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日常と読書日記。 受験生日記は閉幕です。

2022年05月



 ちょうど新型コロナが流行しだしたころに日本のインターネットでも少し話題になったのが「n番部屋事件」だった。過去にない規模の参加者のいた集団的性犯罪であり、このネトフリのドキュメンタリーでも強調されていたように明確な性搾取の事件だった。日本で話題になったころは主犯格の2人、博士とガッガッがようやく逮捕されたころだったため、事件の概要も子細に語られていた記憶がある。

 ただ、このドキュメンタリーで改めて思ったのは、まだまだ知らないことばかりだったということだ。大規模な犯罪なのにテレグラムを通じた特殊なネット空間ゆえに露見しにくかったこと、プロのメディアではなく最初にこの事件に気づいたのがジャーナリストを志望する大学生2人組だったとのこと(しかも、コンペに参加する一貫の調査の中で事件を発見してしまった)、そして警察がいかにこの新しい犯罪者たちを追い詰めたかということ。

 本編の序盤は犯罪者たちの「性搾取」をアニメーションなどを使って再現することで、実際の加害と被害のイメージを視聴者に共有させることに成功している。そして成功しているがゆえに、アニメーションであってもあまりにも生々しく、残虐である。写真や動画は加工され、フィクショナブルなものに置き換えられているとはいえ、テキストでのメッセージは詳細に再現されている。そのため、このドキュメンタリーを見る前に、そういった心理的に危険なシーンが多数はめこまれていることには留意したほうがよい。女性たちを手招くための細かな手口やグルーミングの詳細が語られるところには何度も吐き気がしたほど。

 中盤以降は追う側の視点が幾重にも重なってくる。「追跡団炎」(メディアによっては「追跡団火花」や「追跡団花火」と訳されることもあるがここでは本作の翻訳に準拠する)として登場する二人の大学生、ハンギョレ新聞の取材チーム、テレビ局、そして警察。



 犯罪者たち、特に博士は追う側であるメディアを執拗にけん制し、脅迫する。それは彼がこれまでグルーミングをする中で使用してきた手口に似ている。脅迫し、要求をのませることで、自分の思い通りに他者をコントロールする。そうした欲望の塊のような存在である博士は、痕跡を多くは残さない。外国にいるというほのめかしさえする。ではどのように追うのか。

 「犯罪者が永遠に隠れることはできません」とは後半に登場するあるホワイトハッカーの言葉だ。テレグラムは痕跡をすぐに消すことが可能なメディアだが、かといってインターネット上のログを抹消できるわけでもないし、IPアドレスを完全に誤魔化すこともできない。新しい性犯罪とはいえ、インターネットを利用している以上、痕跡が残る。その痕跡を使って一つずつ犯人を追うという、新しさと古さが混合したような刑事手法が印象に残った。

 韓国では2016年に江南駅近くのトイレで22歳の女性が全く知らない男性に殺害された事件を一つのきっかけにして、多くの女性たちが社会に対して声を上げている。本作では省かれているが、NHKの『アナザーストーリー』がこの犯罪を扱った時に、多くの女性たちが「n番部屋事件」に対して抗議運動を行い、国会に請願する運動を行ったことも紹介されていた。





 韓国の現代文学や映画でも、女性蔑視やミソジニーといったジェンダー不平等は数多く題材にされている。これほどまでに女性たちが生きづらい社会があるということ(日本も例外ではないかもしれない)を直視することも、このドキュメンタリーの目指す地平だろう。少なくとも、吐き気がするくらいにはその試みは成功しているように思えた。


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 NHKが「君の声が聴きたい」というコンセプトでやっていた企画の一番組という位置づけだったが、もともとの取材源はハートネットTVだったようで、過剰なナレーションが入らずに現場での実践にじっくり寄り添うタイプの静かなドキュメンタリーだった。精神科には仕事柄いくらかなじみがあるが、児童精神科のさらに病棟となるとほとんどなじみがないため、新鮮な気持ちで見ていた。




 番組タイトルの「奪われた言葉」と言う表現はややおおげさというか(企画のコンセプトに合わせたのか?)「失った言葉」だとか「抑圧した言葉」と言った方が適切なように思えた。つまり、明確な他者によって奪われたものというよりは(他者の存在ももちろん重要だが)自分自身といかに向き合うことができるのか、その困難を抱えた様々な子どもたちが登場していたからだ。困難を含む様々な経験ゆえに、「語りえない」のかもしれないし、「語りがたい」のかもしれない。

 彼ら彼女らの多くはおそらく、多くの語彙を持たない。単に学校の授業に十分通えてないのではという可能性以上に、多くの子どもたちが口にする「人間関係」もおそらく重要な要素だ。友達同士、親との関係、教師との関係など、様々な人と人とのつながりの中で言葉を獲得するし、語彙を獲得するし、感情表現ができるようになる。だが、この番組の子どもたちの多くは、そうした経験に乏しい。経験が乏しいと、他者への期待も乏しい。話したってわかってもらえないだろうし、相手は自分の話なんか聞かないだろうしという認知のもとで、「語らない」という意思決定をしがちだ。

 だからだろうか、ゲーム依存や摂食障害、行動障害といった症状そのものの治療よりも、「自分の気持ちを言葉にすること」を重きに置いた取り組みが新鮮に映った。「ホームルーム」と名付けられた対話形式の治療共同体が何度か登場するが、退院の目安が3か月に設定されていることもあってか、メンバーの入れ替わりが頻繁にありそうだ。けれどもその3か月の間に、気持ちを打ち明ける経験や、他者の言葉を聞く経験をできることは、おそらく価値があるのだろう。

 松本俊彦が編集した『「助けて」が言えない SOSを出さない人に支援者は何ができるか』を最近少しずつ読んでいるのだけれど、その中で勝又陽太郎が述べている内容が興味深かった。
 
筆者は最近、「SOSの出し方」や「援助希求」の代わりに、「援助の成立」という言葉を使っている。手前味噌で恐縮だが、この言葉は筆者らが開発した自殺予防教育プログラムGRIPにおいて教育の目標として置いているものである。自殺予防のためには、悩みを抱えた人とそれを援助する人の場で援助関係が成り立つ必要がある。そのためには、単に悩みを抱える人が援助を求められるようになるだけではなく、それがきちんと受け止める援助者側の対応も重要であると強調したい。(kindle版p.46)



 福岡にある病院だからか、ホームルームでも患者と医師との面接でも、頻繁に博多弁が飛び交っている。勝又が述べるような、援助関係が成り立つ場を多職種の支援者たちが作り出そうとしていることもよくわかる(何人もの看護師、公認心理師、精神保健福祉士が番組の取材を受けていた)。言葉を多く持たない子どもたちが自分の感情を吐露するためには、「きちんと受け止める援助者側の対応」がいかに重要かもよく伝わってくる。

 とはいえ最後のあおいさんのケースを見ていると、医療と福祉の連携の難しさも実感する。詳しく触れられていないので事情は分からないが、福祉施設側の余裕のなさ(人員、財務、スキルセット等)が、いわゆる問題行動を起こす(あるいはその可能性が高い)子どもの受け入れの困難さと相関するのではないかと推測することはできる。そうした子どもこそ手厚い支援が必要なはずだが、福祉施設側にそれを提供するキャパシティーが常にあるわけではない。そしておそらくこれは構造的な問題だ。

 もちろん常に完ぺきな支援などできるはずがない。ある程度人員もスキルもなければ「きちんと受け止める援助者側の対応」が困難なことは、この番組の病院がある意味実践している。ここまでやってようやく、という実践を。でもそれでも、当事者である子どもたちの語りがたい言葉を聴くことはできるはずで、そこからすべての支援が始まっていくんじゃないかということを改めて実感する。その意味で、カール・ロジャーズの言う「無条件の積極的関心」の一つの形を見たような気がした。










言葉を失ったあとで (単行本)
上間 陽子
筑摩書房
2021-12-02


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 たった60分のドキュメンタリーであまり大きなことを期待したり、分析したりということはできないだろうけれど、それでもこのドキュメンタリーに出てくる八王子拓真高校の取り組みは面白いなと思った。単位制であり、かつ定時制を持つ公立高校だからこうした教育ができるのだろうし、番組を見ている限り校長のリーダーシップが大きな影響を与えていそうだ。実際、校長の方針について現場の若い教師たちが議論するシーンも撮影されているが、教員全員が同じ方向を向いているわけでもないのだろう。それでも、多くの教員が価値を共有しているからこそ、こうした学校が存在するのも確かである。

 多くの教員が共有している価値とは何か。最近ではありていな言葉かもしれないが、「生徒たちを取り残さない」ことだろう。退学者は毎年数十人はどうしても出ているようで、高校が最後のセーフティネットだという言葉が登場する。東京都内の大学進学率が6割を超えることを考えると、非大卒は3割強。ここには専門卒や高卒が含まれることを考えると、高校中退(=中卒)は東京ではかなりのマイノリティだ。その後の人生設計に大きな支障が出そうなのは容易に想像がつく(大人であれば)。



 ただ、この高校に通ってくる子どもたちの現実は厳しい。いじめや不登校を経験した生徒たちが集められるチャレンジクラスはその典型だろう。また、親が病気である、親が片親である、あるいは自身が生活費を稼ぐためにと、様々な理由で通学が困難な生徒たちが登場する(いわゆるヤングケアラーだと言ってもよい)。番組ではあまり触れられなかったが、軽度の知的障害や発達障害、精神障害を持つ生徒もおそらくいるだろう(一瞬だけ車いすの生徒が映像に映ったが、詳しく取材されてはいなかった)。

 学校側は当初、登校してこない(何らかの事情で登校できない)生徒たちを「怠惰」と言う評価で扱っていたこともドキュメンタリーで紹介される。つまり、生徒たちの背景に何があるかを十分考慮せず、目に見える行為(=登校しないということ)だけで評価していた可能性がある。この発想を転換して、生徒たちの抱える背景や社会問題に目を向けることでようやく生徒たちの登校を促すことができる、という教育に転換していくプロセスが描かれている。

 こうした生徒たちに対して高校がどこまで介入したり支援したりすべきなのかは、教育現場の実態や権限を知らないので十分なことは言えない。ただ確実に言えるのは、多くの教員たちに共有されていたようになんとかして高卒として社会に送り出すという熱意だろう。高校中退では厳しいというのは前述したとおりだが、かといって単に高卒という肩書を与えればいいものでもない。最低限、高卒だと言える程度の教育水準を提供した上で生徒たちを送り出す。いわば、公教育というより個別支援とも言ってよい取り組みが学校のあちらこちらで実践されていく。

 以前読んだ秋山千佳『ルポ 保健室』の中では、なんとかがんばって中学生活をサポートしたとしても、進学後の高校で十分な理解や支援を受けられずに中退してしまうというケースが紹介されていた。もっとも福祉的支援が公教育において大きなウェイトを占めるまではないし(特別支援教育は拡大しているが、まだまだ発展途上である)、教員の労務管理のハードさを考えるといまの学校現場にそもそも余力が残っているかどうかもあやしい。

 ただ、この学校の生徒たち一人一人の立場になってみると、これほど通ってよかった学校、出会えてよかった先生というのもないのではないだろうか。まだまだ未熟な高校生にとって、学校は家庭の次に大きなウェイトを占める。その家庭が様々な困難を抱えている場合に、頼れるのは学校しかない、という生徒たちがこの番組にはあまりにも多い。

 「子どもの貧困」というワードやヤングケアラーという概念が流通して久しいが、個別個別の支援だけでなく、もっと大がかりな形でのサポートの充実が必要なはずだということを、この番組の生徒たちと先生たちは体当たりで教えてくれる。



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