見:金曜ロードショー
宮崎駿の新作を見て、最初に思い出したのは『もののけ姫』だった。『もののけ姫』ほどファンタジックでもないし、時代設定が古いわけでもないが、社会変動や自分自身の環境の変化などをきっかけとして、「自分探しをせざるをえなくなった」男性主人公が、旅立った世界で少女と出会う。しかしその少女もただの少女ではなく、という大まかな筋書きが似ているなと思ったのだ。
今回新作を見ながらネットでつながっている何人かには話したが、おぼろげながらの記憶として「映画館で最初に見た映画」が『もののけ姫』だったと記憶している。1997年、当時7歳で、学齢で言えば小学校2年生になる。そのタイミングでこの映画を見た時の率直な感想は「怖い」だった。26年ぶりにフルバージョンで再見したが(金曜ロードショーでチラ見はしていたが、フルは26年ぶり)確かにこの映画は怖い。多く登場する異形の存在も怖いし、何を企んでいるかわからない大人たちも怖い。しかし元居た集落を追い出されて孤立した少年であるアシタカにとって、この旅は恐怖そのものだったのかというと、そうではなさそうなのだ。
むしろアシタカより、サンのほうがおびえている。白い山犬を従えて颯爽と森を駆ける彼女は表面的には強い力を持っているように見えるが、現実的には孤児であり、であるがゆえに山犬に育てられ、犬と森に対する忠誠心を持った少女である。サンの過去やトラウマは詳しく明かされないので立ち入らないが、いずれにしても人間のコミュニティからは孤立した存在であるアシタカとサンがその「拳を交わす」過程で惹かれ合ってゆくのは自然な流れだったのだろうと受け止めた。
殺す寸前まで行ったアシタカを助けることに至ったサンは、アシタカの相棒ヤックルからアシタカの過去について聞かされる。そこで彼女がつぶやいた「話してくれた。お前の事も古里の森の事も」という言葉には、サンの中の戸惑いが見える。犬と森を信じ、人間を憎んできたサンが、アシタカという人間とその過去には興味を持つことになった。これは矛盾だと言えるだろう。
これまで自分自身が持ってきた物語とは別の物語と出会い、それを語り直すプロセスのことをナラティヴ・アプローチということがある。社会福祉の面接や心理臨床で使われる技法だが、従来の物語(ドミナントストーリー)を、新しい物語(オルタナティブ・ストーリー)に書き換える作業のことをそう呼んでいる。
過去のトラウマを書き換えるという意味ではトラウマケアの技法としてもナラティヴ・アプローチは使えるし、認知を修正するために用いるなら認知療法(ないし認知行動療法)とも言える。いずれにしても重要なのは、アシタカを助けたサンのように、他者に対して自分を開いていくことにあるのだろうと思う。自分の世界(物語)に閉じた状態では、ドミナントストーリーが優勢のままであり、新しい物語に書き換えることはおそらくない。ただ、その方が楽なこともある。異質な他者とのコミュニケーションは、アシタカを助けたサンのように葛藤や動揺を生むからだ。
アシタカはサンのことを「そなたは美しい」と呼んだ。その言葉がサンを動かしたとも言えるが、それ以上にサンがアシタカと言う異質な他者を受け入れるプロセスの中で物語を書き換えたことが意味のあったことではないかと思う。そのプロセスがあって初めて、アシタカを信頼することができるようになったからだ。
つまりこの映画はアシタカという、「孤立しているわりには楽観的な少年が、孤高の少女サンと出会って成長する物語」ではなく、「サンという孤高の少女がアシタカという異質な他者に影響を受けて成長する物語」だと解釈している。アシタカの場合、呪いが解けて腕の傷が消えればあとはどうにでもなる(と思われる。おそらく)。しかしサンの場合、映画が終わったあとでも大きく境遇が変わったわけではない。いずれにしても彼女は(孤児であるがゆえに)孤高の少女として生きることを続けるからだ。集団としての人間を信用できない以上、彼女にはそれしか選択肢がない。
それでも、映画の最後に見せるサンの表情はとても明るくてまぶしかった。生き方は変わらない。それでも、サンは新しい物語を生きている。それは初めて彼女にともった、希望の明かりだったのではないだろうか。