日)



 冒頭で高橋杉雄が指摘しているように、この戦争の開戦当初からロシアの核使用リスクや、エスカレーション・リスクは存在していた。リスクの程度の差はあれ、いまでもゼロになったとは言えないだろう。そうした状況を前提に果たして西側諸国はどのような行動をとればよいのか? といった骨太な議論が小泉悠や鶴岡路人らを交えて展開されるセミナーである。


■報道1930(BS-TBS)「プーチン氏「高支持率」の裏で…"終身独裁"か?"ポスト・プーチン"到来か?」(2023年9月21日)



 前半は戦況の分析だが、後半の大統領選挙の話が今回のメイン。プーチンが度重なる制度改正でライバル(特にナワリヌイ)の出馬を難しくしてきたのでプーチンの出馬と続投はほとんど既定路線。その上でプーチン後の体制も見据えている話など、ウクライナ戦争からは少し離れるもののこの地域においては重要な話題には違いないので興味深く聞ける。


■公益財団法人偕行社「小泉悠講師「ロシア・ウクライナ戦争を読み解く」」(2023年9月17日)



 9月1日に行われた講演の配信版。現段階での小泉の総括が約1.5時間に凝縮されており、これを無料で見られるのは非常に贅沢なものである。
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見:ソレイユ・2

 予告編を見た時にいくらか想像はしていたが、残酷な映画だなと素朴に感じた。でもそれ以上に、その残酷さの余韻を丁寧に観察し続ける映画でもあった。つまり、「その後」を画面に映し続けることに、何らかの希望的なものを見出すことはできるのかもしれない。そうしないと、まともに生きていくことができなくなってしまうのでは? とも感じさせる映画だった。

 ストーリー自体は非常にシンプルな構成になっている。親密な関係を築いてきた少年たち(レオ、レミ)が中学に上がり、クラスの女子から「付き合ってんの?」と茶化されたことから、その関係に亀裂が入ってゆく。そしてそのあとに突然、別れがやってくる。その別れを受け止めきれないもう一人の少年レオのことを、ただただカメラは追いかけてゆく。とても近いところ(CLOSE)で、追いかけてゆくのだ。

 だからこの映画のタイトルのCLOSEは少年同士の距離のことを指すのはもちろんのこと、カメラとレオとの距離感も指しているように感じた。レオはどこまでが演技で、どこまでが演技でないのかが分からないくらい、感情がぐちゃぐちゃになってしまった少年であり続ける。ストレートに自分の感情を周囲にぶつけるし、他方でやり場のない感情に苦しんだりもする。ああ、そうだよな、突然の別れって言うのは大人でも容易に受け入れられるものでもないが、ましてや中学生には荷が重すぎるよな、といったことを観客にメッセージとして届けている。言葉ではなく、表情や行動一つ一つで。

 繰り返すが、CLOSEな距離でレオを映し続けるカメラは、やはり残酷なまでにレオの表情を映し撮ってゆく。そのため、まるで演技ではないかのように見えるこの映画は、レオという一人の少年のドキュメンタリー映画にも見えるのだ。親友との別れを経験した少年のその後を観察するドキュメンタリーのように(でももちろん、ドキュメンタリーではなく劇映画だから一種のフェイクドキュメンタリーとも言えるかもしれない)。

 大人たちがレオを救えるかというと、そう単純にはいかない。ぽっかり空いたものを埋め合わせるのは容易ではないからだ。ある時は兄と一緒のベッドに入ったり、ある時はレミの母親に急に会いに行ったりと、行き場のない感情をなんとか落ち着かせるための行動をレオはとるのだが、それでも埋め合わせることは不可能だ。そうした不可能性を経験することとそのリアリティを、この映画はレオに体感させてゆく。

 ただ観客の視点からすると、レオ自身が最後まで後ろ向きにはならず、やり場のない感情や埋め合わせられない喪失感をぶつけながら生きていく様は、むしろ美しくも見えた。何よりそれが等身大で、飾りようのない素の人間性を体現しているように見えたからだ。レオを観察するカメラを通して観客もレオの気持ちを理解しようとつとめるはずだが、レオを追いかければ追いかけるほど、彼の抱えている苦悩を理解することはできないし、他人には分かりようがないと思えてしまう。近くに感じるからこそなお、レオの気持ちとどのように向き合えばよいのか分からないという感情を自覚させられるのだ。

 でもそれは、他者の感情は容易に理解できない、できるわけがない、という前向きな諦めを与えてくれるようにも思う。つまり、必ずしも他者を理解することが重要なのではないということ。理解できないとしても、できることはあるということ。抱きしめたり、ただそばにいたり、励ましたり。残酷な現実が覆う中でも周囲の人間ができることはきっとあるのだと感じさせるのは、最初に書いたように残酷さが残した希望的観測だと感じた。

 今年はここ数年の中では積極的に映画館に足を運んでいる方だと思うが、今年見た中ではいまのところこの映画をベストに選びたい。それくらい、このハードな筋書きを魅力的に見せるだけのものが、この映画には豊富に詰まっている。


※追記:「自分がかつて少年だったころと、その後の変化について」(11:10, 2023/9/21)

 一つだけ付け加えたいことがあるので少しだけ。

 この映画をいま大人である立場として見ていて感じたのは、映画の中のレオを通して自分の中にある「かつて少年だったころ」の記憶や感情を揺さぶられたことだ。少年だったころの自分もレオのように、行き場のない感情や埋め合わせられないやるせなさを周囲にぶちまけていたように思う。でもやがて成長する段階で、いつしかそうした感情の発露を自制するようになる。「自制したほうがいい」とすら思うようになる。なぜならば、「理性的で落ち着いている人間」として見られたいという欲望が自分の中に芽生えてきたからだ。

 しかしながらこうした欲望は、ストレスや葛藤を自分の中にため込んでしまうという副作用も生む。それが一番最悪な形で露見したのが2012年〜13年ごろだったと思う。あの時の自分はもう少年ではないから、レオのようにふるまえたとはとても思えない。それでも、(残酷さを経験した事実は胸にとどめた上で)少しだけ羨ましいなと思いながら見ていたのは、自分もかつて少年だったからなのだろうなと思った。

 かつて少年であり、いまは少年ではない、という事実。他方で、大人は感情をぶちまけてはいけないのか? という疑問に明確な答えはおそらくない。だからこそ少しだけ、ほんの少しだけ羨ましいなと思った気持ちがあったことを、ここに追記という形で短く記録しておきたい。 
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フルタイムライフ (河出文庫)
柴崎友香
河出書房新社
2013-07-26

 
 ブログで継続的に読書記録を投稿しているが、それを見たツイッターの人から、「バーニングさんはいったいいつ本読んでるんですか?」と聞かれることがたびたびある。これまでに様々な人から何度も寄せられた質問なので、いつかちゃんとまとめようと思っていた。だいぶ長く宿題にしていたので、今回この宿題に向き合いたいと思う。

 なお学生時代の友人である幻影くんも同じような質問を受け、ブログに回答を残している。自分の回答はやたら長くなったが彼の返答はコンパクトであるため、読みやすい。そちらもぜひご覧いただきたい。




 タイトルに書いたように、「フルタイム労働と読書をいかに両立しているか」を軸に書こうと思う。簡単にプロフィールを書くと、33歳の男性・独身子なしなので、同世代の多くが直面している育児時間はほとんどない(妹が帰省したときに甥っ子の相手をするくらい)。そのため、参考になる部分とならない部分があると思うが、ハウツーやライフハックというより、「あくまで自分はこのようにしている」という一つのサンプルとして参考にしてもらえたら嬉しい。また、このブログを見て自分はこうしているよ! というのがあったら積極的に教えてほしいなと思う(コメント欄をご利用ください)。

 端的に言えば、重要なのはTPPである。環太平洋なんちゃ〜ではない。Time(時間)、Place(場所・空間)、Purpose(目的)である。PはR(Reason)でもいいのだが、TPPの方が語呂が良いのでTPPにした。

◆Time(時間)の確保

 そもそも、なぜTPPなのか。これもさらに端的に説明すると「生活の中で読書のための余白を確保するため」である。仕事、家事、育児、その他もろもろ、大人になるとやらねばならぬことがたくさんあるわけだが、逆に言うと(育児の場合は少し事情が違うかもしれないが)やるべきことを終わらせることができれば余白が残るはずで、その余白を読書に使うために振り分けよう、という発想だ。読書を勉強に置き換えてもよいし、スポーツでも映画鑑賞でもなんでもいいのだが、とにかくまずは時間(T)をいかに確保するかが重要になる。

 自分にとってヒントになったのは、約20年前にインターネットで交流していた人が言っていた「毎日寝る前に1時間本を読むようにしてるんですよ」の言葉だ。彼女は自分より数歳だけ年上だったが読書量が自分とは比較にならないほどであり、ウェブに投稿する小説も非常によくできていた。当時はカクヨムもなろうもない時代なので、小規模の投稿サイトであれだけの才能に出会えたのは幸運だったなと思う。いずれにせよ、10代でこれだけのものを書くためにはそれだけの読書量が必要になるのだという、当たり前の事実をテクニカルに突きつけられたのを覚えている。

 どういう流れでこの会話を引き出せたかはよく覚えていないが、「寝る前に1時間」は習慣化しやすいなと思った。当時もインターネットでよく遊んでいたが、インターネットと読書時間の確保は相性が悪い。今の場合はスマホである。なので読書時間の確保に悩む人はまず、寝る前の時間(T)にスマホを手放してみよう。

 今の自分はこれを応用している。つまり最初は「寝る前に1時間」だったものを、長い時は3時間くらい確保できるようにしている。あとこれは少しチートになるが、待機時間が長い夜勤をやっているので、夜勤中に読書を進めることもできている。警備のバイトをしながら小説家になった人は時々いるが(ガンダムUC原作で有名な福井晴敏とか)、警備のバイトもおそらく読書家向きだったんだろうなと、夜勤生活7年目になって改めて思う。

 さらに寝る前の時間を応用し、ツイッターのスペース機能を使って「#深夜の図書室」というタイトルでオンラインの読書空間を開くこともある。このハッシュタグでは過去に読書会も実施しているが、普段は一人で本を読むための時間として活用している。スペースを開いていれば、無駄にスマートフォンを触らずに済む。何もないよりは、読書に集中しやすい。

 高松に戻ってからは自転車か自動車通勤なので、「電車の中で本を読む」ことはなくなった。ただ大学時代に最も集中して本が読めたのは、通学の行き帰りのこの時間だったなと思う。当時はまだ端末の選択肢が少なかったが、いまならKindleを持って電車に乗ればすんなりと読書時間を確保できそうだ。電車内でのKindleリーディングは、今でも旅行中に良く実施している。旅先に持っていく本はなるべく少なくしたい。なぜならば、たいていの場合旅先で新たに本を買う(そして荷物が増える)からである。

◆読書に最適なP(Place)を探す

 時間を決めることがまず大事だと述べたが、読書には時間以外に場所が必要である。なので、最適な場所を同時に探すのが望ましい。できればアクセスしやすい場所が、複数あると良い。一つの場所が確保できないときは、ほかの場所を選択すれば良いからだ。

 自宅を例にとってみても、場所はいくつか考えられる。私が読書をするのはたいてい自宅のテーブルか、もしくはベッドの上である。リビングにソファがあるのでそこを使用することもあるが、たいていは自分の部屋で寛ぎながら読むか、デスクに広げて線を引いたり付箋を貼ったりしながら読むことが多い(学術書や専門書は基本的にこのパターンである)。

 学生時代にはベランダに小さい椅子を置いて、ベランダで文庫本を持って読んでいたこともある。冬なら昼時、夏なら虫が少ない時間帯などを選べば、ベランダで読書をすることは普段と違った環境を与えられて良い。日を浴び、風を受けながらの開放的な感覚は、室内での読書の趣とは違ったものがある。

 自宅の外の場合、まず思いつくのはカフェ(喫茶)、図書館、そして職場(夜勤中)だろう。職場はやや特殊なので外すとして、お気に入りのカフェや喫茶が複数あると休みの日の過ごし方が楽しい。チェーンでもいいし、そうでなくても良いと思う。行きつけの店ができたら店主やほかの客とも仲良くなったり、会話がはずんだりすることもあるかもしれない。その中で本の話をしたり、本を教えてもらった経験もこれまで何度もしている。

 外で本を読む楽しさは、本を通じたコミュニケーションが生まれることだ。もちろんそういったものを求めず集中したいなら、静かな喫茶店を選ぶ方が良い。長居するなら、注文も少しはずんだほうが好ましい。チェーン店の例だが、テーブルが広くて長居もOKなコメダ珈琲が近くにあるとなかなか強いだろう。

 図書館では飲食が基本的に好まれないが、読書に集中する環境としては好ましい。自宅から本を持って行っても良いし、館内利用の雑誌を眺めるのも良い。土日は少し人が多くて使いづらいかもしれないが、平日休みの日に行く図書館は快適だ。高松市の場合は中央図書館の他に分館が複数あり、さらに県立図書館もあるので、複数の図書館が選択可能な環境は読書子にとっては非常に恵まれているように思う。

 また、夜勤明けに温泉を利用することが以前からたびたびある。温泉につかったあと、そのまま温泉のロビーに居座って本を読み続ける経験も何度かしている。高松の場合、仏生山温泉という温泉があるが、ここが良いのはテーブルが比較的広く、かつ平日だとロビーもあまり混雑していない。さらに回数券を購入すると比較的安価でリピートすることができるところだ。温泉内では少数だが古本が販売されており(温泉近くにあるへちま文庫が協力しているらしい)、今まで何冊か購入したこともある。温泉のロビーも自分にとっては集中して本を読める、最適な場所の一つになっている。

 読書に最適なPlaceは、どこに住んでいるかに大きく依存するため、最適解はない。むしろ最適解を自分で積極的に探すことで、街を深く知ることもまた、現実世界を生きていくことの楽しさではないかと思う。なので積極的に、最適なPlaceを探してほしいと思う。

◆P(Purpose)が何かあった方が良い。でもなくたって良い

 ただ漫然と本を読もうとしても、長続きしない可能性がある。自分の場合はとにかく積読を減らすことをPurposeとしているのでそれは果たして目的なのかと言われそうだが、理由には違いない。何かあった方が、行動に移しやすい。

 Pは何だって良いと思われる。資格を取りたい、大学や大学院に進学したい、仕事に生かしたい。あるいは、「ヴァージニア・ウルフを初期作からちゃんと読みたい」(今の私の目的の一つ。積読を増やす理由にもなっているが・・・)とか、「フェミニズムを勉強したい」とか「資産運用を始めたいけどようわからんから勉強したい」(2017年ごろの私)とか。フェミニズムや資産運用といった、特定のテーマがあると本を選びやすい。入門〜中級〜発展といった形で誰かがどこかでガイドを書いている可能性が高いので、そういったガイドを参考にしていくと良いだろう。

 なくたって良い、と書いたのは、目的がなければ読書ができないかというと、そうではないからだ。小説を本格的に読み始めたのは13歳のころで、その時のPについては昔書いたエッセイを参考にしてほしい。



 この時ジャンルや作家を気にせずに手当たり次第に小説を読んでいたのは、読書が純粋に「面白い」と感じたからだ。面白いからもっと読みたい。これ以上、シンプルなPはあるだろうか。

 大人になると小説以外の本を読む時間が増えた。仕事や試験勉強といった形で「読まねばならない」というPに起因する本も多い。そうしたPに支配されていると、「面白いから読む」というシンプルな動機を忘れそうになる。必要な本を買うお金と時間を確保しながら、「面白いから読む」ための本を買うお金と時間を確保するのは容易ではないものの、「面白いから」というシンプルな動機はなるべく保てるようにしたい。それがなくなってしまうと、読書という行為に対する思い入れがなくなってしまうようにも思えるからだ。

 読書に関心がない人にとって、本は物理的な固形物であり、部屋の空間を占拠する存在である。お金も時間も部屋の広さも必要になる。でも、それだけのコストをかけるだけの価値があることや、「面白い」という感覚を失わなければ、死ぬまで本を読んでいられるのかなと思う。

 この世界には読み切れないほど多数の本が存在する。だからできるだけ、死ぬ間際まで本を読んでいたい。健康の維持も当然重要な要素にはなってくるが、この世界のことを少しでも知ってから、別の世界に旅立ちたい。そうした思いが、自分にとっての究極的なPurposeなのかもしれない。

 あなたにとってのTPPは何ですか? まだ分からないならそれを考える、あるいは探すことから始めるのが人生において本と付き合っていく最初の一歩なんじゃないかなというのが、このエントリーで最後に伝えたいアドバイスである。


◆参考文献
読書案内―世界文学 (岩波文庫 赤 254-3)
サマセット・モーム
岩波書店
1997-10-16


読書について (光文社古典新訳文庫)
ショーペンハウアー
光文社
2015-09-25


読書と人生 (講談社文芸文庫)
三木 清
講談社
2013-09-11


読書術 (岩波現代文庫)
加藤 周一
岩波書店
2000-11-16


人生を狂わす名著50
三宅香帆
ライツ社
2019-01-25


BOOK BAR: お好みの本、あります。
眞一郎, 大倉
新潮社
2018-02-27








図書室の海(新潮文庫)
恩田 陸
新潮社
2015-05-22



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