見:Jaiho
Jaihoでの配信は昨日までだったので、サッカー(カタール対セネガル)の音声だけ聞きながらこの静かな映画を見た。ミカエル・アースは『サマーフィーリング』が好きだったので見てみたが、『サマー』と似ているのは喪失による傷をいかにして回復するかというテーマであった。しかし今回は大人が主役ではなく、主役はアマンダという少女である。彼女自身、そして彼女を通した周囲の大人たちの回復の道のりが、ゆっくりとした時間の中で描かれていく。
『サマー』は旅に出ることを回復の手段としていたが、この映画は日常生活の中に回復の糸口を見つけるものだった。そのため、普遍的な共感を生みやすい仕掛けになっているように見える。喪失による傷やショックから回復するための第一歩は現実を受け入れることで、まだ現実を理解することとが難しいアマンダの視点は現実を受け入れることの物理的困難さも描いている。
24歳の主人公ダヴィッドはまだまだ未熟で、いくつかの小さな仕事を掛け持ちしながら生活をなんとか続けている青年として描かれる。まだ未熟な青年が、ある日突然親がわりになってしまうのは『うさぎドロップ』を思い起こすが、この映画の場合は主人公が無理に親になろうとしないところが逆によかったなと感じる。
むしろ、銃乱射事件の犠牲者という、非常に悲劇的な(そして現代的な)形で亡くなった姉を追憶することから、始まると言ってもよかった。亡くなった人間のことを思いながらいかに生きるかというのは、『サマーフィーリング』と通底している。生きる中で、いかに回復していくことが可能なのかを、この映画は描いている。
とはいえ、現実は目の前に横たわっている。姉の娘、アマンダの後見人としての手続き、養護施設の見学、そもそもアマンダとうまくいかないコミュニケーション・・・などなど、戸惑い、苦悩しながらも亡くなった姉の娘のそばにいることを続けていく。支えることが難しくても、そばに居続けることはできる。そうしたミクロな実践の積み重ねが、優しい時間の中で(派手なドラマはなく)描かれているのがミカエル・アースの持ち味なのだろう。
『サマーフィーリング』のレビューでは「残された人間にできることは、生き続けることしかない。そういうことなのかもしれない。ごくごくシンプルだけど、重要なことを丁寧に撮った美しい映画である」と締めくくったが、本書はただ単に生き続けるのではなく、アマンダと過ごす未来を希望的に描いている。もちろん現実はたいへんだ。だけれども、生きていれば彼女の成長を見ていける。一緒にウインブルドンにも行けるかもしれない。未来が希望的だと断言できる時代ではないけれど、だからこそ大切な誰かと過ごす時間こそが何より尊いのかもしれない。