Days

日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2023年08月



見:ホール・ソレイユ

 これはぜひ見たいなと思っていた映画なので、目撃できてよかったなと思う。ただこの映画を見て最初に実感したのは、北アイルランドにおける「紛争」について、自分がほとんど何も知らなかったなということだ。今あらためてケン・ローチの『麦の穂をゆらす風』をちゃんと見たいなと思うくらいには、今に続く根深さを実感させられる映画だった。



 この映画の主役は間違いなく一人の教師(ケヴィン校長)だが、同時に登場する北アイルランドはベルファストに位置する男子小学校の生徒たちも主役と言えるだろう。ケヴィン校長がただ存在するわけではこの映画は始まらない。子どもたちの語る言葉が、ほとんどすべてとも言ってよいからだ。もちろんその言葉を引き出すケヴィンを始めとした教師たちの「問いかけ」がなければ始まらない。その意味では、教師たちは映画の中では徹底的に黒子である。まあ、エルヴィス・プレスリーが大好きなケヴィン校長は、長身でスキンヘッドというルックスからしてどう見ても「目立ってしまっている」けれども。

 映画のパンフレットにはP4C(Philosophy for Children)という教育手法が紹介されており、日本での導入が進んでいることも紹介されている。NHKが以前特集したこの番組は、その象徴的な取り組みの一つかもしれない。この番組も主役は子どもたちで、教師たちが黒子に徹する姿は印象的だった。



 もちろん教師たちはある程度の情報提供はする。例えば北アイルランド問題について考える時に、過去の紛争や闘争の映像を見せる。君たちの親やおじいちゃんおばあちゃんたちがね、と言った語り口で。しかしあくまでそれは前座的な導入であり、議論は子どもたちの目線でスタートさせる。上から何かを教え込むということを、可能な限り避けている。その代わり、子どもたちに問いを投げ続ける。これは一種の、ソクラテス式問答法の教育分野への応用だと言えるだろう。



 アリストテレスやプラトン、それにソクラテスから始まり、近代以降の西洋哲学者たちのイラストが時折映像に映り込むが、ソクラテスはこう言った〜という導入も行われない。そうしてしまうと、哲学ではなく倫理の授業になってしまいかねないからかもしれない。哲学者の思考を学ぶより前に「考え方」や「問いへの向き合い方」、あるいは「他者の議論を聞く方法」とか「他者に主張をする方法」を学ぶことにつながる。

 この手法の先には、カール・ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」という概念も想起することができる。他者への関心がなければ、議論に参加しようとは思わないだろう。逆に言うと、関心があるからこそもっと議論をすることができるのではないか。映画の中盤では実際にクラスメイト間で起きたいじめが議論の俎上にも上がる。対立は街の中だけではなく、教室の中でも起きている。けれども、対立は克服することもできる。他者やコミュニティに対して関心を持ち、議論することができれば。

 小さな対立とそれに対する対処を学ぶことが、北アイルランド問題のような大きな対立に対する対処に役立つか、と言われるとそれは難しいだろう。どちらかというとそうした地域の中にある大きな問題に対しては対処を学ぶというよりは、自分たちも歴史の中にいるという実感を得ることの方が重要なのかもしれないと感じた。映画の後半では街にめぐらされている多くの壁の中からいくつかピックアップして壁画を描く、という場面があるがそこでも考える少年の図が描かれる。当事者として考え続けること。政治的対立の解消は容易ではないが、だからこそ関心と思考を続ける必要がある、というメッセージに見えた。

 映画の現代は"YOUNG PLATO"であるわけだが、小さなプラトンたちがソクラテス式問答で鍛えられる姿は、大人たちにも強く響く。小さなプラトンたちは、小さな教室で、小さな問いに答え続ける。それはいつかきっと、大きな問題に向き合った時に、あるいは対処する必要に直面した時に役に立つ……かどうかはやはり何とも言えないが、考える練習の先にあるのは、暗い未来ではなくて明るい未来であってほしいなと思える。


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春の日は過ぎゆく [DVD]
イ・ヨンエ
松竹
2002-11-22


見:Jaiho

 1998年に『八月のクリスマス』で商業デビューしたホ・ジノ監督の2作目、という位置づけらしい。Jaihoで配信終了が迫っていたのでなんとなく見た映画だが、まあ何と言ってもヒロインのイ・ヨンエが魅力的であり、ヨンエの演じるラジオ局のDJ兼プロデューサー、ウンスに惚れ込んでゆくサンウの気持ちは理解できる。

 イ・ヨンエ演じるウンスが最初から最後まで自然体なのがとても良い。まあこれがサンウを惚れさせた要因でもあり、サンウとの破局へとつながる要因でもあるわけだけど、出会ってから関係が深まってゆく前半のイチャイチャから、違和感の夏を経て後半のしっとりした展開へシームレスに移り変わっていくのが良かった。時間の流れを描くことが主眼で、二人の破局は織り込み済みだったということがよく分かるのだ。

 冬に出会った男女が春を経て、夏にひびが入り、そしてまた次の春へ、という1年間の時間を描いているが、この終わり方についてはつまり、春の日が過ぎゆく間に失われるものがいくつもあった、ということなのだと受け止めた。だからこそ、「音声を記録すること」(録音技師)を仕事としている主人公サンウのストイックというか、不器用な性格が最後まで映画の雰囲気にマッチしているとも言える。記録を何度も何度も呼び起こすとしたら女々しい気もするけど、そういう行為を普通にやってそうな気もするキャラクターではあった。

 いくつもの場面で食事のシーンが移りこむが、(おそらく手っ取り早く済ませるために)ラーメンばかり食べる男女と、三世代が食卓を囲む実家での風景が対照的になっている。ラーメンばかり食べる男女のインスタントな関係は、盛り上がるのも早いが、終わるのも早い。他方で老人の余生は短い。実家には両親と祖母がいて、祖母は認知症の症状が出ており、食事がおぼつかないシーンも映される。両親よりもこの祖母が何らかの形で物語に絡んでくるのだろうとは思っていたが、その絡ませ方はなかなかに絶妙である。

 若い二人の関係性は、余命という障壁はないものの恋愛初期の盛り上がりを楽しむフェーズから、互いが互いの感情を読み合う構図へと少しずつ変化してゆく。前述する食事のシーンは何度も登場するが、二人が腹を割ってじっくり話し合うことはない。むしろ常に何か足りない会話だけが繰り返されてゆく。だからこそ、ウンスが会いに来てほしくないときにサンウが押しかけたりだとか、サンウを拒絶したはずなのに別の(おそらく年上で、サンウよりはイケメンで経済的に豊かそうな)男との逢瀬に乗り換える。前半の盛り上がりを見ていると、後半の浮気はあまりにもあっけない。

 男女関係はあっけないんだ、それはまるで美しい春が過ぎゆくようにね、とこの映画は表現しているように見える。一面的にはおそらくそうなのだろうと思う。あえて別の見方をすると、やはり関係性を深めるにはコミュニケーションが欠かせない、ということなのだ。実家にはサンウ含めて4人もいるから、何もしなくても食事中に会話が発生する。

 でも食事の場面に二人の男女しかいない場合、どちらかが会話を切り出す必要がある。少なくともその糸口を見つける必要がある。二人は雑談することはできるけれど、それ以上のコミュニケーションは難しかった。ウンスとサンウにとって、目の前の相手と対話をすることは容易ではなかったのだ。たまたま出会った若いタクシードライバーとは笑いながら会話することができるのに。

 男女の会話劇を作りこむ恋愛映画は珍しくないだろうが、この映画の場合は極力会話を削ることで、会話以外の男女の造形を映し出しているようにも見える。皮肉ではあるがだからこそ、イ・ヨンエの表情一つ一つだったり、彼女のファッションだったり、髪型だったりに目が行ってしまう映画でもあるなと思った。他方で、この映画を通じて人生の儚さを重ねて実感することになったサンウにも、また良き出会いや人生がありますように、と思える美しいエンディングだなと思った。
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見:イオンシネマ綾川

 原作を読んでいたことすらこの映画を見るまで完全に忘れていたが、シリーズ前作が2019年4月公開だったことを考えると、この4年間のブランクにはいろいろな思いがある。2019年7月のあの悲しすぎる事件を経た後にキャラクターデザインを務めた池田晶子の名前を見ると、やはり複雑な思いにさせられる。それでも生き残ったスタッフたちが目指したことは、それはちゃんと続きを作ること、そしてシリーズを完結させる(=終わらせる)こと、だったのだろうと思う。そのために、この57分の特別編が必要だったのだ。

 2年生の秋、新体制になり、部長になった黄前久美子の逡巡からこの中編映画は始まってゆく。高坂麗奈や塚本秀一といった「勝手知ったる」メンバーを幹部に据えた体制の中で、しかし自分自身も当然ながらプレイヤーでいなければならない。いかにしてこの両立を図ればよいのか? は一つ彼女に与えられた課題である(そして当然この課題は、新入部員を迎えて正式な新体制を迎える3年生編に継続する)。

 北宇治高校の吹奏楽部においてもっとも重要なのは再び全国大会を目指す次の学年のシーズンであり、全国出場を果たせなかった2年目の秋は消化試合的な季節でもある。逆に言うと、この雌伏の時間をいかにして過ごすことができるか、つまりスポーツ選手がレギュラーシーズンのあとのオフシーズンをどのように過ごすかが重要になっているように、吹奏楽部にとってのオフシーズンの過ごし方が問われるアニメになっている。

 ここで重要な役割を果たすのが、部を引退した3年生たちの存在だ。運動部でも、引退した3年生が残された時間を利用して後輩たちの活動を手伝うことは珍しくないだろうが、吹奏楽部でもこのような形で先輩を再び自分たちの場に呼び寄せることが可能なんだな、と思いながら見ていた。

 もちろん夏紀と優子、希美とみぞれといった3年生4人を再び物語に巻き込むことはこのシリーズのファンサービスの一環でもある。同時に、彼女たちもまた、いかにして高校生活を終えていくのか、といった問いを抱えている存在だ。推薦で進路が決まった3人とは別に、音大を目指して一人練習に励むみぞれの姿は、高校3年生の秋の過ごし方には明確な差異があるのだという事実を象徴している。3年生たちにもまた異なったオフシーズンが存在するのだ、と(来年が確約されたスポーツ選手と、確約されていないスポーツ選手との違い、のような)。

 オフシーズンは「みんなで過ごした時間」の終わりの予感がはっきりと漂うとともに、残された時間を経験できる貴重な時間でもある。今回映画のキーパーソンの一人である釜屋つばめのような、技術に問題があるわけではないが合奏になるとうまくいかない、といった一人一人の抱える課題に向き合う時間でもある。大会に向けたシーズンになるとオーディションなどで部内での競争が活発化するため、課題と向き合う時間は大きく制約されるだろう。だからつばめが自分自身の課題と向き合うことや、久美子たち周りの力を借りて小さな成長を経験するのは、オフシーズンならではの光景なんだろうなと思いながら見ていた。

 あまり細かいシーンに言及することはなかったが、麗奈が久美子に対して見せる素ぶりを久美子が過剰に読み取るシーンなどは、もはや二人の関係性が円熟味を増したなというか、「仕上がってきたな」という感覚にもさせられる。Web版の『Febri』では声優二人の対談も公開されていたが、作中の二人が重ねた時間よりももはや声優たちの時間のほうが長くなってるんだよなとか、そうしたことも考えながら読んだ面白いインタビューだった。



 3年生編も劇場で、二部作くらいだろうかと思っていたらテレビシリーズ化が正式に発表され、来年の春からだという。視聴者の一人としてまさにオフシーズンを過ごすかのような気持ちで、あと半年の少しの間の時間を楽しみに待っていたいと思う。







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見:ホール・ソレイユ

 まずこの映画が実話に基づいているのも驚きだし、古い話ではなくて2000年代後半に実際に起きた話に基づく、というのが驚きだった。街からは隔絶された村に自動車はほとんど見られず、人々は馬車で移動している。生活も質素で、大卒の教師はいるが教育を受けるのは主に少年たちであり、文字を読めない成人女性も多い。100年、いや第二次大戦後の間もないころもあれば経済成長はまだ経験してないだろうから、と思って見ていたのでこの20年以内の出来事がベースになっているのはやはり驚きである。もちろんこの驚きは自分自身が先進国に住む人間であり、この映画の登場人物たちの持っている生活のリアリティに対する想像力を欠いていたからに他ならない。

 映画自体は本当にシンプルであり、タイトル通り村の女性たちが喋り続ける映画である。性暴力を受けた女性たちが村の男性が不在の間に投票をし、議論を行うというのが物語の筋なのだが、女性たち全員を議論の場に招待することは現実的ではない。そのため、いくつかの家族をピックアップして、議論が展開されていく。選挙で選ばれたわけではないが、言わば急ごしらえの議会ができるような形だ。そのため、この映画で行われるのは小さいけれども徹底された(代議制の)熟議民主主義の形と言えるかもしれない。

 代議制民主主義において重要なのは、まず人々に委任された意思を代表(representetion)することであり、そして少数の意見を無視しないことだと言えるだろう。議論はまず自分たちの被害を語るところから始まり、その途中で涙を流す女性もいる。同時に、その女性を抱き締める女性がいる。急がなければならないが、安易に結論を出すのではなくて一体感を確認するその作業は一人一人の傷を癒すセラピーの効果も持っているなと感じた。

 もっとも、みんなの前で被害を語るというデブリーフィング的な作業にはトラウマを呼び起こし、さらに傷を深くするリスクもある。けれども、一人一人が密室の中で何を経験したかを語ることなしで、女性たちが「わたしたちの意思」を決定することはできなかったのだろうと思いながら映画を見ていた。

 「わたしたち」に含まれない2人の男性の存在もこの映画に違った価値を与えている。書記を務める大卒教師のオーガストと、言葉を失ったトランスジェンダー男性として登場するメルヴィンの存在だ。オーガストは映画の中で唯一名前を与えられた成人のシスジェンダー男性として登場しており、彼の役割は特徴的でもあり異質である。女性の集団の中で唯一存在することを許された男性でもある、という立場を越えることはしない。それでも、教師という自分自身の役割を信じている。

 他方でメルヴィンは語るべき言葉を失った状態で、子どもたちと戯れる。それは必要な自己防衛であり、回復の過程にいることを示している。時には激しく感情を暴露しながら語る女たちが画面に映される中で、必ずしも語ることだけが回復の過程ではない、語れない被害者だって確かに存在するんだとその目で訴えるメルヴィンの存在は、語らない(語れない)がゆえに際立っている。

 代議制民主主義の一つの問題は明確に意思表示しない人の存在(投票に行かない、世論調査やデモに参加しない、など)を見落としがちなところだが、意思表示しない(できない)人の存在も含めてすべての人にとって何が良い選択なのかを構想することが果たして可能か。可能ではないなら、次善の策は何なのか。この映画は、「みんな」にとって何が良いのかを目指す熟議民主主義の一つの理想形に応えようとした映画とも言えるかもしれない。

 ルーニー・マーラ演じる理知的なオーラが議論をリードする場面が目立つ中、終始感情的な役割を与えられたサロメが最後に出した選択も同時に尊重されていてほしい。「みんな」が同時に納得することはない。それでも、「みんな」で決めた方向へ向かう。「みんなで決めること」の力強さを感じさせながら、映画は夜明けに向かっていく。






熟議民主主義の困難
田村哲樹
ナカニシヤ出版
2017-05-15


熟議の理由―民主主義の政治理論
田村 哲樹
勁草書房
2008-03-25


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